扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北九州の島巡り #4 筑前国一ノ宮・筥崎宮

2016年09月23日 | 諸国一ノ宮

宗像神社の次、時間から考えて今日回れるお宮はひとつ。

候補は櫛田神社、香椎宮、住吉神社あたり。太宰府の天神さんは位置的に難しい。

 

筥崎宮に行くことにしてJR鹿児島本線筥崎で下車、歩いて10分ほどで本殿裏の鳥居に到る。

小ぶりの石鳥居をくぐると境内になる。

この鳥居は柱が三段に分かれていてしかも太く、内側にゆるやかに傾斜している。

扁額には「敵国調伏」とあり、のっけから勇ましい。

 

筥崎宮の創建は古く、いつからといえないらしい。

主祭神が応神天皇、その母神功皇后、玉依姫も祀られる。

玉依姫とは日本書紀においてワダツミが父、トヨタマヒメの妹とされる。

まあ、親戚一同といえる。

応神天皇が八幡様となる。

八幡様は宇佐に降臨した。(その神話をネタに小説を書こうと思って早数年)

宇佐八幡と石清水八幡、筥崎宮が巷間「三大八幡」と称されている。

 

筥崎宮の社殿が整ったのが延喜21年(921)頃のことで醍醐天皇が「敵国調伏」の宸筆を下賜し、大分宮から遷座し社殿を建てたという。

筥崎という地名の「筥」は神功皇后が応神天皇を生んだ時、胎盤を収めた筥を埋めた場所に由来する。

「崎」は陸地が海に面した地形からであろう。

筑前の大分宮から遷座して以降は、軍神としてその後の武将たちの崇敬を集める訳だが、921年の時点では我が国は大陸との交流を絶って閉じこもっていた時期である。

遣唐使を打ち切る提案をした菅原道真が太宰府で失意の死を遂げたのが延喜3年(903)年、その後道真の怨霊が猛威を振るい太宰府天満宮の前身ができるのが延喜19年。

そのあたりに筥崎遷座の背景もあるのだろうが、敵国調伏の意味がよくわからない。

刀伊の入寇が寛仁3年(1019)、蒙古襲来が文永11年(1274)と弘安4年(1281)、文永の役では筥崎宮も襲われて社殿が焼失する。この時に神風が吹く訳だ。

 

さて、本殿は裏側からみても立派である。

本殿と拝殿は天文15年(1546)の大内義隆の再建。

楼門は入母屋造りの檜皮葺、屋根が下部に対して相当に大きくアンバランスでもあり豪壮でもある。

筑前に転封された小早川隆景の寄進になる。

 

参拝を終えて御朱印をもらい境内散歩。

楼門のそばに「筥松」がある。ここが応神天皇の胎盤が埋められている場所でソフトバンクホークス、アビスパ福岡など当地のスポーツチームの選手の寄せ書きが掲げられている。

敵チーム調伏のお願いということになろうか。

 

帰りは箱崎宮前から地下鉄で行こうと思い、一之鳥居をくぐって海の方に向かっていく。

一之鳥居は重文となっていて慶長14年(1609)福岡にやってきた黒田長政による寄進。

この時、すでに如水は亡く新たな黒田家の出発間もない頃である。

鳥居の向かって左に大きな石碑があり、「大社筥崎宮」の文字が刻まれている。

この文字は東郷平八郎元帥の書になる。

日本海海戦の大勝利の後に寄せたものである。

 

道路を渡って海の方に行くと真っ直ぐな舗装路が海岸まで続いており、二之鳥居、三ノ鳥居と望見できる。

ここの鳥居は惚れ惚れするほどいい。

海まで行こうと思ってはみたが、挫折して地下鉄に乗り博多まで行った。

 

  

 

 


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