村田クンのすすめで映画「ウッドストック」を見た私は、ポピュラー音楽の懐の深さを思い知らされ、日本で売れていないもの、知られていないものにも素晴らしい音楽がたくさんあり、それらをもっともっ知りたいと思うに至ったのです。そして映画を見た2日後に再度飯田橋ギンレイホールに足を運び、もう一度「ウッドストック」をメモをとりながら見たのでした(けっこうハマってます)。そして村田くんからは個別の出演アーティストについて、いろいろ教えを乞うたのです。
彼「お前は何に感動したわけ?」
私「よく分からないけど、なんかすごいパワーだよね。あれだけの人が集まってさ、愛と平和をテーマに音楽の祭典が開催されたわけでしょ。見てよかったなと本当に思うよ」
彼「ふーん。実はあの映画の重要な意義は別のところにあるんだけど、まぁいいか(おそらくウッドストックは巨大音楽ビジネスのはじまりであるという重要な意義があると言いたかったのだろうと今は思います)。アーティストとしては誰が気に入ったわけ?」
私「うーん、気に入ったと言うよりもアルバムで聞いてみたいという気になるアーティストがけっこういるよね。ジェファーソン・エアプレインでしょ、テン・イヤーズ・アフター、アーロ・ガスリー、それと君のおススメ、ジョン・セバスチャンあたりかな。彼らの何のアルバムを聴けばいいのか教えてよ」
当時、音楽雑誌と言えばミーハーな「ミュージック・ライフ」と「音楽専科」が2大誌(まだ「ロッキング・オン」は創刊前でした)で、それらの雑誌で情報が手に入るアーティストはごくごく人気のメジャーアーティストに偏っていました。彼はもっぱらミーハー路線ではない唯一の雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン、以下NMM)」誌愛読者で、オーナー編集長の中村とうよう氏に甚く傾倒していました。「ミュージック・ライフ」や「音楽専科」がグラフ・ページを中心とした視覚的なつくりで、いかにも女子中高生が喜びそうな雑誌であったのに対して、NMM誌はサイズも小さくとにかく読み物中心。情報量はけっこうなものでしたが中学生には退屈で高度な印象の雑誌でした。
そんな“高度な雑誌”をつかまえて彼は、「最近のNMMは程度が落ちたよ」と言いながら、もっぱら創刊時期のバックナンバーを持ち歩いていていました。今思うと中村とうよう氏の受け売り的な発言もあったりして、彼の情報源はこの辺りにあったのかもしれませんが、それにしてもマイナー・アーティストに関する彼の知識たるやけっこうな驚きレベルでした。例えばアーロ・ガスリーに関してなら「ボブ・ディランの師匠ウディ・ガスリーの息子で、少年時代の彼にハーモニカを教えたのはディランだぜ」みたいなエピソードを、たくさん持ち合わせていたのです。
そんな彼が教えてくれた、ウッドストック出演アーティストのおススメレコードは以下の通りでした。
★ジェファーソン・エアプレイン → 「ボランティアーズ」
★テン・イヤーズ・アフター → 「夜明けのない朝」
★アーロ・ガスリー → 「アリスのレストラン」
★ジョン・セバスチャン → 「タザナ・キッド」(彼は「ターザン・キッド」と言っていました。彼、英語苦手だったから)
★サンタナ → 「サンタナ」(デビュー盤)
★ザ・フー → 「ライブ・アット・リーズ」(私が聞いたことがなかったので、改めてススメてくれました)
これらのアルバムの中から、私が限られた小遣いで買おうと決めたアルバムは、フーの「ライブ・アット・リーズ」とジョン・セバスチャンの「タザナ・キッド」でした。「ライブ・アット・リーズ」はともかく、「タザナ・キッド」は日本未発売で当時の一般的な輸入盤屋さんではあまり見かけないアルバムだったので、村田クンにくっついて何軒か彼が通う“秘密の輸入盤屋”巡りをしたのでした。そんな中で一番すごかったのは、青山の裏通りにあったガラス張りの垢ぬけしたつくりで、雑貨とかと共に特定の時代の古いアーティストのレコードだけを趣味的に扱っているお店でした。
彼はここで、ディランの師であるウディ・ガスリーやピート・シガーのレコードを買い集めていたのでした。確かに他ではお目にかからないレコードばかり。こだわりの店主が家具類やインテリアと一緒に直接買い付けるらしく、その値段が高かったことにも驚きました。1枚4千円代ぐらい。彼は「うわっ、こんなの入っている!」と焦ったり喜んだ入りしながら、“ウンチクオヤジ風情”の店主と私には全く訳の分からない会話を交わしつつ、買い付け交渉をしているようでした(「あ、そう。いいよまた来月行ってくるから。1枚5千円だな」「えっ、もうちょっと安くならないですか?」みたいな)。この店今はないでしょうね、ひとひねりあるおしゃれが特徴だったあの当時の青山を象徴するような店だったのです。
私が求めていた「タザナ・キッド」は、結局彼に連れられて行った西新宿の怪しいレコード屋街(海賊版専門店とか、英国盤専門店とか変な店がいっぱいでした。今も怪しいCD、DVD街として健在です)で無事入手できました(カットアウト盤で800円ぐらいでした。そこの店主とも村田クンは顔なじみで、カットアウト盤を知らなかったた私は、カットアウトはいろいろ混ぜ混ぜで入った“ひと箱”を叩き売り状態で仕入れるという話を聞き驚きました。当時仕入原価は1枚あたり50~100円というのも驚きでした。ただハズレも多く、どうにも売れないものばかりのこともあるとか)。このアルバム、実は今でも大変なフェバリットでして、ここが私のマニアックな音楽趣味の入口であったように思います。
(つづく)
彼「お前は何に感動したわけ?」
私「よく分からないけど、なんかすごいパワーだよね。あれだけの人が集まってさ、愛と平和をテーマに音楽の祭典が開催されたわけでしょ。見てよかったなと本当に思うよ」
彼「ふーん。実はあの映画の重要な意義は別のところにあるんだけど、まぁいいか(おそらくウッドストックは巨大音楽ビジネスのはじまりであるという重要な意義があると言いたかったのだろうと今は思います)。アーティストとしては誰が気に入ったわけ?」
私「うーん、気に入ったと言うよりもアルバムで聞いてみたいという気になるアーティストがけっこういるよね。ジェファーソン・エアプレインでしょ、テン・イヤーズ・アフター、アーロ・ガスリー、それと君のおススメ、ジョン・セバスチャンあたりかな。彼らの何のアルバムを聴けばいいのか教えてよ」
当時、音楽雑誌と言えばミーハーな「ミュージック・ライフ」と「音楽専科」が2大誌(まだ「ロッキング・オン」は創刊前でした)で、それらの雑誌で情報が手に入るアーティストはごくごく人気のメジャーアーティストに偏っていました。彼はもっぱらミーハー路線ではない唯一の雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン、以下NMM)」誌愛読者で、オーナー編集長の中村とうよう氏に甚く傾倒していました。「ミュージック・ライフ」や「音楽専科」がグラフ・ページを中心とした視覚的なつくりで、いかにも女子中高生が喜びそうな雑誌であったのに対して、NMM誌はサイズも小さくとにかく読み物中心。情報量はけっこうなものでしたが中学生には退屈で高度な印象の雑誌でした。
そんな“高度な雑誌”をつかまえて彼は、「最近のNMMは程度が落ちたよ」と言いながら、もっぱら創刊時期のバックナンバーを持ち歩いていていました。今思うと中村とうよう氏の受け売り的な発言もあったりして、彼の情報源はこの辺りにあったのかもしれませんが、それにしてもマイナー・アーティストに関する彼の知識たるやけっこうな驚きレベルでした。例えばアーロ・ガスリーに関してなら「ボブ・ディランの師匠ウディ・ガスリーの息子で、少年時代の彼にハーモニカを教えたのはディランだぜ」みたいなエピソードを、たくさん持ち合わせていたのです。
そんな彼が教えてくれた、ウッドストック出演アーティストのおススメレコードは以下の通りでした。
★ジェファーソン・エアプレイン → 「ボランティアーズ」
★テン・イヤーズ・アフター → 「夜明けのない朝」
★アーロ・ガスリー → 「アリスのレストラン」
★ジョン・セバスチャン → 「タザナ・キッド」(彼は「ターザン・キッド」と言っていました。彼、英語苦手だったから)
★サンタナ → 「サンタナ」(デビュー盤)
★ザ・フー → 「ライブ・アット・リーズ」(私が聞いたことがなかったので、改めてススメてくれました)
これらのアルバムの中から、私が限られた小遣いで買おうと決めたアルバムは、フーの「ライブ・アット・リーズ」とジョン・セバスチャンの「タザナ・キッド」でした。「ライブ・アット・リーズ」はともかく、「タザナ・キッド」は日本未発売で当時の一般的な輸入盤屋さんではあまり見かけないアルバムだったので、村田クンにくっついて何軒か彼が通う“秘密の輸入盤屋”巡りをしたのでした。そんな中で一番すごかったのは、青山の裏通りにあったガラス張りの垢ぬけしたつくりで、雑貨とかと共に特定の時代の古いアーティストのレコードだけを趣味的に扱っているお店でした。
彼はここで、ディランの師であるウディ・ガスリーやピート・シガーのレコードを買い集めていたのでした。確かに他ではお目にかからないレコードばかり。こだわりの店主が家具類やインテリアと一緒に直接買い付けるらしく、その値段が高かったことにも驚きました。1枚4千円代ぐらい。彼は「うわっ、こんなの入っている!」と焦ったり喜んだ入りしながら、“ウンチクオヤジ風情”の店主と私には全く訳の分からない会話を交わしつつ、買い付け交渉をしているようでした(「あ、そう。いいよまた来月行ってくるから。1枚5千円だな」「えっ、もうちょっと安くならないですか?」みたいな)。この店今はないでしょうね、ひとひねりあるおしゃれが特徴だったあの当時の青山を象徴するような店だったのです。
私が求めていた「タザナ・キッド」は、結局彼に連れられて行った西新宿の怪しいレコード屋街(海賊版専門店とか、英国盤専門店とか変な店がいっぱいでした。今も怪しいCD、DVD街として健在です)で無事入手できました(カットアウト盤で800円ぐらいでした。そこの店主とも村田クンは顔なじみで、カットアウト盤を知らなかったた私は、カットアウトはいろいろ混ぜ混ぜで入った“ひと箱”を叩き売り状態で仕入れるという話を聞き驚きました。当時仕入原価は1枚あたり50~100円というのも驚きでした。ただハズレも多く、どうにも売れないものばかりのこともあるとか)。このアルバム、実は今でも大変なフェバリットでして、ここが私のマニアックな音楽趣味の入口であったように思います。
(つづく)