日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

“ジョブズ後”到来を伝える新iPhoneとわずかに残るソニー逆転の目

2014-09-26 | マーケティング
iPhone6と6plusが出されて一週間、私もようやく実物を手にとって見てまいりました。いろいろなところで書かれているので今更ですが、サイズと操作性の問題、カメラレンズ突出の美観問題、薄さに関連した折れ曲がり問題等々、ジョブズだったらやらなかっただろうと思わせる部分が多く、個人的には現時点では「すぐに欲しい端末ではない」という結論に達しています。

iPhoneに関しては、その内部部品を作っていた会社様をお手伝いしていた関係で、古くからその発展の過程を1ユーザーとして以上に濃い目の情報と共に見てきていただけに、この違和感はなおさらです。実はiPhone5が出た時にも、確かに画面は見やすくなったけど美的にどうなのかという違和感はありました。少なくともiPhoneに関し、美的感覚において違和感を感じたのは5が初めてだったかなと。ジョブズ休職後の初企画です。企画時点では存命ではありましたが、関わり方の違いが形に現れたと私には感じられました。

逆にその前の4が出た時には感動が大きかったので、その反動はなおさらだったのです。4の感動は機能ではなくそのスタイリッシュな外観でした。3GSに比べた薄さと、単に薄くなっただけでないエッヂの立ったソリッドな横顔の美しさも衝撃でした(このソリッドな横顔も、今回捨てられてしまいました)。この外観を嬉しそうにリリースしたジョブズの顔を見た時に、3GSまでのiPod touchと比べボテっとしてややスマートさに欠ける外観を、ジョブズは気に入らなかったのだなと確信しました。

私がお手伝いをしていたiPhone部品メーカーに対して出されていたオーダーも、とにかくスマートにするため、内部も含めて美しくするため、こうしろああしろという無理難題の連続で、毎度社長が頭を抱えていたのを思い出します。アップル社に対して、「要求が高すぎるのでもう少しなんとかならないか」と折衝しようものなら、二言目には「トップ意向なので我々にはなんともできない」「ダメなら降りてもらう」という、まさにジョブズの美的感覚にもとずく理想追求を第一とした製品規格を貫いていたという印象でした。

その意味から言えば、iPhoneの最高傑作は4ではないのかと。ジョブズが直接指揮を執りスタイル、美観を彼の価値感に沿って2010年時点の技術力で追求し続けた結実がそこにあったと言えるでしょう。それに対して5がリリースされた時の違和感は、「画面が大きくなって便利かもしれないけど、美的にどうよ」というものだったと思います。その意味では、今回の6や6plusは言わずもがな、です。

衰えることのないiPhone人気の理由が、登場当初の“元祖”としての技術的驚きがその根底にあることは確かですが、その後の他の追随を許さぬ人気ぶりとブランド力を守ってきているものは、間違いなくジョブズの人並み外れた美的感覚に裏打ちされた製品デザインにあると思っています。なぜなら、後発のスマートフォンが操作性や技術面で見劣りしているかと言えば、決してそうではないからです(他にない機能がiPhoneにあるから、iPhoneを選んだと言う声はほとんど聞かれないのです)。むしろ、金融決済機能(いわゆるお財布携帯)やテレビ受信機能などは日本製が先行していたぐらいですから。

こういった流れの背景にあるのは、スマホの技術的飽和状態による製品の嗜好品化です。製品が嗜好品化すれば、消費者の製品選択軸は価格選好とデザイン選好に二極化し、ジョブズはデザイン軸を制したわけです。

このような流れで考えiPhone人気の大半はジョブズの美的感覚に負っているとの前程の下、いよいよアップルは本当に曲がり角に来たなと、今回のiPhone6と6plusを見て実感しました。iPhoneが他社製品に比べて、小さい画面で来たのにはそれなり理由があったはず。だからこそジョブズは、大きな画面で見たい人用にiPadを用意したのではなかったのでしょうか。

今回の大型化やカメラレンズ突出や折れ曲がりリスクを負ってまでの薄型化には、ジョブズが作り上げた人々をひきつけるマジカルな製品コンセプが消え去っていくのを感じざるを得ないのです。

アップルが曲がり角に来ているなら、高級機分野は他社にも逆転の目はあるかもしれません。デザイン力で圧倒的に劣るサムスンはともかく、ソニーにはわずかな希望の灯が見えたかもしれません。最近話題になっているスマホ事業におけるソニーの大苦戦は、もともとジョブズのマジックに太刀打ちできなかったことに最大の理由があると見ているからです。

今のソニースマホ事業は、デザイン選好の高級機で勝てず、発展途上国向けの価格選好の廉価版スマホではアジア勢力にしてやられるあり様。しかしiPhone6、6plusの登場で、ソニーがデザイン選好の高級機にスマホ事業の全精力をつぎ込んでデザイン開発に特化するなら、“ジョブス後”アップル相手ならば撃破するチャンスが巡ってきたかもしれない、と淡い期待を抱かせます。ソニーは、ジョブズが手本にした技術をベースにデザインでブランドを構築してきた企業です。出井時代に廃止されたあのデザイン会議を復活させ、ジョブズの製品コンセプトを研究し尽くすなら復活の目もあるのではないか。今のソニーでは難しいかもしれませんが、個人的には密かに期待したいところです。

“ジョブズ後”を明確に感じさせるiPhone6と6plusの登場により、嗜好品になりつつあるスマホ分野は、今後どこがデザイン面で優位に立ちブランド力を高め新たな勝ち組に名乗りを上げるのか。スマホ戦争は今後、新たな局面を迎えるのではないかと見ています。

「なでしこジャパン」に国民栄誉賞?

2011-07-26 | マーケティング
「なでしこジャパン」に国民栄誉賞が授与される見通しとか。「現在検討中」と枝野官房長官が会見で話していたようです。毎度思いますが、国民栄誉賞って実に不可解であいまいな賞ですよね。これまでの受賞者は、77年の創設時の第一号王貞治さんはじめ18人。文化人や芸能関係者は没後の授与が大半。一方のスポーツ選手は世界記録、国際大会優勝などを機に現役選手が大半です。でもその受賞者の顔ぶれを見るに、基準があいまいで本当に表彰する意味あるのと言った感じがしてしっくりこないです。

一応創設の福田赳夫内閣時に定められた授与基準は、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」としています。これはあくまで当時のホームラン世界記録を樹立した王選手に何がしかの賞を授与したいがためにこの賞を創設し、王選手への授与理由をそれらしく作文したものにすぎない訳で、至って抽象的な表現でもありあまり大した意味をなしているとは思えません。文化人、芸能人の部類で亡くなった直後に受賞した方々を見ても、渥美清がいて石原裕次郎がいない、長谷川町子がいるのに手塚治虫や赤塚不二夫がいない・・・などなど、選出基準がよく分からないなと思います。

この点はスポーツ選手に至ってはもっと顕著です。言い出すとキリがないので一例だけ上げておくなら、五輪金メダルの柔道の山下泰裕氏が受賞するなら2大会連続2種目金メダルの北島康介くんは実績・国民的盛り上がりから見ても完全受賞水準以上ではないかとも思われる、という基準の不明確さに集約されると言っていいでしょう。要するにその時々の内閣総理大臣の好みが大いに反映される賞であるということに違いない訳で、そのあたりが今回も「内閣の人気取り」と揶揄される所以であるのかもしれません。

それにしても、この賞に価値を感じないのはなぜ?理由は簡単です。そもそも国が表彰する対象に、既に金メダルや世界大会優勝と言う栄誉に輝いた人たちが中途半端に混じっているからです。彼らは改めて表彰するまでもなく、国際大会と言う最高峰の基準で明確に1位として表彰されている人たちです。国民栄誉賞は本来は表彰される機会のない世界記録樹立や記録に残らないけれども功績があったという人を、国の基準に照らして「あんたの記録や活躍はスゴイと国民が認めてますよ」という賞であるべきでしょう。それが、自治体が“おらが村のヒーロー”をたたえるのと同じ“他人基準”での表彰を国が時々しちゃっている訳で、賞の一貫性や存在価値を損なわせてしまうのです。

連続試合出場世界記録という地味な記録を評価された元広島カープ衣笠祥雄氏あたりは最も受賞にふさわしいと思いますし、日本人初の本格的大リーガーとして大旋風を巻き起こしその後の日本人大リーガーたちの活躍の礎を築いた野茂英雄氏あたりこそこの賞を授与すべき人であるのかもしれません。金メダルやワールドカップ優勝を後追いで表彰するなどと言う他人任せの授与基準を白状するような愚行は、かえって賞の価値を下げる以外の何物でもない訳で、文化人や芸能関係の受賞者や記録や功績を認められ受賞したスポーツ選手に対して失礼であるとも思えます。

そうやって考えると、ワールドカップ優勝の「なでしこジャパン」に国民栄誉賞は不要ですね。もう30年以上もやっているのですから、そのあたりのおかしさにはそろそろ気がついてもいいように思います。管内閣が分かってやっているのだとしたら、やはり政権の“人気取り”ということなんでしょうか。効果はほとんどないと思いますが。

「エシカル精神」の浸透が、新しい“復興日本”をつくる

2011-06-30 | マーケティング
ここ2、3年のことですが、「エシカル」という言葉がマーケティング用語的に使用され、消費のキーワードとして注目を集めています。「エシカル」の直接的な意味は「道徳的」とか「倫理的」とかといった言葉になるのですが、もともとはイギリスで道徳的でなかったり倫理的でなかったりする企業の製造物を排除しようという動きが市民運動的に盛り上がって一般にその名を知られるようになりました。具体的には、環境破壊的な材料調達をおこなっているとか、発展途上国の労働力を自己の利益のためのみに使用し発展支援を省みることなく搾取しているとか、そういう活動をしている企業の製品は購買を控えるなどの行動をとる運動がそれです。

このような、ややネガティブ・キャンペーン的な動きから誕生した「エシカル」ですが、英国を出て世界中に伝播していく過程において徐々にポジティブな運動に変貌を遂げてきています。すなわち、発展途上国の過疎の村で昔から生産されている織物を輸入して洋品にアレンジすることでその村の発展に寄与するといったような活動が、昨年あたりからわが国でも徐々に目立ちはじめてきているのです。今年の年初には、いろいろなトレンド情報誌などでも「エシカル」を消費マーケティングのキーワードに上げるような動きも見られていました。

ただこの手の話は「エコ」や「ロハス」の時もそうでしたが、我が国においてはどうも宗教的な背景に乏しい国民性の悲しさなのか、「実利」を実感させるものでないとなかなか本当の意味で根付きにくいというのも否定しがたい事実ではあります。現にCO2削減問題にからめて「エコ」が急激に注目度を高めたここ数年において、ようやく国民にその意識浸透を促したキッカケは、燃費を稼ぐエコカーとその購買を後押しした「エコカー減税」の実施であり、家電における「家電エコポイント」の実施でありました。エコカーこそは燃費メリットがあるが故に今後も「エコ」の牽引車役を務めていくのだとは思いますが、「エコカー減税」「家電エコポイント」の終了後は盛り上がりつつあった「エコ」機運もややさめ気味。“エコキャンペーン”は「エコ」意識を国民に植え付ける上で一定の成果はあったものの、まだまだ「道徳的」「倫理的」を最優先して物事を選択するような国民性の醸成にまでは至らなかったのが実情であると感じています。

そんな流れの中、次世代消費経済のキーワードである「エシカル」が我が国に定着するのかと言えば、昨年までの流れであれば「難しい」としか答えようがなかったでしょう。しかしながら、東日本大震災の発生によって事態は一変しました。私たち日本人の今は、被災地の人々の復興に向けた苦しい日々を新聞やテレビで見るにつけ「なんとか自分も力になれないものか」、そんなことを心から思う人間が本当にたくさん存在していると実感しています。「東北地方の野菜や肉や魚を、より多く消費することで復興の役に立ちたい」「東北地方の企業が作ったものをできるだけ多く使って自社製品を作りたい」、今日本のあちこちで聞かれる声はまさしく「エシカルの精神」なのです。英国的なネガティブな視点で言うなら、「被ばくが疑われる野菜は仕入れない」といった風評を煽るような行動をする企業の商品は排除していく、そんなことも「エシカル」の視点からは重要でしょう。いずれにしましても、震災発生により今こそ我が国でも国民性の根底に「エシカルの精神」が根付くチャンスを迎えていると言えると思うのです。

震災復興を単なる「復元」に終わらせたのでは我が国の発展はありません。「復元」ではなく「新生」こそが求められるものであり、そのためには国民性の部分にも震災を経てこそ成し得たと言える大きな成長が望まれるのです。私はそのキーワードとなりうるのが「エシカルの精神」なのではないかと思っています。政治も行政も、「復興」に対していかなる国民的成長ビジョンを描くのか明確にする必要があると思っています。今自然発生的に国民の間に芽生えている「エシカルの精神」を軸として、対処療法に終わらない復興ビジョンを国民に明示して欲しいと切に願って止みません。

ブレイクを呼ぶ“特徴隠しネーミング戦略”

2011-02-08 | マーケティング
ただ今ビジネスの新展開を考え中です。いろいろ他社のヤリ口を分析していると、最近の消費者心理をうまくつかまえた戦略が見えてきます。

例えばブレイクからかなりたつのに、いまだにデパートの売り場には買い求める行列が絶えない「ねんりん家」のバームクーヘン。スクラップ&ビルドを繰り返しながら、しぼみそうでしぼまない「築地銀だこ」のたこ焼き。品川駅構内で大ブレイクし、行列&売切が続く「八天堂」のクリームパン。意図していたケース、そうでないケースの違いはあるのかもしれませんが、これらに共通するブレイク戦略は何でしょう?それはネーミング。ネーミングと言っても、「銀だこ」はたこ焼き以外に商品名はないし「ねんりん家」も普通にバームクーヘン、「八天堂」だって単に「くりーむぱん」じゃないかと、それぞれご存じの方はお思いになるかもしれません。商品名に「あえて特徴を入れない」ことが共通点ですが、実はそこがポイントなんです。

少し前までのマス・マーケティング戦略では、“ネーミングの妙”と言うモノが非常に注目された時期があったのですが、この流れが主流になってくると今度は逆に商品特性を盛り込んだネーミングをすることで消費者サイドからの期待感が強くなり、ネーミングのマイナス効果が生まれてしまうのです。どういうことか、もう少し分かりやすく説明します。つまり、“特性ネーミング”戦略が市場に登場しはじめた成長期においては、例えば「ゴロゴロ野菜が入ったスープ」というようなネーミングが目新しく感じられ他のスープとの差別化がはかれたわけです。ところが、追随や模倣が増えてこの手のネーミング戦略が成熟期に入ると、今度はネーミングでは消費者の目を引きにくくなるとともにネーミングした特性に対する期待感が高まって、期待にこたえきれない場合はかえってマイナスイメージを植え付けてしまうこともあるのです。スープの例で言えば、初期は目を引いた「ゴロゴロ野菜」が「なるほどホントだね」という反応につながっていったものが、成熟期ではよほど中身が伴っていないと「なんだゴロゴロって言っているけどたしたことないじゃん」という反応さえも生みかねない状況に変化していくのです。

「ねんりん家」の商品の特徴は「しっとりしたバームクーヘン」、「銀だこ」の場合は「表面がカリッとしたたこ焼き」、「八天堂」は「シュークリームのようなクリームパン」というのが、私が食したところでの人気の秘密と言えるそれぞれの商品特性です。これを製品特性ネーミング戦略でいくなら、それぞれ「しっとりバーム」「カリカリたこ焼き」「シュークリームパン」とかになるのではないかと思えますが、彼らは商品名にその特性を一切表示していないのです。これは恐らく綿密に考えた末の戦略であるのか、はたまた単なる偶然か、いずれにしましてもこの余計な手を加えないネーミング戦略が功を奏していることは疑う余地のないところではないかと思っています。

なぜ、余計な手を加えないネーミングがいいのか。味や特徴に自信があるのなら余計なネーミングで消費者の注目を引かなくとも、自然とその特徴や味は伝わるモノなのです。さらに言えば、人間は不思議なもので、ネーミングに特徴が記されていない方が口コミをしたくなる動物なのです。奥様連中の口コミパワーたるやすごいモノがあります。彼女たちはネーミングですでに告知済みの特徴よりも、自分が発見した特徴の方がより人に話したくなるのです。「ねんりん家」のバームクーヘンが「しっとりバームクーヘン」とは名付けられていないから、「ねんりん家のバームクーヘンってしっとりして美味しいわよ」と口コミするのです。もし「しっとり」がネーミングの一部にあったらなら、「名前以上にしっとり」していなければなかなか口コミはしてくれないのです。ブログ、ツイッター、フェイスブックと口コミメディア花盛りの昨今ですから、これはもう絶対にネーミングで特徴を謳わずに自然体で彼女たちの口コミパワーに委ねた方が数段宣伝効果が見込めるのです。

品川駅構内で相変わらずの“八天堂行列”を目の当たりにして、「これが仮に“シュークリームのようなクリームパン”と言って売っていたら、食べた人は『なるほどシュークリームだ』と感じて、ここまで人気にならなかったかも」と改めて思った次第です。

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リアルCDショップを淘汰したもう一方の「雄」

2010-08-26 | マーケティング
音楽ソフト販売大手のHMV渋谷店の閉店に関連して、前回のコメントを補足します。

前回のコメントでは、HMVはじめとしたリアルの音楽ソフト販売店の「ジリ貧状況→閉店」を作った要因を、アップル社のipodを皮切りとした音楽データ・ダウンロードという新しいビジネスモデルの急激な浸透によるというやや偏った書き方をしましたので、少々補足しておきます。従来のリアル店舗に対してリアルとそん色のないバーチャル店舗を登場させたと言う意味からは、データダウンロード浸透以前の状況としてアマゾン・ドットコム(以下アマゾン)の大躍進を忘れてはならないと思います。バーチャル通販書店として95年にアメリカで開設され、あっという間に全米規模で成功した同社は2000年に日本店を“開店”。当初は書籍販売に特化していたものの、音楽ソフト、ゲーム、雑貨から日用品に至るまで徐々に取扱商品をの幅をひろげつつ、着実に購買層を拡大してきたのです。

当初は私も商品の並んだ陳列棚を実際に見渡すことのできないバーチャル・ショップなど、何を買おうか確実に決まっている時以外は使い勝手が悪く、ウインドー・ショッピング的な楽しみ方もできそうもなく、一般層に広がるのには難しいのではないかと思っていました。アマゾンのアメリカ本土での90年代後半の成功は知っていましたが、これはアメリカ人の合理的な考え方に合致したビジネスモデルであり、日本での浸透にはかなり時間が必要であろうと考えていたのです。ところがどっこい、アマゾンは日本進出とともに予想以上にハイスピードで成長を遂げ、書籍だけでなく音楽ソフトに関しても、あっという間にリアルショップを脅かす存在にまでのし上がったのでした。その最大の要因は、最新IT技術を駆使した徹底したCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)戦略の展開のあったのです。

具体的に言えば、何か探していると似たようなカテゴリーのモノや、探しているモノを購入した人が買っている他のアイテムなどを自動的に抽出して次から次へと購買者の目の前に並べてくれるのです。最初は少々ウザったいと思ったこのシステムも、慣れるとなかなか勘どころがよくて、すっかりバーチャル店員に乗せられいろいろなモノを買わされていたりする訳です。実際の人間が勧めてくる訳ではないので、無視しようが文句の一つもつぶやこうがこっちの勝手なので、リアルよりもよほど気がねなく買い回りができます。さらに検索機能でウインドウ・ショッピングも自由自在。リアル以上に在庫は豊富なので、音楽ソフトに関して言うなら断然マニアの満足度はバーチャルが上な訳です。

ネット販売による人件費の大幅削減で、リアル店舗以上の値引きも可能になっていますし、懸案だった配送料の問題も人件費をはじめ諸経費の圧縮により、1500円以上を送料無料にするというサービスを早々に定着をさせたのです。品揃えが良く、いろいろ好みの商品を気兼ねの要らない形で提示し、価格も安くて送料は不要、これではリアルが勝てる訳がありません。さらにネット音楽ソフト販売の大躍進の陰では、音楽ソフトが持つ特性が一層後押ししたように思います。それは、色合いや質感、サイズなどを実際に確かめる必要がない商品であるということです。たいていの音楽ソフト商品はネットショップで1曲30秒~1分程度にしろ試聴ができますから、むしろリアル店舗よりもサービスがいいと思えるほどなのです。こうして、音楽ソフトはマーケティング戦略に長けたアマゾンが中心となってリアル店舗購入からバーチャル店舗購入へ移行の流れを作り、その流れに乗ってアップルを中心としたデータダウンロード・ビジネスも大躍進したという事であると思うのです。アマゾンが切り開きアップルが開拓した、そんな新しいビジネスモデルの流れで、音楽ソフト販売ビジネスにおけるリアル店舗は淘汰を余儀なくされたと言っていいかと思います。

そうやって考えると、書籍も音楽ソフトと同じく色合いや質感、サイズなどを実際に確かめる必要がない商品な訳で、書籍ネット購入は既に条件的には受け入れられた状況にあると言えます。アマゾンは書籍電子化ビジネスではアップルに先を越された音楽ソフトの同じ轍は踏むまいと、いち早くキンドルというブックリーダーを開発し書籍電子化販売の主導権を握るべく先手先手で来ています。しかしながら、アップルも負けてはいません。ipodの登場時と同じかあるいはそれ以上のインパクトを持ってipadなる強力な武器をもって、この市場への本格参入を開始した訳です。こうやって見てくると、音楽ソフト販売はあくまで前哨戦に過ぎずより市場規模の大きな書籍こそが電子データダウンロード・ビジネスの本丸であるようにも思えてきます。この始まったばかりの激しい攻防の中、書籍のリアル販売店(=本屋さん)が今後生き残るには、リアルでなければ味わえないサービスをいかに生み出すか、その一点にかかっていると言っていいででしょう。ただし、ネットの世界の動きは早いので、この戦いは時間との勝負でもあると思うのです。

お茶ノ水古今物語~村田クンと行った店の「今」は・・・

2010-08-13 | マーケティング
お茶ノ水ネタの最後は、村田クン時代の思い出と「今」を・・・。

村田クンと過ごした中学3年生昭和49年はと言えばファーストフードが出店攻勢を強め始めた頃で、昭和45年に銀座三越に出店したマクドナルドの後を追うように、各種ファーストフードが進出を始めていたのです(“ネコドナルド”の噂が出始めたのもこの頃ですね)。お茶ノ水は学生街としてファーストフード・ビジネスにとっては格好のターゲット・エリアでした。私は村田クンに連れられて初めて入った2つのファーストフード店をよ~く覚えています。

そのひとつがロッテリア。マクドナルドのライバル・チェーンとして、まさにマーケティングで言うところの“チャレンジャー企業”として真っ向勝負を挑んでいたのでした。ロッテリアでの彼のおススメは「イタリアンホット」。カリカリのトースト的なパン生地の間にハムかサラミのチョイスに加えてチーズや野菜をはさんだ、ピザ風味のメニューでした。彼は「ハンバーガーなんてのは味覚音痴のアメちゃんの食べもんだからな、決してうまくないよ。最近じゃネコ肉とか言われているし、マクドナルドの米国産メニューよりも日本人が考えたメニューの方が断然うまい。味ではロッテリアのイタリアンホットの圧勝だな」と断言してました。事実うまかったです。当時としては結構感動したのを覚えています。

彼が教えてくれたファーストフードのもうひとつはミスター・ドーナッツでした。「アメリカ人はドーナッツを朝から食うんだぜ。だからあんなブクブクになっちまうんだけどな。アメリカにもあるメニューなのか日本のオリジナルなのか知らないけど、フレンチクルーラは最高にうまい。俺たちが知っているドーナッツとは全然ちがうんだぜ」と言ってすすめられ、食べてみました。確かにそれまで食べたことのないドーナッツには小さく感動しました(でもなぜかその日は胃もたれした感じがして、家に帰ってから気持ち悪くなり熱も出て翌日は学校を休んだ記憶があります。冬だったので風邪をひいて体調悪かったのかもしれません)。イタリアホットもフレンチクルーラも、今でもしっかり現役のメニューのようですから、彼の食のマーケティング・センスはけっこう大したものだったのだと思います。

当時ロッテリアは駿河台通りの駅近くの道の左側に、ミスタードーナッツは少し坂を下った道の右側にあったと記憶してます。今ロッテリアは場所が移って交差点の駿台予備校側にありました。ミスタードーナッツは見当たらず。マーケティング戦略として学生街を狙った2つのファーストフードでしたが、ロッテリアは店舗をさらなる一等地に移し通算30年ですから成功だったのでしょう。かたやミスドは…。ドーナッツは甘いので女性が中心ですから、当時女子学生が比較的少ない明大生や実質男子校的な駿台予備校生ターゲットではマーケット的にやや厳しかったのかもしれません。

その他、彼とよく歩いた思い出のお茶の水としては、何と言っても丸善です。今も同じ場所に同じように天井の低い建物で存在しました。これは嬉しかったです。もちろん売り場が昔通りの印象と言う訳にはいかないですが、でもなんとなく雰囲気はあの頃のままという昔風の本屋さんの佇まいでした。それに引き換え残念だったのは、丸善の建物の2階にあった輸入レコード店ディスクユニオンの「今」です。ディスクユニオン自体はマニアックな品揃えで当時よりもかなり発展して、お茶の水だけでも3か所ぐらいに分散して頑張っているのですが、個人的には丸善の2階の“あの場所”にないとどうもピンとこないのです。当時は丸善の向かって右側外付け階段で2階に上がったところが入口でした。

階段は今もありました。ただ2階は現在使われていないのか、階段の登り口に鎖がかけられていました。階段すら登ることが許されないこの光景には、村田クンとの思い出が封印されてしまったことの象徴であるかのように思えて、少しばかりの寂しい思いを胸にお茶ノ水を後にしたのでした。

お茶の水古今物語~“学生街の喫茶店”は何に姿を変えたのか?

2010-08-12 | マーケティング
“あの頃”お茶の水散策の続きです。

お茶ノ水と言えば、私が高校~浪人時代には喫茶店がけっこうあったと記憶していたのですが、今はなんとその数の少ないこと。ほとんどの店の名前は忘れてしまったのですが、ハッキリ覚えているのは、駿河台出口の駅前交差点を渡ってまっすぐ駿台予備校方向に行った右側に「舟」という結構大きな喫茶店があったことです。しかしながら今は見当たらず。ビルに姿を変えてしまったのか、どこがその場所であったのかさえ分かりませんでした。

あとは、駿台予備校近くにあった「レモン」。確か画廊が経営しているお店だったと記憶しています。絵とか飾ってあって、芸術系学生の憩いの場的感じで高校生には敷居が高く浪人生には似つかわしくない、というムードで「大学生になったらおいで」と言われているような印象がありました。その場所に「レモン」はありましたが、「レモンビル」になっていてお店の「レモン」はイタリアン・レストランのようでした。なんかイメージ違うなとこれまた少々落胆でした。

「他には?」と駅からの道々、かなり入念に探してみたのですが、喫茶店そのものがほんどない。「えーっ?そんなバカな」ですよね。ガロの「学生街の喫茶店」じゃないですが(ふる~)、「♪学生でにぎやかなこの店の片隅で聞いていたボブ・ディラン・・・」といった感じのお店が、そこここにあったと記憶しているのですが、本当にないのです。その歌「♪あの頃の歌は聞こえない、人の姿も変わったよ、時は流れた~」と続くのですが、歌が聞こえないどころか店が跡形もないのです。どうしちゃったのでしょうか?歩くうちに、「確かこの辺に・・・」「確かここを曲がった奥に・・・」と店があったと思い当たる場所がいくつも出てきたのですが、皆そこには共通してある別の業態が店を構えていました。何だと思います?居酒屋です。しかもチェーンの。学生街は驚くほど居酒屋だらけになっていたのです。

昔は個人経営の居酒屋はポツポツあったものの、駅前の一等地とか学生でにぎわう通りとかにはあまりなかったと思うのです。そもそも、今から30年以上も前の話ですからチェーンの居酒屋と言うモノ自体がせいぜい「養老の滝」とかぐらいしかなかったようにも思います。それに居酒屋って、サラリーマンのオヤジが集う場所的印象でしたから、学生街にはあまりなかったんですよ、たぶん。学生街と言えば喫茶店が、マーケット的に見て一番商売になりそうな飲食だった訳で、超定番だったのです。ところが、喫茶はドトールに代表される安価のセルフカフェにまず圧迫され、その後はスタバに代表されるシアトルスタイルのおしゃれなセルフカフェの乱立とともに姿を消さざるをえなかったのでしょう。

そうなると外食系としてセルフカフェに勝てる業界はと言えば、利益率の高いアルコール系飲食である居酒屋、しかも資本力にモノを言わせ徹底したコストダウンをはかりつつ多店舗展開で拡大を続けるチェーン店であるわけで、90年代あたりから続々学生街の一等地に進出してきたという訳なのでしょう。昔は明治大学の学生もお茶ノ水では飲まなかったと思うんですよね。これは想像ですが、だいたい新宿とかに出ていたのではないかと・・・。今は学生の飲み屋も「安・近・短」?これだけ安居酒屋が乱立していれば、地元で飲んでるのかなと思います。

昔、駅前丸善書店並びに、三~四階建ぐらいの洋風の城を模した喫茶店がありました(名前は忘れました)。お茶の水界隈ではけっこう存在した名曲喫茶のひとつだったと記憶してます(たぶん)。実は今もこの目立つ建物はありまして、「1軒みっけ!」と思ったのですが、近くで見てみると各階にそれぞれ別の店が入った「居酒屋ビル」に中身を変えていたのです。あの建物のまま居酒屋チェーンの雑居ビル化ってどうなのよと、ちょっと寂しいですね。

お茶の水話、もう一丁ぐらいいけそうですね。

お茶の水古今物語~林立する楽器店はなぜ商売になるのか

2010-08-11 | マーケティング
「村田クンシリーズ」にコメントをいただいた「87」さん、ありがとうございます(彼の同級生=先輩ですね?)。

先週末は所用がありまして久しぶりにお茶の水に行ってきました。お茶の水と言えば村田クンとよく学校帰りにブラブラした懐かしい街です。その後も予備校時代に毎日通った街でもあり、用事を済ませた後に“あの頃”を訪ねてひとりぶらついてみました。まず、驚いたのは、「駿河台の坂道ってこんなに楽器屋さんが多かったっけ?」と言う点。たしかにイシバシとか下倉とか楽器屋がいくつかあったのは記憶にあるのですが、道の両側をこんなにも軒を連ねていたとは思えないのです。高校時代はバンドをやっていましたたから、けっこう楽器を冷やかしにイシバシあたりには行った記憶があるのですが、これは驚きだなと。ある意味秋葉原の電器街以上のものがあるように思いました。

何が驚きかと言うと、こんなに楽器屋さんが軒を連ねていて皆商売になっていると言う事が驚きな訳です。秋葉原だって今やヤマダやコジマに押されて、家電販売を生業とする店舗はむしろジリ貧状態。近年はPCに端を発した“おタク向けビジネス”が、すっかり街の事業ドメインになっており、古くからの事業ドメインである家電販売業は同業店舗の集積がむしろ減少するパイの食い合いを産み、もはやつぶし合いの様相を呈しているのです。お茶の水の林立楽器店はそうはならないのでしょうか?当然、お茶ノ水の楽器屋さん間にも激しい価格競争はあるでしょうから、よほど需要が伸びていない限りはやはりつぶし合いのジリ貧が待っているように思うのです。でもさにあらず・・・。

理由を考えてみると、商品サイクルが長く在庫回転率が悪くとも不良在庫は発生しにくいこと、楽器の原価率が低いであろうこと、は想像できるところですが、それ以上に彼らを力強く支える理由がマーケットに存在するように思います。我々時代に比べて少子化の影響で確かに若年層の楽器演奏人口は減少の一途にあると思います。しかしながら、それ以外の層の楽器需要が意外に伸びているのではないでしょうか。そうですいわゆる“ギター小僧”“バンド小僧”OBの連中です。我々の高校時代に40代以上のオヤジ層で楽器をいじったりバンド活動をしたりなんていうのは、ごくごく稀なケースだったじゃないですか。ところが今はどうでしょう?子供も大きくなって生活も安定して、“昔取った杵柄”とかなんとかで「オヤジバンド」をはじめる連中の何と多いことか。オヤジバンド・コンテストなんてものもあこちで催されるようになり、やりがいも手伝って中年バンド・ブームが定着してきていると言ってもいいと思うのです。

しかもオヤジは、高校生に比べて金持ってますから。昔はなかなか手が出なかったギター・エフェクターの“大人買い”とか、ギブソンやフェンダー等憧れの海外ブランド・ギターの衝動買いとかもバンバンある訳で、この業界は実は20~30年前に比べるとかなりマーケットが大きくなっていると言えるのではないでしょうか。それと、秋葉原の主流ビジネスが家電からPC関連に移った最大の要因は、おタクの存在です。要するにPCやゲームのマーケットには相当数のオタクが存在しており、彼らの「好きなモノには金に糸目をつけない」という行動特性が安定的な需要を支えている訳なのです。楽器もPCほどではないにしても、マーケット比率的にそれなりの規模のオタクは存在する訳で、これが資金力のある中年層中心と考えるならかなり肥沃なマーケットであると言えるのかもしれません。

お茶ノ水を歩いていて、そんなことをちょっと考えさせられました。
お茶の水古今物語はもうひとネタありましたので、それは次回に。

海外の日常性を教える通販サイト「フラッター・スケープ」

2010-06-22 | マーケティング
「フラッター・スケープ」なるWEBページをご存じでしょうか?

日本に住んでいる外国人が、自分で選んだ日本の商品を海外に売るインターネット通販サイトだそうで、これマーケティング的にけっこうな注目サイトであると思っています。外国人が日本商品のバイヤーになっていると言う点がミソでして、日本人ではわからない外国人の好みを垣間見ることが出来る訳です。でもそれがなぜ注目なのか。海外にモノを売ろうと思っている人以外関係ないんじゃないって思われるかもしれませんが、実は日本で対消費者ビジネスを考える人にこそ大きなヒントがあると思うのです。それはなぜか…。

昭和の高度成長の時代から舶来品は数多く日本に入ってきていましたが、そのほとんどは日本人が日本人の感覚で選んだ「日本の日常に役立ちそう=日本で売れそう」な商品の数々でした。ところが、ネット新時代のこのご時世では、日本の日常性を勘案する間もなく欧米の日常で便利なモノが、世界どこでも便利であり必然的に日本でも便利であるとの理解の下、続々入ってきているように思います。例えば一昔前のヤフーやマイクロソフトが全盛の時代にはまだ海外文化は多少日本的にアレンジされてから上陸してたように思いますが、昨今のアップルやグーグルが送り出すサービスやそれによって形成される文化は、明らかに世界の日常文化がストレートな形で上陸して日本の日常文化を塗り替えていると言っていいのではないかと思います。すなわち、知らず知らずのうちに私たちの日常は欧米の日常文化に浸食されている訳で、iphone、ipadの大ヒットなどはまさしくその典型例であると思うのです。

となればすなわち、知られざる海外の日常感覚をより正確に把握することが日本国内でのビジネスの成功のカギを握る時代になりつつあるのでないかと考えるのが自然であり、このサイトの情報価値はかなり高いということになるのです。あるサイトが外国人に「外国人が選ぶ外国人が好きそうなもの」と「日本人が選ぶ外国人が好きそうなもの」の違いは何かを聞いてみると、「日本人は何かspecial(特別な)贈り物のようなものを選ぶけれど、外国人は外国の生活環境が分かっているからこそ、今まさに必要とされている日常的なモノを選ぶことができる」という答えが返ってきたそうで、このサイトにある「外国人が選ぶ外国人好みのモノ」こそまさしく日本人の知られざる海外の日常性を知るカギであり、これからの日本国内での対消費者ビジネスの大きなヒントであると言えるのです。

この「フラッター・スケープ」の立ち上げアイデアは、高校時代をカナダで過ごし今春上智大学国際教養学部を卒業した柿山丈博さんが学生時代にあたためたのもので、彼は現在本ビジネスを稼業としているそうです。さすが外国育ちの若者の発想です。新橋界隈の酔いどれオヤジにはとてもできない芸当ですね。さてさてページを眺めてみると…。タイ焼きのおなか部分から顔を出すかぶりモノ「TAIYAKI CAP」(夏は暑いよね?)や管直人首相のTシャツ「YES WE KAN」(=写真、なぜ赤いの?)など、外国人が選んだ確かに日本人の好みではないモノがズラリ…、ん?。なるほど、このページをビジネスのヒントにするには、それはそれでそれなりのやわらかアタマは必要とされるようです。

★「フラッター・スケープ」 → http://www.flutterscape.com/

首相辞任の後始末とマスメディアの責任

2010-06-03 | マーケティング
ipadのお話にからめて民主党のブランド戦略に触れたとたん、鳩山首相が辞任しました。いきなり余談ですが、テレビで自民党の石破氏が「亀は千年、鶴は万年、鳩は1年」とか言っていてちょっとおもしろいと思いましたが、この日のために相当前から仕込んでいたのでしょうか?でも地味でした(ホント今や“地味党”ですね)。小泉さんが言ったらもっと迫力をもって見る人に突き刺さるんだろうなと思わされました。それがまさに「ブランド力」なんですけどね。

さて、鳩山さん最後の最後に小沢さんを道連れにして“親指ポーズ”。やりますね。「やればできるんじゃん」と思いました。前回書いたように、民主党のブランド力向上によるイメージ・アップはすべて小沢一郎その人の進退にかかっている訳で、鳩山さんの“道連れ作戦”は正しい判断であり、ここまではひとまず正しい方向に進んでいると言っていいかと思います。問題はこの先です。「次」に真っ先に名乗りを上げたが管直人氏。この人、私が以前から申しあげているようにとにかく短気、関西風に言えば“イラチ”ですから危険この上ないのですが、まぁ本人が「やりたい」と言っている訳ですからやむなしとしても、いかに小沢色を払しょくできるか、すべてはそこにかかっていると断言できます。

鳩山氏が身を呈して“道連れ自爆”をしてくれたわけですから、ここで管氏が小沢氏に媚びたのでは何にもならない訳で、民主党のイメージもブランド力も全く向上どころか、さらに地に落ちることになる訳です。鳩山氏が辞任表明の際に「クリーンな政治、クリーンな民主党づくり」とその目指すブランド・コンセプトを明確に表明した訳で、今を逃したら民主党のブランド再生はほぼ絶望的であると言わねばならないでしょう。繰り返しますが、とにかく誰が「次」をやるのかはどうでもいいことで、小沢色の一掃が出来るか否か、すべてはそこにかかっているのです。

メディアもだいたい似たようなトーンで書きたてていますが、ここまで小沢氏に政権政党を独裁化し牛耳らせてきた責任の一端はマスメディアのこれまでの報道姿勢にもあることを忘れてはいけません。とにかく、「小沢怖し」の姿勢から小沢氏に対する会見質問は常に及び腰(だいたい小沢氏の会見では質問は1社1問までとの制限があるのですが、これを文句ひとつ言わずメディア側ものんでいるんですから信じられないです)、すべて小沢ペースでのマスメディア操作へ迎合し書くべきことも書かない他社にらみの姿勢を続けてきました。小沢陣営の取材拒否をチラつかせた実質言論統制に、今こそ勇気をもって対抗すべきなのです。

国民が求めているのは選挙優先の薄汚れた政治はないはずですし、クリーンな政治を実現するためには「既得権擁護」と「数の政治力学」と「選挙至上主義」を身上とする田中角栄直系の小沢政治との決別をマスメディアは力強く連呼する責務があると思います。民主党のブランド・イメージの向上は我々にはどうでもいいことではありますが、鳩山氏が口にした「クリーンな政治の実現」は政治家として正しい見識であり、マスメディアにはこの言葉を重く受け止めその実現に向けて今自分たちが何を主張すべきか分別ある報道を期待します。まずは、政権政党の独裁統治からの脱却と郵政法案成立の参院選後先送り再審議、個人的にはこの2点の行方を注目して見守りたいと思っています。