日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和49年村田クンの教え 6~導かれし“マニアック”の源流

2010-01-31 | その他あれこれ
村田クンのすすめで映画「ウッドストック」を見た私は、ポピュラー音楽の懐の深さを思い知らされ、日本で売れていないもの、知られていないものにも素晴らしい音楽がたくさんあり、それらをもっともっ知りたいと思うに至ったのです。そして映画を見た2日後に再度飯田橋ギンレイホールに足を運び、もう一度「ウッドストック」をメモをとりながら見たのでした(けっこうハマってます)。そして村田くんからは個別の出演アーティストについて、いろいろ教えを乞うたのです。

彼「お前は何に感動したわけ?」
私「よく分からないけど、なんかすごいパワーだよね。あれだけの人が集まってさ、愛と平和をテーマに音楽の祭典が開催されたわけでしょ。見てよかったなと本当に思うよ」
彼「ふーん。実はあの映画の重要な意義は別のところにあるんだけど、まぁいいか(おそらくウッドストックは巨大音楽ビジネスのはじまりであるという重要な意義があると言いたかったのだろうと今は思います)。アーティストとしては誰が気に入ったわけ?」
私「うーん、気に入ったと言うよりもアルバムで聞いてみたいという気になるアーティストがけっこういるよね。ジェファーソン・エアプレインでしょ、テン・イヤーズ・アフター、アーロ・ガスリー、それと君のおススメ、ジョン・セバスチャンあたりかな。彼らの何のアルバムを聴けばいいのか教えてよ」

当時、音楽雑誌と言えばミーハーな「ミュージック・ライフ」と「音楽専科」が2大誌(まだ「ロッキング・オン」は創刊前でした)で、それらの雑誌で情報が手に入るアーティストはごくごく人気のメジャーアーティストに偏っていました。彼はもっぱらミーハー路線ではない唯一の雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン、以下NMM)」誌愛読者で、オーナー編集長の中村とうよう氏に甚く傾倒していました。「ミュージック・ライフ」や「音楽専科」がグラフ・ページを中心とした視覚的なつくりで、いかにも女子中高生が喜びそうな雑誌であったのに対して、NMM誌はサイズも小さくとにかく読み物中心。情報量はけっこうなものでしたが中学生には退屈で高度な印象の雑誌でした。

そんな“高度な雑誌”をつかまえて彼は、「最近のNMMは程度が落ちたよ」と言いながら、もっぱら創刊時期のバックナンバーを持ち歩いていていました。今思うと中村とうよう氏の受け売り的な発言もあったりして、彼の情報源はこの辺りにあったのかもしれませんが、それにしてもマイナー・アーティストに関する彼の知識たるやけっこうな驚きレベルでした。例えばアーロ・ガスリーに関してなら「ボブ・ディランの師匠ウディ・ガスリーの息子で、少年時代の彼にハーモニカを教えたのはディランだぜ」みたいなエピソードを、たくさん持ち合わせていたのです。

そんな彼が教えてくれた、ウッドストック出演アーティストのおススメレコードは以下の通りでした。

★ジェファーソン・エアプレイン → 「ボランティアーズ」
★テン・イヤーズ・アフター → 「夜明けのない朝」
★アーロ・ガスリー → 「アリスのレストラン」
★ジョン・セバスチャン → 「タザナ・キッド」(彼は「ターザン・キッド」と言っていました。彼、英語苦手だったから)
★サンタナ → 「サンタナ」(デビュー盤)
★ザ・フー → 「ライブ・アット・リーズ」(私が聞いたことがなかったので、改めてススメてくれました)

これらのアルバムの中から、私が限られた小遣いで買おうと決めたアルバムは、フーの「ライブ・アット・リーズ」とジョン・セバスチャンの「タザナ・キッド」でした。「ライブ・アット・リーズ」はともかく、「タザナ・キッド」は日本未発売で当時の一般的な輸入盤屋さんではあまり見かけないアルバムだったので、村田クンにくっついて何軒か彼が通う“秘密の輸入盤屋”巡りをしたのでした。そんな中で一番すごかったのは、青山の裏通りにあったガラス張りの垢ぬけしたつくりで、雑貨とかと共に特定の時代の古いアーティストのレコードだけを趣味的に扱っているお店でした。

彼はここで、ディランの師であるウディ・ガスリーやピート・シガーのレコードを買い集めていたのでした。確かに他ではお目にかからないレコードばかり。こだわりの店主が家具類やインテリアと一緒に直接買い付けるらしく、その値段が高かったことにも驚きました。1枚4千円代ぐらい。彼は「うわっ、こんなの入っている!」と焦ったり喜んだ入りしながら、“ウンチクオヤジ風情”の店主と私には全く訳の分からない会話を交わしつつ、買い付け交渉をしているようでした(「あ、そう。いいよまた来月行ってくるから。1枚5千円だな」「えっ、もうちょっと安くならないですか?」みたいな)。この店今はないでしょうね、ひとひねりあるおしゃれが特徴だったあの当時の青山を象徴するような店だったのです。

私が求めていた「タザナ・キッド」は、結局彼に連れられて行った西新宿の怪しいレコード屋街(海賊版専門店とか、英国盤専門店とか変な店がいっぱいでした。今も怪しいCD、DVD街として健在です)で無事入手できました(カットアウト盤で800円ぐらいでした。そこの店主とも村田クンは顔なじみで、カットアウト盤を知らなかったた私は、カットアウトはいろいろ混ぜ混ぜで入った“ひと箱”を叩き売り状態で仕入れるという話を聞き驚きました。当時仕入原価は1枚あたり50~100円というのも驚きでした。ただハズレも多く、どうにも売れないものばかりのこともあるとか)。このアルバム、実は今でも大変なフェバリットでして、ここが私のマニアックな音楽趣味の入口であったように思います。
(つづく)


<音楽夜話>“レジェンド”に接したビーチ・ボーイズ来日公演

2010-01-30 | 洋楽
一週間ほど前の話になりますが、マイ・フランチャイズ「ビルボード・ライヴ東京」でビーチ・ボーイズを見て参りました。

05年にフジ・ロック出演はあるものの、単独ライヴとしては18年ぶりの来日であったとか。ストーンズやフーとは全く類いは違うものの、60年代において英国のビートルズと並び評された米国の現役ロック・レジェンドであることは間違いなく、ビートルズの名作「サージェント・ペパーズ…」は彼らのアルバム「ペット・サウンズ」に触発されて産み出されたというのは有名なお話です。そんな彼らもメンバーの脱退や死去により、今やビーチ・ボーイズと呼べるメンバーはわずかに2名。世間には「ウイルソン3兄弟抜きで今さらビーチ・ボーイズでもなかろう」というご指摘があろうことも重々承知の上で、リード・ボーカルのマイク・ラブ健在ならば“見る価値あり!”と参戦を決めた次第です。メンバーはそのマイクと、キーボードのブルース・ジョンストン(この人はソングライターとしても有名で、バリー・マニロウのNo.1ヒットでグラミー賞最優秀楽曲賞受賞の「歌の贈り物」は彼のペンによる名曲です)、あとはバックメンがギター、ベース、ドラム、キーボード、パーカッションという面々でした。

演奏曲は彼らのヒット曲の数々をまんまあの時代のアレンジで聞かせるヒット・パレード状態のライヴで、盛り上がることこの上なし。まぁ、ブライアン・ウイルソン時代の「グッド・バイブレーション」はさらりと流して、ブライアン脱退後放った80年代のNo.1ヒット「ココモ」をラストに持ってくるあたりは、60年代から40年以上にわたり一貫してビーチ・ボーイズとして歩んできた2人のプライドを垣間見た思いでした。何よりも風貌こそすっかりおじいちゃん状態のマイク・ラブでしたが、歌声は間違いなく我々が慣れ親しんだビーチ・ボーイズのそれに相違なく、それだけで「本物」を感じる喜びに浸らせてもらえるライヴでありました。「アイ・ゲット・アラウンド」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「サーフィンUSA」「サーファー・ガール」…、アンコール・ラストの「ファン・ファン・ファン」まで、演奏がどうだとかコーラスがどうだとか、難しいことを一切忘れて理屈抜きで楽しめるステージに超満員の会場は大盛り上がり大会。チケットの価格はけっこう高価ではありましたが、帰りのロビーは「本物」に接して満足顔のオジ&オバで溢れていました。

間もなく69歳になるマイク・ラブと67歳のブルース・ジョンストン。ベテラン・アーティストのステージを見るといつも思うことですが、いつまで現役でステージを務められるのか、また再び日本に来ることはあるのか…。彼らもまたそんな点において何の確約もとれない大ベテランですから、今の彼らをビーチ・ボーイズと認めるか認めないかではなく、ロック創世記の“生き証人”としての生の姿に接することの価値の大きさを実感することにこそ大きな意味のあるライヴであると思うのです。彼らの大ファンである大瀧詠一氏や山下達郎氏が今回の来日ステージを見ていたとすれば、きっと私と同じ思いでいたことでしょう。

次なる“レジェンド”の来日は、3月遂に実現するライヴ・ハウスでのボブ・ディランです。高額なチケット価格に行くか行くまいか迷っている人がいるようでしたら、「迷わず行けよ!」とアントニオ猪木よろしく自信をもって申し上げます。見に来た人たちを必ず満足させてくれる、それが“レジェンド”たちですから。

ユニクロに学ぶ“安心マーケティング”

2010-01-29 | マーケティング
昨日の続き的にいきます。

今日は「安心マーケティング」の「安心」はどうやって作るのかのお話です。その前に、「安売り」に「安心」が生まれないのはなぜかを考えてみます。昨日お話ししたように、「安売りのためのコスト削減の陰で、人員カットや賃金カットで泣いている人がいることを想像させられる」ことも理由のひとつではありますが、単なる「安売り」の“ウリ”は「価格」でしかないため「安売り」が前面に出すぎたビジネスは「価格」以外の“ウリ”が見えにくく、商品にそれ以上の「物語」が付加されずらくなることで、なんとも無機質な売られ方に終始してしまう嫌いがあるのです。そんな流れでは「安い」以外に消費者に訴える「物語」がなく、安いから買いはするものの景気悪さのイメージばかりが残ることで、「不安」心理を増長する結果になってしまうと思うのです。

この不況の時代に一人勝ちの「ユニクロ」はなぜ一人勝ちなのかと言えば、たびたび本ブログでも取り上げていますが、単なる「安売り」ではなくそこには「安い」と同時に、商品に「物語」を持たせることに成功しているからに他なりません。素材の良さであったり、開発へのこだわりであったり、「ユニクロ」の商品には個々の商品に対する“思い入れ”がしっかりした形で根付いてそれが「物語」すなわち「ストーリー性」を生むことで、他の安売り業者とは違う「安心感」を消費者に与え「買いたい」気持ちを醸成しているのではないかと思うのです。私が考える「安心マーケティング」成功のポイントは、商品や売り方に関する「ストーリー性」を持たせることにこそあるのです。

では具体的はどう進めるのかですが、不況の中にもトレンドは必ず存在するわけで、そのトレンドを読み解きながら自社の商品やサービスにいかにそのトレンドにあったストーリー性を付加させて提供していくか、という流れになるのではないでしょうか。例えば、不況下のキーワードのひとつに“巣ごもり”という言葉があります。“巣ごもり”とは、景気が悪いから遠出をしない、外食をしない、という流れを指していますが、これはすなわち家庭回帰であり家で過ごす時間が長くなることに他ならないのです。だとすれば、家にいる時間をより楽しく演出し楽しい家庭生活を想像させるような商品の開発やサービスの提供、あるいは楽しさや明るさをイメージさせるストーリー性ある売り方を演出することが、まさしく「安心感」を感じさせお金を出して「安心」を買おうとするのではないでしょうか。

「ユニクロ型の安売りは景気にとって悪である」とか「安売りでデフレを助長する低価格品の輸入は制限すべき」等の論調が、流通業者や一部メディアで盛り上がりを見せつつあるようですが、はっきり申し上げてそれは誤った判断であると思います。少なくとも「ユニクロ」は単なる価格破壊ビジネスではありませんし、価格に対して価格でしか対抗手段を考えつかない“負け組マーケティング音痴”の結論に過ぎないのです。流通業者をはじめ低価格競争に巻き込まれて頭を痛めているビジネス・パーソンは、今こそストーリー性を演出することで「価格」から脱却した“ウリ”をつくって「安心」を売る工夫をするべき時なのです。個人的には、この流れで低価格競争に終止符が打たれることこそが、景気回復のカギを握っていると思うのです。まずは各経営者が、「ユニクロ型ビジネス」が単なる安売りではないという正しい評価ができるかどうかがカギではありますが…。

デフレ・スパイラルの出口となれ!“安心マーケティング”

2010-01-28 | マーケティング
景気浮揚にからむマーケティングの話をしてみます。

一昨日でしたでしょうか、日本経団連と連合が2010年の春季労使交渉をめぐるトップ会談を都内で開き、労使間の協議が事実上始まったとの報道がありました。不況下の今年、最大の焦点は年齢や勤務年数に応じて自動的に賃金が上がる「定期昇給」(定昇)の扱いのようです。経団連の御手洗冨士夫会長は会談の冒頭で、一部企業が定昇の凍結・延期に踏み込む可能性があることを示唆し組合側をけん制すると、連合の古賀伸明会長は定昇は譲れない一線だと強調するなど、まさに主張が真っ向から衝突をみせる展開となっています。この不況下、どちらの言い分にもそれなりの説得材料はあるようには思います。従業員サイドは「生活最優先」、一方の企業は「企業の存続が大前提」となる訳で、冷静に考えれば「企業の存続」の方が強いのは否めないところです。「生活」を守る大前提の会社がつぶれてしまっては、どうにもならない訳ですから…。

何をおいてもこのような労使間に不協和音が聞こえる最大の理由は、長引く不況に他ならない訳です。ちなみに定期昇給が労使交渉のテーマになるのは6年ぶりのことだそうで、ベアどころではないただならぬ状況下に依然あることは間違いありません。となるとやはり考えなくてはいけない事は、どうしたら景気がよくなるかです。モノの価格が下がるデフレ状況は、どうも高度成長の長期インフレ時代に育った我々世代には、どこか喜ばしい感じもしなくはないのですが、喜んでばかりもいられません。なぜなら、モノの価格を下げるための最大の手段は企業の人件費の削減にある訳で、とりもなおさずデフレ傾向が強くなれば強くなるほど、国民の雇用と賃金は危うくなっていくハズですから。

それではなぜデフレになるかですが、「企業の収益が悪化する」→「給与が減る」→「より安いモノを求める」→「企業がより安いモノを提供する」→「企業の収益が悪化する」→…という循環による訳です。いわゆる「デフレ・スパイラル」ですね。では、これを止めるのにどうすればいいのかですが…。ここでもまた「企業の存続」は「生活安定」の大前提になる訳で、企業はその存続のために価格競争からなかなか逃げられないが優先します。となると、デフレを止めるのは「より安いモノを求める」を止めることに求めざるを得ません。そうは言っても景気が悪い中、なるべく財布から出ていくモノを抑えたいのは当たり前の心理であって、「みんなで景気浮揚のために安いモノを買うのを止めよう」と言ったところで、土台無理なお話。ではどうすればいいのでしょう。

「なぜ景気が悪いと安いモノを求めるのか」ですが、これは言い換えると「なぜ景気が悪いと財布から出るモノを少なくしたいのか」です。「入りが減るから」は当然あるものの、「財布から出るモノを減らしたい」大きな理由は、「不安だから」に違いないと思います。「多くの出費をすること」は「不安」です。逆に景気が良くなると人がお金をたくさん使うようになるのは、「不安」が少なくなるからに違いないのです。つまり、景気の浮き沈みが与えている最大の心理効果は「不安」と「安心」の入れ替え効果なのだと言えると思います。

さて私が何を言いたいかですが、不況下マーケティングのキーワードは実は「安心」ではないかということなのです。景気の良い時に皆があまり真剣に取り合わなかった「エコ」も、ハイブリッド・カーやエコ・ポイントに先導されて大きく浸透している理由には、実は「エコ」が持っている「安心」のイメージにもあると思うのです。他のブーム商品にもその傾向はみられます。昨年のヒット商品番付上位に出ていた「LED」も「フリー」も、やっぱり「安心」のくくりでいけるように思います。昨年末に流行のトレンド・キーワードを「軽くて明るい」だと言っていた私ですが、ここにきてそれはもっと明確な一言「安心」であると考えるに至りました。

「安心」を売るビジネスはこの不況下でもきっとうまくいくと思います。なぜならば世間の誰もが、この長引く不況下の「不安」な状態から、お金を出してでも早く「安心」に転換したいと潜在的に思っているはずですから。この積み重ねが世の中に溢れるなら、景気は少しずつ上向いてくると思うのです。企業の皆さん、価格を下げることばかりを考えるのではなくぜひ「安心」を売る工夫をしてください。安いモノが巷にあふれるのは、その陰で何人の人たちが泣いているのかと思うとかえって「不安」を掻き立てます。多くの企業が「安心」を売ることでそれがビジネスの起爆剤となり、また同時に景気浮揚の切り札となることを期待して止みません。弊社も「安心」を売るよう努力いたします。

ビジネス・パーソンの大敵!ストレスと喫煙

2010-01-26 | その他あれこれ
先週末に小学校時代の同級生の訃報が届いて驚いています。あまりにも早い死ですが、死因は大腸癌であったとか。本人は新聞記者をしていたので、ストレスも人一倍あったのに違いありません。タバコも吸っていたのかもしれません(勝手な想像ですが、新聞記者のイメージってやはりくわえタバコで原稿を書くって感じですよね)。身近な訃報に接する機会が増え、健康の大切さ、ありがたさを身をもって実感する年齢になりました。

癌の大きな原因とされているのがストレス。そしてそのストレスに加えて、癌細胞を生み出す手助けをしているのが喫煙であるということが医学的に証明されてもいます。ストレスと喫煙で思い浮かぶのは会社経営者=社長の皆さんです(私の周りにはなぜか、ヘビースモーカーの社長さんがたくさんいます)。社長のストレスは並ではありません。社長はたいてい「俺と同じ気持ちで会社を考えてくれるヤツが社内にひとりもいない」と嘆かれるものですが、そんなことは当たり前のこと。誰も好き好んでストレスの世界に飛び込もうとは思わないわけで、たいていの幹部社員はたとえ№2であろうとも「最終的な責任は社長にあるんだから・・・」と、心に逃げ場を持っているわけです。

でも社長には逃げ場がない。業績が悪化すれば他の社員は「この業績でボーナスは出るんだろうか?給与は下がらないのだろうか?」と基本的には自分の心配をすればすむことですが、社長はそうはいきません。「会社は大丈夫か?万一のことがあったら社員とその家族は大変なことになってしまう」。会社が危なくなったら、社員はたとえ幹部であっても場合によっては“次”を探せば済む話ですが、社長が“次”を探して逃げ出すわけにはいかないのです。景気がなかなか本格的に立ち直りを見せない今の時期、ストレスのない社長さんはごくごくまれなのではないでしょうか。だとすれば、ストレスが人一倍多い社長さんがタバコを吸えば、いっそう“発ガン・リスク”が高まるのは間違いありません。この機会に禁煙をするに越したことはないのです。でも、なかなかうまくいかないのが現実ですよね。

先日、以前仕事でおつきあいのあった中小企業の社長さんと会食する機会があり、「禁煙」に関して興味深い話を聞いたので紹介します。
社長「大関さん、以前あなたから禁煙のススメをうかがったよね。時間と金と健康の無駄遣いであるとね。実は私ね、2ヶ月ほど前にタバコやめましたよ。大関さんのススメが効いたわけばかりじゃないんですがね」
私「あんなにタバコはやめないとおっしゃっていたじゃないですか?どうしてまた」
社長「いやなにね、外の会合に顔を出す機会が多いのだけれど、業種を問わずタバコをやめている社長が多くてね」
私「社長さんは、“人は人、自分は自分”とおっしゃってましたよね」
社長「もちろん、その考えは今も変わらないよ。皆が止めているから止めたのではなくて、問題はその理由なんだよ」
私「理由って、タバコの値上と不景気での懐具合ですか?」
社長「不況や値上が理由でタバコを止めなくちぁいかんような社長はそうはいないだろうよ。実はね、ある社長がこんなことを言っていてね・・・」

社長「景気が悪いとストレスがたまる、ストレスがたまるとタバコも増える、ストレスとタバコが増えれば加速度的に癌になる確率が高くなるって医者に言われたらしいんだ」
私「なるほど、健康管理重視ってことですか?」
社長「いやそんな単純な話じゃない。その社長が言うには、不況下の大切な時期に健康リスクを増やすような社長は経営者として失格だってことなんだ。これにはグサッときたね。確かに自分のリスク管理もできない者が会社のリスク管理をできるかって言われれば、グウの音も出ないからね。それに社長は会社(株主)や取引先だけじゃなくて社員の生活にも責任を負っているわけだよ。それを自分の健康面を省みないというのは無責任極まりない訳さ。まさにこのご時世だからこその決心なわけですよ」
私「経営者として素晴らしいご決意ですね」
社長「最近タバコをやめた他の社長方も、「今自分が健康を害したら会社が大変なことになる」という同じような理由の人が多いので驚いたよ」

なるほど、納得のお話です。不況のこの時期に、会社(株主)、取引先はもとより社員に対して経営者としての責任を負うがゆえの「禁煙の誓い」。経営者として立派な心がけであると思います。ちなみに件の社長、禁煙の理由を全社員に話をしたところ、社長の高感度がアップし社内の結束も一段と固まって業績は急上昇だとか。組織は所詮、人が作るものですから、社長のちょっとした社員への気持ちが伝わるだけで全然社内の風景も変わるわけです。これができるのも社長だからであって、そこがストレスを負ってでも取り組む社長の“重責”の面白みでもあるわけです。

同級生の訃報から、こんなエピソードを思い出した次第です。
我々世代のビジネス・パーソンの健康維持に、ストレスと喫煙は大敵です。

旧友のご冥福を心よりお祈り申しあげます。

昭和49年村田クンの教え 5~映画「ウッドストック」で知ったロック創世記の風景

2010-01-24 | その他あれこれ
ザ・フーにはまった私に村田クンが出した次なるキーワードは、「ウッドストック」でした。

私「ウッドストック?またイギリスのバンド?その名前の由来って、スヌーピーのマンガ?」
彼「バカ、ウッドストックも知らねーで、よくロックファンとか言ってるよ」
私「???」
彼「ウッドストックはな、ラブ&ピースの象徴として若者を共感させた69年の一大ロックイベントだよ。その様子は映画になっていて“動くフー”が見れるんだぜ」
私「へぇ~」
彼「もちろんフーだけじゃなくて、映画「ウッドストック」はスゴい記録映画なんだ。これを見ないでロックは語れねぇな」
と言いながら、彼が休み時間にクラスメイトの「ぴあ」を取り上げて調べたらたまたま1館だけ近々の上映予定がありました。飯田橋ギンレイホール。うーん、なんとも怪しい名前。しかも「バングラディシュのコンサート」との2本立て。彼によれば「バングラはどうでもいいけど、ディランがでるシーンだけは必見だな」とのこと。当時はバングラも知らなければ、ディランってそんなにいいの?って状態でしたから、まぁこの辺りは聞き流し状態。翌週5時限で終了の日に、授業が終わると「“動くザ・フー”を見に」一目散にギンレイホールへ向かいました。

「ウッドストック」は、当時からさかのぼること5年前の69年に3昼夜かけて40万人の若者を集め、米NY州郊外で開催された当時史上最大と言われたロックイベントで、ザ・フーの他にもジミ・ヘンドリクス、ジェファーソン・エアプレイン、サンタナ、テン・イヤーズ・アフター、ジャニス・ジョプリン…等々、錚々たるメンバーが出演者として名を連ねた、まさしく伝説のイベントです。もちろん当時の私はそんなことを知る由もなく、見に行く前には「サンタナとかジミヘンは聞いたことあるけど、フー以外の出演者は小モノだなぁ」などと発言して、村田クンからバカ呼ばわりされてもいました。

彼「フーのカッコ良さはもちろんだけど、この映画は日本じゃ絶対見れない知る人ぞ知る大御所のライブが満載だからとにかくしっかり見てこいよな。見どころはな、いきなりギター一本で大観衆を圧倒するリッチー・ヘブンス、ジョー・コッカーのビートルズ・ナンバーの独自解釈もスゲーぞ。カントリー・ジョー・マクドナルドにウディ・ガスリーの息子のアーロ。イッちゃってるスライ&ファミリーストーンに驚異の早弾きギター、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リー。サンタナも今みたいなコマーシャリズムに乗る前で、ものすごい演奏を聞かせてる。俺のイチオシはな、元ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン。いずれにしろものすごいパワーに溢れた映画だから心して見て来いよ!」
そんなこんなで、いろいろ言われて覚えきれない情報を頭に入れつつ映画館に向かった訳です。

ギンレイは封切館で場末の映画館風情ながら、その日の客の入りはまずまず。長髪・丸メガネみたいないかにもの当時のロック兄ちゃんロック姉ちゃんもいたりして、映画の途中でごひいきのアーティストが画面に出るたびに場内から拍手が起こるいう、一種異様なムードが漂っていました。映画は一本目がいきなり「ウッドストック」でした。初めて見るアーティストたちが続々登場して、どれもこれも画面一杯のものすごい迫力で迫ってきます。お目当てのザ・フーは意外に早い登場で夜の闇の中での「シー・ミー・フィール・ミー」。拍手をしようか迷っていると、近くの兄ちゃんが割れんばかりの大拍手。私もこれに便乗して遠慮がちに拍手を。他にも2、3人が続いてくれて「なるほどそれなりに“通”がいる訳だ」と納得でした。初めて見る動くフーには大感激でした。ピートの飛び跳ねや風車カッティングのスローモーションに、思わず「スゲー…」と漏らして放心状態。心の中で「これからずっとフーのファンで行くぞ!」と誓ったのでした。

他に印象に残ったのは、ジェファーソン・エアプレインのグレース・スリック姉さんの存在感あるボーカル、アルヴィン・リーの早弾き、それと村田クンのイチオシ、ジョン・セバスチャンの心あたたまる風貌と歌でした。なにしろ、この映画3時間以上の長尺モノで、しかもエネルギー消費の激しいロック・コンサートですから、終わった頃にはグッタリ。その後の「バングラディシュのコンサート」は、何となくぼーっとスクリーンを追っかけていました。ただハッキリ記憶をしているのは、ウッドストックよりもバングラの方が明らかに映画館内は盛り上がっていたという事。元ビートルズのジョージ・ハリスン主催で、クラプトン、ディランという当時の日本でも名の知れたビッグ・ネームが登場する映画ですから、当時の日本ではやむを得ないですね。ただ私はその段階で、やっぱりビートルズ人気に全く頼らずウッドストックにあれだけの人が集まった69年時点でのロック・パワーこそ、日本にはない新たなうねりであると感激したのでした。

映画館を出たのは夜の9時半を回ってました。「こんな遅くなって怒られちゃうなぁ」と中学3年生の私は思いつつも、頭の中はウッドストックへの想いで一杯。まだまだ消化不良の状態ではありましたが、村田クンの指導の下またも新たな一歩を踏み出した気がしたのでした。
(つづく)


経営のトリセツ79~管理者教育以前に必要な3つの「意識」

2010-01-22 | 経営
中小企業のあらゆる課題解決に欠かせないのが、管理者育成の問題。日本国内さまざまな中小企業がありますが、私が知る限り管理者育成がうまくいっているケースはほとんどないと言っていいと思っています。

管理者育成のセミナーやノウハウ本はいつの世でもけっこうな人気なのですが、一般的なセミナーやノウハウ本ではその効果は一過性に終わってしまい、なかなか身につかないのが実情なのではないでしょうか。ではその原因はどこにあるのでしょう。これは私が個人的に持論としてる部分でもあるのですが、原因の一端は管理者としての教育以前に必要な意識づけがないまたは十分でないまま、管理者としてのテクニックやノウハウを身につけさせようとしていることにあるということではないかと思うのです。

ではその意識づけはいかにおこなえばいいのかですが、その前にまずは「管理者意識」とは何であるのかを考えさえ意識させなくてはいけません。「管理者意識」とは何であるのかを具体的に説明せずに、「管理者意識が足りない!もっと自覚しろ」といくら言ったところで無駄な話なのですから。私が考える「管理者意識」の基本要素は次の3つです。
①経営意識
②業績管理意識
③部下育成意識

まず「経営意識」、これが実はすべての根源なのですが、管理者でありながら担当者の側に立ってモノを考え発言しているケースなどは全く「経営意識」が希薄であると言わなくてはいけません。中小企業では最低限経営者の考えを理解ししっかりと「経営」の立場でモノを考え、部下に対して話ができなくてはいけないのです。もちろんそのためには必要な知識(いわゆる「3C=競合環境・自社・顧客」など)を得ることが大前提になることは言うまでもありません。

次に「業績管理意識」。中小企業の場合、大企業と違って自分が十分に役割を果たしていなくともとって代わる者がなく、目標達成に向かってその進捗をしっかり追いかけたり目標達成に向けた経営からの指示事項を忠実に遂行すると言う意識が希薄になっているケースが見られます。まさしく「業績管理意識」が希薄になっている訳です。このようなケースでは、まず管理者の管理スパンに応じて「目標」を与え、それを達成できない場合は賞与や年俸に大きく影響が出るかのような管理を強化して「業績管理意識」をしっかりと持たせる必要があるのです。

三番目の「部下育成意識」。中小企業管理者は部下を自身が部下よりも仕事面で優れていることを上にアピールする道具に使ったり、ひどいケースになると部下と実績争いを平気でしたり、「部下育成意識」とは程遠いケースも散見されます管理者に部下育成意識」を醸成するには、まずは部下を育成することの目的を明確に知らしめることが必要です。すなわち、組織としての発展のためには部下育成による人材のレベルアップが不可欠であること、部下が育つことによって自身の管理自体も楽になり管理者自身はより付加価値の高い業務に特化できることで会社への貢献度が高まること、等々をまず管理者に十分に理解させることが重要なのです。

最後に3つの「意識」を身につけさせるために重要なことを付け加えます。それは、「管理者意識」をしっかりと身につけさせるためには、3つの意識を十分に説明をし理解させた上で、それを一過性で終わらせないよう継続的に「管理者意識」を意識させるような反復プログラムを導入することが必要であるということです。この「管理者意識」が管理者の心に二度と離れない状態で根付いてはじめて、一般的な管理者セミナーやノウハウ本が役に立つ訳なのです。

古い協会体質一掃に向け、貴乃花一派を支持します!

2010-01-20 | ニュース雑感
貴乃花親方の相撲協会理事選出馬を受けて、貴乃花を支持する6親方が二所ノ関一門から破門されるという事件が話題になっています。

事の発端ですが…
2年に1度の相撲協会の外部理事を除く10人の理事を決める理事選は、親方であれば誰でも立候補できます。しかし実際は師弟関係を軸にした「派閥」に当たる五つの一門ごとに理事数が割り振られ、事前の調整により無投票で決まることが慣例となってきました。貴乃花親方が所属する二所ノ関一門には近年3人の理事枠が割り振られていたものの、貴乃花親方の出馬表明によって一門の立候補予定者は放駒(元大関・魁傑)、二所ノ関(元関脇・金剛)、鳴戸(元横綱・隆の里)の各親方と合わせて4人になってしまい、3人に絞り込みをめぐって紛糾。結局貴乃花親方が一歩も引かぬ構えを見せたために、本来の無選挙談合理事選が選挙必至の展開になってしまったのでした。

事態は昨日急展開。二所一門は対応会議を開いて、このままでは共倒れもありうる3候補からやむなく鳴門親方の出馬辞退を決め、その“落とし前”として“貴派”6人に対し「一門の総意に従わないのはおかしい」という意見から挙手による“強制退去”を強行採決。「出ていけ」大多数で6親方の一門離脱が決まったのでした。退去を命ぜられた音羽山親方は「彼らは『破門』という言葉は使いたくないようだった」と内幕を明かし、「破門されたと思っていいか?」の問いには「そうとらえてもらって構いません」と答えるなど、事実上の“破門”によるケンカ別れとなってしまったことは明白です。6親方から報告を受けた貴乃花は、「事実上の破門と聞いた。とてもさみしい気持ち」と複雑な心境を語りつつも自らの決断については「揺らぎはない」と決意を新たにしています。

こうして流れを見てきて分かることは、毎度と言うかやはりと言うか相撲界の組織運営の古さや硬直さばかりが目につくことです。協会の指導者たる人物を選ぶ理事選を、今時一門ごとの割当人数による“談合選挙”に頼っている点、“改革者”の登場に対しても説得によりなんとか旧来のやり方堅持に固執し兎に角従来方式を盲目的に良しとしている点、さらには改革者を支持する者を“裏切り者”として有無を言わせぬやり方で実質“破門”にし見せしめとしている点、既得権を地位の高いものから順に吸い上げるヤクザの世界か、はたまた江戸時代封建制度下の「村八分」を思わせる管理手法であります。

なんといっても問題の根源は、理事長を筆頭とする旧勢力の親方連中がなぜ貴乃花親方がしきたりを犯してまで立候補を表明したのか、その理由を今一度考えるということを全くもってしていないことにあります。貴乃花親方は強い協会改革意志を持ち、「体罰問題」「薬物汚染」「力士の品格問題」等で早急な改革を必要としている相撲界を若い力で変えなければと立ち上がったわけですから、貴乃花を支持する旧二子山部屋の兄弟弟子である“一門破門”6親方以外の親方たちも、指導者の立場にある以上自分たちの業界の課題に解決に対してもっと真剣に考えなくてはいけないはずなのです。組織の近代化が全く進まないまま国際化等の新たな流れが様々な問題を引き起こしていると言うのに、これを省みない今の相撲界幹部たちは本当に情けない限りです。これがもし営利企業であるなら、幹部社員が上の顔色うかがいと盲目的旧習踏襲ばかりの体たらく状態では、近い将来倒産の憂き目に会うことは確実です。

貴乃花親方を支持する大嶽親方(元関脇貴闘力)も昨日の“破門処分”を受けて、「勝っても負けても“一石”を投じればいい。5年、10年後に相撲界が『良かった』という話にしたい」と「協会改革」にむけた熱い想いを語っています。いまだ候補絞り込みが難航する立浪一門の影響もあり現在理事戦候補者は11人。もちろん候補者が10人になれば無選挙で貴乃花当選の目も出ては来るものの、できれば11人での選挙をおこない派閥を越え貴乃花一派の“改革意識”に共鳴する浮動票の取り込みにより貴乃花が当選することこそ、今の相撲協会改革にもっとも必要な“一石”ではないかと思っています。そのためにも貴乃花親方には、もっと力強い「改革アピール」を展開して欲しいと思います。彼の相撲一筋の想いの表れである「改革意識」を個人的には応援していますが、現状ではそのまじめな性格であるが故の遠慮がちな物言いが少しばかり物足りない感じで歯がゆいのも事実です。マスメディアの「相撲協会改革進めるべし!」的スタンスでの、“貴乃花一派”全面支援に期待しています。

小林繁さんの訃報に思う「江川事件」と「小沢疑惑」“三十年一日”のコンプラ意識

2010-01-18 | ニュース雑感
元巨人、阪神のエースだった小林繁さんが亡くなられました。享年57歳。あまりに若い死です。

小林さんは我々世代には忘れられない野球選手の一人です。そう、あの「江川事件」の“犠牲者”として、身代りで阪神へトレードされ不屈の精神で古巣を見返した“根性の人”でありました。前年度ドラフト会議での交渉権が消滅する“空白の一日”を使った、巨人のあまりにえげつない江川獲得劇。そしてその年の交渉権を持つ阪神との裏交渉による、江川-小林電撃トレード。小林さんは一躍“悲劇のヒーロー”として注目を集めることになりました。

時は1979年。今から31年も前のお話です。その当時も、「巨人のやり方は許せん!」「トレードで決着を了解した阪神も結局同罪?」「『強い要望』を口にするコミッショナーは巨人の手先か?」等々、国民的な大事件に発展したと記憶しています。しかしながら、まだまだ昭和の時代の出来事であり、結局は小林さんのプロとしての潔い移籍受諾会見によって、巨人の“独善”は世論のブーイングを押し切る形での決着となり、事は終息したのでした。

実はこの事件をさかのぼることさらに31年。日本では同じような事が起きていました。「別所事件」がそれです。1948年に当時南海のエースだった別所毅彦選手は、球団の処遇を不満としてオフに巨人と密約し勝手に移籍を画策(今ではあり得ないですが…)。南海球団からの連盟提訴により問題化したものの、結局は巨人への罰金と別所選手の出場停止処分で移籍を認めてしまったと言う事件です。この当時はまだ野球協約もない時代で、ある意味無法状態とも言える状況下であったのかもしれません。しかしながら江川事件の当時には野球協約もちゃんと存在していました。それでありながら、阪神も巨人の暴挙を受け入れ、コミッショナーまでもが黙認した。一体なぜなのでしょう。

当時の事件収束のポイントは、紳士協定の下設けられた「空白の一日」を犯す行為をどう受け止めるかであったと思います。当時の世間の判断の根底には、「巨人が悪いのは明らかだが「空白の一日」という抜けを作った連盟にも責任はある」という了解が存在し、小林さんのさわやかな会見がきれいに幕をひくことで問題が収束したと理解しています。これが今ならどうでしょう?コンプライアンスとは、単に法令に違反するかしないかを問うのみではなくモラルや姿勢まで含めてコンプライアンスと理解し対応すべきである、という解釈が広くビジネス界に定着し、当時の巨人、阪神、コミッショナーの判断は完全に世論から排除されるであろうと思われるのです。

なぜ、こんな話をしたかですが…。
私は小林繁さんの訃報を聞き「江川事件」を思い出し、この時の巨人の対応は今の民主党小沢幹事長の対応と同じであるなと思ったのです。すなわち、今の常識的コンプライアンスをまったく解さない独善的対応は昭和の判断基準そのものであり、田中角栄首相の時代には強引に押しきれたかもしれない問題も(現実には田中角栄氏は逮捕された訳ですが)、平成も22年を数える今の世間の常識では到底通用しないのだということです。昨日の読売新聞の緊急世論調査では、世の70%を越える人たちが「小沢氏は辞任すべき」と回答しているのが何よりの証でもあります。

小林繁さんの訃報は我々世代には本当にショックなことでありますが、この時期に突然亡くなられたと言うことにそのような暗示があるように思えてならないのです。小沢氏は当時の巨人そのものであり、逮捕された元秘書3人は球団の指示に従うしかなかった“犠牲者”の小林さんなのかもしれません(小林さんが仕方なく悪いことをしたという意ではありません)。「別所事件」から31年後の「江川事件」、そしてそれからさらに31年後の「小沢疑惑」。60年以上も我が国のコンプライアンスの常識が変わらないままでいいはずがないのです。世間のコンプライアンスに関する受け止め方は、「昭和」の時代とは大きく異なっていることを小沢氏も民主党ももっと自覚をするべきである、小林さんの訃報はそう強く訴えかけているように思えてなりません。

小林繁さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

昭和49年村田クンの教え 4~“無名”のロックバンドThe Whoとの出合い

2010-01-17 | その他あれこれ
ある日村田クンは私にこう言いました。
「俺が一番すごいと思っているバンドを聞かせてやるよ」。彼は一枚のLPを彼のSONY特製の布製LP袋(これは超レア限定品だそうで、彼の持ちモノでも特に自慢の一品でした)から取り出しました。

彼「ザ・フーだ。知ってるか?これはな「フーズ・ネクスト」って言う彼らのものすげーアルバムだぜ」
私「へぇ~有名なのこいつら?音楽雑誌なんかじゃ見ないよね」
彼「音楽雑誌って、お前が読んでるのはおネーちゃん向けの「ミュージック・ライフ」あたりだろ。そんな低俗な雑誌には出てねーよ。ツェッペリンあたりを最強ロックバンドと崇めているおネーちゃん達には分からなねだろーからな」
私「へぇ~、ツェッペリン以上ってこと?」
彼「ツェッペリンなんてフーに比べたら至って普通だな。パープルなんぞは全然クソだって分かるよ。最近お前がスゲーとか言ってる、クィーンとか言うのとは比較にならないレベルだろうな」

「フーズ・ネクスト」という「フーの次作」という人を喰ったタイトルと、荒野に立ったコンクリート柱にメンバーが立ちションをした後というジャケ写真にいかにも村田クンらしいひねくれ者の理屈っぽい感性を感じながら、きっと難解な音楽に違いないとやや不安な気持ちのまま借りて帰ったのでした。家に帰って、例によって小さな傷も絶対つけちゃいけないという緊張感をもってレコードをターンテーブルへ。たまたま間違えてB面を乗せてしまったのですが、余計なリスクを回避する意味でそのままレコード盤に針を落として聞きました。聞くのは1回きりですから、集中に集中して聞いてぶっ飛びました。「なんとメロディアスでシンプルでカッコいいんだろう!」。特に印象に残ったのはギターとドラム。とにかくカッコいい。B面の4曲にまずぶっ飛んでから聞くA面もスゴイこと。思わず、レコードを傷つけるかもしれないリスクを犯して、両面2回づつ聞いてしまいました。すごい!村田クンのおススメ「やるじゃねーか!」と甚く感心したのでした。

彼からレコードを借りられるのは常に1日だけと決まっていたので、翌日レコードを返しながら私は「すっごい気に入ったよ!ねぇそれ俺に売ってよ。明日から中間試験だからしばらく買いに行けないしさ」とお願いしてみました。すると彼は「ふざんけんなよ、これはなー英国初回盤で米盤や日本盤とは空の色が全然違うんだぜ。こいつはもう入手できないからダメ。しょうがねーなぁ、俺がお茶の水でセコハン探してきてやるよ」と言って試験勉強など全然する気のない彼は、明日から試験だと言うのに「ちょうど本屋に行く用があるから」とお茶の水で中古米国盤を調達してきてくれたのでした。記憶では確か1100円だったような。次に彼は、私がフーを予想以上に気に入ったことに気を良くして、何日かして「これは売ってやれるから、黙ってこれを聞け」と、その当時の最新作「オッズ&ソッズ」の米盤を次なるフーの“課題”と称して私に売りつけました(恐らく売ってもいいか売りたい理由があったんだと思いますが…)。

「オッズ&ソッズ」は当時では珍しい過去のアウト・テイクス企画で、「こういう発想がセンス抜群だろ?」とまず絶賛。かつマニアックに「このアルバムで最重要は、「ピュア&イージー」と「ネイキッド・アイズ」だ。「ピュア&イージー」はお前が気に入った「フーズ・ネクスト」からあぶれた曲だし、「ネイキッド・アイズ」はステージでは超有名なんだけど、これまでなぜかレコード化されていないんだ。こんな良い曲が埋もれていたってスゲーだろ?いゃー懐が深いよな奴らは…」とまぁ、続々いろいろなフーにまつわる“村田的”エピソードを聞かせてくれた訳です。フーの存在を教えてもらったことを機に、この後私の彼のあらゆる発言に対する信頼感がグッと増すことになったのは間違いありません。

こうしてザ・フーにすっかりはまってしまった私。日本で全く人気のなかったこの74年当時から(70年代にフーを一番好きなバンドとしていた音楽ファンは、恐らく日本に1000人いなかったでしょう)、長らくザ・フーの伝道師として多くの知り合い達にフーの素晴らしさを伝え、少しは日本のフー人気向上に役立ったかと思います。そして待つこと30余年、遂に実現した日本公演。04年猛暑の横浜「ロック・オデッセイ」で「無法の世界」の雄たけびを生ロジャーと分かち合えた感動、08年清志郎も燃えた悲願の武道館単独ライブでの身も震える感涙は、まさしく村田クンのおかげである訳なのです。“ロックの殿堂”日本武道館で、私は「マイ・ジェネレーション」の轟音の中で感動に震えながら、ふと30数年前のフーとの出会いを思い出し「ありがとう村田クン。君も来てるかい?」とつぶやいて会場内を見渡しました。
(つづく)