扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

謙信の道を行く #5 千曲川遡上 -飯山城址-

2018年10月17日 | 城・城址・古戦場

越後国中越は南北に細長い平野があり、唐辛子が2本並んでいるような形をしている。

昨日通った六日市は谷川岳から北流を始める魚野川流域の平野、今いる十日町は信濃川本流が造った平野となる。

魚野川は小千谷の手前で信濃川に合流する。

小千谷の下流に長岡があり、信濃川は三条、新潟と越後最大の平野を形成していく。

六日町、十日町の唐辛子のようなふたつの盆地は蒲原平野にくっついている訳だが、十日町の方を南へ進んでいくと栄村、野沢温泉村を抜けて飯山市に出る。

飯山からは斑尾山系を越えると上越市はごく近い。

飯山あたりは住所としては長野県、すなわち信濃国となる。

戦国期は中野を本拠とする国人領主高梨氏が支配していた。

高梨氏は長野、埴科の村上義清と抗争したりするが、信玄の膨張により共に押されて所領を失い、春日山の謙信を頼った。

中野城を落とされた高梨は飯山まで後退、謙信の肝いりで飯山城が拡張され、上杉勢の信濃進出の最前線となった。

 

十日町から南下していく道はそんな謙信の道のひとつであるといえ、信濃川沿いにしずしずと行くと何やら上杉勢のひとりとなって亡霊と共に進軍していく気分になる。

と悦に入っていたら道を間違えてしまった。

カーナビの指示を無視してしまい、素直に戻ればいいものを「まあ方角が同じならいいか」と油断したら信濃川の北側の渓谷沿いを走るはめになった。

道路は舗装されてはいるが道幅はクルマ一台分、左は断崖絶壁、すれ違う場所も少なそうで大きなクルマが前から来るとアウトである。

そろそろ紅葉しかけるであろう景色も楽しむ余裕がないまま数10分、ようやく危機を脱して本街道に戻った。

ほどなく平地になって飯山城址に到着。

 

飯山城は謙信時代の甲越抗争の後、武田勝頼が接収、武田崩れで織田方の鬼武蔵森長可の支城となる。

織田崩れで上杉が取り返し、江戸体制では家康6男松平忠輝の所領と名って飯山藩となる。

いくつか藩主が代わり中期以降は本多家(平八郎系とは別流)が明治まで城を預かった。

 

そんなことで城跡は謙信時代とは随分縄張も違うだろうが、立地としてはいかにも謙信の出先駐屯地にふさわしい。

そばを信濃川が流れ、峠を越えて大軍が休める最初の平地である。

「これから武田退治に出陣!」という気分満点の城といえる。

飯山城は度々、武田勢の攻撃を受けたが撃退した。

 

この城は平山城であり、曲輪見物は気楽なものである。

本丸、二の丸、三の丸が段々となっており、石垣造りの桝形が残っている。

本丸には葵神社。

 

 

 

 

 

櫓門が唐突な場所に復元されているが、全体的な整備事業が進行中のようで本日も工事中。

たぶん、桜の名所になってしまう予感がする。

 

本丸からはスキーのジャンプ台がみえている。

何でも飯山はスキー発祥の地なのだそうだ。

明治44年に来日したオーストリアの武官レルヒ少佐が陸軍高田連隊でスキーの講習を行い、翌年の講習会に参加した飯山の住職市川氏が講習を受けてこの地の少年に伝授、スキー板の制作も飯山が初のようだ。

2012年がスキー伝来100年だったことになる。

 

 

最近、城巡りは縄張よりも周囲の立地環境に興味が向いている。

「誰がどう通ったか」を念頭に街道をゆるゆると来て去ることが楽しい。

 

もう少し北信の甲越抗争の史跡巡りもしたいものだが、天気もよくないので帰路につく。

 

 

 


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