日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉No. 1~13

2008-03-20 | 洋楽
〈音楽夜話〉から独立して、新企画「全米トップ40フリークの70年代100枚」スタートです。ちなみに〈音楽夜話〉は、あくまで洋楽フェイバリット紹介ということで、引き続き力一杯継続します。

さてそれでは早速、「100枚」スタート!
まずはこれまでに、〈音楽夜話〉でとりあげて来た中から、「100枚」に入るアルバムを選定しましょう。

取り上げ順に、
1「グッドバイ・イエロー・ブリックロード/エルトン・ジョン」
2「BAD CO/バッド・カンパニー」
3「フィジカル・グラフィティ/レッド・ツェッペリン」
4「リンゴ/リンゴ・スター」
5「オールシングス・マスト・パス/ジョージ・ハリスン」
6「明日なき暴走/ブルース・スプリングスティーン」
7「噂/フリートウッド・マック」
8「フランプトン・カムズアライブ/ピーター・フランプトン」
9「シティ・トゥ・シティ/ジェリー・ラファティ」
10「シンプル・ドリームス/リンダ・ロンシュタット」
の10枚です。

加えて、当ブログ写真でのみ使われた2枚、
11「エイジャ/スティーリー・ダン」
12「シカゴⅥ~遙かなる亜米利加/シカゴ」
も入れましょう。

文句なしの名盤「エイジャ/スティーリー・ダン」については、すでにいろいろ語ってきましたので、ここでは多くは書きませんが一言。タイトルナンバーの「エイジャ」は、彼らの完璧なスタジオ・プロダクションの中でも間違いなくベスト・トラックでしょう。特に中間部、ウェザー・リポートのウェイン・ショーターのサックスとスティーブ・ガッドのドラムの火の出るようなバトルは、手に汗握る迫力の名演奏です。

「シカゴ」はデビュー作とは思えない充実の「Ⅰ」、「長い夜」収録の「Ⅱ」、「サタディ・イン・ザ・パーク」収録の「Ⅴ」も捨てがたいのですが、「Ⅵ」はアルバムとしてのまとまりの良さに加えて、その後のAORシカゴへの分岐点とも言える初のバラード・ヒットシングル「ジャスト・ユー・アンド・ミー」収録がポイントです。ソフト路線が受け入れられた全米No.1アルバムという点を評価したいと思います。個人的には、ファースト・シングルの「愛の絆」が、中学生時代から今も変わらぬフェイバリットです。

次に〈音楽夜話〉に登場しながら、落選組の説明を。
ビートルズの他の二人、ジョンの「メンローブ・アベニュー」は80年代の発掘盤ですし、ポールの「ビーナス&マース」も個人的好みなら絶対外せませんが、「全米トップ40的70年代の100枚」となると「?」ですね。キャロル・キングも同様、個人的趣味は「ミュージック」でも、100枚に入るのは超有名な「つづれおり」の方ですよね。

という訳で、
13「つづれおり/キャロル・キング」
「イッツ・トゥ・レイト」「君の友達」「ソー・ファー・アウェイ」はじめ、とにかく名曲ずらりの超名盤です。個人的フェイバリットは「ウイル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロー」ですが…。5年以上も米ビルボード誌のアルバム200にランクインしていたという“お化け”アルバムです。ジャケット(=写真)にもあらわれている全体的な暗いトーンはいかんともしがたいのですが、これもまた70年代初頭のシンガー=ソングライターを象徴しています。エルトン・ジョンだって当時は暗かったんですからね。


クィーンは、確実に「100」枚には顔を出すアーティストですが、ブログ登場の「Ⅱ」は全米的にはまだ不発でしたので落選。ロッド・ステュワートは悩ましい。確かに全米No.1ヒット「マギー・メイ」を含むブログ登場の「エブリピクチャー・テルズ・ア・ストーリー」は名盤ですが、「全米トップ40」的にはアメリカに活動拠点を移したワーナー移籍後の方が目覚ましい訳で、とりあえず今回保留にします。
ストーンズもねぇ…。21世紀的後追い評価と個人的趣味なら、文句なく2枚組「メインストリートのならず者」ですが、やはり「全米トップ40」的には悩むところで、これもひとまず保留ということで。
ドゥービー・ブラザースも、候補アルバム複数につき今回保留とします。
ひとまず13枚決定!ふぅ~。

経営のトリセツ23 ~ 嫌な仕事振るべからず

2008-03-19 | 経営
前回は「社長のコミュニケーションは委譲するべからず」をお話しました。その関連で、社長が人に委譲してはいけないことシリーズです。

どんな立場やどんな業種でも、「嫌な仕事」は必ずあります。嫌な相手へのお願い事、重大なトラブル処理、社内組織維持に関わる人事処分の通告…、矢面に立つ仕事はできることなら自分でやらずに部下に押しつけたい、そう思うことってありますよね。上下力関係を使って、部下に押しつけちゃっていいものでしょうか?もちろん誰が考えても社長が出るような問題じゃない、というケースは除いての話です。

いろいろな会社のトラブル発生時に、端で見ていても社長が言えば、または社長が出れば、一発解決なのになぁ、と思うことって多々ありますね。トラブル発生時に自分は動かず、下に指示したがために余計に大事になったことってありませんか?それは、組織の責任分担ルール通りでないイレギュラー対応をしたがための、二次災害発生と言える現象です。社長に限らず、部長なり課長なりの部下を持つ人に発生しがちな誤った組織内行動であります。

なぜ自分で解決に乗り出さず、部下に押しつけようとするのでしょうか。もちろん端的には「自分が嫌な思いをしたくなく、かつ押しつけ可能な地位にいる」からですが、実際に押しつけ行動を起こしてしまう人は、ご自身の責任役割を正確にお分かりじゃないから、それに尽きます。社長でも、部長でも、課長でも、それぞれのポジションに従って偉くなることは、「平時の仕事は部下に任せてよい権限が与えられるとともに、有事(イレギュラー)の仕事は自分で対応しなくてはいけない責任が生まれる」と理解しなくてはいけません。有事の仕事も平時の仕事と同様に、部下に振ってしまう人は立場上の責任を回避していることになるのです。それでは職務失格です。

例えば大企業でも重大な不祥事発生時に、謝罪会見に社長が出ないで№2の専務が出たりすると、社長は見事に袋叩きですよね。謝罪会見を大々的にテレビで流されたりすることを想像すると、出るのは誰でも嫌です。だからと言って「専務頼むよ」では、世論は「社長は責任を分かってないのかぁ!」となる訳です。中小企業でも、全くそれと同じです。つまり、「嫌なこと」は大抵イレギュラーであるという意味では「有事」です。すなわち、やるのが「嫌だなぁ」と思ったことは、自分で直接言うなり手を下すなりしなくてはいけないと考えて間違いないのです。

上に行けば行くほど、責任が重くなるのでイレギュラーな仕事の嫌な度合いは益々増してくるわけです。でも仕方ありません。課長より部長、部長より社長は責任が重いのですから。嫌なことは、部下に振ることなく率先して自分でカタをつけてください。それでこそはじめて、「頼れる社長」として社員一同の信頼が得られ、本当の意味で会社をまとめることができるのです。

創業者は責任感も強く、「俺がやらねば」の気持が強いので大抵は「俺に任せろ」的な対応が得意です。問題は、二代目、三代目とサラリーマン社長ですね。まずは意識して、嫌だと思ったことを振らずに自ら動いてください。社長が社員から、信頼と尊敬の念を持って“オヤジ”と呼ばれる所以はそこにこそあるのですから。

日銀総裁人事、財務官僚の非常識な「既得権」ポストへの執着心

2008-03-18 | ニュース雑感
日銀総裁人事がもめにもめています。

現在の福井総裁の後任人事として、政府がまず提示をしたのが、武藤敏郎副総裁の昇格でありました。この人事に噛み付いた民主党が問題視したのは、武藤氏が元大蔵・財務事務次官経験者であった点。「金融と財政の分離原則が確保されない」というのが表向きの理由でした。

元財務事務次官が日銀総裁に就任した場合に、日銀の独立性に本当に問題があるのかは、そんなに神経を尖らせる問題?という感じもしなくはありません。おそらく、表に出ない部分にある小沢=民主党の本音は、「財務省にいいように操られ、実質の天下りポスト確保を容認している政府自民党の体たらくを、許さん」といったところではないでしょうか。元自民党幹部の小沢氏ならではの、勝手知ったる自民党のお家事情を鋭く突いた、ある種の“意地悪”戦略であった訳です。

とまぁここまでは、私も静観しておりましたが、問題は第2ラウンドに起きました。

第1ラウンド、武藤氏はあえなく参院で否決され、やむなく政府は福井総裁任期切れ前に、これに変わる新人事を用意して一件落着かと思われた本日、第2ラウンドで繰り出された後任人事は、またしても元大蔵事務次官の田波耕治氏という、思わず耳を疑う大胆不敵なものでした。

大胆不敵なのは、本件に実権なしと思しき政府自民党ではなく、実質的人事権を握る財務省サイドのことです。武藤氏案にノーを突きつけられていながら、急激な円高進行という緊急事態下の総裁任期時間切れギリギリの段階で、大胆極まりない“強姦人事”を画策し、元大蔵事務次官経験者の田波氏で逃げ切りをはかった訳です(「しめた!」とばかりに、総裁候補を引き受けた田波氏のずうずうしさには、官僚の非常識がハッキリと見て取れます)。

官僚の「既得権確保」に向けた執念たるや、毎度のことですが恐ろしいほどのものがあります。今回も、財務省(旧大蔵省)にとっては、最大の天下り既得権ポストといえる日銀総裁です。そもそも、予算案の強行採決や総裁人事案提出の遅れを根に持ったと思しき今回の民主党の“反乱”は、政府自民党の失策であり財務省には関係ない、とでもタカをくくったのでしょう。元財務事次官を断られた直後に、再度別の元財務(大蔵)事務次官を提示するのですから、官僚の非常識と思い上がりここに極まれり、という以外にありません。

「官」の中の「官」たる財務省の、この「既得権」に当たり前の如く執着する様は、まさに日本国の「官」の悪癖の象徴です。民主党の再度の反対姿勢を耳にした福田首相をして、「この難しい時期に他に誰がいますか」などと言わしめる始末。最大の侮辱を受けた日銀の幹部社員たちは、声を大にして「バカにするのするのもいい加減にしろ!」と言って欲しいものです。

この不安定な為替状況下にもかかわらず日銀総裁ポストの空席化は、もはや避けられない情勢です。私にとって次期日銀総裁に誰がなるのかは、どうでもいいことですが、ただひとつこの機会に・・・。国民をなめくさった代替人事案を出してきた財務官僚に対して、その分厚い面の皮を少しでも削り取るぐらいの世論の批判を大量に浴びせ、彼らのエリート意識に起因する思い上がりの誤りとあきれ返るほどの非常識さを、しっかりと認識させてやりたいものだと感じております。

チベット弾圧をひた隠す中国にオリンピック主催の資格なし!

2008-03-17 | ニュース雑感
チベットで中国政府に反駁する大暴動が起きています。

この問題は、共産圏でありながらも資本主義国への経済開放を行い、確固たる国際社会の一員である中国という国家を考えるときに、近代人権問題および「情報統制」における重大なルール違反を犯していると言わざるを得ない、由々しき事態です。

チベット地区はインドと国境を接する、チベット民族による中国でも比較的独立的色合いの濃い独自地域です。59年のチベット自治区設立。人民解放軍による進行に抵抗した、ダライラマを中心とするチベット民族がインドに亡命政府を設立した結果、中国政府が自治区の設立を認めたものでした。すなわち、中国は「やむを得ずチベットのわがままを許してきた」との認識が強く、前時代的共産主義崩壊の後も、自治区と言えども独立は絶対に許さないという締め付けを繰り返してきた訳です。その結果、89年の大規模なデモ隊と政府の衝突など、これまでもたびたび緊張状態に陥ることがあったのです。

長年にわたるの争いの根源はまさに「民族問題」であり、現代の世界観から考えて、中国がとる独立を絶対に認めないある種の「弾圧政策」は、世界的人権問題の見地からいかがなものであるのかと思われるのです。

加えて今回の問題でも明らかになっている、中国政府による「情報操作」の実態。中国政府は、チベット暴動を正式には国内に通知しておらず、中国国民の大半はこの事実を知らぬまま今日に至っています。さらに、現地における外国メディアに対する取材規制。すなわち、政府側の都合の悪いことはすべて包み隠し、事が済んだ後に政府に都合のいい情報だけを並べ立てて、形をとりつくろうまさに“悪の情報操作”がそこにあります。

暴動の死者に関しても、中国政府側がデモ隊の放火により10名が死亡と話しているのに対して、独自取材を続けるロイター通信によれば、犠牲者はそれよりもはるかに多いとしています。暴動とその後の鎮圧行為での被害者の遺体を実際に目の当たりにしたという人物の話として「ある遺体安置所だけでも67体あったそうだ」と報道しており、“実態隠し”の裏で事態は由々しき状況に進んでいると思われます。

昨日会見した亡命政府のダライラマ14世は、「中国政府の恐怖による支配」「文化的虐殺」「国際機関による実情と騒乱の調査」を訴えています。まさに、中国政府の「情報操作」の下、“冤罪扱い”されかねない民族の危機を心から訴えかけている状況であると言うことがよく分かります。

このような事態の中、同じアジアの先進国たる近代国家日本政府の取るべき姿勢・対応はどのようなものでしょうか?

少なくとも中国政府に対して、正確、迅速な「情報開示」と海外メディアに対する取材禁止の解除は、現地の日本人観光客の安全確保の立場からも早急に強い非難のメッセージを出すべきであると考えます。

民族的差別や弾圧を繰り返し、「情報操作」や「言論統制」を平気で行うような前時代的国家に、果たしてオリンピックを主催する権利があるのでしょうか。政府も国内メディアも声を大にして、世界の平和と秩序を乱す中国政府に対する「国際ルール違反の対応」に対して批判メッセージを発し、断固として糾弾すべきであると考えます。

<音楽夜話>「70年代の100枚」選び“能書き”

2008-03-16 | 洋楽
とうとう勝手に始まりました「全米トップ40フリークの70年代アルバム100」のコンセプト説明です。

そもそも今回の企画のキッカケとなったのは、小職の投書が取り上げられた雑誌「レコード・コレクターズ」、昨年春の創刊25周年記念企画「70年代アルバムベスト100」でした。この企画における“プロ”の選者方の選ぶ70年代の「ベスト」なアルバムが、どうもしっくりこない。選出基準が明らかにポップ・ロック界における後追い評価を基準にしたものであったり、「評論家的立場」から“バカにされない”“安っぽくない”という基準で選ばれた「ベスト100」だったからなのです。

それはそれで、もちろん「70年代を検証し後世に語り継ぐ」という目的であったり、「ロック40年の発展の歴史の中で果たした70年代アルバムの07年時点での評価」を語る、という観点においては、意味のある「ベスト100」であるのではないかと思います。しかしながら、リアルタイムで70年代のポップやロックを体験し、当時の“音の洪水”を全身で浴びてきた身からすれば、どうもしっくりこないのもまた厳然たる事実なのです。

そんなイライラ感の中、企画された「ミュージック・マガジン」誌の今年3月号特集「消えたロック名盤100」は、以前書いたように私のイライラをひとまず鎮めてくれる企画ではありました。しかし、その特集を何度も何度も読み返すうちに、まだどこか物足りない、ピタッとはまりきらない何かを感じはじめたのも事実です。言ってみれば、まだ何かが欠落したままであると…。その“欠落”は決して、私個人の好みとか嗜好の問題ではなく、70年代の時代感というか、確固たる70年代を指し示す“座標軸”じゃないのか、と思ったのでした。

では、“座標軸”となりうるものとは何なのか?です。

それぞれの時代において、流行や文化をつくる上で大きな役割を果たすものにマスメディアの存在があります。日本のポピュラー音楽における各時代の流行や文化が形作られた過程においてもまた、間違いなく特定のメディアの果たした役割は決して小さくないのです。

例えば60年代、国内における洋楽文化を形づくったのは、ごく限られた活字メディアだったかもしれません(残念ながら私はリアルタイム体験がないので、確証は持てません)。「ミュージック・ライフ」や「ニュー・ミュージック・マガジン(ミュージック・マガジン誌の前身)」などの、当時としてはかなりマニアックな部類に入ったであろう雑誌たちがそれにあたるのかもしれません。

一方80年代では、ミュージック・クリップ全盛の時代を迎え、テレビが洋楽の流行や文化づくりには、大きな影響を果たしました。中でも、テレビ朝日で小林克也氏がパーソナリティを務めた「ベスト・ヒットUSA」は、間違いなく時代の流れを作ったメディアであったと言っていいでしょう。

では我らが70年代はどうなのでしょう。
大きな成長過程にあった国内洋楽文化の流れに確実に入り込んで多大な影響を与えたメディアとして、ラジオ関東(現RFラジオニッポン)土曜22時~25時(その後26時?)のヒット・チャート番組「全米トップ40」があったと思います。本場アメリカのポピュラー・ヒット・チャートが、 かなりリアルタイムに近い情報として入手できる、当時としては本当に画期的な番組でした。毎週毎週、聞き続けては、熱心にチャートを記録し続けた同年代のファンも多かったと思います。全国津々浦々で、受信状況が悪い中、ラジオに耳をくっつけて、なんとか聞き取っていたという話も、その後20年、30年たった今も、そこここでよく耳にします。

まさに「全米トップ40」があってはじめて私たちは、70年代洋楽のひとつの評価基準をもてたように思います。ですから、我々70年代洋楽フリークがその時代を代表する100枚を選ぶとき、各作品が「全米トップ40」をどう賑わしたかという選考基準は、この時代を語るひとつの座標軸になりうると思うのです。

そんな訳で、今回「全米トップ40フリークの70年代100枚」を選出するにあたって、大きな基準を全米TOP40での存在感(米ビルポード誌のチャート・アクション)に置いて考えてみることにします。ですから、「ベスト100」ではなく、「名盤100」でもなく、リアルタイムで70年代の洋楽を体験したひとりとして、あの時代に肌で感じた「70年代を代表する100枚」を納得のいく形で選んでみれればと思っています。

私と同じ70年代洋楽フリークや全米トップ40フリークの皆様におかれましては、本ブログ上での100枚選択の過程において、お気づきの点やご不満の点等ありましたら、ドシドシご意見賜りたく思います。よろしくお願いいたします。

<音楽夜話>忘れじの「ミス・アメリカ」

2008-03-15 | 洋楽
このところ勝手に熱くなっている「全米TOP40フリークの70年代100枚」を、本気で選んでみようと決めました。忘れじの「全米TOP40」的アルバムを、心中にお持ちの方はぜひコメント欄でご推薦ください。お待ちしてます!まとまったら出版社に持ち込んでみますかね。けっこう、いけそうな企画という気がしますが・・・。

さて、私のそんな中の1枚、「シンプル・ドリームス/リンダ・ロンシュタット」です。77年の大ヒットアルバムで、このアルバムには、日本での最大のヒットでもある「イッツ・ソー・イージー」が入ってもいます。

この人のアルバムづくり、というかアーティスト・イメージづくりのうまさには脱帽させられます。先の「イッツ・ソー・イージー」は50年代の音楽ヒーローバディ・ホリーの作、さらに第二弾シングルのバラード「ブルー・バイユー」はロイ・オービソンの作ですが、まったくのオリジナル曲であるかのようなアレンジとカントリー出のロック・シンガー的歌いまわしで、聞く者を魅了したのでした。売られ方や作られ方から考えて、日本にはちょっといないタイプの女性アーティストです。その意味ではまさに、彼女の次作のタイトルのまんまの「ミス・アメリカ」そのものでありました。

カントリーの下地を持った女性ポップシンガーというと、同時期に売れていたオリビア・ニュートンジョンとの共通点をイメージさせますが、オリビア70年代の優等生的なイメージづくりに比べると、明らかに“すれた”印象を包み隠さず、またそれを“ウリ”にしていた点がリンダの独自性でもありました。

具体的には、何気に色気が漂う歌の魅力と、初期の彼女のバックメンだったイーグルスの面々やJDサウザー、さらにはミック・ジャガーなどとの浮名で知られる“恋多き女”ぶりが、そのパーソナリティづくりに大いに役立っていたもので、今となってはそれは綿密に計算されたイメージ戦略の一部だったのかもとさえ思えるほど、完璧な売られ方でした。本作のジャケット写真も、そんなプロモーション戦略の存在を裏づけとして考えれば、当時感じた内容との脈絡のなさも説明がつく訳です。

このアルバムからは、さらにストーンズのカバー「ダイスをころがせ」と横浜の地名が歌詞に登場する「私はついてない」もシングルカットされ連続全米ヒット。1枚のアルバムから4曲のシングルヒットを連発し、彼女のキャリアの中で間違いなくピークと言っていい作品です。

すべて3分前後の楽曲は、1曲1曲実によくヒットシングル的に作られています。全10曲、約30分という作り様もまた、アルバムでもったいぶったりどうこうこねくり回さない点にかえって潔さを感じさせ、当時のアメリカン・ショービズらしい“チャート・バスター”に徹底した作られ方であったと思います。

この後の彼女は、一時期スタンダード歌手的な展開で新境地を開いたりもしていましたが、その後はポップ王道路線に戻ったりさらにはジャズや中南米路線にも進出。日本ではあまり噂を耳にしない今日この頃ですが、今も全米を代表する国民的女性シンガーとして確固たる地位を保ちつつ大活躍中と聞いています。

★「デスペラード/リンダ・ロンシュタット(動画)」(なんとバックはイーグルス!)
http://jp.youtube.com/watch?v=fe2jQbvBDSs&feature=related
★「イッツ・ソー・イージー/リンダ・ロンシュタット(動画)」
http://jp.youtube.com/watch?v=1tBeqxKKseA

経営のトリセツ22  ~ 社長は直接語るべし

2008-03-14 | 経営
社長のコミュニケーションの続きです。前回、大切なことを言い忘れました。

本題の前に「権限委譲」関するおさらいです。
以前にもお話したように、企業が組織としてより一層の力を発揮するには、トップ(=社長)の「責任と権限の委譲」が不可欠です。トップがすべての決裁権を握り、新規事業の計画から身の回りの備品の購入まですべてをひとりで決裁していたのでは、組織の動きが悪くなるでしょうし、何よりも一番高コストなトップ自身の仕事が非効率になってしまいます。小さなこと、簡単な事から権限の委譲を始めることは、組織を大きくして企業を発展させていくためには不可欠なことであると言えるのです。

では、何でもかんでも「委譲」する事がいいのかと言うと、必ずしもそうではありません。金額である程度はかれるもの、例えば購買とか集会、交際関係とかは、「予算枠設定」と「実行報告」を義務付けながらの段階的決裁権委譲が可能です。他方、金額で目安がはかれないものは、注意が必要です。

そんな中でも一番権限委譲をしない方がいいのが、コミュニケーションの領域です。「コミュニケーションの権限委譲って何?」と思われるかもしれませんが、具体的に言うと、「彼に○○するように指示しておいて」「アイツによく注意しておけ!」とかの発言。トップと指示される人との間に別の人が入る、伝言の類の物言いです。もちろん、組織内ですべての部下に直接モノを言いなさいと言っているのではありません(組織が大きくなればそんなことは不可能ですから)。自分が、モノを直接伝えるべき幹部だけでなくより下の者に対しても、事が直接伝えるべき重要ミッションや大成果に対する賞賛などのケースでは、他人任せはいけません。

私はコミュニケーションこそ、組織運営において一番大切な経営ツールであると思っています。その一番大切な経営ツールを、自らが伝えるべきときに直接使わず他人任せにしてしまうのは、トップとして失格であるということです。

命令でも誉め言葉でも、トップが直接本人に伝えるのと、他人経由で伝わるのでは、随分受け手側の印象が違うと思います。例えば命令の場合、「伝えておけ!」と他人経由で伝えれば、トップの意思が正確に伝わらないばかりか、代理で伝えた人間がトップの代理をしたばかっかりに、やけに偉そうにしているように思われたり、トップの信頼を得ているように思われたりして、あらぬ誤解や不協和音を組織内もたらしたりするものです。逆に褒め言葉の場合でも、他人を介して伝えられたら、いまひとつ喜びも薄いものになってしまいますよね。特によくあるダメなケースは、言いにくいこと(特に重要な指導や叱責)を自分で伝えずに、他人経由にしてしまうことです。これではいろいろな弊害が組織内に生まれてしまいます。

このように、トップの何気ない発言の“人任せ”は、実は予期せぬ思惑や混乱を招いたりするのです。トップ(=社長)は、自分のコミュニケーションの重さや存在感を、何をもってもまず認識をしなくてはいけません。トップの言葉には言ってみれば、“トップ・オーラ”が出ているのです。トップの責任において言うべきことは、いい話であろうと悪い話であろうと、絶対に人任せにしてはいけないと思うのです。

特に悪い話は下から上にも上がりにくいのと同じで、誰もが口にしたくないものです。でも、悪い話は事が重大であればあるほど、トップ自身が他人経由にせず直接叱責し指導しないことには、「臭い物にはフタ」状態となって、改善や再発防止は徹底できないのです。この点はぜひとも肝に銘じて欲しいものです。

「ラジコン・ヘリ」に「たいやきくん」~賑わう?“中間管理職悲哀市場”

2008-03-13 | マーケティング
ラジコンのミニ・ヘリコプターが、思わぬヒット商品として巷をにぎわしています。

従来は動力にエンジンを使用する重厚長大な機種が主流で、価格は最低で数万円以上。いざ飛ばそうにも広い空間が必要でした。しかし、この数年で電動ラジコンが普及するとともに、小型化・低価格化が一気に進み、「室内向け」「インドア」を謳うものが増えています。

売れ筋は、手の平に乗るサイズのヘリコプターで、1万円以下が主流。安いものでは2~3千円台のものあって、昨秋以降各社がこぞって商品化し、テレビ番組などで紹介されたことをキッカケとして、「予想を上回る大ヒット商品」(ラジコンメーカー)になっているのです。

少子化などの影響で、子供向け玩具マーケットは将来性も含め縮小傾向にあり、業界の再編が進んでいます。ラジコン玩具市場も低迷傾向で、業界大手の老舗企業「タイヨー」が、昨年2月にセガトイズに売却され再出発するなど厳しい状況の中、小型ラジコンヘリが思わぬ大ヒット商品になったのです。

この商品、企画段階では中高校生向けの手軽な入門機という位置づけだったと聞きます。ところがフタを開けてみると、主な購入者は「圧倒的に30~40代の男性」とか。なるほど子供の頃、ラジコン玩具でも特に空を飛ぶヘリコプターは“高嶺の花”でした(確かに高価なおもちゃで、本当の金持ちの子供しか買えなかったですよね。ヘリを飛ばせる広い庭も必要でしたし・・・)。「俺も一度飛ばしてみたかったぁ」という思いで、おじさんたちが買いに走ったというのも事実でしょう。マスコミ等でも、おじさんたちの「積年の思い実現」が生んだヒット商品、と報道されています。

このヒット商品を分析していくと、マーケティング的にみて役立ちそうなもうひとつの「消費者心理」が見え隠れしています。それは、主な購入層である30~40代の男性諸氏が置かれている環境にヒントがあります。「30~40代の男性」といえば、組織内ではまさに「中間管理職」真っ只中。上からは押さえつけられ、下からは突き上げられて・・・。加えて最近では、「能力給制度」だとか「業績連動評価」だとか、大人しくしていては貰うものも貰えず、「こんな思いをするなら、いっそ外に飛び出すか!」と考える年代でもあります。

ここまで言えばお分かりですね。そうです。ラジコン・ヘリは、普段から上から下から“操縦”される自分からの「脱却」であり、自身の「操縦願望」「飛び出し願望」を実現してくれるおもちゃなのです。これが何十万もするものであれば、おいそれと手が出せるものではありませんが、数千円から「操縦」や「飛び出し」が体験できるのですから、「パパのお小遣い」でも十分に実現が可能になったと言うわけです。

似たような消費者心理で、現在ヒットの兆しが出始めているものに、「およげ!たいやきくん」CDがあります。過去に92年と99年にもCD化されたことのあるこの曲ですが、今回は3月5日に再発売されて(アニメDVD付とか)、いきなりオリコンの30位台に飛び込むヒットとなっています。

「およげ!たいやきくん」と言えば、日本レコード界最大のヒット曲であり、昭和の「サラリーマン哀歌」でもありあました。たいやき屋のおやじと喧嘩して海に逃げ込む「たいやきくん」の大ヒットに、組織で苦労する自分を重ねて見た「中間管理職層」の“思い”がみてとれます。

「たいやきくん」のヒットは、昭和50年。「オイルショック」が高度成長に終止符を投げかけた直後でもあり、「上から下からいじられて、働けど先行きの夢はおぼろな中間管理職」の悲哀が出た時期でありました。92年や99年のCD化の時でなく、3度目のCD化の今ヒットの兆しが出ていることは、小型ラジコンヘリ同様現在の「中間管理職層」の置かれた環境と無縁とは思えません。

まだまだ懐が深そうな「30~40台男性」の「飛び出し願望」マーケット。次なるヒット商品として何が登場するのか、興味津々です。弊社も一丁考えますかな。

高卒新入社員が生まれた平成元年を反省する

2008-03-11 | その他あれこれ
本日より、サービス業4月入社予定の新入社員研修を始めました。

高卒新入社員と言えば18歳。なんと平成元年生まれです。ついに平成生まれが社会人になる日がやってきたのです。平成元年はバブルの絶頂期。個人的にも思い出深い年です。平成元年生まれと聞いてなんとも感慨深い気持になりましたので、理由(わけ)もなく平成元年を思い出してみたいと思います。

平成元年は昭和64年として始まったものの、新年早々天皇崩御により平成となったのでした。平成最初の日であった日曜日、日本国中が喪に服しているときに私は銀座でおでんを食べていました。その日閉じている店も多かったのですが、なぜか開いていたその店も、早々に「すいません今日は閉店なんですが・・・」と言われ、「あっ・・・そうで・す・か、いろいろありますから、ね・・・」と訳の分からない受け答えをして、ほろ酔い加減でやむなく店を出た記憶があります。

まだ早い時間だったので、銀座線で渋谷へ回って当時はまだ大きい駅近辺にしかなかった超大型ビデオレンタル店「アコム(ご存知サラ金が当時副業でやっていたのです)」に立ち寄ると、ものすごい混雑!!!テレビは追悼番組のオンパレードで、お笑い、バラエティは一切休止。テレビ局の自主判断とはされていましたが、いわば政府の無言の圧力によるマスコミ誘導は、ある種の「言論統制」のようにも感じました。そんな訳で、陰気でつまらないテレビは沢山であると、私ら若者(当時は20台!)や子供連れは皆ビデオレンタルに走った訳です。ホント、未だかつて見たことがないほど、ビデオの棚がスカスカ状態でした。

平成元年は、私は春から新聞社に行かされて俄か新聞記者をやった年でもありました。バブル絶頂期、私は経済部の記者だったので、毎晩のように大手企業のプレス担当者から、接待攻勢があったことをよく覚えています。それも半端じゃなかったです。料亭クラスで1次会、クラブをハシゴで2次会、3次会、一流菓子折等のお土産つきでハイヤーで自宅へ送り・・・。今思うと、日本の名だたる企業が何をやってたんだか、です。もちろん記者も記者です。ほんと、異常に狂った時代でした。

その年私が働いていた横浜は、横浜博覧会が万博よろしく大々的に開かれていて、開港130周年、市制110年とかで浮かれまくってました。横浜JCはアジア太平洋なんたらとかの名称の「ASPAC89」なんて言う国際イベントを、バカみたいにカネを使って大々的に盛り上げてました。ある日「ASPAC89」の何かの催しに呼ばれていた、宇野宗佑外務大臣が突然首相候補になって、東京からも大挙マスコミが集まりました。私も駆けつけたものの、結局本人は混乱を避けて急遽出席キャンセル。残念ながらネタにならなかったことも、私には事件でした。浮かれていたので、記者仲間で笑ってその晩、酒飲み話にして盛り上がってました。

浮かれてました。ほんとバカみたいに皆浮かれてました。就任1ヶ月にして、女性問題で退陣するような首相を平気で自民党は立てていたのですから、政治も浮かれていたのです。平成元年=1989年は、海外では天安門事件やベルリンの壁崩壊があった年です。世界は決して浮かれていなかったのです。浮かれていたのは日本だけ。

それからの日本経済は、浮かれた報いで坂道を転がり落ちるような展開となりました。その後長きにわたり反省と二度と同じテツは踏むまいとの構造改革の波が押し寄せ、バブル期に浮かれた銀行が倒産に追い込まれるような厳しい不況時代を迎えるわけです。私自身も、世の流れに巻かれた結果とはいえ、当時浮かれた生活を送った一人として、その後もどこか後ろめたいものを感じつつ、反省の念を抱き続けることになりました。

世の中浮かれまくりの平成元年に生まれ、反省とリストラクチャリング(再構築)の時代に育った今年の新入社員たちは、どんな社会人になるのでしょうか?本日お目にかかった9人の新人たちは、決して浮かれていない真面目そうなでも明るい子たちばかりで、なぜかホッとさせられ少し救われた気がしました。

「素人は手を出すな!」 ~ “金貸し”をなめたらあかんで

2008-03-10 | ニュース雑感
新銀行東京が多額の焦げ付き融資発生を原因とする、大幅赤字状態で経営難に陥ったことが社会問題化しています。

融資先のうち中小企業を中心に約2300社が破たんし、焦げ付きは285億円。2005年の開業からわずか3年でこのありさまです。しかも、この間景気が悪かったのかといえば、そうではなく、どちらかと言えばデフレからの脱却による景気安定状況下での、大量不良債権発生であり問題は大きいと言わざるを得ません。

東京都に400億円の追加出資を要請している新銀行東京の津島隆一代表執行役は記者会見で、不良債権増加は開業当初の仁司泰正代表執行役指揮下での「常識を逸脱した業務運営が要因」とする調査報告書を正式に公表しました。具体的には、融資後6ヶ月経過後の倒産等は融資契約時の担当者の責任を問わない制度があったり、融資実績に応じて社員に対し最大200万円の成果手当を支給するなど、いわば“イケイケドンドン”姿勢で、融資残高を増やしていったことを大きく問題視しているようです。

発足時には、審査が厳しく“貸し渋る”民間金融機関を補完する中小企業の味方的新銀行として、鳴り物入りでスタート。ところが、発足6ヶ月で既に24億円もの焦げ付きを発生させていながら、“イケイケ”姿勢を崩さずどんどん泥沼にはまっていったとのことです。“イケイケ”体質と同時にキズを深くした原因と言われているのが、審査面での財務データなどをもとにしたコンピューターによる「スコアリング」依存と、貸出先企業の実地調査の過怠。このような杜撰な管理下で、過剰な融資を繰り返していたようです。

開業時のトップ仁司泰正氏は元豊田工機専務、トーメン副社長、豊田通商常勤監査役という輝かしいご経歴の持ち主です。しかし言ってみれが、“金貸し”は素人だったわけで、「まずリスク管理ありき」の金融業と、「まず売上ありき」の実業界とは大きな違いがあったようです。

ただ私個人としては、仁司氏の素人“金貸し”経営もさることながら、やはり組織的に「民」ではないことからくる“金貸し”魂の乏しさが、一番の原因であるように思います。すなわち、「貸せるところに貸す」という“魂”の入っていない“金貸し”姿勢であり、「スコアリング」依存と、貸出先企業の実地調査の過怠は如実にそれを物語っています。旧北東公庫をはじめとした、過去の公的金融の杜撰な融資姿勢と何ら変わらない「素人融資」が、またもや東京都の公的金融に同じテツを踏ませることになったと言えるでしょう。

では、“魂”の入った“金貸し”の基本とは何か?ですが、一言で言って「返ってくる金かどうかという視点で融資判断ができるかどうか」ということです。昔から、支店長をはじめとする銀行マンは、中小企業を審査するとき決算数字よりも何よりもまず、社長はじめ経営陣をじっくり審査します。とりわけ社長は、その人柄、計画性、情熱、社員への愛情等々、総合的に判断して「この社長なら、この融資は返ってくる」と思えばGO、そうでなければ融資はNOです。これがプロの“金貸し”たるものなのです。

それは、ある意味民間銀行の一員として「焦げ付かせれば、自分の進退にもかかわる」という立場で、いかにお客さまのお手伝いをするか、大げさに言えば“命を張って”審査をしているのです。それこそが本当のプロの“金貸し”であるのです。

新銀行東京発足の時に、「民間が貸せないような先にこそ、貸し出しをしていく」と言っていた仁司氏の意気込みは素晴らしいものだったのかもしれません。しかしながら、素人の“金貸し経営”と素人の“金貸し魂”で作られた、公的金融機関は結局またも、大きな痛手を被ることになったのです。こんな事件を耳にして、元金融マンとして“金貸し業”の奥深さ、カネさえあればできるという訳ではない“俄か金貸し組織”の危うさをつくづく実感させられます。