扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北九州の島巡り #14 西の防人 −清水山城と宗家墓所−

2016年09月26日 | 城・城址・古戦場

朝イチで清水山城に登城。

宿坊を辞して歩いて行くと八幡宮の大鳥居。

まず八幡様に御参りする。

神社の駐車場に野良ネコがたくさんくつろいでおりヤツらと遊びつつ受付のおばさんと世間話。

 

神社の裏手が城山になる。

雨でぬかるんだ小道を上っていくと三の丸、さらに登ると二の丸。

結構な高さまで行くと厳原港を見おろす抜群の景勝。

 

清水山城は天正19年(1591)に秀吉の命で築かれた。

朝鮮出兵を決意した秀吉は肥前に名護屋城、壱岐に勝本城を築かせ半島までの兵站線を確保した。

島の支配者宗家は朝鮮情勢に最も通じた大名であり、小西行長らと戦争指揮と終戦外交に尽力していくことになる。

山城としては規模が大きく、みるからに実戦を想定した堅固な城は朝鮮の役終結後は意味をなさず、宗家は麓の金石城を居城とした。

従って城として機能したのは10年なかったことになろう。

 

二の丸あたりまで達したところで事件発生。

ちょっと油断したら足を滑らせて滑落。

危うく山から転げ落ちるところだった。

しかしながらあちこちスリ傷を負って出血。

運悪く淡色の衣装だったので血やら泥やらでひどい有様となった。

這々の体で下山、万松院で体勢を立て直す。

 

金石城の立派な城門を抜け庭園を越えた西隣が万松院。

 

まずはトイレに駆け込み洗面台で衣服の血を落とす。

といっても洗剤を持っている訳でもなく応急処置。

幸いお寺の方にも不審がられずに通過。

 

万松院は対馬藩主宗家の菩提寺。

この墓所がなかなか趣き深い荘厳なものだった。

灯籠が美しく配置された石段が一直線に続いている。

 

宗家は元々は太宰府の官人で惟宗といい、島の支配者となると「惟宗」の宗一字の姓とした。

大陸外交に便利だからという理由らしい。

元寇の際にはいち早く侵攻を受けて玉砕、後に復興し室町体制、戦国時代と難しい時期をしのいだ。

江戸期も参勤交代をこなした。

対馬は島を走り回ってみれば農耕に向かないのは歴然。

幹線道路を走って水田を見つけるのが難しい。

ほぼ山々を切り通したような道路ばかりである。

対馬の基幹産業は貿易でしかないことは来てみてよくわかった。

大きな収穫である。

 

この日の午前中でこの旅は終了。

13:00のジェットフォイルで博多着が15:00過ぎ。

19:00発の便で東京に帰った。

 

 

 

 


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