日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「経験」と「実感」

2008-02-29 | ビジネス
本日2月29日は、弊社初の決算日です。

昨年の3月に会社を設立し、約1年何とかかんとかやって参りました。自分の会社を持って初めて、自社が無事年度末を迎えられる喜びと関係の皆さまへの感謝をしみじみと「実感」しています。

普段は人様の会社をあれこれつっついて、ああしろだ、こうしろだと、言いたいことを言わせいただいております。人様の会社の改善にご協力させていただく仕事に携わるものとして、この決算「実感」は大事であるなぁ、と感じ入った次第です。

その昔、駆け出しのバンカーだった頃、ある病院に大型融資を売り込んだ際に、私の説明に納得した院長の横で、院長夫人が一言。「大関さんは、お金を借りたことがありますか?もし借りたことがないとしたら、借りる立場の思いは分からないのだから、あなたの話を100%は信じるわけにはいかないわ」と言われたのでした。

大変ショックでした…。そうですね、何事も実体験に裏打ちされた「実感」のあるなしは、確かに大きいのです。「実感」があれば、目の前にある相手の問題に対して、過去に自分のケースでどう感じたか何が当事者としてのネックなのかなどについて、より質の高い的を外さないアドバイスができる訳です。融資を受けたことがなかった当時の私には、「目からウロコ」の一言だったのです。

この話のポイントは、「経験」と「実感」を別物で考えることにあります。私がこの時ショックだった理由はこうです。「経験」不足を指摘されたのなら時間が解決をしてくれるのかもしれないのですが、「実感」不足を指摘されたので、実際に自分でも銀行からお金を借りてみないことにはどうにもならないという、当時の私には全く新しい問題意識をつきつけられたからでした。

コンサルティングの話でこの問題を例示すると、「経験」とは場数をこなすことで、失敗も経験し徐々に勘どころが分かってくるという部分。言ってみればコンサルティング経験のことです。一方「実感」は同じ経験のなかでも、組織経験や管理経験や実務経験のことで、ひっくるめて言えば企業経験ですね。いくら、多くの資格を持って知識が豊富で、コンサルティング経験を積んでいても、この企業経験がなければ良質のコンサルティングにはつながらないのです。

一流大学卒でコンサルティング・ファームに就職し、ロジカル思考や分析のフレーム・ワークばかりを身につけて、人様の会社のコンサルティングに従事する“コンサルティング・エリート”の「落とし穴」は、そこにあるのかなと思っています。

「実感」することは、「相手の立場でモノを見、考える」というマーケティングの基本でもあります。脱線しますが、「官」にはびこる無意識の「官尊民卑」の思想は、まさに「民間経験」のなさに起因するこの「実感」不足が原因です。だからこそ、彼らがどんなに優秀であっても、「実感」不足を自ら理解し意識して「官尊民卑」を正そうとしない限り、絶対に改まらない問題であると断言できるのです。

本日無事に決算を向かえられた喜びと、周囲への感謝の気持ちを企業経営者として「実感」できることは、会社を設立したことで得られたありがたい財産として大切にしていきたいと思います。

経営のトリセツ21~社長のコミュニケーション下手は命取り?

2008-02-28 | 経営
前回「ホウレンソウ」やら「アスパラガス」やらの話をしていて、ひとつ抜けている大切なことがありました。

「ホウレンソウ」は部下が上司に接する時のコミュニケーションの基本、「アスパラガス」は上司が部下に接する時のコミュニケーションの基本です。すなわち双方向のコミュニケーションをいかにうまく回していくか、その基本とも言えるのがこのふたつの会社が元気になる「野菜」だった訳です。

ただ会社にはもうひとつ、このふたつの「野菜」では円滑化が図りにくく、でも円滑化を図らないと機能がしなくなる大切なコミュニケーションがあります。それは、「社長のコミュニケーション」です。特に中小企業の社長のコミュニケーションは、とても難しいです。対社長の「ホウレンソウ」は、蝋で作られた見本ような偽物であることも間々ありますから、鵜呑みは危険です。それに悪い情報は社長の耳には入らない、いい情報ばかりが聞こえてくるというのも常識です。

また社長ともなれば、不用意な「アスパラガス」は特定の管理者に対する“贔屓(ひいき)”とも取られかねませんし、そう取られたらかえって社内の不協和音を作り出す原因になってしまい難しいですね。もちろん全員に対して均等な「アスパラガス」ができるのなら別ですが、それはとても無理なことでしょう。

ならばと口数を減らすのがいいかと言えば、それはもっとダメですね。社長がいつも黙って何を考えているのか分からないのでは、社内は暗くなりますし会社がどこへ向かっているのか分からず、皆が疑心暗鬼で不安な面持ちになり、会社は迷路に入り込んでしまうかもしれません。

では、社長のコミュニケーションはどうあるのがいいのでしょうか。私がこれまで見てきた中で、うまく会社をまとめて引っ張っている社長には、コミュニケーションに次のような特徴があるようにおもいます。

① 常に明るく全社員に届く大きな声でたくさん発言する
社長の「明るさ」は大原則です。社長が暗い企業は、かなりの確率で重大な問題が発生します。「大きな声」は物理的な問題ではありません。全員にまんべんなく届くように発言をするということです。少なくともある特定のグループや特定の個人にしか聞こえないような、“小さな声の”メッセージの出し方はNGです。そして「たくさん発言」を。思い立ったらどんどん言ってください。重要経営課題でないなら、「朝令暮改」も大いにけっこう。むしろ柔軟性や「聞く耳」の象徴として好感を持たれるケースもあるほどです。ある意味、社員に対してはプライドを捨てることも大切なのです。もちろん対外的には「一家の主」として、大いにプライドを持って接するのは言うまでもありませんが・・・。
この①の点での成功例としては、「毎日、全社員向けにメールを入れている社長」「社内イントラにブログコーナーをつくって思いを伝える社長」方があげられます。

② 自分の考えを意志を持ってハッキリ伝える
自分の考え、意志を明確にすることは、ある意味一番大切なことかもしれません。社長の「お前ら考えてくれ」「みんなの言うとおりで良いよ」「任せるよ」は禁句です。一見民主主義のように見えるこれらの発言は、実は社長失格の烙印を押されかねない危険なものです。自分でまず意志を持って投げる、その上で意見を求める、細部は任せるが基本です。社長に求められている最大のものは、「決断力」なのです。「ハッキリ」も大切。表現を省略しての「分かるだろう?」的な投げかけはダメです。曖昧な投げかけで、万が一の時の「俺はそういう意味で言ったんじゃない」的な“逃げ道”を作ろうものなら、部下はしっかり気がついているものです。一気に求心力が低下するのは目に見えています。

③ 社員の声を前向きにまんべんなく聞く
まずするべきは、社員の声を常に聞く社長のスタンスを示すこと、すなわち現場を回り意見を聞くことです。現場とは全ての社員が働く場はどこも皆現場です。稼ぎ頭の営業部隊だけでなく、製品づくりの生産現場も、縁の下の力持ち的管理部門も、仕事という概念から言えばすべて現場なのです。分け隔てなく、どこの意見もまず聞くこと、その場で聞いたことを即座に否定することはNG。現場の声が集まらなくなります。
参考までに、自然と情報が社長席に集まるように、社内コミュニケーションの中心に社長が常にいるべき、という前向きな意識でオフィスの入口に社長席を作って活性化した例、社長が自分の机を持たずに、その日その日に空いている席で多くの社員とコミュニケートしながら活性化した例もあります。

中小企業の社長は本当に大変です。社内コミュニケーション部分だけのお話で、これですから。でも、社長のコミュニケーションの善し悪しが、会社の善し悪しを、かなりの部分で左右してしまいます。管理者のコミュニケーション下手は、人間で言うなら血の巡りが悪さが原因の「肩こり」程度で済みますが、社長のコミュニケーション下手は「脳卒中」になりかねない重大疾患なのです。

ヒラリーVSオバマ ~ 泥沼化する候補者選びに新たな懸念

2008-02-27 | ニュース雑感
米大統領選にからむネタ、2度目の登場です。

前回のメガ・チューズディは引き分けに終わり、ますます混迷の様相を呈してきた民主党の候補者選び。以降、小規模州ながら9連勝と波に乗るオバマ陣営と、選対ヘッドの入れ替えも行い巻き返しを狙うヒラリー陣営が、次なる決戦の場とにらんでいるのが、大票田オクラホマ、テキサス両州です。

来月4日の投票日に向けて、ますますヒートアップしています。相変わらずの激しさを全面に出して、“強さ”のイメージを確固たるものにし巻き返しを目論むヒラリー陣営。遂に、「バラク・オバマは恥を知れ!」と呼び捨て罵倒作戦に打って出ました。小規模州とは言え、連戦連敗の“弱い”イメージの払拭に必死の模様で、苦肉のイメージ転換策がこれだったようです。ただこの戦略、今回も危険と隣り合わせです。“強い大統領”のイメージをめざした言動が、再度「黒人蔑視」とも受け取られかねない過激な行動とも言えるからです。

一方のオバマ陣営は、ヒステリックなヒラリーに対して、あくまで温厚・沈着・冷静を装って、真っ向正面からの力勝負で返すようなやり方は、意図的に避けているかのように思います。これにしても凶と出るか吉と出るかは、全く分かりません。

このように、民主党の候補者選びが長期化するにつれ、二人の争いがより感情的なものになりまさに泥沼化することで、新たな問題が出つつあると感じています。それは党の統一候補者を選出するという本来の目的を、忘れつつあるのではないかということ。この争いの勝利がゴールではなく、あくまで共和党候補者を破ってはじめて目的が達せられるということが置き去られていないか、と言うことです。

今回の一件の発端は、ヒラリーの国民保険施策に対するオバマの辛辣な批判を受けて出た発言ですが、言ってみれば民主党内の政策に関する“仲間割れ”とも取られかねない動きであり、ここまで圧倒的有利と言われている対共和党候補の本選挙にも影響を及ぼしかねない問題であるとも言えます。

それともうひとつ。このように両陣営が、相反する二つの個性を強調すればするほど、二人合わせてまともな民主党になるという印象になりかねず、どちらかひとりが勝者になった段階で、その候補者に対する物足りない印象が残りはしないかという問題です。この点でも本選挙への影響が懸念されるところです。

いずれにしても、民主党の候補者選びのこれ以上の長期化は、お互いが疲弊するだけでなく、圧倒的優位と言われている民主党の対共和党候補本選挙にも影響を及ぼしかねないのです。アメリカの大統領選には、下馬評が通用しないのが常です。現段階の「圧倒的優位」がいつ何時くつがえることも、大いに考えられる国民性の国なのです。共和党の候補者の地位をほぼ手に入れているマケイン陣営は、今日の民主党両候補者の公開討論をながめつつ、内心ほくそ笑んでいるのではないでしょうか。

ヒラリーがヒステリックにオバマを批判すればするほど、オバマがこれに対して穏健な対応で返せば返すほど、女性初、黒人初のホワイト・ハウスが少しづつ遠のいていくように思えてなりません。

「イージス艦あたご」は「官尊民卑」の象徴か

2008-02-25 | ニュース雑感
報道をにぎわしている、イージス艦あたご漁船衝突事件ネタを手短に。

マスメディアは連日、今回全面的に非のあるイージス艦の対応を攻め立て、防衛省批判を大々的に展開しています。その主だった論調は、ほぼ私も同意出来る点が多く、今さらあえて多くを語らなくともよかろうと思っております。

イージス艦が漁船を発見しても進路を変えようとせず、船のど真ん中をぶち抜いたという事実、艦長を隠したまま更迭し未だにお詫び会見にも同席させない対応、繰り返される嘘の発表とその訂正、様子伺いが明らかに見て取れる小出しの情報開示・・・。

私が言いたいことはただ一点です。

これらは、なんという「民」をバカにした態度でしょうか。まさに「官尊民卑」の至りです。これまでも当ブログは、ことある毎に「官」のおごりや甘え、「民」を下に見た対応に対して批判を繰り返してきました。今回の、防衛省の対応はそれらすべての不祥事に共通の、「官」の誤った組織風土を象徴する事件であると言ってよいかと思います。

マスメディアおよび世論は、この機会に絶対に批判の手を緩めてはいけません。20年前に、「なだしお」の事件が発生したときには、「防衛」による民間被災事故という点での責任追求が焦点であったと、記憶しておりますが、今回は同様の事件でありながら「官」の「民」に対する姿勢や対応という根本的な問題に関して、追求する声が多くあがっています。20年の歳月を経て日本も、ようやくまともな世論形成がなされてきたのであり、ぜひ論点をぼやかさずにこの追求を続けて欲しいと思います。

今回の問題だけでなく、年金問題も、道路特定財源無駄遣いも、昨今話題の「官」の事件は皆、「官尊民卑」のおごりや甘えがあるからこそ、起きている不祥事なのです。従い、全省庁の全職員は、今回の事件でのマスメディアおよび世論の批判を重く受け止め、自身の言動および考えを今一度原点に帰って見つめなおす機会として欲しいと思います。「私には“官尊民卑”なんて意識は全くない」と思われる官僚の方こそ、自らの言動や思考を今一度振り返ってください。組織風土は絶対に、どんな人にも染み付いているものです。

「官尊民卑」は、官僚養成学校として設立された東京大学を頂点とした、偏差値偏重の受験制度が作り出した官僚たちの無意識の「エリート意識」が作り出したものに他なりません。すなわち、日本のどの省庁にも同じように流れている、「官」の歴史的組織風土に由来した間違った「官僚文化」なのです(過去には世間一般に見て、間違っていなかったのかもしれませんが、現在では明らかに誤った組織風土です)。

大きな事件が起きなければ、組織風土は変えられません。今こそ全省庁の職員は、この組織風土を大いに恥じ、一刻も早く「民」に対する姿勢のあり方を省みて、「官尊民卑」の精神を撲滅して欲しい。そして、このような不快な事件を二度と起こさないと、全ての国家公務員が今この瞬間に心に誓って欲しいものです。

<音楽夜話>70年代最も“噂”のバンド、フリートウッド・マック

2008-02-24 | 洋楽
さっそく“消えた名盤100”の中から、フリートウッド・マックの「噂」です。

とにかくアメリカでバカ売れした、まさに70年代を代表する1枚です。もともとイギリス出身のブルース・バンドだった彼らが、何度かのメンバー・チェンジを繰り返すうちに徐々にポップ路線への移行の傾向を強め、リンジー・バッキンガムとスティービー・ニックスのアメリカ人カップル・デュオをメンバーに迎えた75年の前作「ファンタスティック・マック」で一気に、新たなマック・ワールドを確立したのです。

そしてこの77年の「噂」。バッキンガム&ニックスの二人に加えて、キーボードのクリスティン・マクビーの3人が3様の曲を書き歌うという他では類を見ない、ある意味異様なバランス力学は最高潮を向かえ、彼らの音楽を時代を代表する音楽として完成の域にまで一気に昇華させたのでした。

リンジー・バッキンガムの独自のギター奏法とそれを活かしたアレンジ、スティービー・ニックスの妖艶さを漂わす作風とパフォーマンス、そしてオーソドックスかつ大人の落ち着きを感じさせるクリスティン・マクビーの歌と風貌。それらを支える、ミック・フリートウッドのパーカッシブなドラミングと、ジョン・マクビーのいかにもの落ち着いたブルース的ベース。5人が5人ともキャラが立っていて、その5つの要素が見事に融合し一体となり、誰にもマネのできない、それでいて「大人のロック」という雰囲気の、フリートウッド・マックの世界が確立されたのでした。

楽曲も最高に粒ぞろいです。リンジーの「オウン・ウエイ」、スティービーの「ドリームス」、そしてクリスティンの「ドント・ストップ」、「ユー・メイク・ラビング・ファン」(個人的なベスト・トラック)などのヒット曲に加え、「ネバー・ゴーイング・バック・アゲイン」や「ソング・バード」のような弾き語り的曲もあり、聞かせどころ満載。今聞いても全く古さを感じさせませんし、売れて当然の本当に素晴らしいアルバムです。

近年出された2枚組のデラックス・バージョンでは、アウト・テイクスなども満載で、この素晴らしいアルバムの制作過程が目に浮かんでくるようでワクワクさせられます。それと言うのも、このアルバムが制作された環境もまた、名盤誕生に一役買っているからです。後に出されたメイキングDVDでも語られているように、メンバー内の2組のカップル(リンジー=スティービー、マクビー夫妻)が破局に向かいかつ、ミックもまた私生活で離婚を経験した時期の、精神的にギリギリの状態での奇蹟のバランスが産み落とした名盤なのです。当然、そんなことは当時の日本の音楽ファンは誰一人知る由もありませんでしたが・・・。

このバンドで特筆すべきは、やはり何をおいてもリンジー・バッキンガムのギター・テクニックとアレンジ能力です。彼のギターに関しては、あまり語られることがないのですが、ピックを使わないかなり変形のギター奏法で、その独創性もさることながらテクニックはかなりなものです。じっくりそのギターを聴いてみると、カントリーの影響を感じさせる部分も多く、やはりアメリカ人がイギリス人バンドで主導権を握ったことが独特の化学変化を及ぼし、この上なく素晴らしいアルバムを作り出すことになったのだと思います。バンドアレンジは、リンジーが全盛期の彼らの曲のほとんどを手がけており、まさに彼がこの難解なバンドのディレクター兼プロデューサーの役割を果たしていたと言えます。

全米では、ビルボード誌アルバムチャートをなんと31週間連続1位の快挙!31週って年間の半分以上ですよ。普通じゃないでしょ。トータル全世界で200万枚以上を売り切ったモンスター・アルバムです。でも、なぜか「レココレ」誌「70年代ベスト100」には選ばれないんですね。売れすぎたアルバムは、“プロ”の評論家さんたちから見ると「ダサい」のか、どうも好まれないようです。

弔い馬券

2008-02-24 | 競馬
本日は、競馬今年の初GⅠフェブラリー・ステークスです。

競馬が好きだった亡き父ですが、今年のGⅠをひとつも見ずに逝くことになろうとは本人も思っていなかったことでしょう。

そこで今回は、父の最後のGⅠとなった有馬記念の雪辱弔い馬券で、ペリエと安藤。⑦ドラゴンファイヤーと⑧ロングプライドをワイドで1点勝負です。

私的大穴は、砂血統⑪ヴィクトリーの逃げ残り?

<音楽夜話>>「消えた名盤100 」を追え!

2008-02-23 | 洋楽
以前ブログに書いた雑誌「レコードコ・レクターズ(以外レココレ)」の特集、「70年代ロックアルバムベスト100」に関連して、選考に対する私の不満を埋め合わせてくれるような特集が、同じ発行元の姉妹誌「ミュージック・マガジン(以外MM誌)」で組まれました。

その名も特集「消えた(?)名盤100(ロック編)」と言うものです。高橋編集長の曰わく、「(今の)ロック名盤は、セレクションが精錬されている。固まりすぎているような気がしてならんのです。ロックという音楽を最初に知った時の、大人でヤバくてワケ分からなくて、めちゃめちゃカッコいい感じが薄くなっているような気がします。ヤングたちがみんなロックを聞きながら世相を憂いていたとか、『ペット・サウンズ』やヴァン・ダーク・パークスを部屋にこもって聞いていた、という訳ではないのだから」。

昨年夏に「レココレ」に取り上げられた拙文では、分量の問題もあって言及できなかったものの、まさに私の言いたかったことは高橋編集長のこの言葉の真意と共通するものでした。私は、そのアルバムがリリースされた時代の、受け手へのインパクトや時代への衝撃度といったものを、基準にすべきであると思いますし、その意味では「レココレ」のベスト100リストは、特定のベスト100選定評論家の至極恣意的かつ歴史的後追い評価が色濃く影響を及ぼしており、「好ましくない」と申し上げたのでした。

すなわち、ベスト100に好きなアルバムが入っているかどうかの問題ではなく、70年代に大きなインパクトがあったフリートウッド・マックやクイーンやキッスが、今の世間的評価はともかくとして、一枚も選ばれていないベスト100なんて、70年代を語っていないと思い同誌宛原稿を寄せた訳なのです。

音楽界の情報は、昔に比べようもなく世間に氾濫しています。そのため、生半可な情報ではプロの評論家が素人との差を見せにくくなっているために、選者各氏は各人なりの07年のポジショニングでもっともらしく“専門家”を感じさせる選出基準で「名盤」を選んだがために、私のようなリアルタイム70年代体験者には実感の薄いベスト100になってしまったのだと思います。

その辺のところは、MM誌今回の特集内対談で萩原健太氏がズバリ言ってます。「選ぶ人は“俺はこれ聞いてるんだ、偉いだろう”みたいなセレクトをしちゃいけないと思うよ」。ほんと同感です。評論家のポーズづくり目的のベスト100が、その時代を体現しているとはどう考えても思えませんね。

その点、今回のMM誌の特集は潔い!この「消えた(?)名盤100」特集には、本当に溜飲が下がる思いです。シカゴ、アリス・クーパー、ロギンス&メッシーナ、ボズ・スキャッグス、フォリナーなどなど、100枚に選ばれた1枚1枚に、思わず「そうだった、そうだった」と、まさに70年代が音楽的にどういう時代だったかが、本当に実感を持って思い出させてくれる見事な特集です。

間違いなく、私の投書をはじめとしたレココレのベスト100論争を受けて企画された特集ですね。その意味では本当に嬉しく思います。前回のレココレのベスト100に、どうもしっくり来ないものを感じていた皆さん、ぜひこのMM誌3月号を読んで、一緒に真実の70年代を実感しましょう。

経営のトリセツ20 ~ 「見える化」と「騒ぐ化」

2008-02-22 | 経営
J-SOX法の施行に伴い、上場企業では業務プロセスの文書化が求められるようになり、勢い中小企業も含めた組織運営における管理強化策として、業務の「見える化」が一般的に行われるようになってきました。

「見える化」という考え方は、それほど新しいものではありません。もともとトヨタ方式と言われる生産管理手法の中で、“無駄取り”の大前提として取り入れられた考え方です。要は業務プロセスが誰からも見えるようになっていれば、無駄やダブりの存在がすぐに明らかになる、ということです。

「見える化」の具体的な進め方は、一般的には各業務プロセスを書き出してマニュアル化します。“無駄取り”以外にも、誰がそのポジションに入ってもできる「業務の標準化」、マニュアルと違うやり方で業務が進められ不正が行われればすぐに分かる「牽制化」、などが可能になるわけです。

なるほど、この話を聞くと「見える化」をすれば、即いろいろ効果が出せそうだと思われそうですが、実はこれを有効に働かせるためには、もうひとつセットで考えないといけない「○○化」があるのです。それはズバリ「騒ぐ化」。あまり一般的ではない言葉ですが、工場の生産ラインなどでは時々「騒ぐ化」で管理されている例があります。

「騒ぐ化」って、具体的にどういうことでしょう?
何か異常が起きたら、何か異常を発見したら、何か異常に気がついたら「騒ぐ」というルールを徹底することです。要は、「見える化」をしていかに業務プロセスの透明度が高まったとしても、何か起きたときに気がついた人間がいても黙っていたのでは、全く「見える化」した意味がないのです。

前提として「見える化」ですぐに不良が出れば分かるラインを構築→不良が出たことに気がついたらそこで騒いでラインを止める→すぐに原因を究明して再発防止策を講じて再開する、といった流れで適正な業務プロセスを保つ訳です。管理部門でも全く同じです。管理部門を「見える化」しても、ミスやクレーム発生という事態に、その当事者や気がついた人間が黙ってやり過ごしていたら、問題が大きくなったり、長引いたり、同じことが何度も起きたりしてしまうものです。管理部門においても、「騒ぐ化」はとても大切なのです。

気がついたら声を出すことを「騒ぐ化」という耳慣れない言葉にしてみましたが、要は「コミュニケーションの円滑化」、「積極的な情報の発信」、ということに他なりません。昨日の話しにも出てきた「ホウ・レン・ソウ」という言葉、なんか難しそうなイメージがあったり、さらに「報告」「連絡」「相談」とか言ってしまうと、かしこまって形式ばったもののように聞こえたりもします。「騒ぐ化」という言葉なら、誰もがその場で簡単にできるイメージになるのではないでしょうか。

「騒ぐ」のに、準備も論理も用紙も必要ありません。「変だ」と感じたらすぐ「騒ぐ」、そんなクセを組織内につけることが最終的にはコミュニケーションの活性化につながり、「見える化」が最大限に効果を発揮する環境が出来上がるのです。

「変」は存在に気がついても、ほおっておくと「大変」になります。それを未然に防いでくれるのが、この「騒ぐ化」です。業種を問わない事件、事故の「延焼予防剤」と言えるかもしれませんね。

ホウレンソウとアスパラガス

2008-02-21 | その他あれこれ
新入社員研修の準備で、いろいろ資料作りをしています。

私が新社会人になったのは、もう四半世紀も前の話。ビジネスマナーとか、服装・身だしなみとか、基本的に教わることはあまり変化がないように思えますが、いろいろ参考書物を読んでみると、その内容はどうも昔よりもレベルの低いところから始めているように思います。昨今の若者の常識レベルの低下は著しく、「こんなことまで研修で教えないといけないの?」というものもけっこう見受けられます。

中でも気になる一番は、「ルールを守ること」っていう話。これって、社会人以前の問題ですよね。学生だって「校則」っていうものがあるのだから、身についてなくてはおかしいのですが、なぜか最近ではどの書籍にもかなり大きく扱われています。確かにコンプラ重視の影響はあるかとは思いますけど・・・。我々が社会人になった頃は、そんな当たり前のこと今さらのように言われてなかったですけどね。最近の学生の常識は、「ルールは問題のない範囲なら守らなくてよい」って“ルール”なんですかねぇ。ちょっと情けないですね。

我々の新人時代にはなくて、今はある研修定番用語と言えば「ホウ・レン・ソウ」をしっかりするように、という項目。ご存知「報告・連絡・相談」ですが、いつからか「ホウ・レン・ソウ」と呼ばれるようになりました。こと若い人たちのコミュニケーションの悪さや下手さが目立ってきた時代から、クローズアップされてきたように思います。今では新人研修の場だけでなく、社内的にことあるごとに強調される「改善テーマ」でもありますね。90年代以降のTVゲーム世代のコミュニケーション下手の“新人類”登場とともに、必要に迫られて生まれた言葉のように思います。

それに関連して、最近、書店で「ホウレンソウよりアスパラガス」とか言う本を見つけて、立ち読みしました。立ち読みなので十分読み込んではいませんが、「アスパラガス」って、またもやさらなる「新人類」対策?と思いきや、管理者向けの今様部下指導ポイントを表現したもののようでした。

「アスパラガス」は「アス・パラ・ガス」と分けられます。「アス」は「アスク(尋ねる)」。「パラ」は「パラレル(部下の目線で見る)」。そして「ガス」は「ガス抜き」だそうです。3つ合わせて言えば、「部下に常にあれこれ尋ねることでコミュニケーションをはかり、部下の目線でもの考え、時々はガス抜きもしてやれれば、あなたは立派な管理者ですよ」って訳。なんじゃそれ?要はこれも、我々世代の管理経験者から言わせれば、どれも常識中の常識ですよね。

そうか、研修に「ホウ・レン・ソウ」指導が登場した頃入社の新人クンたちが、今や管理者になっていている訳です。そこで登場した「アス・パラ・ガス」は、コミュニケーション下手のTVゲーム世代の管理者に、今度は「管理者のコミュニケーションのポイント」を教えるための“野菜”として登場したのではないか、と思います。

管理・指導は自身の行動矯正より、数段難しいです。実際の野菜でも、ホウレンソウよりもアスパラガスの方が、苦手な人が多いですしね・・・。私はどちらも大好きです!

勝負に負けて、ビジネスに勝った?東芝陣営の裏戦略を読む

2008-02-19 | ニュース雑感
(本日の原稿は、個人的推測の域を出ないこと、あらかじめご了解願います。)

昨日の続きと言いますか、昨日のブログを書いた後、どうもしっくり来なくて「何か変だぞ?」と思っています。

「次世代DVDにブルーレイ全面勝利!」連日の各紙報道やWEB情報を収集すればするほど、この主導権争いに関する突然の結末には、もうひとつ裏があったように思えてなりません。それは、東芝側に昨年後半あたりから綿密に練られた「撤退戦略」があったのではないかという推測です。なぜなら、この分野からの計画的撤退をいかにスムーズに、いかにダメージを受けずに遂行するかというシナリオづくりがあったとしてもおかしくないほど、“美しく”早い撤退決断であったからです。

何よりまず、東証が休みの日曜日朝の日経新聞の“抜き”にはじまり、日経紙面に出るは出るはの練られた続報の見事さ。しかも半導体ビジネスへの資本傾斜投入という、「選択と集中」をイメージさせる高度な合わせ技での記事の取り上げ・・・。東芝の広報戦略が日経新聞の紙面を使って展開されている、とさえイメージされるほどの用意周到な報道展開でした。

追いかける他紙の記事とは明らかな内容、ボリュームの差があり、いかに経済専門紙の日本経済新聞と言えども、東芝側からの相当な事前リークなくしては、これだけの原稿群を戦略的な並びで書き連ねることは不可能であると、小職の記者経験からも実感させられるところです。

東芝が計画的撤退を考えたと推測される最大の理由は、東芝自体の企業戦略として家電分野に拡大路線はない、という点に帰結します。東芝は、もともとが松下やソニーのような家電部門が基軸の企業ではなく、主に重電をメインに発展し派生的に家電に進出した企業プロフィールを考え、「選択と集中」が求められるいまの時代の経営セオリーからすれば、昨年後半以降消耗戦に入りつつあった次世代DVDビジネスは「選択」から落ちてしかるべき状況だったのです。

しかしながら、ここまで戦っておいて、突然無責任に「やーめた」と言うわけにはいきません。だからこそ、周囲が辞めてしかるべきと思うような状況づくりが必要でしたし、結果そう仕向けたのではないか、と考えるのもそんなに強引な推理ではないと思います。なぜなら、記憶をたどれば昨年の年末商戦前までは、そんなにブルーレイ陣営が優位に立っていたと言う印象はなくて、年末以降急激に「ブルーレイ優勢」が明確になったように感じられるからです。

年末商戦におけるHD-DVD陣営の商品投入の遅れとPR戦略の力の入らなさは、今思えば「遅れをとった」というよりも意図的に動かなかったと考えるのが正解のように思います。家電メーカーにとって年末商戦は、年間最大の掻き入れ時であり、HD-DVD陣営が「敵」がどんな商品ラインアップでどのような販売戦略を仕掛けてくるのか、全然情報がなかったと考えるのはむしろ不自然ですから。

さらに、年末商戦後の年明け1月4日の米国映画配給会社ワーナーブラザースのブルーレイ一本化宣言も、東芝陣営の“仕込み”だったのではないかとさえ思われるタイミングの良さでした。1月4日?なぜ年明け早々なのでしょう?なぜ、年内ではなく、もしくは年末商戦の結果が報じられる1月中旬以降でもなく・・・。

利幅が薄く、この先しばらくは大きな収益が込めない次世代DVDビジネス。両陣営の主導権争いが激化すればするほど一層の消耗戦に突入し、遅かれ早かれ企業としてのビジネスコンセプトという観点から見直しのターニングポイントが来るとの読みがあり、「年末商戦大敗」→「年明けワーナー離脱」→「撤退表明」→「今年度末での終止符」のシナリオは、かなり早くからできていたのではないかと思えます。

東芝は日経新聞の気の利いた報道のおかげで、「選択と集中」戦略を重視した的確な経営判断とのマーケット評価を受け、株価は下げるどころか上昇に転じており、まずは狙いどおりの“軟着陸成功”となりました。一方の勝ったソニーですが、今後の開発コスト負担とハードの低価格化を考えると、収益環境はかなり厳しく、決して手放しで喜べる状況ではない様子です。今回の勝利、東芝から「“熨斗付き”で贈られた、次世代DVD単独取り扱い権」と考えると、「貧乏クジ」を引かされたのは実はソニーの方だったのかもしれません。

昨日のブログに記した今回再認識したビジネスの鉄則に、新たにもう1項目、「ビジネスは、時には死んだフリも大切」を加えさせていただきます。