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マイリビングダイアりぃ

趣味?興味?大好きな人(もの)達について、毎日は無理ですが、更新していきたいと思っています。見に来てくださいね。

ヒーロー「聖徳太子」(歴史探偵より)

2023-07-28 | カルチャー 見聞
録り溜めてあったTV番組で、「そうだったんだ・・」とになったお札の顔でおなじみの「聖徳太子」の事、ピックアップでご紹介します。(ご存じの方もいらっしゃると思いますが・・)
わが故郷「奈良県」の、当時の都「飛鳥」から20㌔も離れた「斑鳩」になぜ「法隆寺」を建てたのか?を知ることができまして・・
「大和川」を利用して、都まで遡上して入っていける重要航路(外交ルート)を作るという構想からだったのです。
海(玄関口には四天王寺)と都(斑鳩)をつなぐ中継地点として「法隆寺」を建立「斑鳩を開発」して外国にアピールしたということでした。
  教科書で習った約100年ぶりの「遣隋使」を派遣されたが、その時は皇帝から「話にならない」と追い返されたそうで・・
蘇我馬子と共に「文明改革」をはじめ・「隋」にならった「仏教」による国づくりのために、あの有名な「憲法十七条」を作るんですね。
  1億5000万字(85巻分)の「インド、中国、日本の仏教文献データベース(SAT)」で意味を詳しく調べることができるそうです。
  仏教の思想で、自分自身を戒めるということでしょうか・・
  
時の皇帝に認められて文明開化を成し遂げるのです。
そして法隆寺(世界最古の木造建築)」がなぜ長持ちしているのか・・・
 中を見ることができないので「福井」の「模型法隆寺」があるところへ・・
  
  「心柱」は一番上だけでくっついています。各階層が孤立してるんですね。(蛇が踊ってるような動き・・ということでした)
  何度も地震が起きても大丈夫だった(耐震構造)仕組み凄いですよね。 
  こちらの「金堂」が逆にもろかったようで後から「補強材」で持たされたようです。
「金堂」内部も赤色表示されてる部分が 「補強梁」だそうです。
 この「菩薩様」は「太子様」として崇められるようにつくられて庶民の「太子信仰」となっていきます。
「光明皇后」と、お母様も「太子信仰」されました。
大阪の「四天王寺」では・・
  今もこの「絵」を観ながらの「絵説き会」が行われているそうです。(太子信仰が続いています)
 
 伝説は今も・・という感じです。
 昨年のリサーチで1位となった「ヒーロー」が「聖徳太子」だったんですって
 過去7度も「お札の顔」になられてるんですね。戦後「聖徳太子」のお札だけは「廃札」にならずにすんだそうです。
ボーナスなどでちょっと裕福になった時等、1万円札を持ってることを「聖徳太子何枚持ってる~」とか皆んな言ってたことを思い出しますね。
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「あなたの知らない京都旅」よりP2

2023-06-18 | カルチャー 見聞
前回の続き「・・・京都旅」の奈良薬師寺編です。
京都旅の「塔」関連で、「中村雅俊さん」が我が故郷の奈良「薬師寺」を訪ねられて、「塔」の「相輪」についてカルチャーされてまして・・
  
若い頃何度か行ったことがありますが、故郷を離れて早40年も経ってしまってますから・・薬師寺さんも創建当時の朱赤色になって綺麗です。
  「西塔」と、「東塔」も当時の古刹の風情が一変しています。
  
  「東塔」の「相輪」には今年四月の「解体修理完成 落慶法要」時の旗もなびいていました。
「仏舎利」を安置するところでもあったという「相輪」の事はこの番組で初めて知りましたが・・
  この「水煙」と言われるものは見上げてたら1枚に見えてましたが、4枚で「東西南北」方向になっているようです。1メートル90センチほどあるそうで、雅俊さんとほぼ同じくらいですね。重さ1枚100㌔だそうです。
  
銅製の細工は音楽を奏でる姿の「飛天像」が透かし彫りされています。(平等院にもありましたね)
 インドでは「ストゥーパ」と言われる形の塚(墓)で、日本では「伏鉢」という盛り土型のお墓を表しているそうです。
そして「東塔」の解体修理の時に思わぬ発見があったようで・・
「心柱」の上のこの場所に「仏舎利」が収められていたということでした。
最後に映った「薬師寺の夕景」は私が昔見たのと同じ光景で、古の光景ともきっと同じだったろうと、感慨深かったです。
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ご存じでしたか?(「あなたの知らない京都旅」より・・)

2023-06-15 | カルチャー 見聞
コロナ禍になってから3年半ほど「旅」から遠のいていて、もっぱら(鉄道絶景の旅、美しい日本に出会う旅、等々)のTV番組を録っては編集しながら観る・・を繰り返して「旅」をしている気分に慕っています。
最近は4月から始まった「あなたの知らない京都旅」という番組に出あって、これも録りながらみているのですが・・
日帰りバスツアー(桜の季節、紅葉の季節には毎年)や、息子が学生時代、下宿へで行った時には夕食待ち合わせまでの時間を利用してで、行ったことがない、穴場的なところや、寺社へ走ったり、翌日の用事を終えてからは御所の辺りの寺社散策、そんな折に見つけて気に入った寺社などは、(紅葉の穴場的なところだったので)行ったり、友人とは(18切符)で和歌山から宇治「平等院」「醍醐寺」「インクライン(南禅寺)」~「平安神宮」「京都駅」まで歩いたこともありました。
そんな何度も何度も行った京都でもこの番組の通り「知らない京都」がいっぱいで・・・
今回は「塔」を中心に「中村雅俊さん」が見聞を広げられてまして・・ご覧になった方もいらっしゃると思いますが・・ご紹介しますね。
京都の映像では必ず出てきますよね。ドラマでもよく出てきます。「八坂の塔」京都の木造の塔では2番目だそうです「46メートル」、聖徳太子が建てたといわれているそうです。
  「東寺五重塔」木造では日本で一番高い5 5メートルです。
  
「心柱」を「大日如来」として崇め「空海」が建てたそうです。
ここからは驚きの塔です・・
  
「京都市平安京創生館」(下宿の近くにあったので入ったことがありましたが・・)にある展示で紹介されていまして、八角形で特殊な形ですよね。法勝寺というお寺に建てられたそうです。
当時の権力(財力)の象徴として、「白河天皇」が今までにない(技術)の建造物で誇示したのだとか・・(落雷で焼失したそうです)
  これ凄いですよね。
御所の近くの「相国寺」に立っていたという109メートル「七重の塔」
此方も権力の誇示ですが、なんでも「御所」のすぐ傍に・・というのは「おきて破り」だったそうですが、当時の権力者「足利義満」はなんのその・・だったようですね。
そして「秀吉」でおなじみの「醍醐寺」の五重の塔・・・(醍醐の桜は確かに綺麗でしたが、この塔の前に立った時はしばしの間佇んでいたのを思い出しました)
  951年創建だそうです。千年以上たち続けている美しい塔なんですね。
  上に行くほど屋根が小さくなっていて・・
「逓減率」が抜群にいい率になっているそうで、魅了されるんでしょうね。(誰が考えたんだろう?知りたい~って雅俊さんいってました)
 木組みの細工も綺麗ですね。
  
中はどうなってるのか・・供養行事の時の映像が流れたのかな?、「醍醐天皇」の供養として建立されたようです。(御霊を弔うための行事が毎月29日に行われてるようです)
この相輪についてのお話を詳しく知るというので・・
「京都旅・・」なのに奈良へ行かれてまして・・次回は「奈良 薬師寺編」です。
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ご存じでしたか?「蘭奢待」

2023-06-01 | カルチャー 見聞
放送された当時、ちゃんと見ていなかった大河ドラマ「麒麟がくる」のCSでの再放送を録りながら観ているのですが、昨日の放送回で、ちょっとカルチャーできたことがあって・・・
ご存じの方も多いと思いますが、ご紹介します。
「信長」が御上に所望したいと言った「正倉院」にある「御物(国宝を超えるもの)」、「蘭奢待」という「香木」なんですが・・

(今回、蘭奢待という字には東大寺という字が含まれているというのも知りました目録では「黄熟香」だそうですが、東大寺の字を隠した「雅称」だとのこと)
この時(信長が切り取った時)は、足利義政が切り取ってから110年後だったそうです。(天下第一の名香だそうですが、どんな匂いなんでしょう
 リンクのところには「分類(用途)薬物」って表記されてましたけど・・
「徳川家康」も切り取ったという説があったようですが、1602年に、「東大寺奉行の本田正純」が正倉院の調査をして、「切り取ると不幸がある」という言い伝えによって家康は切り取らなかったということも解ったそうで・・(信長の不幸はこれが原因????)
今回、「信長と蘭奢待」という歴史上の有名な史実を全く知らなかったもので、「Wiki・・・」でも「蘭奢待」に関わる史実をたくさん{/pen/知ることができました。


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これ押したらどうなる・・・驚きの「1億装置の起動ボタン」

2023-05-14 | カルチャー 見聞
昨日、録画ドラマが「End」になって、そのままリアルタイムの番組が始まったままにして、のチエックをしながら聴いていたらNHKの「レギュラー番組への道 これ押したらどうなる?」という番組で、色んな「スイッチボタン」を取材されていて(「ぜったいけすな」という張り紙がされてるビルのスイッチ)というのもあって、押したらビルが消える・・というものでした。
それをどうにか消してみたいという取材で、長い間オーナーが何度も変わってても誰も押したことがないという、そのビルの持ち主の了解を得て消してみることができたのです。
結局、ビルのエレベーターホールの天井の照明が各階で消えて、「ビル」は消えないという結果でした。
「バーのママさんが夜の街に放つ魅惑の・・」というのは、昔から大好きで、心酔されてる「高知城」をライトアップしたいという思いで「行政」に進言しても「こちらではできない、勝手にしてください」とのことで、ママがやられたそうです(当時はまだメジャーじゃなかったのかな?)
そのバーにある「スイッチ」を押したら「ライトアップの高知城」が見れるのです。
でも落ちがあって、当時のお客さんも喜ばれていたそうですが、時代が進むにつれて高層ビルがあちこち建ってしまって見れなくなったということでした。
今後は「ビルに影を投影したい」と、映させてくれるビルを募集中だとか・・
いよいよ「一億円のスイッチ」です・・
何が1億なんだろう・・と興味を持ったのでチラチラ見だしたら・・六角(だったとおもいます)形の家を老人が案内していたのでしばらく見ていたら中もリビング、ダイニング・・と中もぐるりと部屋になっていて・・「ボタン」のところへ案内して「右側のボタン」を押されたらいきなり「家」が時計回りに廻りだしたのです。
「左にあるボタン」を押したら反時計回りに回るという仕掛けでした。その家にかかった金額が「1億円」だったという訳だったのです。
見入ってしまってて、カメラで「撮りたい」と思った時は、何時もの録画と違って「戻って撮れない」リアルタイムなのでどんどん進んでいくので、何とか撮れたのが・・これです
        
此方の家を建てるのが夢だったというご老人(90歳近かったんじゃないかな?)昔からいろんな仕事をして地道に一生懸命働いて財を成したといってらっしゃいました。
家を廻したら、一か所だけになるから雪かきしないで済むとか、景色が変わって家の中にいても散歩してるみたいだし・・とか言ってらっしゃいました。
家を廻す動力は地下ですが、さすがだと思ったのは、あらゆる家に必要な配管などがあって、メンテナンスも分かりやすくなってたこと。
お元気でなんでもこなされてるこの老人に拍手を送りたくなりました。
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BSP「皇后のドレスの謎」よりP2

2023-03-24 | カルチャー 見聞
前回の続き「皇后のドレスの謎」より、誰に製作を頼まれたのか‥の解明編です。
  総理に国のために・・と洋服を着ないといけなくなった皇后の「葛藤」から近代化に向かっての皇后なりの決意と、尽力された様子が解りました。
「国の為なら何でも致す」と言われたこの写真は「西洋列強国」に配られたそうです。
ここで「皇后のドレス」を・・
  
この時代から皇室のドレスコードは今も引き継がれているのですね。
    
それでは「再現の大礼服」に戻ります・・
  
 ウエストの部分の「クジラのひげ」を使った部分の縫製がしっかりしていなかったためよれが生じていたようです。イギリスで縫製されたのがちゃんとしてるので、これは日本で製作されたものだとわかったようでした。
  
   
  
  刺繍の仕方が「能衣装」のような「厚み」があるので「職人さん」に取材されたら「能衣装より緻密で、豪華なものですね」と当時の製作者はすごい人でしょう・・とおっしゃってました「クジラのひげ」や、「刺繍技術」が有名な「リヨン」への取材等で解明に近づいて、さらに皇后さまの行動から・・
  「皇后さま」が「富岡製糸場」へ行かれていたのが解ったようです。
日本の為に製糸産業の発展を願ってらっしゃったんですね。
  明治に入って「西陣」では職人が失業してしまう社会情勢になっていて、「リヨン」に留学された「近藤さん」という方が浮上しました。そして・・
 帰国後「渋沢栄一」の「京都織物」で働かれていたことも分かり、皇后さまが「京都 西陣」にも詳しかったということからも、「近藤さん」が製作されたというのが解りました。
いよいよ運び込まれて「再現」披露です。
 解明と「再現」された「大礼服」明治の頃のこと(特に皇室の事)はあまりメデイアでは見れなかったので、今回の見聞は貴重なものになりました。
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BSP「皇后のドレスの謎」より

2023-03-21 | カルチャー 見聞
先日、「ロイヤルミステリー」130年ぶりに5年かけて「皇后の大礼服」の「謎」と、「再製」プロジェクトの番組「皇后のドレスの謎」という番組、明治の西洋化が著しかった「鹿鳴館」が華やかだった頃に「皇后」に「洋服」で、賓客に挨拶を・・と、総理「伊藤博文」に言われて困惑しながらも「大礼服」を「いつ頃、誰に」制作依頼されたのか・・という未解明だった「謎解き」を見終えましたので、見られた方も多いかと思いますが、ピックアップでご紹介します。
  
   「能衣装」のような盛り上がった「バラの刺繍」と、光をちりばめたような「金属」を使った「金の刺繍」の豪華な「式裾」です。
 「ボディ」と、腰から足元辺りまでのドレープの部分は発見されたそうですが、「式裾」3メートルほどといわれている残りの2メートルくらいは見つからなかったようです。(皇后は小柄で140cmぐらいだったそうです)
  CG再現です。
  
式裾の刺繍部分の裏側に「和紙」が使われているのが解りました。
  
 
  丁度「天竜」という船を造られた時に使われた経理台帳だったので、こののちに作られたというのが解ったようです。
  
 丁度「バッスルスタイル」と言われるドレスがはやった頃だったと推測されてました。
すごくハイウエストですよね。こんなスタイルも流行ったのですね。
  このスタイルの頃は、暖炉の火が燃え移ったりで大変だったそうです。
 このスタイルの時は笑いました。紅茶を運んだりした(?)そうです。
ここからは貴重な取材・・
  
 フランスの皇后「ジョゼフィーヌ」が権力の象徴とされる「赤紫」の「大礼服」を着たそうです。 
 この時も着ていますね。
権力を誇示したという有名な「皇帝ナポレオン一世と、皇妃ジョセフィーヌ戴冠」の絵です。
今回はここまでにしますね。次回も
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「紫禁城 秘密の花園(かえん)」第2章より

2023-03-12 | カルチャー 見聞
昨年BSで(8K)の映像で放送された「紫禁城 皇帝の知られざる花園」が今年2月の初めにBSPで再放送されていたるのを知った時、予約録画をしてあったのですが、その放送後に昨年マイブログでUPしたピックアップの記事の閲覧数が過去最高の数字になっていたので、そういえば録画したまま残ってるかも・・と、今は録画はできてもダビング編集できなくなった古い方のDVDデッキに録画がまだ残っていて、そういえば続きをUPしないといけなかったんだと、その時思いだした次第です。
で、ブルーレイで録ってあった方を見直しながら、第2章の「乾隆帝」の思い入れの「秘密の花園(かえん)」をピックアップしましたのご覧になった方もも多いと思いますが、お付き合いくださいませ。
「乾隆花園」へ・・
 1000キロも離れた湖から運ばせたという「太湖
 「乾隆帝の遊び場」「溪(この字とは違うけいです)賞亭」の入り口のところにある、溝を掘って水を流して遊ぶ(漢詩を詠む)ところだそうです。
「乾隆帝」は生涯10万首詠んだそうです。
花園内の「符望閣」へ・・
 「望みが符号する御殿」とは・・
北面から順に・・
  「玉座」があります
  「玉」を好んで使っています。命を養う力があると信じた「キノコ」や、「桃」の造形を愛したそうです。
「南面」大臣たちが謁見した場所だとか・・(皇帝の執務の場所)
  こちらにも勿論「玉座」がおかれていたそうです。 玉の細工をはめ込んでるものと、「琺瑯」をはめ込んだしつらえ。
天井の模様が珍しいものだと、「浅田次郎氏」がおっしゃってました。
  南面から東面までは迷路(迷楼と言われています)のようになってるようです。 
「東面」こちらにもちゃんと「玉座」です。
「西面」にも玉座です。「黄色は皇帝の色」だとか、庶民は使ってはいけない色なんだそうです。
 一階の中心にある小部屋にも「玉座」です
  「六号」は中国の古い思想で、「東西南北」と「天と地」で「宇宙」をあらわすそうです。で・・「天」は?・・・・
  3階のテラスから入ったところに「天」を示す六つ目の「玉座」、真上から「龍」が「玉座」を見張っています。
「望みがぴたりと符合する御殿(符望閣)」、「乾隆帝」が望んだものは「世界の東西南北、天と地が符合する宇宙だった」ということでした  世界最大の「玉の彫刻 高さ2.4メートル、幅1メートル」
4000年前に行った川(黄河)の氾濫を防ぐ大工事に挑んだ男たちの物語が刻まれています。
「伝説の大事業」を指揮した人物は後に中国最初の王朝とされる「夏」を作った人だそうです。
「乾隆帝」は最高品質の産地を支配下に置くため戦をして勝利したそうで、3年かかって重さ5トンの「玉」を4000キロの道のりで運んだそうです。
「玉」コレクション・・
  縁起のいいものや、漢字などをあしらわせています。
 龍が彫られてる「印鑑」も玉です。
「梅」は古来からの「縁起物」、「玉」を「権威」とする「皇帝」に名を連ねた文武両道(勤勉で死ぬまで勉強された皇帝)の「漢民族の文化」を大事にし、「最強の王朝」を築いた「乾隆帝(浅田次郎氏がリーダーとして憧れている人物だという)」の素晴らしさを見聞しました。
 
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「歴史を語る道具たち」P3

2023-03-07 | カルチャー 見聞
今回は和歌山ならではの「道具」等の展示品をご紹介します。
「かご(人を運ぶ乗り物  と書いてありました)」こんなに小さなものだったのですね。時代敵にはいつごろまでつかわれてたのでしょうね。綺麗に保存されてます(城下町ならでは・・なんでしょうか?)
  先の節句でも行われたのでしょうか・・神社の歴史ある「雛人形」等が展示されてました。「淡島神社の雛流し」の神事の展示もありました。
「伊太木曽神社の大杉」樹齢は定かではないが千年とされているそうです。
県内の有名な寺社、郷土の「人形」や「お面」等の展示もありました。
 まったく知りませんが、当時は現在の自動車のように名前が付けられていたそうで・「ナポリ号」という自転車です。(1956年に、堺の乙田製作所が製作した「原動機付き自転車」だそうです)
明治後期ごろから普及した自転車は、「秀吉、ナポレオン、カルピス、キューピー、ホーームラン、スイス、ケニヤ、ワシントン、天王寺、新橋、富士、エベレス、ロッキー」号等という名前を付けていたそうです。
「バックミラー」をハンドル右に、「電池式のフォーン」を左に、前部に「ライト」、空冷式の小型エンジンをフレーム下に、エンジン用のベルトドライブもあるそうで(自転車用のチェーンは勿論ありますが)、燃料タンクは後方に・・という原付バイクの先駆型ですね。
これは我が故郷にもありました。懐かしいですね。
こんなに小さな机に座ってたんですね。体格が違いますものね。
 初代の銀行の看板等、和歌山の歴史を語ってくれた展示の数々を堪能しました。(他県出身でも暮らしの道具は見た覚えがあったので懐かしむことができました)
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「歴史を語る道具たち」(市立博物館にて)P2

2023-03-05 | カルチャー 見聞
前回の続き「歴史を語る道具たち」のP2です。
農家で育った私も記憶があるようなものがたくさんありました。
 もみ殻と玄米にする道具ですね「唐箕」だったと思います。「箕」もよく上手にゴミと豆類などをゆすり返しながら分別してたのも今思うと、あの頃の農家の方々の仕事ってしんどかっただろうな~~って、感心しきりでした。
母が着物仕立てで使ってた長いさし「くじら尺」っていうんですね。L字型の木製は「洋服尺」で、カネのが「曲尺(かねじゃく)」だそうです。 
「枡類」ですね。よく父が「一斗枡」で、「納屋」にある精米前のお米を量っていたのを思い出しました。
 すごく立派な(大きなお屋敷のものでしょうか)竈がありました。(祖母が火を起こしてご飯を炊いていた光景が浮かんで懐かしかったです)昔の冷蔵庫のようですね「木製」なんですね
  「お餅つき」の時に登場してました「蒸し器(せいろ)」も懐かしかったです。
母がよく収穫した「胡麻」を、きっと大変だったろうな~~って思うような・・「叩く(枝と胡麻を分ける)」仕事(すごく埃がたつから、タオルで鼻辺りをマスク代わりにしてたような・・)をやっていた様子も浮かびました。
メニューを考えて、食卓に出すために「胡麻を炒って、すりこ木」で擦っていたのも懐かしく思い出しました。
こんなに小さな机だったんですね。
 すごくりっぱな「凧」です。
こんなのは我が農家にはなかったですね。昔のドラマなどで観ますけど・・(結構高級品でしょうね)
続きはまた次回に・・
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「歴史を語る道具たち」(市立博物館にて・・)

2023-02-26 | カルチャー 見聞
前回UPした「市立博物館」へ行った時、企画展「歴史を語る道具たち」を、ギリギリセーフで観てきました。
電車の時間待ちで行ったので慌てて撮ってきた、「昔の道具に込められた人々の生活の知恵や工夫を探る」というテーマの道具等です。
「懐かしい~これおばあちゃんが使ってたよ~~」「母が使ってたよ~」等など、もうそれぞれが「これも・・これも・・・」と大きな声でもりあがってました。
そんな中から、ピックアップでご紹介します。(見た覚えがある方は懐かしがってください)
友人が「右前の掃除機おばあちゃんが使ってた~~」って言ってました。
これに似たようなものを私の母が使ってました。
長い間この「二層式」がどんどん進化して使われ続けていたような記憶がありますね。
(この二層式、10年位前に売られているのを見たような記憶ありますが、私の友人なんて「このシステムが洗濯が捗る」と言って、数年前まで使っていて、引っ越すときに処分したので、敢えて二層式を新しく買ったそうで、今も使ってるようです)
これも「母」を思い出しました。このミシン凄く使いやすそうですよね。この横に立って母の仕事を観ていたのを覚えています。
「アイロン類」も見覚えがあって懐かしかったです~
確か「こおり」でしたっけ、今の収納用品ですね。
薬箱は「越中富山」って書いてますね。和歌山では「富山」の置き薬だったんですね。
「キンチョール」はよく覚えています。食料品店には「ハエ取り紙?」がぶら下がってましたよね。
友人が「くろ電話今も記念に置いてある」っていってました。「柱時計」は今も使われてるところがありそうですね。
手鏡は古くて骨董品のような感じですね。祖母のは古かったですがこんな感じではなかったかな?
針山(お針箱)と、扇風機も見たような記憶ありです。「にぎりばさみ」は母の遺品の「お針箱」に大小二つ少しさびたような感じでまだ入ってます。
豆炭で炬燵でね。「祖母が使ってたわ~~」と友人と二人で同時に言ってました~。
右側にあるのは何かわかりませんでしたが、時代順に並んでるとしたら「盥」の次に利用されてたのでしょうか・・
祖母の炬燵の進化版(母が使ってたような・・)ですね。これも「豆炭」を入れるんですね。
こちらは練炭火鉢この前に座って「祖母」がお餅を焼いてました。
 子ども達の遊び道具ですね。
羽子板は少しついた記憶がありますが、着せ替え人形は幼馴染とよく遊んでましたね~
「お手玉」も作ってもらいましたが、あまりうまくできなかったのを覚えています。
次回も生活や農作業の道具などをご紹介します。
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「有吉佐和子さんの作品」にふれて・・

2023-02-23 | カルチャー 見聞
昨日は「有吉佐和子記念館イベント」に出かけてきました。
昨年からこちらの会館の2階に変更された「ナレーション 朗読教室」通っているのですが、「有吉さん関連」でいろんな劇団の方達の「朗読劇(メジャーなものでは花岡青洲の妻、三婆等)」のイベントが開催されていて、今回は・・
「助左衛門四代記」という一時間の「朗読劇」でした。
有吉さんの作品だとは知らないので、どんな感じの物語だろう・・とお話の場面を想像しながら聴きました。
劇団「わだち」の4人の皆さんでの、題は「助左衛門」になってますが、内容は「嫁姑の在り方」というような「女性」が主役だったんだと思われる内容でした。
朗読は流石の劇団の方だと感嘆しました。私はまだまだ足元にも及びません
私がいつも買い物に走りまわっている生活圏内の地名も出てきて「有吉さん」の略年譜を見て「この地域の小学校」に通ってらしたのも知って納得した次第です。
 そして時間的余裕があったので、生まれた地で暮らした年数より長く暮らしている地域なのに一度も行ったことがなかった「市立博物館」に教室のお仲間と初めて見学に行くことにしました。
「有吉記念館」には「書斎の再現」等関連の展示は近くで直に見れるのですが、このチラシのように少ししか展示されてなかったのと、「資料の写真はNGです」だったので、UPできませんが、右の写真の展示が「26日迄」だったので、じっくり見てきましたので次回にUPします。
よろしかったら見に来てくださいね
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絵画のようでした「オルチャ渓谷」(世界遺産より)

2023-02-17 | カルチャー 見聞
昨年11月くらいから録りだめて少し編集してそのまま気が付かずにたまりにたまった「世界遺産」を先日気が付いて、編集を進めているときに「こんなに綺麗なところがあったんだ~~」と感動しながら何度も何度もこの「オルチャ渓谷」の部分を繰り返し見てしまって後の編集がおろそかになってしまってまして・・
そんな絵画のような「オルチャ渓谷」(番組人気投票には残念ながら入っていませんでしたが・・)観られた方もたくさんあると思いますが、少しUPさせてくださいね。
   
  この大地は「粘土質の植物が育たない台地」だったところを700年かけて人の手で開墾されたそうです。
  
  「糸杉」という横に根を張らない、まっすぐ根を張って境界線などの土壌を強靭なものにしてくれてるそうです。
  
  
まだまだ水にも溶けにくい「粘土質」のところがたくさん残っているようですが・・
  こちらの農家では宿泊客(イタリヤでは農家に泊まるはメジャーなものだそうです)は「プールサイド」でのんびり過ごしてらっしゃいました(羨ましいです~~!!)
 自家製のお料理尽くしです。
{ワインも、オリーブオイルも、うどんのようなパスタも、自家製小麦粉でお手製です}
 少し離れたところには「天然温泉」があるようです。
 ほんとに行って見たくなりますけど、無理な話なのです。こうして見れただけで有難いと思わないと・・です。
  
シエナ大聖堂の外壁の装飾は、「イタリヤ 一」と言われてるそうです。
  
 「シエナ市庁舎」に貴重な「壁画」があります。これは700年以上前の人々が「開墾」に精を出している様子が描かれているようです。
人々がこの地に植物が育つように・・と働いてくださったおかげで、こんなにも美しい「世界遺産」を私達が見ることができたのだと思うと感慨深かったです。
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「家康の甲冑」よりP2

2023-01-16 | カルチャー 見聞
前回の続き、TV番組より「家康の甲冑」、今回は家臣「四天王の甲冑」等をご紹介します

  
 「酒井忠次」の甲冑、正統派って感じで「戦い」に向かう武将としての意気込みや自信が感じられますね。「大森南朋さん」が演じられるんですね。
  「秀吉(ムロツヨシさん)」の甲冑だそうです「兜」が独特ですよね。天下人らしく「金の軍配」をあしらって、胴は「伊予札」に銀を押し白糸で威してある、大量生産ができる仕様です。(秀吉好みで、防御力はないが、動きやすいという甲冑にかけた戦略ですね)
「秀吉の甲冑」は「小田原城攻め」の折に20万の軍勢で勝利に導いた秀吉に対して、出陣命令を受けた「伊達政宗」を屈服させ、正宗が組することになった時に与えた甲冑だそうです。「大量生産の(軍配付き)甲冑」と、「オーダーメイド」での「甲冑対決(お互い、どうだこの甲冑は素晴らしいだろう!!)」も秀吉に「軍配」が上がったということですね。「忠次の甲冑の方」が伝統的でまさに「甲冑」って感じですが、皆さんはどちらがいいですか??
 「本田忠勝(山田裕貴さん)」の甲冑、兜は、和紙でできていて軽いようですね。家康が「甲冑」は軽い方がよいといったそうです。
こちらは「榊原康政(杉野遥亮さん)」の甲冑は、胴に薪絵が描かれてますね。シンプルでお金がかかってないようですごく高価なものだそうです。
「杉野君」が出演されてて「忠勝の兜が派手でいいな~~目立つよな~」っておっしゃってましたが、高価なものだとわかって納得してました。
 これは「伊達政宗」の甲冑だそうです。「槍」をも通さない胴は鉄板だけで作ったもので、名だたる武将につけさせた「オーダーメイド」だそうです。
  「黒田長政の甲冑」独特ですよね。戦略がうかがえますね
  
  「家康」に戦場での姿は「舞鶴」のようだといわれた「細川忠興の甲冑」、「柿色の布」は負った傷の処置をした時のものだったそうです。
「井伊直正(板垣李光人さん)」の甲冑は家康に「直正は重いのをつけてるから怪我ばかりしておるな(自分のと同じ仕様なのに??大高城の時・・若かったから?)」といわれたそうですが、家康に対する尊敬のあかしとしての甲冑だったそうです。
このブログ書いてるときに色々検索したら「甲冑」をUPされてる方が多くてカルチャーできました。
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「家康の甲冑」より

2023-01-14 | カルチャー 見聞
「松本潤さん」主演の大河ドラマ「どうする家康」が始まりましたね。
「信長役」には関西出身の「岡田准一さん」ですし、わが地方出身の「溝端淳平君(今川氏真役)」もで、前回の大河に続いて好きな俳優さん達がたくさん出演ということで、今回も観るのが楽しみです。
さてさて大河放送前に録ってあった「家康の甲冑」という番組を先日見終えまして、「甲冑」の逸話を見聞きして、それぞれの武将が、「好み、世界観、心理状態、戦略」で、「甲冑」にこんなに自身の思いを込めていたのかが解って、ドラマでもじっくり確認したいと思いました。
家康の甲冑の紹介はこの「四領」でしたが、四天王のものも出てきました。見られた方も多いと思いますが、ご紹介します
まずは「家康」の幼少期に「今川義元」より拝領したというものから・・
  
 黄色く映ってるところは「紅色」だったそうです。
 「小札」は皮や鉄でできていて、板状につなげ「組み紐」で綴る(これをおどすという)そうです。 
 戦国時代は「人質」を大切にするということからも「義元」も高級な「甲冑」をあげたようです。
家康ゆかりの「久能山東照宮博物館」で観れる甲冑を・・
 こちらの将軍の甲冑は15代までが展示されてるそうです。(行って見たい~~) 
 それぞれ個性的な甲冑になってますね。  
  「岡崎」に戻る前の桶狭間の前哨戦(砦攻め)となった、行きたくなかった?「大高城 兵糧入れ」で「松潤家康」が付けてましたね。(ちょっとグリーンぽかったですが・)
いよいよ関ヶ原の戦いです。
  大黒天の「霊夢」を見たという家康が作らせた甲冑を着て家臣たちに出陣の意向で、「大黒天(インドの戦の神様)」と一体になるという思いを述べたとされるそうです。
袖の部分は「楔帷子」で、胴の部分は「伊予札」を、黒い糸で「威した」もの。兜が「大黒様」ですね。  
 「これまでの「小札」とは厚みが半分の「伊予札」は実用的になったのですね。
  堺の積み荷貿易で家康が見つけた「帷子」に「鋼鉄製(南蛮銅)の胴甲付き」が、関ヶ原の勝利へと導いたようですね。
「銃弾」を跳ね返し、斜め右に流しているという実験もされていましたが、ほんとに「防弾チョッキ」ですね。
  「家康」は開国も視野に入れていたようで、この「甲冑」をイギリス国王に贈っていたそうです。
「革製の小札」は漆塗りで、「青と赤の上質の組み紐」が施されてました。
  
 でも、秀忠達の政では家康の思うようにはならなかったようです。 そんな家康でしたがこの3年後に他界してしまいました。
次回は戦国武将たちの「甲冑」をUPします
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