日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№51~53 ~ 100枚選び折返点通過調整

2008-11-30 | 洋楽
「70年代の100枚」も早50枚を数え、折り返しにさしかかりました。ここで、3月のスタート時に保留していたアルバムの中から2枚を追加選出し、さらに1枚を加えます。

音楽雑誌のプロの評論家の方々が「後追い評価」と「個人的趣味」で「名盤」や「ベスト100」を選んでばかりいる中で、とにかく時代をリアルタイムに体感した者のみが知りうる本当に時代を代表する100枚を選んでみたいと始めたこの企画です。選択基準を「全米TOP40的見地から」と一応は決めてはみたものの、1000枚は裕に超すであろう候補作品から100枚の当落を決めるには明確な線引きがあるわけではなく、やってみるとこれはこれでけっこう悩ましい選択でもあります。それと個人的趣味の排除という“自己縛り”ルールが逆に邪魔をして、本来選出しておかしくないものを外ずしてきた部分もあるようにも感じます。そこで、まずそんな中から2枚を追加選出しておきます。


№51  「メイン・ストリートのならず者/ローリング・ストーンズ」

作品紹介は、http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/d/20080119 ご参照です。
ストーンズのこのアルバムは、個人的に大好きであります。シングルヒットこそ「ダイスをころがせ」の全米第5位が最高とやや地味な印象なのですが、アルバム自体は全米№1を記録する大ヒット作です。キースのリード・ボーカル「ハッピー」も入っていて、もっともストーンズらしくかつもっとも70年代らしい、そんなアルバムであると思えます。「スティッキー・フィンガーズ」と並んで、間違いなく“全米TOP40的”見地から100枚に入る1枚であると改めて思った次第です。ちなみに、現在公開中の映画「シャイン・ザ・ライト」のタイトルは、このアルバム収録曲名です。


№52  「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー/ロッド・スチュワート」

作品紹介は、http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/d/20070922 ご参照。
ロッド・ステュワートは、マーキュリー時代とアメリカに渡ってからのワーナー時代、どちらの作品を選ぶか難しいと言う理由で、保留となっていました。結論!両方から1枚ずつ選びます。と言う訳で、マーキュリー時代からはもちろん全米№1ヒット「マギー・メイ」を含むアルバム「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー」(全米第1位)です。ロッドの英国トラディショナル路線の最高傑作でもあります。


№53  「ナイト・オン・ザ・タウン/ロッド・スチュワート」

さてワーナー移籍後の1枚ですが、個人的趣味で言えば断然移籍第一弾の「アトランティク・クロッシング」なのですが、「全米TOP40的見地から」考えると全米7週連続№1シングル「今夜きめよう」収録の次作品「ナイト・オン・ザ・タウン」(全米第2位)になるのではないかと思います。作品的には前作同様トム・ダウドのプロデュースにより、南部的要素を漂わせたスワンプ風味の味付けが典型的イギリス人のロッドに不思議とマッチしたアルバムとなっています。

A面をスローハーフとしてバラードを中心に、B面をファーストハーフとしてアップテンポ中心にまとめています。特にA面を中心としたバラードの出来は出色です。A1「今夜きめよう」A4「キリング・オブ・ジョージー」B4「トレード・ウインド」あたりの作品水準の高さは、まさに彼のひとつのピークを示すものでもあると言えます。また、彼の場合オリジナルの楽曲に加えて、カバーの選曲と解釈がいつも実に見事なのですが、このアルバム収録のキャット・スティーブンスのA2「さびしき丘」などは、全キャリア中でも指折りのカバーと言えそうです。

ちなみに、大ヒットナンバー「今夜きめよう」のラストに入っている悩ましげな女性の囁きは、当時の彼女で元ボンドガールのブロンド美女、ブリット・エクランドです。その後多額の慰謝料をふんだくられて別れたそうですが、“慰謝料後”リリースの一部ベスト盤では版権の関係でしょうか“囁き”部分がカットされていたりして、痛々しい限りです。ジャケット・デザイン(写真)はルノワールのオマージュ(パロディ?)です。

※ロッドの来日が決まったそうです。
3月 9日 大阪城ホール
3月11日 日本武道館
3月14日 さいたまスーパーアリーナ
13年ぶりの来日で、オールキャリアのベストヒットライブになるそうです。

どちらかというと、準備中と伝え聞くロン・ウッドをギターに従えてのフェイセズ再結成コンサートを見たいっすねぇ。74年の武道館、最高でしたから。

ジャパンカップGⅠ(前日予想)

2008-11-29 | 競馬
明日は競馬の国際的祭典ジャパンカップGⅠです。

このところ日本馬が圧倒的に強く、今年は外国馬の参加も減って4頭、なおかつ1頭出走取り消したようでわずか3頭という寂しい状況です。

狙いは今年も日本馬中心。軸は⑮アサクサキングス。その後の好走例が多いダービー2着馬で、3歳秋に菊花賞を制しています。2400以上がこの馬のベスト。先行するとしぶといので、先行有利な東京2400ではおもしろい存在です。鞍上ルメール(過去にこのレースで、ハーツクライを2着させています)というのもプラスでしょう。④ウォッカは前走激走の、②メイショウは海外遠征の、それぞれ疲労残りが心配です。

3歳の2頭ですが、①オウケンブルースリは現状ここでの力関係がどうか、⑨ディープスカイはダービーを勝ってはいるものの距離がベストではない感じがします。どちらか1頭残すなら、オウケンは距離OKで東京得意のジャングルポケット産駒ですから、こっちでしょうか。

グランプリ馬⑬マツリダゴッホは、言われるように右利き、特に中山専用と言う感じ。さすがのペリエも③トーセンキャプテンでは掲示板がやっとでしょう。大穴なら、名手デームーロが彼の腕で上り馬⑯スクリーンヒーローをどこまでもってくるか…。

外国馬は分かりませんが、あえて挙げるなら、矢作調教師が好きな父ガリレオの2頭。日本の固い馬場向きと言う感じで、実績から⑪シックスティーズアイコン上位でしょうか。

と言う訳で、⑮から相手は絞れば④-⑮、②-⑮、①-⑮の3点。ワイドです。

⑮アサクサキングスは、ここでダメでも有馬記念で再度狙いたい馬です。今回は負けて人気を落としてくれてもいいですが…。と言う訳でやや弱気に遊びます。

政治もビジネスも「氏より育ち」?

2008-11-28 | その他あれこれ
「氏より育ち」という諺があります。人間生まれた家柄よりも育った過程がその人を決定づけることになるから大切ですよ、という例えですが、最近の麻生首相の相次ぐ「失言」→「謝罪」の一件は、まさに「育ち」に難ありを感じさせるものです。

吉田茂を祖父に持つ名家の出でありながらの、品位のかけらも感じさせないあの物言いは、明らかに「育ち」の問題であると思うのです。一部には「お坊ちゃんの非常識」と見る向きもあるようですが、私は名家コンプレックスによる捻じ曲がった「育ち方」のなせる業であると考えています。東大卒が当たり前の家系にあって、“肩身の狭い”学習院大卒(学習院大学がどうこうではなく、あくまで比較対照の問題です)。長年にわたる一族内での揶揄(やゆ)は想像に難くないところです。

その中で形成された彼なりの“逃げ道(心理学で言う「逃避行動」です)”が、「べらんめぇ口調」「漫画大好き」「オタクの味方」…。本当は当人も決して喜ばしくないのに、敢えて名門エリート路線を逸脱するイメージを演出し正当化し続けてきたのでしょう。このような“コンプレックス型逃避スタイル”が名家では無縁なはずの彼の「育ち」を決定づけ、結果今のような失言を連発させる下地を作ったのだと思うのです。

今日の主題は、麻生首相の話ではなくて「育ち」の問題です。政治も含めビジネスの世界においては「社会人としての育ち」というものが必ずあって、それは如何ともし難いが故に、よくよく注意をしなくてはいけないのです。個人的にはこの「社会人としての育ち」という問題は、だいたい30代半ばまでで決定されてしまうと思っています。

それまでどのような業界でどのような仕事をして、どのような失敗をしたか、どのような苦労をしたか、どのようなコンプレックスを抱いてきたか・・・、自分が育った業界特性とりわけマイナス面での精神的ダメージがその人物の「社会人としての育ち」を決定付けていると思うのです。業界の違いは大きいです。もちろん組織の大小も。業界と企業サイズのによって、マイナス経験の種類や程度も決定的に違うはずですから。

かく言う私、銀行で社会人としての産湯につかり、中間に外飯を食う機会をもらいながらもそのまま22年間そこで育ったわけで、「銀行員らしくない」と言われながらも、やはり身についている基本スペックは「銀行員」のそれでしかないわけです。良いにつけ悪いにつけです。それは銀行をという組織を抜けてみてはじめて、他の様々な業界の方々と接する中で、自分の“銀行育ちぶり”を痛切に感じるところでもあります(意外に出過ぎず堅いこと言っていたり、場面によって意外に調子がよかったり、時には意外に慇懃であったり・・・、です)。

独立をする場合、新たな事業を始める場合、別の業界とのコラボを検討する場合、等には新たにつきあう相手の「社会人としての育ち」には要注意です。自己や自社の常識や過去の経験ではありえない対応に面食らう場面は多々あるのですから。私も独立した直後に何度か、「社会人としての育ち」の違いでこちらから見れば「裏切り」ととれる仕打ちに会い痛い目を見たことがありました。相手に悪意がある訳ではないとは思いますが、“銀行育ち”の私の常識ではあり得ない裏切り的展開や結論。ビジネス立ち上げ早々だったので、まだなんとかなったという感じの大打撃も経験しています。

繰り返しますが、ビジネスで痛い目や落胆に遭遇しないために、特に中小零細同士で手を組む際には行動する前に相手の「育ち」を知り注意して接すること、これが本当に大切であると実感しています。特に私は仕事柄、様々な「育ち」の方々と仕事をしておりますので、気をつけていても面喰らう場面が多く余計にそう思うのかもしれません。

麻生首相の失言問題から「氏より育ち」の諺を連想させられ、ビジネスにおける「社会人としての育ち」の大切さを再認識させてもらった次第です。

経営のトリセツ46 ~ 「隠された窓」を開けて、“社長の見える化”を

2008-11-27 | 経営
人の心には「4つの窓」があると言われています。心理学で言うところの「ジョハリの窓」のお話です。

心理学者のジョセフ・ルフトとハリー・インガムの二人が、対人関係の“気づき”をマトリクスで表しモデル化したのが、二人の名前をとった「ジョハリの窓」です。

図を見てください。「ジョハリの窓」と言われる「4つの窓」とは、①自分も他人も知っている窓→「開放された窓」、②自分は知っているが他人は知らない窓→「隠された窓」、③自分は知らないが他人は知っている窓→「盲目の窓」、④自分も他人も知らない窓→「未知の窓」、の4つのことです。先に解答的に申し上げれば、基本的に4つの中で「開放された窓」が大きければ大きいほど、人間関係が円滑になると結論づけられています。要するに、自分の“見える化”が進めば進むほど、人間関係に関しては好ましい結果がついてくると言う訳です。

では、①「開放された窓」を大きくするにはどうするかです。これを意図的に大きくするのは、ただただ何でもかんでも年がら年中話し続ければいい、ってものでもない訳です。限界もありますしね。そうです、①「開放された窓」を大きくするには、他を小さくすることでそれが可能になるのです。でも図をご覧いただければお分かりのように、④は“誰も知らない”「未知の窓」ですから、これを誰かが意図的に大きくしたり小さくしたりすることは基本的に不可能です。ですから、②「隠された窓」と③「盲目の窓」を小さくすればするほど、①「開放された窓」は自然と大きくなるのです。

一方、「盲目の窓」は自分が知らない自分です。そうなると、自分の努力でまず小さくできるのは「隠された窓」ということになりますよね。これが大きなカギなのです。「隠された窓」は、「自分は知っているが他人は知らない窓」ですから、これを小さくするということは、「他人の知らない自分を少なくすること」なのです。すなわち、自分のこと、自分の考え、自分の意見、自分の希望、自分の不満、自分の怒り、自分の悲しみ、自分の喜び、自分の悩み…、出来るだけ多くの「自分」を他人に対して開示して、自分のことをもっともっと他人に知ってもらうことに他ならないのです。

これこそが、他人に対する自分の“見える化”なのです。これが進むと次にどうなるかですが、相手が自分のことをより一層理解してくれるようになるので、今度は自分の気がついていない自分の長所や欠点を教えてくれるようになるのです。すなわち、自分からはなかなかできない「盲目の窓」を小さくしてくれることになるのです。そうです、「隠された窓」と「盲目の窓」が小さくなり、結果として「解放された窓」が大きくなり、人間関係がどんどん円滑になる訳です。

“言うべき”を言うことは本当に大切です。よくあるのは、「言ってもしょうがない」「言うと余計やっかいなことになるから」という「言い訳」を盾にした「沈黙」という“逃げ”が「壁」を作っているケースです。とにかく「言うべきは言う」を守ることです。最悪なのは、自分の代わりに誰かに自身の思いを言わせることです。これは自分に加えて代わりに言わせられた人までも、「隠された窓」が大きくなってしまうのですから。

なぜ「ジョハリの窓」の話をしたのかですが、先日紹介した「開成調教師」矢作芳人さんがなぜ“職人気質”のベテランをたばねる厩舎経営において、EQの高い運営できているのか、その「カギ」がまさに「開放された窓」の大きさにあったと知ったからです。彼はとにかく何をするのでも、必ず全員に自身の考えとその明確な理由説明を欠かさないそうです。そして常に、決意も喜びも怒りも悩みも含め、厩務員一人ひとりといろいろな話をするそうです。自分については、スタッフが知らないことがないぐらだとか。それが部下たちとの壁をなくし、何でも相談でき何でも意見をぶつけ合える上司と部下の関係ができるのです。高いEQで厩舎の連帯感とやる気を生んだ調教師界の風雲児は、自身の「隠れた窓」を極限まで小さくすることで誕生したのでした。

「調教師は中小企業経営者」と彼が言うように、経営者もいかに自身の「隠された窓」を小さくし「開放された窓」を大きくするか、経営者としての成功のカギは同じところにあるのです。「社長の本音が見えない」「社長が何を考えているのか分からない」「社長には相談しにくい」、そう思われたら中小企業社内コミュニケーションの円滑化は望めません。社長個人の「隠された窓」をいかに小さくするか→社員に対して公私とも「隠し事」をしない。これが基本なのです。まずは、実践あるのみです。

→「ジョハリの窓」テスト、コメント欄にURL掲載しました。

※「開成調教師」読みました。誰にでも簡単にできる有効な経営手法にあふれていますので、改めて取り上げます。

<NEWS雑感>国は2兆円バラマキよりオウム被害者医療費補償を

2008-11-26 | ニュース雑感
96年から続いたオウム真理教の破産手続きが事実上終結し、被害者の方々はなんとか40%の配当を勝ち取りました。しかし、地下鉄サリン事件の被害に遭い、現在も寝たきりの生活を送る浅川幸子さん(45)の兄、浅川一雄さん(49)は、「4割の配当はありがたいが、これで妹が回復するわけではなく、今後の生活への不安は大きい」と話すなど、被害者にとっての事件は、決して終わりを迎える訳ではありません。

国の補償はどうなっているのか?事件の被害を6段階に分け「介護を要する後遺障害」に最高3000万円、その他の被害にも、10万~2000万円の給付金を支払うという法案が、ようやく来月18日に施行される見通しになりました。なぜ、もっと早く、後遺症に苦しむ方々の国としての救済ができなかったのか。いささか疑問であります。

しかも最高3000万円という上限金額付です。亡くなった方への補償金額という意味合いはともかくとして、現在も入院加療を強いられている、何の罪もない被害者の方々とその家族の苦悩と不安を思うとき、医療費ぐらいなぜ全額国の負担にできないのか、です。もちろん憎むべきは、オウム真理教に違いありませんが、それを宗教団体として認めていた国の責任もゼロではありません。そして何より、一種の国家テロ事件の被害者であり、医療費を全額国の負担として誰が文句を言うでしょうか。

いつ我々が先の浅川さんご一家と同じような、理不尽極まりない事件の被害者にならないとも限らないのです。「景気対策」と称して、効果が薄いとされる“人気取り”目的の2兆円バラマキ政策を実施するぐらいなら、こういうケースにこそ“埋蔵金”を使うことが、国民的見地から見た有効策と言えるのでなはいのでしょうか。

米ビッグスリーの失態に学ぶ、「トップの常識は非常識」に要注意!

2008-11-25 | 経営
米国ではシティ・グループへの巨額公的資金注入が決断され、相場はこれを好感して一息ついた感がありますが、現在残された大問題は、自動車ビッグスリー、GM、フォード、クライスラーへの公的資金注入を実施するか否か。12月上旬の議会決議に向けて喧々諤々議論がなされています。

もちろんビッグスリーへの公的資金注入が決定されるか否かは、今後の世界経済の行方を大きく左右する問題であり、この問題自体が大きく注目すべきことではありますが、本題とは別のもうひとつの視点で、この一件に大きな関心を持ちました。それは、先週の米議会でのビッグスリー各社トップを呼んでの上院議会の公聴会でのこと。公的資金注入に値する再建に向けた企業努力がなされているかどうかを問う場において、民主党議員が発した辛辣かつ的を得た質問が示唆した内容にありました。

「ここまで自家用ジェットでなく民間機で乗り付けてきた経営者の方は挙手願います」
「書記、ゼロと記録してください」
「3人の中で、自家用ジェット機を売って帰りは民間機で帰られる方は挙手願います」
「書記、ゼロと記録してください。以上で質問を終わります」

なんとも衝撃的な事実を、見事な演出で暴露した質問でありました。当然問題は、経営上困窮し公的資金の注入を懇願しているビッグスリー首脳が、その一方で一般庶民には考えられない“無駄遣い”を平気でしているというその一点につきます。まさに、常識外の行動に他なりません。しかも揃いも揃って3社ともですから、米国の企業経営者の常識、モラル、倫理たるや、どうなってしまっているのでしょう状態です。

これはまさしく「庶民感覚の欠如」による常識逸脱行為に他なりません。地位が上がり、生活水準が庶民レベルからかけ離れてくると、こういうことは得てして起きやすいものです。まして自動車という庶民が使う乗り物を売る企業のトップが、庶民レベルで誰もが分かる「お願いする立場の者がとるべき態度」を全く忘れてしまっているのです。3人が揃って同じ行動をとった、ということに問題発生の必然性を感じずにはいられません。すなわち、「特権階級」「上流階級」にある者は、知らず知らず庶民感覚の常識を失い、一般的に見て「非常識」な判断や行動を平気でとってしまうようになるのです。今回のビッグスリー経営者に見る“非常識”確率100%は恐ろしい事実です。

日本の経営層の方々も気をつけてください。もちろんレベル感は異なりますが、問題は企業の大小を問いません。中小は中小なりにどこの企業でも、社長を筆頭とする組織内の「特権階級」「上流階級」が存在します。自分の“常識行動”が部下の「反感」を買うケースの大半は、そんな「特権階級」「上流階級」ならではの“非常識行動”である場合がほとんどなのです(官僚の非常識が庶民の反感を買うもの同様ですね)。

さて先の米国ビッグスリーの自家用ジェットの一件。完全に米国民の神経を逆なでしたようで、公的資金注入なるかどうか、問題の行方は予断を許さない状況のようです。「初心忘れるべからず」「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」日本には良い諺がありますから、企業内「特権階級」「上流階級」皆さんはアメリカ人経営者方のまねなどしませんよう、くれぐれもお気をつけ願います。

<音楽夜話> “殿堂”武道館を揺るがした伝説のバンドThe Who

2008-11-23 | 洋楽
伝説のロックバンドThe Who(ザ・フー)が来日し、国内初の単独公演を展開しました。

私も何とかかんとか、19日の日本武道館での最終公演に馳せ参じることができました。アリーナは開演前から異様な熱気に包まれ、“ロックの殿堂”はヒーローの登場とともに興奮の坩堝と化しました。次々繰り出される代表曲の数々からほとばしるすさまじきロックスピリットは、商品化された「70年代ロックパッケージ商品」などでは決してなく、40年間変わらぬ「本物のロック魂」を伝える素晴らしいものでした。

綿密なブランド管理の下に展開される近年のローリング・ストーンズのロック・ショーも確かにすばらしく、それは還暦を越えたロッカーのあり方と彼らの功績を後世に伝える理想形を提示をしているかのようにも思えます。一方、彼らと同世代の生き残りであるザ・フーのステージには、計算された美学は存在せず、ビジネス感覚を超えた70年代の「魂」、まさに時空を超えたロック・スピリットの提示がそこにあったのです。いまだにデビュー曲をオープニングに配して観客を魅了するその力強さは、何者も寄せ付けない「世界最強の現役ロッカー」の姿そのものでした。

キース・ムーン、ジョン・エントウィッスルというオリジナルメンバーの半数を、不慮の死によって失いながら、いまだに変わらぬ音楽を発信し続けるまさに“カリスマ”の二人、ピート・タウンゼント(G)とロジャー・ダルトリー(Vo)。そしてそのカリスマを迎えるは、ロックファンにとって特別な“ハコ”である日本武道館。その武道館で、ザ・フーの二人を目の前に70年代スピリットに身を任せる日が来ようとは、74年以来の“フー・ファン”を自認する私にとって、まさに至福のひと時でありました。

04年サマーフェス「ロックオデッセイ」横浜で見た初の“生ザ・フー”は確かに感動でしたが、炎天下の屋外という環境に加えてサマーフェス用ショートバージョン・ライブでしたから、武道館でフルサイズのライブを体験できた今回とは比べ物になりません。それと、野外公演で感じる刺激はどちらか言えば視覚中心。その意味では本物の「音」の素晴らしさを体感するのは、今回が初めてであったと言っていいと思います。

「アイ・キャント・エキスプレイン」「ババ・オライリィ」「ビハインド・ブルー・アイズ」「無法の時」「マイ・ジェネレーション」「ピンボール・ウイザード」等々、曲目は毎度おなじみの定番曲のオンパレード。これまた70年代ロックの王道をいく彼らならではです。そしてその卓越した演奏力から繰り出される独自のビート感。例えオリジナル・メンバーは半減しようとも、70年代に死ぬほど聞いた6曲入りの名作LP「ライブ・アット・リーズ」で受けた衝撃と、同じパワーがこの日の武道館にあったのでした。

ピート63歳、ロジャー64歳。普通ならそろそろ年金生活者の年代です。その彼らが、我々アラフィフ(アラフォーの一昔前世代ね)オヤジを2時間立ちっぱなしにさせるパワーには、本当に脱帽です。私はたくさんの元気と勇気をもらうことができました。

今回のツアーで04年と違う演出は、アンコールの最後にピートのアコギ一本とロジャーのボーカルだけのアンプラグド状態で演奏される「Tea&Theater」。2年前の06年にリリースされた24年ぶりの新作のラストを飾っていた曲です。実に意味深な歌詞で、彼らのこれまでを比喩的に語り、残った2人で「そろそろお茶でも飲みながら、昔話でもどうだ」と言っているようにも受け取れます。「アルバム制作はもうしない。ツアーもそろそろ幕引き時か…」、どこかそんな雰囲気を感じさせるラストでした。

「老いぼれる前に死にたいぜ!」と、彼らは代表曲「マイ・ジェネレーション」でそう歌い、フォロワーたちに絶大な影響を与えました。「老いぼれる」=「スピリットが錆つく」、「死にたい」=「引退」と考えるなら、彼らなりの終演はもうすぐそこなのかもしれません。“錆つく前”の最後に初めての単独公演で日本に来てくれたのだとするなら、それを彼らにふさわしい“殿堂”武道館で体感できたことは、30余年にわたる“フー・ファン”の集大成として、この上なく幸せな体験であったと今はしみじみと感じています。

2ちゃんねるあたりで書かれている「声が出ていなかったとか」「キースとジョンがいない演奏がどうとか」「選曲に工夫が欲しいとか」、そんなことThe Whoには全く関係ないですね。40年間以上にわたって続いている、そのパワーこそが有難く大切なものなんですから。ありがとうピート、ありがとうロジャー。

※「Tea&Theater」
http://jp.youtube.com/watch?v=wKv6RJYNIIo&feature=related

マイルチャンピオンシップGⅠ ~ 応援!開成“アウトロー”調教師

2008-11-22 | 競馬
明日23日は京都競馬場で、マイルチャンピオンシップGⅠが開催されます。秋のマイル(1600メートル戦)王決定戦です。前日予想です。

⑰スーパー・ホーネット。所属厩舎の矢作芳人調教師が最近「開成調教師」なる著作を出しまして巷の話題に。私の同窓1年後輩であると知った次第です。昨年2着ながらGⅠ未勝利、前走毎日王冠であのウォッカを破っての人気と、いかにも飛びそう(人気して来ないってことです)な1番人気なのですが、高校の後輩で官僚たちを大量に製造する進学校の同窓アウトロー同志となれば、応援しない訳にいかないです。

聞けば、豪州に厩舎留学後関西で厩務員を務めながら、なんと13回も調教師試験に落ち、14回目に根性で勝ち取った今のポジションだそうです。JRAだって農水省の外郭で、調教師試験は毎年「引退→空き」の分だけしか合格者を出さず有名騎手は実質フリーパスという、実に官僚的なインチキ試験ですからね。よくがんばったものです。無名調教師ゆえ地味な血統の馬ばかりながら、3年で100勝という驚異的なスピードで勝ち星を伸ばしているとか。CS、ESの高い厩舎運営で、馬主、厩舎スタッフから絶大な支持を得ているそうです。著作はまだ読んでいませんが、企業経営にも役立ちそうな話ですし、近々読んでまた感想をの述べさせていただきます。

⑰スーパーホーネットも、父ロドリゴデトリアーノ、母の父エルセニョールとかなり地味な血統です。鞍上も地味な藤岡佑介で、矢作厩舎初GⅠゲットを目指します。一番人気で藤岡君のプレッシャーが心配ですが…。相手は、①ローレルゲレイロ、②ファイングレイン、⑱エイシンドーバーへ馬連とワイドで。⑯カンパニーは今のベストは1800?③スズカフェニックスは、天皇賞でツキを使い果たし先週落馬の武で嫌いたいです。

前走スワンステークス組は走破時計からもレベルが高いと思います。そこで大穴は、前走勝利④マイネルレーニアの前残り。

経営のトリセツ45 ~4つの「シカク」→「四角」「視覚」「資格」「死角」④

2008-11-20 | 経営
経営のキーワードとなる4つの「シカク」、最後は「死角」です。「死角」とは見えないところのこと。ですから今回は当然「死角」が大事というのではなく、経営者は常に「死角」の存在を意識し注意せよというお話です。

まず基本のお話。プロセスが“見える化”されていないという意味での「死角」、相手の考えが“見える化”されていないあるいは自分の考えが相手に対して十分に“見える化”されていない「死角」、これらは私が常に力説している経営に不可欠な「モノの見える化」と「ヒトの見える化」をしっかりすすめよ、ということにつながります。この辺の詳細は別掲(→http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/d/20080523)を参照願います。

それとは別に今回取り上げたい「死角」は、経営者自身が陥りやすく意外に気がつきにくい自身に対する「死角」の話です。

経営者は「孤独」であるとよく言われます。この「経営者の孤独」にこそ、何より恐るべき「死角」が潜んでいるのです。誰にも悩みを本心で打ち明けることがができないとか、ひとりで悩まざるを得ないとかがよく言われる「経営者の孤独」の理由ですが、これは恐るるに足りない「孤独」です。むしろ周囲の人間誰もが少なからず気を遣って話をし接するので、なかなか本音で指摘をしたり忠告をしたりという姿勢で接してもらえないという「孤独」にこそ経営者の恐るべき「死角」は潜んでいます。

例えば皆が「社長の判断は少し誤ってるね」「あの考えは思い込み。ちょっと違うような気がする」とか、仮に周囲が確実な否定までできない場合や、やや違和感を感じる程度の場合、社長が「こうに違いない!」と言ったことには反論をしにくいものです。そのテーマが大きく経営を左右するようなことであるなら、「社長それは違います」と進言する人間が出るケースもありますが、その時点ではそこまで経営上重要性を感じさせなければ、判断的にはどこか違うように思えても、社長に憎まれたくない、印象悪くしたくない、という考えからそのまま見過ごすケースが多々あるのです。

なぜこの「死角」が恐るべき「死角」であるのか、この「死角」に陥りやすい問題が実は管理者の人事問題、すなわち管理者の処遇に関するケースが多いからなのです。社長の部下に対する評価は、実は他のどの管理者よりも主観的で自分勝手なものなのです。社長は、組織上は各管理者をさらに管理する立場にありますが、管理者が部下を管理するように、その日々の行動を見て逐一管理しているかというと、ほとんどの場合そうではないでしょう。社長は、“社長業”が忙しく、実は管理者の管理(=実態把握)はほとんどできていないのが一般的なのではないでしょうか。

では社長は何を基準に管理者を評価しているかですが、たいていは彼が管理する部門業績の上下、彼に対する社内の評判や噂、自分の先入観的イメージ等々、かなり正確さを欠く情報で評価をしているのです。一番危ないケースは、ひとつの失敗事例等の出来事から「あいつはとんでもない奴だ」「あいつはいつもそうだ」と断じたり、自分が信頼する部下の進言を鵜呑みにして「奴が言うならダメに違いない」「オレも薄々感じていた」と誘導され降格させたり、ひどい場合にはクビを切ったり…。

人の処遇の問題は、人事そのものが経営危機を感じさせるものではないだけに、たとえ間違った判断に思えても、「その人事は違いますよ」という進言は出にくいものです。しかもマイナス処遇ともなれば、それを庇うことで「お前もいらない!」と言われかねませんから、口もつぐみがちになります。自分以外の人事というのものは所詮は「ひとごと」であって、「ひとごと」に余計な口出しをして、トップから憎まれるような真似は誰だってしたくないのです。すなわち、経営者が下す幹部のマイナス人事は、経営者の判断の「死角」がもっとも生まれやすい部分であるのです。

社長が決断する人の処遇、特にマイナスの処遇には、とにかく慎重に慎重を重ねておこなわなくてはいけません。「自分の思い込みや先入観で判断していないか」「自分の人を見る目を過信していないか」「気持ちのどこかで人物の好き嫌いで判断していないか」「誰か信頼している他のスタッフの意見に印象付けされていないか」等々、何度も何度も自問自答しつつ検討し複数のスタッフに意見を求めることが必要です。

トップが幹部社員のマイナス処遇を誤まることは、その場ですぐに経営を揺り動かすものにはなりにくいのですが、それによってその幹部が去ることにもなりそれがボディ・ブローのように徐々に効いてきて、経営を危うくしていく姿をいくつも見てきました。一度失った人材は決して帰ってきません。先日(11月13日当ブログ)のコンサルタント藤本氏の著作のタイトル「部下は取り替えても変わらない」は幹部人事にも言い得ており、経営者の独断で幹部にマイナス処遇をすることへの警鐘でもあります。

なぜなら、幹部社員に不満を感じても、クビをすげかえて良くなるかと言えばそれは疑問だからです。会社には人間と同じく「器」というものがあって、その「器」を超えて上級人材を求めても、結局ははまらず逃げていくでしょう。まずすべきは会社の「器」を大きくすること(単に規模のことではありません)、そしてそれにつれて管理者の「器」を大きくしていくことが、時間はかかるものの実は一番近道だったりするのです。

経営者が幹部社員への不満を口にし降格や解雇を前提としたマイナス処遇を下す前に、そこに潜む経営者自身の「死角」の有無を十分に検証することをおすすめします。

<NEWS雑感>11/18号~警察官と学生の2つの事件は“同根”?

2008-11-18 | ニュース雑感

●警視庁警視を現行犯逮捕 酒酔い運転●

茨城県警は、酒に酔った状態で車を運転したとして道交法違反(酒酔い運転)の現行犯で、警視庁総務部施設課管理官の警察官(50)を逮捕したそうです。警察官が飲酒運転とはとんでもないというばかりか、聞けばこの人、過去に交通安全対策担当課長として飲酒運転防止などを担当して「飲酒運転させない宣言の店」と書かれたステッカーを配布する担当でもあったとか。バカとかアホとかそういう次元の問題ではなく、現状認識とか自己認識が子供程度にしかない、というレベルの問題です。

自身が警察官でしかも「飲酒運転撲滅運動」を担当していたと言う事実、しかも最近は大阪の相次ぐ飲酒ひき逃げ事件が大問題となりマスコミを騒がしている最中であるという状況、その状況下において、酒気帯び運転を適用する基準値の四倍を超える飲酒で、まともに歩ける状況でなかったと言うのですから…。いつも言いますが、本人の問題は懲戒解雇、刑事罰でカタがつくものではあるのですが、組織として人間教育、モラル教育をどう考えているのか、そこが大いに問題な訳です。

ひとりでもこういう人間が出てしまうことは、組織として大きな欠陥が出たと考えなくてはいけません。所属の茨城県警だけの問題ではなく、全国の警察組織の教育の問題であり、もっと言うならばこの根底にあるものは、税金でタクシー帰りを続けても、余剰予算で遊興器具を購入しても、罪の意識を持たない国家官僚の問題と同根の、公務員全体のモラル意識の欠如という日本の大きな欠陥部分の問題であると思うのです。「見つからなければいい」「迷惑をかけなければいい」「法律違反でなければいい」ではない、コンプライアンスに対する正しい理解を非営利団体職員“親方日の丸”の公務員全員がしっかりと身につけるべきであると、改めて思うのです。


●早大生の大麻逮捕者7人に●

バカとかアホとかいう話で言うなら、最近の大学生の大麻汚染の問題は何なのでしょうか。「マリファナは常習性もなくてタバコの強い程度だよ」とか世間一般で正しい認識もなく簡単に言われていた昭和の昔ならまだしも、大麻がどのようにもっと強い麻薬への入り口になるのか、暴力団等反社会的勢力との関係や資金源につながっていくのか、これだけ社会で騒がれ問題視されている今ですから、まともな人間は絶対に手を出してはいけない世界であるはずです。

それを最高学府である大学生が、しかも早稲田、慶応、同志社といった超がつく一流大学の学生たちが、「興味本位で」「ネットで買えるから」「自分で育てられると聞いたから」という軽いノリで、手を染めているのです。これって、突き詰めて考えるとやはり家庭の教育の問題ではないのでしょうか?結局今の親たちは、「良い学校」に入れるための「教育」には熱心なのですが、モラルとか人間としてとかの、それ以前のもっと個々の社会的存在として生きていく上で必要とされる教育が欠落しているのではないか、と思えて仕方がありません。

偏差値の高い有名大学の学生にばかり、このようなモラル欠如の犯罪者が生まれているのには、実は理由があるように思うのです。それは、一流大学と言う周囲から誉めたたえられる栄誉を手に入れたことによる「特権階級」であるという誤った認識が、モラルの欠如を生んでいるのではないかということです。「自分たちは、普通の奴らとはちょっと違う」「俺たちなら少しぐらい許されるだろう」という、誤った「特権階級意識」が少なからず、“モラル欠如型犯罪”の裏側にあると思うのです。

そして実はこの「特権階級意識」問題は、公務員、特に国家公務員、高級官僚のモラル欠如の問題とも同根であると思われるのです。先の警察官の事件とこの大麻事件、どちらも無意識の「特権階級意識」と組織と家庭それぞれの重要部分が欠落した教育が歯止めを外させ引き起こした、同根の事件であると私には思えてなりません。