ベック→ツェッペリンの流れを受けて成立した第二期~第三期ディープ・パープルを、70年代ハードロックのプロトタイプとする本ブログでは純粋なハードロックには分類しがたいものの、触れておく必要のある英国勢を取り上げます。
まずはエリック・クラプトン。これまでもベック以前のヤードバーズのギタリストとして、またはその後のハードロック誕生前夜のクリームのギタリストとして、その活躍ぶりについては触れてきましたが、クリームはあくまで“ハード・ブルースバンド”であったと位置付けてきました(ただ我々世代の学生バンドでは、「ライブ・ボリュームⅡ」バージョンの「ホワイト・ルーム」や「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を、パープル同様に“ハードロックの教典”としてこぞってコピーしたものです)。クラプトンのその後ですが、米国へ渡りデラボニとの出合いによるスワンプ・ロックへの傾倒が彼の音楽人生を大きく転換させました。一番大きな変化は自ら歌う道を選んだこと。この“歌えるギタリスト”への変貌は、当時の「敏腕ギタリスト+シャウト系ボーカリスト」という、70年代型ハードロック成立の基本要件を損ねる結果に至ったのです。彼はこの後、スワンプとブルースをこよなく愛する“歌えるギタリスト”路線を歩み続けることになります。
続いてはザ・フー(写真)。彼らは60年代モッズ系のロックバンドとして、英国本流のマージービート系ロックバンド(代表格はリバプールサウンドのビートルズ、ブルース系のストーンズとヤードバーズ)とは一線を隔する存在として君臨します。60年代末期に向けてはプログレッシブ・ロックともある意味で共通項も見出せる至極英国的なロック・オペラという画期的分野を開拓(同時期にキンクスもまたロック・オペラへの流れを標榜します)。歴史的名作である2枚組ロックオペラ「トミー」は69年にリリースされますが、相前後して時代はハードロックバンドの原型であるジェフ・ベックグループやレッド・ツェッペリンを次々生み落としていました。その影響を少なからず受けたであろう彼らは、翌70年に実にハードロック的手触りのライブアルバム「ライブ・アット・リーズ」をリリースするのです。ヒット曲「マイ・ジェネレーション」や「サブスティテュート」は重たく厚化粧を施されたサウンドで生まれ変わり、エディ・コクランの「サマー・タイム・ブルース」などは、およそ同じ曲とは思えぬほどにハードなアレンジで音楽ファンの度肝を抜いたのでした。
フーはピート・タウンゼントという敏腕ギタリストとロジャー・ダルトリーという実力派ボーカリストを擁し、十分なハードロック的資質を持ち合わせていながらも、純粋な70年型ハードロックには分類しがたいと考えます。それは主にロックオペラ構想に代表されるピート・タウンゼントの思慮深さに負う部分が、いわゆる能天気なハードロック・バンドとは一線を隔さざるを得ないと考えられる故です。71年の未完の巨大ロックオペラ「ライフハウス」プロジェクトの楽曲で構成された「フーズ・ネクスト」や、73年のロックオペラ第二弾「四重人格」などのハードロックの枠組みを大きく踏み越えた名作を次々生み出してもいます。そんな流れで見ると、「ライブ・アット・リーズ」は彼らにとってはやや異質なアルバムであると言ってもいいのかもしれません(ただし、90年代以降に出された本作の「25周年記念エディション」や「完全版」を聞く限りにおいては、「トミー」のステージ上での再現が実は本ライブのメインアクトであり、これらの形で聞くことで決して本作は異質な存在ではないと後付的には分かるのですが・・・)。
もうひとつ最後に、フリーというバンド。基本的にキーボードを排した潔さとポール・ロジャースという稀代の名ボーカリストとポール・コソフという腕の立つギタリストを中心としたバンドアンサンブルは、70年代初頭に誕生したハードロックの流れにのる資質は十分にあったバンドでありました。ただし彼らはこの時点ではブルースの影響が色濃く残る音楽性であり、ディープ・パープルに代表される“音楽的しがらみ”を感じさせない音づくりであるか否かと言う観点からは、やはり70年代型ハードロックには分類しがたい存在であるのです。むしろフリーの解散後、ポール・ロジャースがグラムロックの雄であった元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと結成したバッド・カンパニーにこそ、ややアメリカ的匂いが強く漂うものの、70年代ハードロック的要素をより強く見出すことができるのです(ちなみに、私がはじめて組んだ中学生時代のハードロック・バンドの初音合わせでプレイした曲は、バドカンの「キャント・ゲット・イナッフ」でした)。
★70年代ハードロックを深く知るアルバム
①「ライブ・アット・リーズ/ザ・フー」
②「BAD CO/バッド・カンパニー」
まずはエリック・クラプトン。これまでもベック以前のヤードバーズのギタリストとして、またはその後のハードロック誕生前夜のクリームのギタリストとして、その活躍ぶりについては触れてきましたが、クリームはあくまで“ハード・ブルースバンド”であったと位置付けてきました(ただ我々世代の学生バンドでは、「ライブ・ボリュームⅡ」バージョンの「ホワイト・ルーム」や「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を、パープル同様に“ハードロックの教典”としてこぞってコピーしたものです)。クラプトンのその後ですが、米国へ渡りデラボニとの出合いによるスワンプ・ロックへの傾倒が彼の音楽人生を大きく転換させました。一番大きな変化は自ら歌う道を選んだこと。この“歌えるギタリスト”への変貌は、当時の「敏腕ギタリスト+シャウト系ボーカリスト」という、70年代型ハードロック成立の基本要件を損ねる結果に至ったのです。彼はこの後、スワンプとブルースをこよなく愛する“歌えるギタリスト”路線を歩み続けることになります。
続いてはザ・フー(写真)。彼らは60年代モッズ系のロックバンドとして、英国本流のマージービート系ロックバンド(代表格はリバプールサウンドのビートルズ、ブルース系のストーンズとヤードバーズ)とは一線を隔する存在として君臨します。60年代末期に向けてはプログレッシブ・ロックともある意味で共通項も見出せる至極英国的なロック・オペラという画期的分野を開拓(同時期にキンクスもまたロック・オペラへの流れを標榜します)。歴史的名作である2枚組ロックオペラ「トミー」は69年にリリースされますが、相前後して時代はハードロックバンドの原型であるジェフ・ベックグループやレッド・ツェッペリンを次々生み落としていました。その影響を少なからず受けたであろう彼らは、翌70年に実にハードロック的手触りのライブアルバム「ライブ・アット・リーズ」をリリースするのです。ヒット曲「マイ・ジェネレーション」や「サブスティテュート」は重たく厚化粧を施されたサウンドで生まれ変わり、エディ・コクランの「サマー・タイム・ブルース」などは、およそ同じ曲とは思えぬほどにハードなアレンジで音楽ファンの度肝を抜いたのでした。
フーはピート・タウンゼントという敏腕ギタリストとロジャー・ダルトリーという実力派ボーカリストを擁し、十分なハードロック的資質を持ち合わせていながらも、純粋な70年型ハードロックには分類しがたいと考えます。それは主にロックオペラ構想に代表されるピート・タウンゼントの思慮深さに負う部分が、いわゆる能天気なハードロック・バンドとは一線を隔さざるを得ないと考えられる故です。71年の未完の巨大ロックオペラ「ライフハウス」プロジェクトの楽曲で構成された「フーズ・ネクスト」や、73年のロックオペラ第二弾「四重人格」などのハードロックの枠組みを大きく踏み越えた名作を次々生み出してもいます。そんな流れで見ると、「ライブ・アット・リーズ」は彼らにとってはやや異質なアルバムであると言ってもいいのかもしれません(ただし、90年代以降に出された本作の「25周年記念エディション」や「完全版」を聞く限りにおいては、「トミー」のステージ上での再現が実は本ライブのメインアクトであり、これらの形で聞くことで決して本作は異質な存在ではないと後付的には分かるのですが・・・)。
もうひとつ最後に、フリーというバンド。基本的にキーボードを排した潔さとポール・ロジャースという稀代の名ボーカリストとポール・コソフという腕の立つギタリストを中心としたバンドアンサンブルは、70年代初頭に誕生したハードロックの流れにのる資質は十分にあったバンドでありました。ただし彼らはこの時点ではブルースの影響が色濃く残る音楽性であり、ディープ・パープルに代表される“音楽的しがらみ”を感じさせない音づくりであるか否かと言う観点からは、やはり70年代型ハードロックには分類しがたい存在であるのです。むしろフリーの解散後、ポール・ロジャースがグラムロックの雄であった元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと結成したバッド・カンパニーにこそ、ややアメリカ的匂いが強く漂うものの、70年代ハードロック的要素をより強く見出すことができるのです(ちなみに、私がはじめて組んだ中学生時代のハードロック・バンドの初音合わせでプレイした曲は、バドカンの「キャント・ゲット・イナッフ」でした)。
★70年代ハードロックを深く知るアルバム
①「ライブ・アット・リーズ/ザ・フー」
②「BAD CO/バッド・カンパニー」