扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

謙信の道を行く #6 真田郷を抜けて -信濃国分寺-

2018年10月17日 | 街道・史跡

飯山城から南西へ向かって出発。

謙信が八幡原へ出て行く気分である。

善光寺まで30kmあまり。

クルマで一時間、徒で進軍すれば1日で行く。

逆に武田が海津城から押してくればこれも朝駆けでその日の内に飯山城にとりつくことができよう。

 

善光寺は長野平を貫く千曲川の西側にある。

東側の平地が小布施、須坂であり、須坂から山を越えていくと真田の守神、四阿山の脇を通って真田郷に降りて行く。

今日はこの道を行くことにして善光寺や川中島の古戦場あたりはスルーした。

真田への山越えの途中が菅平のリゾート地。

シーズンオフなので行くクルマもなく快適に走行。

16時前には真田町に入った。

真田町訪問も3回目ともなると勝手知ったる我が町のようになってきた。

「ゆきむら夢工房」という観光案内所で真田のそばやら胡桃ゆべしやら買い込んで土産にする。

真田幸村は真田に住んだことはないと思うがブランドとしては使いやすいのか。

上田の殿様だった兄信之の扱いがぞんざいなのが哀しいところである。

 

さて残り時間で行けるところを算段、行き残した上田の池波正太郎記念館が本日休館。

信濃国分寺に参詣することにした。

こちらも資料館が休館日。

クルマを止めておいて、国分寺に向かう。

古代の国分寺は現在跡地が発掘調査されつつあり、伽藍配置がわかっている。

南大門から南北に伽藍が配置され回廊が巡る定型だったようだが今は何も残っておらず、しなの鉄道がど真ん中を貫通している。

 

天平年間の創建以後、将門の乱で焼失、現在の位置に移転されたという。

三重塔が復興されたようだが、天正13年の上田合戦で多くを焼失。

その後、江戸時代の領主により再建が成されて現在の姿になったようだ。

 

旧国分寺跡地から国道を渡ると仁王門。

 

三重塔は室町中期の建立で国重文。

薬師如来を安置する本堂は善光寺のような形状をしており、堂前には結縁の柱が立っているところも善光寺っぽい。

 

 

本尊に御参りをすませて御朱印をもらおうとしたら御朱印帳をクルマに忘れていた。

書き置きをもらおうとしたら係の人が恐縮。

「坊さんが不在で書き置きしかないのです。申し訳ない申し訳ない。」と仰る。

当方は書き置きで全く構わないので日付だけ入れてもらった。

「鐘はどんどん撞いて下さい」とさらに仰るのでご厚意に甘えて二発ほど撞いておいた。

本来、納経後の鐘は送り鐘といってよろしくない行為である。

初秋の信濃の空にいい音が響いていったので厄はあるまい。

 

 

 

国分寺では関ヶ原の際、徳川方と上田城に籠もった真田昌幸との会見が行われたといい、会見の場の碑が立っていた。

この時、昌幸は頭を剃って現れ、恭順の意を盛んに表に出した。

それで時間稼ぎをし、秀忠を怒らせ合戦に及び見事撃退。

徳川本軍が関ヶ原の合戦に間に合わなくなった。

 

 

 

昨日今日と、上州名胡桃から三国峠、坂戸城から十日町、飯山城と真田郷。

信玄、謙信と真田ゆかりの場所を走り回った。

移動している時間の方がはるかに長いのだが、実にいい旅をしたように思う。

 

 


謙信の道を行く #5 千曲川遡上 -飯山城址-

2018年10月17日 | 城・城址・古戦場

越後国中越は南北に細長い平野があり、唐辛子が2本並んでいるような形をしている。

昨日通った六日市は谷川岳から北流を始める魚野川流域の平野、今いる十日町は信濃川本流が造った平野となる。

魚野川は小千谷の手前で信濃川に合流する。

小千谷の下流に長岡があり、信濃川は三条、新潟と越後最大の平野を形成していく。

六日町、十日町の唐辛子のようなふたつの盆地は蒲原平野にくっついている訳だが、十日町の方を南へ進んでいくと栄村、野沢温泉村を抜けて飯山市に出る。

飯山からは斑尾山系を越えると上越市はごく近い。

飯山あたりは住所としては長野県、すなわち信濃国となる。

戦国期は中野を本拠とする国人領主高梨氏が支配していた。

高梨氏は長野、埴科の村上義清と抗争したりするが、信玄の膨張により共に押されて所領を失い、春日山の謙信を頼った。

中野城を落とされた高梨は飯山まで後退、謙信の肝いりで飯山城が拡張され、上杉勢の信濃進出の最前線となった。

 

十日町から南下していく道はそんな謙信の道のひとつであるといえ、信濃川沿いにしずしずと行くと何やら上杉勢のひとりとなって亡霊と共に進軍していく気分になる。

と悦に入っていたら道を間違えてしまった。

カーナビの指示を無視してしまい、素直に戻ればいいものを「まあ方角が同じならいいか」と油断したら信濃川の北側の渓谷沿いを走るはめになった。

道路は舗装されてはいるが道幅はクルマ一台分、左は断崖絶壁、すれ違う場所も少なそうで大きなクルマが前から来るとアウトである。

そろそろ紅葉しかけるであろう景色も楽しむ余裕がないまま数10分、ようやく危機を脱して本街道に戻った。

ほどなく平地になって飯山城址に到着。

 

飯山城は謙信時代の甲越抗争の後、武田勝頼が接収、武田崩れで織田方の鬼武蔵森長可の支城となる。

織田崩れで上杉が取り返し、江戸体制では家康6男松平忠輝の所領と名って飯山藩となる。

いくつか藩主が代わり中期以降は本多家(平八郎系とは別流)が明治まで城を預かった。

 

そんなことで城跡は謙信時代とは随分縄張も違うだろうが、立地としてはいかにも謙信の出先駐屯地にふさわしい。

そばを信濃川が流れ、峠を越えて大軍が休める最初の平地である。

「これから武田退治に出陣!」という気分満点の城といえる。

飯山城は度々、武田勢の攻撃を受けたが撃退した。

 

この城は平山城であり、曲輪見物は気楽なものである。

本丸、二の丸、三の丸が段々となっており、石垣造りの桝形が残っている。

本丸には葵神社。

 

 

 

 

 

櫓門が唐突な場所に復元されているが、全体的な整備事業が進行中のようで本日も工事中。

たぶん、桜の名所になってしまう予感がする。

 

本丸からはスキーのジャンプ台がみえている。

何でも飯山はスキー発祥の地なのだそうだ。

明治44年に来日したオーストリアの武官レルヒ少佐が陸軍高田連隊でスキーの講習を行い、翌年の講習会に参加した飯山の住職市川氏が講習を受けてこの地の少年に伝授、スキー板の制作も飯山が初のようだ。

2012年がスキー伝来100年だったことになる。

 

 

最近、城巡りは縄張よりも周囲の立地環境に興味が向いている。

「誰がどう通ったか」を念頭に街道をゆるゆると来て去ることが楽しい。

 

もう少し北信の甲越抗争の史跡巡りもしたいものだが、天気もよくないので帰路につく。

 

 

 


謙信の道を行く #4 越後のへぎそば

2018年10月17日 | ご当地グルメ・土産・名産品

火焔土器の大群にすでにお腹いっぱいの中、昼飯の算段。

越後魚沼といえば米の産地でもあるが、そばもまた有名。

へぎそばである。

毎年、義弟の連れ合いの実家が新潟で年末に小嶋屋のへぎそばを送ってくれている。

本店支店が十日町にあるので行ってみることにした。

この手の名物の常として本家と分家の味が違うとかいうことがへぎそばでもあるようで、総本店に行ってみた。

今日は平日で12時前ということもあってさほど混んでいなかった。

季節のマイタケ天ぷらを付けて満足。


謙信の道を行く #3 越後の火焔土器 

2018年10月17日 | 世界遺産・国宝・重文

越後路二日目は十日町へ出発。

北上して長岡、新潟まで行くかあるいは謙信が築いた軍道を通って春日山まで行くか。

という選択もあったものの、天候不順で不採用。

雨でも問題ない博物館に行くことにした。

六日町から西へ山ひとつを越えるとそこが十日町。

 

9時過ぎに出発して30分で十日町市博物館に着。

この博物館は小さな市立施設ではあるが持っているものがすさまじい。

縄文の国宝土器がゴロゴロしているのである。

いつかは来てみたかった博物館でもある。

 

エントランスには縄文土器として国宝1号となった大きな火炎型土器のレプリカが展示してある。

何でも本物はフランスに出張しているようだ。

その他の国宝土器はショーケースにゆるやかに展示されており、見物人がほぼいないこともあって至福の時を過ごすことができた。

 

 

 

火焔型土器は日本の美意識の中では異端といえるだろう。

美を小さいものに集約し過剰に装飾することを好まない「わかるものにはわかる」という感性が優勢かと思うが、火焔型土器に象徴されるような「用」としては不要な装飾部分が過剰でぎらぎらとした造型はいかにも「らしくない」。

そうしたゴテゴテの土器は実際に煮炊きや保存に使っていたらしい。

使いやすいのは弥生式土器のようなつるっと余計な装飾のない形である。

縄文の日本人とは何とも愉快ではないか。

 

そして密かに期待していたのが「越後縮」の資料。

謙信の上杉家はアオソの販売権で潤っていた。

上杉軍団は実のところ、繊維商社であり、米に依存せずに軍資金を得ることができた。

この資料展示が実に豊富で楽しい。

越後縮の元はカラムシというイラクサ科の植物、草から繊維を取り出すとアオソ、これを出荷してもいい。

アオソはさらに精錬されて糸になり、布地になる。

 

 

こうした上杉家を支えた繊維事業の成り立ちと、現物を見ることができたのは大変有意義だった。

他にも山城のジオラマがあったり、越後の歴史を再勉強できたりといい時を過ごした。

 

なお、十日町市は2002ワールドカップの際、クロアチアのキャンプ地となっており今でも友好関係があるらしい。

東京オリンピックの際、聖火台を火焔型土器のデザインでというPR活動もある。

いいモノを持っている町は元気があるものだ。