日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

スーパースターはいらない!“ザックJAPAN”チームワークの勝利

2011-01-30 | ニュース雑感
注目のアジアカップサッカー、日本代表チーム=ザック・ジャパンは素晴らしい活躍ぶりで見事優勝を果たしました。昨日深夜の決勝戦の視聴率はまだ聞いていませんが、今週火曜日深夜の準決勝韓国戦は午前1時頃に最高視聴率40%を記録したとか。平日のしかも深夜にこの視聴率と言うのは驚異的な数字ではないかと思います。これまでもアジアカップでは3度も優勝をしているのですが、こんな盛り上がり方は初めてだと思います。なぜ日本サッカーが今こんなにも盛り上がっているのでしょうか。

私は、スーパースター不在のチームワークにこそ、盛り上がりの源泉があるように思います。ワールドカップ出場レベルになってからの日本チームはWCドイツ大会までは、三浦カズや井原などをJリーグ第一世代と呼ぶならその後頭角を現したJリーグ第二世代中心のチームでした。このチームには、良い悪いは別にして中田ヒデという一人のスパースターがいました(当初はメディアが作り上げたものだったかもしれせん)。確かに才能ある選手ではあったものの、プロ野球WBCでのイチローのような明るくチームを引っ張るリーダーではありませんでした。そして06年のドイツ大会は屈辱の予選リーグ敗退。中田は引退しスーパースター不在のチーム再建が始まったわけです。

チームを指導したオシム監督が突然の病に倒れ、その後を急遽継いだ岡田監督は言ってみればスーパースター型の監督ではなく、そのカラーがスーパースター不在のチームと相まってチームプレーの集団を形成し得たのかもしれません。過去岡田監督の人選で鮮明に記憶に残っているのは、日本が初めて98年WC出場を決めたフランス大会の最終メンバー選考でカズをはずしたことでした。「日本チームにスーパースター(という意識の選手)はいらない」。岡田監督の思想は、当時も昨年のWC南アフリカ大会の時も同じであったと思います。中田ヒデがいたなら決して成しえなかったであろうチームの一体ムードが、昨年のWCで決勝トーナメントまで連れて行ったのだと思うのです。見る者は岡田采配の下での日本チームのチームプレーの素晴らしさに感動し、今回もまたその再現を期待して盛り上がり、結果チームは期待を裏切らない活躍を見せてくれたのだと思います。

本当に素晴らしいチームです。控え選手が出番を与えられて大きな活躍を見せる、チームワークに支えられていればこそ可能になることであると思うのです。昨日決勝ゴールの李選手は、今大会控えの立場で待ちに待っていた出番に「待っている間は、優勝にはラッキーボーイが必要、僕がそれになると思い続け、交代を告げられた時はここでヒーローになると決めてピッチに立った」と言います。素晴らしいじゃないですか。自分が“ありたい姿”を想像して決意を持って行動することは、あらゆる成功本の中で成功者が繰り返し言っていることでもあります。でもそれが出来るためには、周囲の環境が自分の決意を邪魔しない状況にあることが不可欠なのです。まさに今の日本チームの環境は、それにふさわしい強固なチームワークと皆を奮い立たせるムードが出来上がっており、ピッチに立った誰もが“ありたい姿”を想像して行動できるのです。だからこそ、WCで名を売った本田や遠藤、長友ばかりではなく、吉田、岡崎、前田、香川、伊野波、細貝・・・、日替わりでヒーローが生まれる素晴らしい試合の連続であったのだと思います。

「アジアカップなんて、熱くなってみるほどのものじゃないよ」としたり顔の“サッカー通氏”は言いますが、我々が見たいものはアジアカップのレベルや価値に関係ない日本チームの素晴らしい結束力に他ならなかったのです。その意味では、最後の最後にまた控え出場の李選手が決勝ゴールを決めてくれたことは、最高のエンディングであったと思います。勇気と元気をたくさんくれたサッカー日本代表チームに心からお礼を言いたいと思います。
ありがとうザックJAPAN!

※大会MVPが本田だったのは意外でした(本人も「MVPはチームが受けたもの。チームメイトとスタッフに捧げる」と言っていますが)。個人的には長友。とにかくすごい運動量でどれだけチームを助けたか。昨日の決勝ゴールも彼のパスが光っています。川島も大会序盤はどこか集中力を欠いていましたが、最後2戦はすごかったですね。チーム力の勝利ではありましたが、あえて貢献度をはかるなら私はこのふたりかなと思いました。

昭和問わず語り4~「“夢”の超特急」新幹線開通

2011-01-29 | 昭和
巷では東北新幹線が新青森まで開通したとか、3月には九州新幹線が鹿児島まで延伸されるとか、新幹線にまつわる話題がいろいろと聞こえてきています。でも何となく「夢」がなくて味気ない最近の新幹線。昭和の時代にはもっともっと「夢」のある乗り物であったなと思うのです。

我々世代にとって新幹線と言えば東海道、「ひかり」と「こだま」です。東京-新大阪間を3時間10分(開業当初は馴らし稼働で4時間だったそうです)で結ぶと言う「夢の超特急」の名のもとに、昭和39年10月1日開通しました。昭和39年と言えば東京オリンピックの年。オリンピックの開会式が10月10日ですからまさしくその直前の開通だったわけで、きっと関係者は大変だったのでしょうね。「死んでも間に合わせろ」とお偉いさんが言ったかどうかは知りませんが、死に物狂いでオリンピック開会前開通にこぎつけたのだろうということは想像に難くありません。こちらはそんなこと預かり知らぬ子供ですから、本当に世の中がお祭り騒ぎだったと言う事だけがやけに印象的に記憶に残っています。

子供たちに最もインパクトがあったのは「夢の超特急」というフレーズ。それまで在来特急で6時間半かかっていたものが半分以下に短縮されちゃうわけですから、そりゃ「夢」ですよね。物事が目覚ましく進歩していく様が、こういった社会的な出来事を通して実感されるそんな時代だったのだと思います。時代と共に歩んでいた大人たちが肌で感じたそんな感覚が、家庭の中で子供たちにも自然自然と伝わっていたのです。だから「夢」があったのでしょう。今仮に「東京-新青森間が3時間20分で行けるようになりました」と言われても、「夢」を感じないですよね。「予定地の買収に手間取ったのですか」「予算関係で先延ばしになって時間かかったんでしょ」みたいな感覚がどうも蔓延してしまって、世の中そのものが妙に冷めて「嫌な大人化している」とでも言うんでしょうか、新しい出来事に対して「夢」を感じなくなってしまっているように思いますね。仮に東京-大阪間を1時間で結ぶリニア新幹線が開通したとしても、きっとあの頃感じた「夢」ある感覚は味わえないのでしょうね。「昭和」は夢のある時代だったなと、ホントつくづく思わされます。

ちなみに実際に新幹線に乗った人の生の話を聞いたのは、オリンピック観戦で静岡から来た父の友人夫婦からでした。良く知らないおじさんの「驚くほど素晴らしい電車だよ」というお話を、黙って聞いていた私は「早く乗ってみたいな」と思ったものです。そんな中、我が家で一番最初に新幹線に乗ったのは父でした。当時仕事で定期的に京都に行っていた父は、開通後ほどなく新幹線で東京-京都間を日帰り往復したと記憶しています。新幹線初乗車を終えて家に帰った父に、私も母も「どうだった?どうだった?」と質問責めにしたのでした。「早いぞ」「揺れないよ」「静かだよ」「窓は開かないんだよ」「電柱なんか見えないよ」・・・先の父の友人のお話以上に具体的な体験談が、私の期待感をより一層盛りたててくれたように思います。そして私が新幹線に初めて乗ったのが、翌年の夏休み。海水浴に父の田舎の静岡に出かけた、「少年サンデー」と出会ったあの旅です。見たことのないきれいな「超特急」の車内にまず感動。動き出してからしばらくは車窓に釘づけでした。ホント「夢」のある時代だったのです。

交通機関に限らず、「昭和」を知る我々世代が組織や世の中をリードするこれからの時代のビジネスでは、少しでもいいからあの頃皆が感じた「夢」を感じさせ「昭和」の感動を蘇らせるような心遣いや仕掛けが欲しいなと思います。それを知る我々世代にはできるはずですし、我々世代がしなければ永久に忘れ去られてしまうものでもあるのです。新しいことでも、体験する前から「当たり前」として覚めた見方しかできない今の子供達は可哀そうな気がするのです。「夢」を感じさせる体験こそが、大人になった後にも「夢」のある人生を歩ませその総体が「夢」のある日本をつくることにつながる、「新幹線開通」に代表される「昭和」の感動体験はそんなことを教えてくれているようにも思えるのです。

今年の寒い冬をもたらした「ラニーニャ」という名の“女の子”

2011-01-27 | その他あれこれ
先日の地球温暖化話の続き的なお話です。ホント寒い日が続きます。日本海側では大雪で新潟県内は電車が軒並み不通とか。今年の厳冬は長引くとの予報も出されました。

今週読んだこの「今年は寒い冬が長引く」というニュースの中で面白い話を見つけました。なんでも今年の冬の寒さ、「ラニーニャ現象」と言われるものが原因であると考えらるそうです。一時期前に地球温暖化とからめて盛んに取り上げられた「エルニーニョ現象」と名前が似ていますが、中身は180°異なっているようです。「エルニーニョ」が地球温暖化により南方沖の海面温度が上がり暖かい空気が太平洋を包み込むため、オーストラリアなどでは高温による干ばつが、ヨーロッパやカナダでは暖冬が、日本では高温多湿の暑く湿った夏が来るとされています。一方、今回話題の「ラニーニャ」は全く逆で、ペルー沖の海面温度が下がって遠く離れた日本近海に対しては乾燥した空気を運んでくることになるそうで、梅雨が短く夏は猛暑になり逆に冬は厳冬になるそうです。今回はペルー近海で海水温が基準値よりも5度以上低下する状態が半年以上続いたため、「ラニーニャ」と認定されたそうです。

つまり昨年の夏の日本の異常なほどの猛暑も、どうやらこの「ラニーニャ」が原因であったと思われるフシが強いのです。海水温が上昇して起きる「エルニーニョ」が騒がれた折には、「地球温暖化の影響で海水温が上がってこんな異常気象が起きている。地球がSOSを発している大変だ、大変だ!とにかく温暖化防止!温暖化防止!」といった感じのトーンで語られていたように思います。今回発生が認定された「ラニーニャ」は、「エルニーニョ」とは逆で海水温が低下することで起きる異常気象ですから、素人目には地球温暖化を否定する材料なのではないかとも思えるのですが、どうなんでしょう。いろいろ調べてみましたが、「ラニーニャ」の発生とその影響(猛暑や厳冬)はある程度論理的な説明がつくもののその発生原因については未だよく解明できていないのだそうです。本当はこのような一見温暖化を否定するような事象までもが温暖化との関連で明快かつ科学的な説明ができれば、地球温暖化に対して最も説得力ある説明になるようにも思うのですが…。

昨年の稀にみる猛暑と今年の厳冬の原因と思われる「ラニーニャ」も、「地球温暖化の影響である」と説得力ある説明をいただけるならこの冬も少しは暖かく感じられるのではないかと思うわけでして、地球温暖化主張派の専門家の皆さんにはぜひとも頑張っていただきたいところです。ちなみに「エルニーニョ」はスペイン語で「男の子」、「ラニーニャ」は「女の子」だとか。どこの世界でも、「男」より「女」の方が一筋縄でいかなくて難しいってことですかね?

東大では学べない士官学校の「兵法」と「人間学」、というお話

2011-01-24 | 経営
先週の土曜日に経営勉強会があって、素晴らしいお話をうかがう機会を得ました。

講師をつとめていただいたのは、元アサヒビール副社長で現名誉顧問の中條高徳氏。御歳83歳というご高齢ながら、冴えわたる頭脳の持ち主であり、約3時間にわたる長丁場を実に理路整然と経営の極意を説いていただきました。中條氏は元陸軍士官であり、東大以上の難関であった当時の陸軍士官学校で社会人としての基礎を身につけられたそうです。私も詳しくは知りませんでしたが、東大はじめ帝国大学はそもそも官僚養成学校であり、知識や問題解決スキルを身につけてそれを活かし施策立案できる「学士養成」の学校であったようで、今の日本の大学はすべてこれを手本として同じように作られているのです。一方の士官学校は、知識と戦略思考を身につけることはもとより、加えて人をまとめ人を動かし人の信望を集めひいては軍全体あるいは国を引っ張る人材をつくる学校であったと。すなわち「兵法」とともに「人間学」を教える場であったと言っておられました。

なるほど、「兵法」と「人間学」は今で言う「戦略論」と「リーダーシップ論」です。官僚は昔から「兵法」も「人間学」も学んでいない、だから商売を解さない、人の上に立てないという文化を築き上げてしまったのだと類推できるわけです。また、戦後の大学がみな帝国大学を手本にしたということは、すなわち戦略論的思考やリーダーシップ養成の素地がないのです。だから、今日本の実務社会で管理者が育たない、育てる事が出来ないという現象が起きているのだ、ということにもなりそうです。「兵法」「人間学」を教える場であった士官学校的教育を排除したのは駐留米軍GHQであり、彼らは日本の競争力を削ぐための手立ての一環として、洗脳教育からの脱却と言う隠れ蓑を上手に使いながら戦後の日本の教育のあり方を彼らの都合のいいように変えていったのです。ちなみに、米国ではMBA取得者と同等かそれ以上の数の優良企業経営者が、「兵法」「人間学」を身に付けた士官学校出身者で占められているそうです。

中條氏はこの「兵法」「人間学」を礎として、瀕死のアサヒビール立て直しを実現した経営者です。当時のアサヒは経営難にあり銀行からの天下りトップが続いていたがために、ポジション的には№2の座に甘んじましたが、実質トップとしてアサヒ再生改革は氏が旗振りをしながら進めていったのです。当時はキリンが60%近くのシェアを占め、あのハーバード・ビジネス・スクールをして「他のビールメーカーが、キリンのシェアを逆転することは絶対にあり得ない」とまで言われていたそうです。しかも改革前のアサヒのシェアは瀕死状態の9.6%まで下降していたといいます。もちろんこの状態を救ったのはあの「スーパードライ」ではありますが、「スーパードライ」の登場と販売戦略はまさに「兵法」と「人間学」のなせる技であったのだそうです。98年アサヒは遂にシェアでキリンを抜きトップに立ちました。人はこれを“スーパードライの奇跡”と呼ぶようですが、中條氏はこれを「決して奇跡ではなく、入念に仕組んだ「兵法」と「人間学」による計算し尽くされた戦略の成果である」と話されていました。

中條氏の経営理論に関する詳細なお話は、氏の著作「陸軍士官学校の人間学(講談社+α新書838円)」に記されています。この本、とにかく素晴らしいの一言です。氏の「人間学」こそ中小企業経営者が手本とすべき経営の肝であると実感させてくれます。氏はサラリーマン経営者であるハズが、オーナー経営者以上にオーナーらしさを持った“人肌の経営”の経営者なのです。これこそが、士官学校で身に付けた「人間学」のなせる技なのですね。中小企業経営者にはぜひお読みいただきたい1冊です。忘れがちなマネジメントの基本を教えてくれる、目から鱗の経営本です。唯一の難点は本のタイトルと軍服姿の写真を扱った表紙。こればっかりはセンスゼロ。本屋で目にしたらビジネス書を探す人はまず手に取らないです。私ならタイトルを「キリンを負かした士官学校の「兵法」と「人間学」」として、スーパードライのパッケージのデザインアレンジをカバーにしますけど。

「70年代洋楽ロードの歩き方31」~ハードロック 3

2011-01-23 | 洋楽
ジェフ・ベックによって方向づけられ、レッド・ツェッペリンによって形作られたハードロックの基本形は、ベックとロッド、ペイジとプラントを手本として、70年代初頭には優れたギタリストとシャウト系のボーカリストを擁することを必要条件として形式が整ってきたのでした。

60年代後半に既に英国でクラシックの洗礼を受けたキーボード・プレイヤー、ジョン・ロードを中心としてアート・ロック的活動を開始していたディープ・パープルは、こうしたジェフ・ベックやツェッペリンの影響をもろに受けドラスチックな変貌を遂げます。70年代初頭に一部メンバーの解雇によりシャウト系の超人的ボーカリスト、イアン・ギラン(写真左端)を迎え、これを機に演奏面はリッチー・ブラックモア(写真右から2人目)のソリッドなギターリフを中心としたものへと移行。70年にその名も「イン・ロック」という一気にハードロックに転じたアルバムをリリースして、大きく飛躍したのです。A1「スピード・キング」は、まさにその変貌を象徴するナンバーでした。このアルバムとシングル「ブラック・ナイト」の大ヒットによって、「パープル=ハードロックの雄」という概念が定着したのでした。

その後パープルは、ハードロック史に燦然と輝く名曲「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を含む72年のアルバム「マシン・ヘッド」により、その地位をさらに確固たるものにします。さらにこの勢いを駆って約半年後にはこれら生まれたばかりのハードロック名曲群を、ライブ・パフォーマンスにおいてより一層過激な再現をしてみせたアルバム「ライブ・イン・ジャパン(欧米では「Made In Japan」のタイトル)」をリリースし、ハードロック・ライブのひとつのプロトタイプを提示したのでした。「Made In Japan」は英米で大ヒット。特に日本では、自分たちが目の前で見たステージが正式ライブ盤としてワールド・ワイドに発売されるという“栄誉”も手伝って、歴史的名盤としてその後長きにわたり“ハードロック小僧”たちの間で教科書的に語り継がれていくのです。

大飛躍を遂げ、世にハードロックの在り様を明確に定義づけた第二期ディープ・パープルでしたが、急激な大ブレイクによりメンバー間に確執が発生し、73年には再びメンバーチェンジを余儀なくされます。天才ボーカリストの脱退によりパワーダウンが懸念されたパープルでしたが、新メンバーのデビッド・カヴァーディル(Vo)グレン・ヒューズ(B、Vo)を加え74年に再スタート。それまでのどの代表曲にも負けないハードロックの代名詞的名曲「紫の炎(キムタク出演のタマホームのCMで流れるあの曲です)」をフィーチャーしたアルバム「紫の炎」をリリースし、70年代ブリティッシュ・ハードロックにおける不動の地位を確立したのでした。このタイトル曲における、ブラックモアの印象的なギター・リフと強烈なギターソロは、ブルースの影響から解放された全く新しいジャンル、ハードロックのギターのお手本と言うにふさわしく、本当に素晴らしい作品に仕上がったのです。ベック→ツェッペリンときたブリティッシュ・ハードロック誕生期の流れは、ディープ・パープルによってブルース色が排除され、新たな音楽ジャンルとして確立期に入っていったのでした。

★ハード・ロックを知る基本アルバム★
①「イン・ロック/ディープ・パープル」
②「マシン・ヘッド/ディープ・パープル」
③「ライブ・イン・ジャパン/ディープ・パープル」
④「紫の炎/ディープ・パープル」

「地球温暖化」の真偽は、“神のみぞ知る”?

2011-01-22 | その他あれこれ
今年の冬は寒さが一段と厳しく、日本海側は大雪、太平洋側 も低温が続いています。昨夏が記録的な猛暑で盛んに「地球温暖化」への警鐘が鳴らされていただけに、冬寒い熊谷にあってはこの冬は暖冬という温暖化の恩恵を期待していたのですが、見事に裏切られた形です。米国の環境レポート等では以前から「地球温暖化」説に疑問を投げかけるモノが話題を集めたりしたものですが、こう冬が寒いと科学的根拠はさておき「地球温暖化はでっち上げ」という話の信憑性が増して、「地球温暖化説は疑わしい」という気分にさせられたりもするわけです。

一方温暖化を説く側の主張よれば、「地球温暖化」により北極付近の寒気が押し下げられて日本列島あたりの寒さが一段と厳しくなると考えられるそうで、今年の様な冬の寒さも温暖化を示す事例として十分説明できるのだとか。「なるほど」と思う半面、別のwebでは「夏はなぜ冷たい空気が日本列島付近に下がって来ないのか」とか、「CO2増加による温室効果が温暖化をもたらし猛暑を呼びおこしているのならなぜ冬の日本列島付近にはその温室効果が現れないのか」とかにも「確かに!」と思わされたりもして、素人の私レベルにはどちらを信じるべきか判断に困るのです。

何を言いたいかと言いますと、このように温暖化の「ある」「なし」を巡っては意見が真っ向から対立するわけで、自然界のことは我々人間が推測できる範囲をはるかに超えたいわゆる神のみぞ知る領域であると思うのです。昨夏の猛暑とこの冬の厳しい寒さの相関関係の有無にしろ、いろいろもっともらしいことは耳にしても、正確なところは誰にも説明できないわけですから。「地球温暖化」目的でのエコ活動をはじめとするCO2削減に異論を唱えたりするつもりは毛頭ありませんが、これらの活動に関してあまりに断定的な物言いで、「地球温暖化を防ぐためにこうすべき」とか「地球は温暖化してないから対応は必要ない」とか、「地球温暖化」を軸として語るのはいかがなものかと思うのです。

分かりやすく言い換えます。
自然環境保護や資源を大切にするエコの精神は素晴らしいことであると思いますし、人間が生態系や自然の摂理を破壊しない配慮を持つことは大切なことだとも思います。ただこれらの問題を正確には事実認定のできない「地球温暖化」と結びつけて語られるのはどうもしっくりこないのです。欧米で一部言われいるような「どこかの誰かが個別の利益誘導を目的としてデッチ上げたもっともらしいお話」とまでは思いませんが、少なくとも「地球温暖化」が現象解釈の域を出ず正確な事実認定ができないのであれば、「地球は温暖化をしている」という主張も「いや温暖化はしてはいない」という主張も自然環境保護云々の理由としては話すべきではないと思うのです。いずれの物言いも「ロジカル」な印象がなく、実に気持ち悪いのです。

以上の見解は自然科学に関しド素人の戯言ですので聞き流して頂いて結構ですが、今年の冬の厳しさに関し、片や「温暖化はウソ」片や「これも温暖化の影響」という相対する意見を場面場面で目にするにつけ思った次第です。


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昭和問わず語り3~伊達直人しかり、少年マンガはぼくらの「先生」だった

2011-01-19 | 昭和
年末から日本各地に登場の匿名プレゼント人「伊達直人」。ご存じ懐かし昭和の人気マンガ「タイガーマスク」の主人公です。最初に「伊達直人」を語ってランドセルのプレゼントをした人は、きっと昭和のマンガにはあった人肌の暖かさを思い浮かべつつこの主人公の名を選んだのではないでしょうか。今回は昭和の漫画を思い出し語ってみます。

週刊少年マンガ雑誌が世に登場したのは昭和30年代半ば。私が初めて父にマンガ本を買ってもらったのは5歳の昭和40年、父の田舎静岡に連れられていく途中初めて新幹線に乗った東京駅でした(今思うと、当時人気が出始めて話題になっていた少年マンガ雑誌を、父は私にかこつけて買ってみたんだと思います)。それは忘れもしない「少年サンデー」で、記憶が曖昧ですが「スーパージェッター」「サブマリン707」「忍者赤影」「おそ松くん」などが連載さていて、まだよく字が読めなかった私は行きの電車の中では父に、田舎の家に着いてからは親戚の叔母さんに吹き出しを読んでもらい、帰ってからも何度も何度もそれを見返していたのを覚えています。それからの私は連載マンガが読みたくて、一生懸命字が読めるようになろうとひらがなを勉強し、程なく少年マンガ読者の仲間入りをしたのでした。

「少年サンデー」から入った私でしたが、直に「少年マガジン」に移りました。キッカケは石田国松が少年サッカーで活躍する「ハリスの旋風」だったと思います。確か最終回はブラジルからの留学生ラサールとの交換留学で旅立つところで終わるのですが、子供心に「何でこれで終わりなの?」その先が知りたいと思ったものです。この作品終了前後に「マガジン」の人気を決定づける作品が続々スタートします。「巨人の星」「あしたのジョー」「愛と誠」のシリアス路線三作がそれです。個別の作品のお話はまた改めますが、これらは全て梶原一騎氏の原作(「あしたのジョー」は高森朝雄という氏の変名)によるものでした。とにかくスゴかった。この三作が巻き起こしたのが最初のマンガブームで、小学校の父兄会でも「マンガばかり読んで勉強しない子供が増えている」と問題になったと記憶しています。私はそんな大人の心配を尻目に、毎週毎週、連載マンガの次がどうなるのか楽しみで楽しみで仕方なかったのです。

今話題の「タイガーマスク」も先の三作と同じ梶原一騎氏の原作でした。連載されていたのは確か「ぼくら」だったかなと。養護少年施設出身の主人公がマスクマンのレスラーとして活躍し、施設の子供達に贈り物をして恩返しをするというストーリー。当時読んでいた子供の私も、親がいて欲しいものを親に買ってもらえる自分の恵まれた環境は、子供心にありがたいことなんだと思った記憶があります。昭和のマンガは今思うとけっこう学ぶことが多かったのです。「あしたのジョー」からは、“オトナの男の生き様”みたいなものを教わったのかもしれませんし、「巨人の星」からは目標を持って生きることの大切さを、「愛と誠」からはお金ではけっして償ったり買うことのできない人の気持の大切さを教えてもらったのかもしれません。これらの主人公は皆恵まれない境遇から這い上がって行く、実に「昭和」ですよね。

原作者の梶原一騎氏は私生活ではいろいろ問題を起こしたりトラブルの多い人物ではありましたが、考えてみると実はある意味当時の子供達の「先生」だったのかもしれません。マンガが単に流行を作り出すだけでなく人の生き方のヒントさえも教えてくれる、そんなストーリーが煙たがられずに受け入れられる時代でもあった訳です。子供をかばって車に轢かれた瀕死のタイガーマスクが、死んでも自分の正体を明かすまいとドブ川にマスクを投げ入れる最終回も、昭和的正義の生き様を教えられる思いで読んだ記憶があるのです。このところ の伊達直人の一件も、そんな古き良き昭和の教えを今一度思い出した方々の昭和に育てられた「良心の行動」なのだろうと思うのです。私が少年マンガを読まなくなったのは、少年マンガに力を競うだけの格闘モノや、“下ネタ”的描写で読者を引きつけようとする“学び”のない邪道路線が増え始めた昭和50年代であったと記憶しています。

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「70年代洋楽ロードの歩き方30」~ハードロック 2

2011-01-16 | 洋楽
ハードロックの元祖第一期ジェフ・ベックグループは2枚のアルバムを残して69年、彼の気まぐれからあえなく解散します。返す刀でベックが結成に動いたのが、アートロックの雄と言われたヴァニラ・ファッジのティム・ボガート(B・VO)、カーマイン・アピス(D)との新たなるハードロック・バンドでした。しかしながら、ベックが交通事故で重傷を負うという事態になり、ボガートとアピスはベックとのバンドをあきらめカクタスを結成。ベックの次なるハード路線は立ち消えになりました。聞くところによれば、ボーカルには第一期ベックと同じロッド・ステュワートを予定していたと言うのですから、このバンドがこの時期に結成されていれば洋楽の歴史は違ったものになっていたのかもしれません。

一方、ベックのバンドを手本にしてブルースを基調としながらもハード路線に打って出たバンド、レッド・ツェッペリンを結成したジミー・ペイジですが、69年にはハードロック・アルバム最初の傑作と言える「レッド・ツェッペリンⅡ」をリリースします。「胸いっぱいの愛を」「ハート・ブレイカ―」などの後世に語り継がれる名曲を多数含んだこのアルバムでは、ギターリフを中心としたハードロックのひとつのスタイルが確立されています。これによりギターを中心とした当時のバンドアンサンブルにおけるギタリスト第一人者の地位は、ベックではなくペイジとして歴史に刻まれ、いよいよ新たな時代である70年に突入することになるのです(クリームを解散させたクラプトンは、この当時もハードロックと言うよりは多分にブルース寄りであり、彼はその後のキャリアを通じても決してハードロック・ギタリストでないと思います)。

ベックはその後第二期ジェフ・ベックグループを結成しますが、ここで彼は新たにブラック寄りのアプローチとジャズ系キーボード奏者マックス・ミドルトンの影響によりその音楽ベクトルを急展開させます。これが後の「ブロウ・バイ・ブロウ」以降の“孤高のギタリスト路線”につながる重要なポイントなのですが、このあたりは別項で改めて触れたいと思います。彼が70年代初頭にやり残したハードロック路線の活動は、73年第二期ジェフ・ベックグループ解散後に待望久しいボガート、アピスと結成したベック・ボガート&アピス(BB&A=写真)として遅ればせながら実現します。しかしながらこのバンドは、ハードロック黎明期の69年に企画されたバンドであり、時代の流れが急速であった70年代前半において企画から4年後に結成の陽の目を見たバンドでは既に時代に共鳴を求めることは難しく、1枚のスタジオ盤と日本のみ発売のライブ盤を残してあっさりと解散、彼が再びハードロック路線に舞い戻ることはありませんでした。

※実はこのBB&Aは日本が当時、海外情報不足もあり英米ポピュラー音楽の時代の流れの外にいたことで、73年当時でありながらこのオールドスタイルのハードロックバンドが日本に限って熱狂的に迎えられ、「BB&Aライブ・イン・ジャパン」も名作ライブと言われていました。実際このライブアルバム、確かにボーカルが弱くキーボード不在という点が73年レベルからは古臭いのかもしれませんが、3ピースとは思えない重厚感溢れる良質なハードロック・ライブでして、重たいリズムセクションといつになくハードでソリッドなベックのギターが冴えわたっていて個人的には大好きなライブ盤です。40年近くにわたる愛聴盤のひとつだったりします。

★ハードロック黎明期を知るアルバム
①「レッド・ツェッぺリンⅡ/レッド・ツェッペリン」
②「ベック・ボガート&アピス・ライブ・イン・ジャパン/ベック・ボガート&アピス」

内閣改造で与謝野氏入閣?こんなのアリ?

2011-01-13 | ニュース雑感
明日内閣改造だそうですけど、今日の報道から思うところを少し。

与謝野馨氏が「たちあがれ日本」を離脱して入閣するとか。これは一般論的に考えてちょっとヒドくないですか。あまりに無節操です。前回の衆院選では地方区で民主党の海江田万里氏に敗れて、自民党の比例代表でかろうじて救われて(いわゆる比例復活)の当選。その後自民党を離党し「たちあがれ・・・」を立ち上げた時にも、比例自民党枠での当選なのだから一度議員辞職すべきとの声も上がっていましたが、今度は1年足らずで自身が立ち上げた政党を離脱して“宿敵”民主党政権に入閣って、おかしくないでしょうか?自民党から立候補して民主党に敗れて自民党の比例枠で当選。それなのに離党して新政党を立ち上げ、今度はそこすら抜けて批判の矛先であった民主党にすり寄っての入閣ですから、有権者を完全にバカにしていると思うのですが、いかがでしょうか。

何やら政界では経済通であるとか、政策通であるとか言われていますが、何度も言いますがこの人、リーマンブラザースが破たんしたその日に自民党総裁選の遊説先で「日本経済の景気の腰は強い。リーマンの破綻なんぞハチがチクリと刺した程度、ご心配なく」とのたまったのです。“素人”の私が同日、「これは日本も含め世界的に大変なことになる」と当ブログで真っ先に書き込んでいたその同じタイミングでです。言ってみれば机上の経済知識はお持ちなのでしょうが、“実体経済オンチ”そのもの。今回の件を見てもこんな全く一貫性のない勝手な行動をとって、いかに国民感情を逆なですることになるのか予測もつかない訳ですから、経済だけではなく全くの“実態オンチ”です。

こんな人をあえて取り込もうという管政権も、何を考えているのかよく分かりません。かえって支持率を落とす結果になるのではないかと思うのですが…。与謝野氏と言えば小泉政権時の自民党政調会長として郵政民営化を強力に後押しした人物です。郵政問題はどうするんでしょうか?政局を巡ってガタついているどさくさまぎれに国民新党の亀井静香氏は、私利私欲の塊たる郵政“逆戻り”法案を今通常国会で可決させようと虎視眈々です。与謝野氏は入閣をするということで、この問題にまで過去と180度異なる対応を取ると予想される訳ですが、こうなるとこの人のいい加減さは呆れてモノが言えないレベルです。別に好き嫌いでモノを申しあげるつもりはないのですが、世にいい加減な政治家が多いとはいえ、常識的にみてここまで無節操な行動をとられる方も珍しいのではないでしょうか。「たちあがる」はずが大臣のイスに座りたいようで・・・。次は「イスに座わらせろ日本」でも立ち上げますか?

ちょっと気になったので言わせてもらいました。

訃報~横澤彪氏

2011-01-11 | その他あれこれ
日本のテレビをある意味革命的に変革させた功労者、元フジテレビ・ゼネラルプロデューサーの横澤彪氏が亡くなられました。

私が知る限り、昭和の日本のテレビを娯楽ツールとして磨きをかけた人物が何人かいます。古くは、高度成長の日本のテレビを変革させた放送作家の故塚田茂氏。彼はNHK主導の事実を伝えるテレビから楽しむテレビへの移行に大きな役割を果たしました。その流れを受けて、バブル期前後にテレビという娯楽ツールにブランド化の考えを持ち込んで番組制作に新たな流れを作ったのが横澤彪氏その人でした。塚田氏が放送作家の立場から原稿主体でテレビを面白くしたのに対して、横澤氏はフジテレビの社員として根っからの映像マンの立場で見る側にどう映るかの視点から番組作りに取り組み、「楽しくなければテレビじゃない」のコンセプトの下「俺たちひょうきん族」や「笑っていいとも」に代表されるヒット番組を連発し、当時キー局の視聴率競争では万年最下位だった落ちこぼれのフジテレビを再生させ、一気にトップにまで持ちあげた功労者でもありました。

彼の戦略の特徴は、テレビ番組や出演者のブランド化でした。その代表例が、漫才ブームを巻き起こしお笑いの活躍の場を演芸場からテレビに移行させた「THE MANZAI」でした。漫才を横文字で表現するという当時の今風な工夫と、どこまでもそのコンセプトに貫かれた番組づくりは、上方のお笑いを上手に取り込むことでそれまでの旧来の漫才を全く新しいものとして誕生させ、その後のお笑いの世界の流れさえも変えた大きな功績でありました。タモリ、さんま、たけしのビッグスリーの現在の地位確立や、昨今のゴールデンで芸人を見ない日はないというほどの“芸人ブーム”は、横澤氏の入念に考えられた当時のブランド戦略抜きには成し得なかったと言っていいと思います。我々世代にとっては、ちょうど学生時代から若手社会人時代のテレビトレンドを作った流れでもあり、コミュニケーションスタイルやライフスタイルに多大なる影響をうけたと改めて思うところであります。その後フジテレビ内での権力闘争に巻き込まれ吉本興行に移りましたが、そこでも同様のお笑いのブランド化戦略を展開し、関西限定であったはずの「吉本」のブランドはいつしか日本全国で通用する笑いの“品質保証印”にまでなり、今や芸能界ではジャニーズを並ぶ2大ブランドであると言っても過言ではないと思います。

考えてみると、「ひょうきん族」や「THE MANZAI」の流れが今でも通用するという業界事情を見るに、横澤氏以降のテレビ界にはほとんど革命児と言える人が登場していないように思えます。最近の娯楽王座の座からひきすりおろされるような民放テレビの人気下降線傾向には、確かに衛星TV乱立やデジタル化によるテレビメディアの多チャンネル化の流れやインターネットの発達による「YOU TUBE」や「ニコ動」の台頭など外的要因も多々あるものの、ここ20年間以上にもわたってこれといった変革も起せずにきた民放テレビ界の“胡坐(あぐら)状態”が作り出したマンネリ化を容認する姿勢にも問題大いにありなのではないかと思うのです。その意味では横澤氏には、折も折地デジ元年を迎えた民放テレビ界に外部から“卒業生”として、新たな変革の奮起を促すという重要な役割がまだまだ残されていたようにも思っています。73歳という最近の平均寿命からすれば少しばかり早い死には、多くの影響を受けた世代の一人としてとても残念に思います。氏のご冥福を心よりお祈り申しあげます。