日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

お知らせ~All Aboutさん拙連載更新されました

2013-11-30 | 経営
AllAboutさん拙担当コーナー「組織マネジメントガイド」更新されました。社会問題化したメニュー食材偽装のあるべき改善策への取り組みを、課題解決フレームワークとして「組織の7S」を活用し検討しました。

こちらからどうぞ。
http://allabout.co.jp/gm/gc/435264/

JRAはイコール農水省の立場で、競馬のガラパゴス化を見直すべきと思う件

2013-11-29 | 経営
先週は競馬の世界では、国際G1レースのジャパンカップが開催されました。近年はなぜか出走メンバーは非常に低調。外国馬招待レースながら、海外からの参戦はわずか3頭。レベル的にもイマイチ。原因と思しきは、日本特有の日本馬に有利な硬くて高速な芝コースに尽きるのでしょう。

確かに日本馬のレベルアップはありますが、ここ10年で2着までに入った外国馬がわずか1頭では、例えアゴ足付きの招待レースといえども有力馬はわざわざ汚点を残しに来ないのです。同じことは今週末開催のジャパンカップ・ダートにも言え、ダート競馬の本場アメリカとは大きく異なる深く重い砂に、外国馬は嫌気して近年では3年連続外国馬の参戦なしなどという事態にも陥っているのです(ちなみに今年は1頭のみ参戦予定)。

日本の馬のレベルが低かった間は、日本特有のレース条件下でも外国馬の活躍が目立ちあまり問題視されることはなかったのですが、ここ約20年、海外名種牡馬大量輸入による日本馬のレベルアップにより、はからずも日本競馬のガラパゴス化が脚光を浴びることになったと言えるのではないでしょうか。

蛇足になりますが、有力日本馬の凱旋門賞参戦によるジャパンカップ出走日本馬のレベルダウンの問題もレースの価値を半減させてもいます。今年も、現役最強馬オルフェーヴルや本年のダービー馬キズナは凱旋門賞出走を選択し、ジャパンカップ出走の日本馬は二番手グループのトップ争いの様相を呈してもいます。日本の馬は一層国際化して海外の最高峰レースにチャレンジしていく中、我が国の競馬の国際化は取り残されてしまった感が強く漂っているのです。

ちなみに今週末に開催されるジャパンカップ・ダートは、聞くところによれば来年度より大幅に改編され、ジャパンカップの冠は遂にはずされることになると言います。本家ジャパンカップも、外国参戦馬の減少と日本馬を含めた出走馬のレベルダウンが続くなら、ジャパンカップ・ダートと同じ運命を辿るのは確実であるのではないでしょうか。

さて私が、なぜこの問題をことさらに取り上げたのかです。なによりJRAという団体の立ち位置が気になるのです。JRAは農林水産大臣の監督を受け政府が資本金の全額を出資する政府直轄の特殊法人。言ってみれば、誰が見てもイコール農林水産省と言っていい団体であり、その団体が取り続ける「見かけ上は国際化その実ガラパゴス」という偽りの国際化姿勢が、我が国の農林水産分野の象徴として海外に伝播される懸念を感じるわけなのです。杞憂に過ぎないのかもしれませんが、TPP交渉に悪影響を及ぼすことがありはしないかとは老婆心ながら思うところであります。

競馬のおもしろみ云々は別にしても、JRAは政府関連機関の立場の重要性に鑑み、競馬レース条件のガラパゴス化を早期に解消し、国際社会に向けてのフリー、フェア、グローバルな日本のイメージをメッセージできるよな改革に乗り出す段階に来ているのではないでしょうか。

小泉行動に“老害”会長を見る思い、ってありません?

2013-11-22 | 経営
小泉純一郎元首相が話題です。8月に原発ゼロ発言が毎日新聞に取り上げられ、今月には日本記者クラブで講演をおこない、ここでもメディアの期待の応える形で原発ゼロを強く訴えますます渦中の人に。私はこの問題は静観を決め込んでいたのですが、政治的な話や主張の中身は別にして、私の仕事関係でも似た風景をよく見るなと思ったので、そのあたりの視点でちょっと書いておくことにしました。

念のためお断りしておきます。本稿は原発ゼロの是非を問うものではなく、在職時に国民の支持率が著しく高かった元首相の存在感誇示行動に対して、組織マネジメントに照らし私が知る類似例から氏の深層を推察してみたいと思ったまでです。その点を誤解なきよう、この先を読み進めていただきたく思います。

私がこのところの小泉氏の言動を見て似た光景として思い浮かんだのは、創業者もしくは企業発展の功労者たる元社長であるところの会長あるいは相談役が、実権ポジションを退いた後に非公式ルートで現社長の経営方針を批判するような発言を社内に対している姿です。よくある例は、二代目社長曰く「創業者の親父が、『社長のイスはお前に譲った』と言っていながら、時々社員に僕の方針と異なるやり方を吹いて回っているんだよ。やりにくくて仕方ない」、というパターンです。

最近もある会社でまさしくそのような“事件”が起きました。創業の会長にその真意を質してみると会長の言い分は「社長のおかしなやり方をほおっておけん」なのですが、「なぜ社長に直接言わないのですか」と尋ねると、「直接言うのは角が立つ、社員が私の考えに同調してくれるなら本人も思い直すだろう」と。私は、思い切ってこうぶつけました。「会長、そのやり方は間違っています。おかしいと思われるなら、直接ハッキリ言うべきです。組織運営がおかしくなります。もしかして組織上実権のなくなった今でも、会長は社員に自分の存在感を示し影響力を保ちたいと思っているんじゃないですか」。

私の遠慮ない物言いに会長の顔はみるみる紅潮し、「何を言っているんだ、君は!」と一言大きな声を発したものの、その後しばらく黙りこんでしまいました。しばし間があってポツリと言ったの言葉は意外にも、「大きな声を出してすまなかった。そうか老害か。私もヤキが回ったようだ」と苦笑いまじりにカミングアウトしたのでした。創業者ゆえ常に社内で大きな存在感を示し続けそれを肌でも感じていたトップが、実質引退により自分の存在感の低下を感じた時に出やすいパターンであるのです。これは存在感堅持行動と言ってよく、幼い子が弟や妹に親の関心を奪われ退行行動に出るのと同じ、老人性の幼児がえりの一種と言ってもいいでしょう。

この場合に問題になるのは、意見の正しい正しくないだけではありません。そのやり方と行動の根底にある潜在的動機も重要なのです。誤った意見を正そうと思うのなら、やはり先人の立場から直接社長に言うのが筋であり、元実権者が過去の実績を背景として正規ルートとは違う流れで情報を流布し社内世論を動かそうとすることは、現組織マネジメントの統制を混乱させるモノ以外の何ものでもないのです。

小泉氏の場合はどうなのでしょう。会社と政治の世界はやや違うのかもしれませんが、穿った見方との批判を恐れずに言うなら、高支持率を維持したまま首相の座を退き政界からも引退しマスコミ取材は受けないと断言していたはずの氏の一連の行動は、先の会長同様に影響力の低下を察知して変わってきたとは思えないでしょうか。小泉氏の後を継いだ第一次安部、福田、麻生、政権交代後の鳩山、管、野田の各総理はすべて就任早々から右肩下がりに支持率を下げていくという状況にあり、その意味ではダメ内閣が続いたおかげで小泉氏の国民的評価は相対的に上がる傾向にあったのかもしれません。

しかし、再度の政権交代とアベノミクスによる一応の景気回復傾向は安部政権の支持率を押し上げる効果をもたらしました。そうなると、相次ぐダメ首相の登場により寝ていても安泰と思われていた自分に対する評価が、安部首相の安定的支持率傾向により忘れ去られるかもしれないという危機感が小泉氏の潜在意識の中に起きたとしても不思議ではありません。実権をゆずり隠居の身であることは企業における一線を退いた元経営者と同じ。時間の使い方、時間お流れが明らかに現役時代と変わることで確実に老いは訪れ、本人も気がつかない間に老害行動が始まっていると言うことは間々あるのです。

そうでなければいいのですが、何となく私は今回の小泉氏の安部首相に直接進言せずにメディアを通じて反安部的主張をはじめた動きには、老害の臭いを感じとってしまうのですが、いかがなものでしょうか。元々は小泉氏自身が後継として後押しした安部首相ですから、本来は直接本人に言うべきことをあえてメディアを通じて言っている行動には、どうも合点がいかないのです。繰り返し申し上げますが、小泉氏の主張の是非はまったく除いてのお話です。

先の企業の会長氏、その後は一切社員に余計なことは言わなくなり、本当に気になることがあるときだけ、こっそり社長に耳打ちをするようになられたそうです。小泉氏はこのまま今のやり方を続けるおつもりなんでしょうか。老害行動でないことを切に祈ります。

坂東英二氏に見る“ダメ謝罪広報”解説

2013-11-12 | 経営
宮藤官九郎脚本の「謝罪の神様」なる映画が公開された途端、番宣かと思うほどダメな謝罪会見が相次いでいます。みずほ銀行、阪急阪神ホテルズ、板東英二。とにかく皆さん、謝罪が下手くそです。みずほ銀行、阪急阪神ホテルズのお話は散々書いてきたので、ここでは板東英二氏のケースを中心に書きますが、下手くそな謝罪会見のどこがダメかの基本は同じです。

まず最大の問題点は、見ている誰もが確信している「悪意」の存在を認めようとせず、詭弁により言い訳がましい答弁に終始する点。「カツラが経費で落ちると思っていた」「税務当局との見解が違った」って、問題はそこじゃない。ポイントはあなたに「悪意」があったが否かです。謝罪は「悪意」に対しておこなわれるべきであり、「欲の皮が突っ張っていました」「私が間違っていました」「これから心を入れ替えます、ごめんなさい」、それが謝罪の基本なのです。「悪意」を認めない謝罪会見は、あんこのないあんぱんみたいなものです。

また謝罪の場で、相手に突っ込みを次々入れられるようではそれは正しい謝罪ではないのです。突っ込みの原因は大抵「言い訳」や「他人のせい」です。私も銀行員時代に経験をしていますが、お客さまからのクレームに対して、「ごめんなさい、でも…」等の物言いは、かえって事をややこしくするだけであったり、より一層こちらの印象を損ねることになるのです。

「申し訳ございませんでした。すべてこちらの責任です。責任者として心よりお詫び申し上げます、何卒お許しください」。仮に多少の言い分があったとしても、下手に言いがましいことを言うのならきれいさっぱりとお詫びに徹することが謝罪の基本ではないのでしょうか。この基本に忠実であることこそ、謝罪の極意ではないのかと思うところです。

第二に謝罪のタイミングの問題。坂東氏の場合、だんまりを決め込んで約1年。ほとぼりが冷めるのを見計らって、「そろそろお許しください」っていうのは、どう見ても印象が悪いでしょう。謝罪すべき不祥事が起きたなら、即座に本人、企業の場合には責任者が公の場に出てお詫びをする必要があるのです。もちろん何の後ろめたさもないのであれば、その旨をハッキリと公の場で断言すればいい。逃げ、隠れは誤解を生んだり、必要以上に悪い印象を与えたり、良い事は何ひとつないのです。

最近の謝罪会見におけるメディアの袋叩き姿勢にも問題は多々あるとは思いますが、叩かれることを恐れて本人が逃げ回ったり、トップの登場を温存したりすることは、余計にメディアや世論を刺激してしまいます。堂々とする者には突っ込みを入れにくく、コソコソとする者には思いっきり突っ込みを入れたくなる、弱い者いじめ的なメディアの性質も十分に知っておく必要があるのではないでしょうか。

第三に、これはどうでもいいことですが、坂東氏が会見で見せた“泣き落とし”って古すぎます。謝罪をする者が自己の勝手な事情に思いを巡らせて“お涙ちょうだい”をやっても、当事者の様々な経緯を知り得ていない者にとってはむしろ興ざめであり、泣くことによる同情やプラス効果はほとんどないと思います。企業の不祥事謝罪会見では涙の会見はあまり目にしませんが、仮にあったとしてもビジネスの場での涙は、むしろ「泣けば済むのか」「泣くぐらいならはじめからやるな」といった冷たい反応を呼び起こし、確実に逆効果になると思います。

いずれにしても、ビジネスシーンにおいてもプライベートな人間関係においても、謝罪の失敗は致命傷になりかねません。このところ連発する下手くそな謝罪会見を見るにつけ、日頃からの「謝罪広報」に対する心構えの大切さを痛感させられるに至り、遅ればせながらこの“番宣”に乗せられて映画「謝罪の神様」を見てみようと思った次第です。

止まらぬ食の偽装事件、なぜトップが会見しないのか

2013-11-07 | 経営
ホテル、百貨店をめぐる「メニュー食材の偽装問題」は、その後も続々新たな“偽装”が発覚しとどまるところを知りません。この問題について改めてどうこう言うつもりもありませんが、個人的には食材の偽装云々以上に気になっていることがあります。問題発覚に関する謝罪に際しての各企業の対応です。

私が何より気になっているのは、謝罪会見になぜ真っ先にトップが出てこないのか、です。一昨日新たに問題が発覚し会見した高島屋、昨日問題が発覚会見をした三越伊勢丹、共に会見に出席したのはトップではなく担当常務でした。両百貨店に関しては、偽装はホテルとは異なりテナントがやったことが主であり、自身は管理責任のみという判断での“トップ温存”なのでしょうか。もしそうなのだとすれば、それは大きな間違いであるとハッキリ申し上げておきます。

企業が不祥事を起こし謝罪会見をする場合、謝罪をする相手は新聞記者ではなく世間に対してのものであり、自店を利用する利用者に明らかな迷惑を掛けた問題であるのなら、会見は利用者、消費者に対する謝罪の場であると理解をするのは、危機管理広報におけるイロハのイなのです。それと同時に、その場に登場する人物の格によって、その企業が当該不祥事をどう受け止めているかという重さが計られる、と理解しなくてはいけません。

今回のような明らかに自社の顧客に対して迷惑を掛けた問題、特に直接の被害者でなくとも自社を愛し贔屓にしてくれてきた利用者から自分たちの信頼を裏切る行為であると受け取られるような不祥事においては、トップが先頭に立って謝罪をするのが常識であると考えます。それができない各社は、今回の問題をなめている、根本的には利用者、消費者をなめていると言われても仕方がないということになるでしょう。

阪急阪神ホテルズの最初の会見、高島屋、三越伊勢丹、すべて判で押したように、担当責任者たる役員が会見し、第三者調査委員会も設けず「偽装ではなく誤表示」とあくまでミスであるという見解を貫く。この横並び意識は何なのでしょう。特に、高島屋、三越伊勢丹は共に主にテナントの食材偽装であり、担当常務が中央で謝罪するという絵面まで一緒。三越伊勢丹会見である記者がした「テナントさんの不祥事ですから、百貨店は被害者じゃないんですか」という質問は冴えてました。無論、回答は「いいえ」でしたが、この質問私には「あなた方、テナントの不祥事だからってなめてるんだろ!」とハッキリ聞こえました。

この状況、言ってみればビートたけしの歴史的ギャグ「赤信号みんなで渡れば怖くない」を地で行く対応です。しかしよくよく考えてみれば、そもそも今回の不祥事自体が「この程度のごまかしはどこでもやっていることだ」という「赤信号みんなで渡れば怖くない」的発想の下に起きたものではなかったのでしょうか。このような各社判で押した対応の繰り返しを見るに、「反省の色、未だ見えず」としか言いようがないのです。

みずほ銀行も、阪急阪神ホテルズも、結局当初にトップが謝罪に立たない会見対応により消費者の心証を著しく悪くしました。少し前に米の産地偽装問題でクローズアップされた岐阜の三瀧商事は、最後までトップが会見に応じないまま事態は悪化し会社解散の憂き目に会っています。トップが謝罪に立つことがそんなに怖いのでしょうか。もし仮に、トップが謝罪をすることによるイメージダウンを恐れているのなら、むしろそれは逆で、トップが謝罪会見をしないイメージダウンの方を恐れるべきなのです。しかも、トップが謝罪会見に立ち厳しい意見にさらされればされるほど、再発防止および改善計画にも力の入り方が変わり、組織として好ましい変革を起こすチャンスにもなるはずなのです。

問題続々の食の一流ブランドにおける食材偽装問題ですが、“トップ温存”という真剣みを感じない対応と、不祥事の根本原因とも言える“横並び意識にどっぷり姿勢”を感じさせられるにつけ、この手の問題の真の解決にはまだまだ程遠い状況にあるとつくづく感じさせられる次第です。