日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

連合赤軍40年、ワタミ問題にも通じる「敗北死の肯定」という踏み入ってはいけない暗黒

2012-02-28 | 経営
今年は連合赤軍事件からちょうど40年だそうで、40年前の今日2月28日はあの「あさま山荘事件」が終結した日。学校から帰ってテレビにくぎ付けで、鉄球攻撃から逮捕に至る一部始終を生中継で見たと記憶しています。連合赤軍を詳しく知ったのはこの「あさま山荘事件」が契機ではありましたが、どちらかというとこの事件の解決後に明るみに出た「山岳ベース事件」の方が数段衝撃的で、中学生という多感な時期の私の心に連合赤軍とは何であるのかという探究心が沸々とわきおこったことが昨日のことのように思い出されます。

「山岳ベース事件」はいわゆる「総括」の名の下行われた連続集団リンチ殺人事件で、群馬県の山中に作られたアジトを舞台に、12人の仲間が次々と殺されたという犯罪史上まれにみる凄惨を極めた事件でした。当時私個人は「なぜ、思想活動の下で同じ仲間を殺すに至ったのか」ということがこの事件最大の関心事であり、事件後に出された数々の雑誌記事や書籍をとにかく読み漁ったものです。至って個人的な話で恐縮ですが、私自身が持つ組織と人の心理を解明しあるべき組織運営を探求するというライフワーク的命題は、思い起こせばこの事件を機に与えられたものであるのかもしれないと思っています。

連合赤軍の「総括」は、未熟な組織リーダーがトップに立つことによる常軌を逸した組織管理が引き起こした事件でありました。この事件を主導した組織のリーダーは、広く知られるように森恒夫(73年自殺)と永田洋子(11年病死)です。森恒夫は、赤軍派の時代には敵前逃亡などの失態もある、実は気の小さい小物であったと言われています。対して革命左派出身の永田は嫉妬深い生来激情タイプの独裁者気質。セクト統合に伴う主導権争いの末、本来ふさわしくなかったリーダーの座についた森は、目に見えない永田への畏怖心にも押され言動を変貌させ強権的立場をとったと個人的にはみています(会社組織においても、気の小さいリーダーほどパワハラなどの問題を発症させ、自分に責めが及びにくい恐怖政治的独裁制に走る傾向があります)。

森は永田に煽られつつ「反抗的」「日和見」「脱落」等の理由で、次々と仲間を「総括」の名の下に殺害していきます。自身や永田が気に入らない者は、一方的に考え方を押し付けつつ「自己批判」をもとめ「総括せよ!」という抽象的な要求で批判を繰り返し、挙句に直接・間接を含めた暴力的な行為をも「総括」手段として肯定し死に至らしめる。結果、力尽きた仲間たちを「敗北死」として自らの行為を正当化するという、著しく正気を逸脱した行動に入り込むのです。周囲は、自己の防衛本能から誰もこれを止めることができず泥沼にはまり込む。リーダーの資質のない者がリーダーになり、強権的独裁体制を確立した悲劇がそこに見て取れます。

連合赤軍40年を機に、資料を読み返しその問題点をひも解く中で再会したこの「敗北死」という言葉。あらゆる組織運営にとって、絶対に肯定してはいけない言葉であると改めて連合赤軍の事件は教えてくれています。企業において仮に“脱落者”がいたとしても、組織内外に新たな道を用意し活路を開く支援をするのがリーダーのあるべきであり、いかなる理由があろうと敗者復活を認めず「敗北死」に追い込むリーダーはそもそも資質面で失格であるはずなのです。この「敗北死」という言葉を聞いて、失礼ながら私は今物議を醸しているワタミの渡邉美樹さんの顔を思い浮かべてしまいました。従業員の死を残念であるとしながらも、自己の至らなさを省みることができない姿は、まさしく「敗北死」を肯定するリーダーのそれであると思えてしまったのです。

「ヒト」「モノ」「カネ」という三大経営資源の中でも、もっともかけがえのない存在であるはずの「ヒト」。企業経営者と言うリーダーはたちは、どんな状況下にあろうとも従業員を「敗北死」に決して追い込まない経営、従業員の「敗北死」を決し容認しない経営を忘れないことこそ大切であるはずです。リーダーが「敗北死」に追い込まない、「敗北死」を容認しない勇気を持ち組織内にその風土の浸透をはかることこそ、企業という組織運営においてもパワハラや過労死や不幸な自殺を未然に防止する重要なカギを握っているのではないかと思えます。連合赤軍事件から40年を経た今なお、この事件は組織運営の教訓として十分な有効性を持っており、これをしっかりと語り継ぐ必要性を強く感じる次第です。

渡邉美樹さん、「ごめんなさい」から始めましょうよ

2012-02-24 | 経営
遅ればせながら、ワタミの女子従業員自殺に関する過労死認定の件です。いろいろな方が意見や述べられていますしツイッターは引き続き大炎上しているそうですが、私からは企業のあるべきを考える立場から、渡邉さんが経営者として今どう振舞うべきかを申し上げておきたいと思います。

とにかく分からないのはなぜ「ごめんなさい」が言えないのか。そこに尽きます。当事者に対して、世間に対して、お客様に対して、そして従業員・株主に対して。大炎上、大批判の最大の原因はそこにあるのが見えないのでしょうか。私が知る経営者の方々でも、従業員に対して謝れない方はけっこういます。自分が偉くなりすぎてしまうと、「例え私が間違っていたとしても、こいつらに謝るのは違うだろう」「少しシタデに出ておけばそれで、いいだろう」「俺は社長、相手は社員なんだから」などと、自身の地位に根差したプライドから勝手な判断を下して誤った行動をとるトップは世に多いものです。特に中小企業のオーナー社長には、よくある傾向です。

このような社長へのアドバイスとして、「何よりここを正せないと会社は成長できませんよ」、そんなことを申し上げるケースもしばしばです。それをお分かりいただけるのにも相当時間がかかったりはするのですが、それでもやるしかない。そんな会社の組織風土改革をお手伝いする際には、「トップを含めて、『ありがとう』と『ごめんなさい』は上下関係なくちゃんと伝えましょうね」「まずは社長からお願いしますね」「謝ることは恥ずかしいことではないのですよ」と、小学生並みのところから始めないといけいない会社もたくさん存在します。上場もされて大企業になられたワタミさんも結局そのレベルだったのですね。

渡邉さんの場合には、これに加えて今後遺族からの訴えが起きた際の裁判等の展開を視野に入れた顧問弁護士の“入れ知恵発言”でもあるのかもしれませんが、そんなところであざとい計算を入れた言動は被害者の感情を逆なでするだけであり、事をより一層大きくすることに終始していまうのではないでしょうか。ワタミからは「報道されている勤務状況について当社の認識と異なっておりますので、今回の決定は遺憾」とのコメントを出しているので、自分が謝ってしまっては主張に一貫性がなくなるとかもお考えなのでしょうか。細かい勤務状況がどうであったかとかは別の問題であって、被害者日記等からもうかがえるようにその自殺に会社での勤務がかかわっていたことが疑いのない状況である以上、経営者として迷惑をかけたという事実は確実に存在するわけで、とにかくまずは素直に謝るべきではないかと思うのです。

人に迷惑をかけること、人を悲しませること、人を不幸に陥れること、それらの全責任が会社にあるか否かという問題ではなく、少なくとも雇用主として大いにかかわっていたわけなのですから、「自殺した従業員の勤務先経営者として、責任を感じています。力及ばずで本当に申し訳ありませんでした」となぜ謝れないのか私には理解できません。それとも自殺は全く別の理由だなどと、かかわりすらも否定するつもりなのでしょうか。私はこの問題はコンプライアンス以前の問題として、渡邉美樹さん個人の経営者としての資質が問われていると受け止めるべきであると思うのです。自分がかけた迷惑に素直に謝ることすらできない経営者に従業員はついてくるのでしょうか、「ごめんなさい」も言えない経営者が運営する店に顧客は足を運ぼうと思うのでしょうか。

私は渡邉美樹さんとは同い年なのですが、我々世代は昭和の経営者たちの既成概念に凝り固まった経営を打ち破り新しい時代をつくるフランクな経営へと転換をはかりつつ、次代につなぐ役割を担っていると思っています。渡邉美樹さんは、その経営手法の良し悪しはともかく、そんな我々世代の代表的経営者として頑張っている姿にはそれなりの評価をもって見てきてただけに、本当に残念です。もしコンプライアンスにとらわれて、謝ることがコンプライアンス違反を認めることになるかのような誤った認識をお持ちであるのなら、今すぐに気がついてください。一人の経営者として、コンプライアンス以前に何を考え何をなすべきであるのかを。

繰り返しますが、まずは一連のできごとに当事者の従業員を雇用していた会社の経営者として、会社が及ぼした迷惑を謝ることから始めてください。コンプライアンスやらなんやらを議論するかしないかなど、すべてはそこからです。顧問弁護士の言うことを聞くのではなく、経営者としてご自身で考えるのです。法律家に経営者のどうあるべきかを求めてはいけません。経営者としてここで「死する」か否か、重要な岐路に立たされているとご認識いただきたく思います。

“女芸人報道”に思う、低俗なテレビ番組にリビングを占拠される恐ろしさ

2012-02-23 | その他あれこれ
どうでもいいっちゃ、どうでもいいことですが、テレビのワイドショー番組でちょっと目に余る事態が…。

私は毎朝我が家のリビングで、新聞各紙に目を通したり雑誌を斜め読みしたり、その間テレビは民放のワイド番組がかかっているわけで、面白そうなネタが耳に入るとそっちを見るという感じで情報チェックをしています。そんな生活の中、ここ数日気になってはいたのですが、とある女芸人の家賃滞納がどうとか霊感師の催眠作用がどうとか、まぁ東電やら原発問題やらと同レベルかあるいはそれ以上の力の入れようで連日流されているのが何の意味があるのかと、ややイラっとしてきておりました。ワイドショーですから、芸能ネタを流してはいかんとは申しませんが、たいした内容でもなさそうな(と私には思えます)ものを大事件が起きているかのような扱いにはどう考えてもおかしいと思ってはいました。

今日に至っていよいよこのエントリーに書こうと思ったのは、遂に本日「ここが以前Nさん(女芸人)と霊感師が一緒に来ていたカラオケボックスの部屋です」という意味不明なロケ取材まで登場するに至り、これはさすがにイカンでしょうと思った訳です。何なんですかね、いくら話題の渦中の人たち動向を取り上げるとしても、以前訪れていたカラオケボックスの誰もいない部屋を映してなんの意味があるのでしょうか。この現場で殺人事件でも起きたかのような取り上げ方には、ホント呆れさせられました(こんなものを我が家のリビングで流していること自体知られたくないほど恥ずかしさを覚えるレベルでした)。

「公共の電波を使ってけしからん!」というありきたりの物言いで非難する価値すら感じさせない、それほどにまでひどい番組作りだなと思わずにいられません。「文句があるなら見なきゃいい」に尽きるのかもしれませんが、仮にそうであっても制作側は少し考えて欲しいと思います。ワイドショーと言うものの低俗さは今に始まったことではありませんが、こんなひどいネタと一緒に政治ネタも社会事件ネタも扱われたのでは、いくらワイドショーでも番組内の他の報道ネタに対する信頼感や出演者の信頼感、ひいてはそのテレビ局自体の信頼感が著しく損なわれることになると思いますけど、どうなんでしょうか。

ねつ造やらヤラセやらで過去に悪名を積み重ねてきたテレビのワイドショーですが、そのたびごとに非難のポイントとなってきた「電波の公共性」という問題に関して、制作サイドは結局その本質を分かっていないということになるのだと思います。「電波の公共性」という問題は、ねつ造やヤラセをやらなきゃなんでもいいってわけじゃないのは、まともな大人が少し考えれば分かることだと思うのです。そこまでテレビ番組を作る人間が堕落しているのかと思うと、テレビがどこの家庭でもリビングを占拠し少なからず国民の思想形成に影響を及ぼしている我が国の現状には、そこはかとない恐ろしさを感じずにはいられません。

ドコモのNOTTVは“iPhone諦め宣言”?

2012-02-22 | ビジネス
NTTドコモが4月からスマホ向け放送事業に参入するそうで。ドコモと民放などが出資するmmbiが独自の番組を制作してスマホで見れるようにするというサービス、NOTTV(ノッティービー)と言うそうです。月420円の有料放送で、ニュースやドラマなどを3チャンネルで24時間流すとか。「通信と放送が融合した新しいサービス」と鼻息が荒いようですが、果たしてこのサービス、スマホ利用者に受け入れられるのでしょうか。

NOTTVはテレビの地デジ化に伴って空いた周波数帯を使うことで、回線の混雑による通信障害が発生しない配信が可能になるので、このところのスマホ急増のあおりからきた通信障害で何かと悪い評判ばかりのドコモにとってはイメージ回復の切り札であるのかもしれません。しかしながら問題点も多数はらんでいるようで、このサービスの評価がいかなるものになるのか予断を許さない状況ではあるようです。

一番分かりやすい問題点は、端末のこと。NOTTVの番組は、専用アンテナを装備した特定の端末でなければ見ることができないという半端なサービスであるようで、初年度で100万契約、3年後には600万契約を計画しているというのですが、それはちょっと難しそうな気がしています。料金も従量制ではなく、固定額月420円をわざわざ払って新規契約するというやり方なので、よほど魅力的なコンテンツがそろわなければワンセグでテレビもYOUTUBEで動画もタダで見れる時代に、なかなか契約のハードルは高いのではないかなと、人ごとながら心配になったりもするわけです。でも、ここはまだいいとして…。

何より、「このガラケーまるだしのサービスを、ホントにスマホ向けでやるの?」って言う疑問を抱かざるを得ないのが最大の問題点である気がします。そもそも日本の携帯電話機器は、世界の携帯市場から分離した大半の利用者には“なくてもいい”独自先端技術化によるガラパゴス化した市場として発展したために、それがすなわち日本の携帯電話メーカーの世界シェア拡大の足かせにもなってきたわけです。それがここにきて、日本市場におけるスマホの急拡大により、ガラケー文化を一掃し世界基準的携帯業界への移行の大チャンス到来であったように思うのですが、なぜかまたここでドコモがガラケー化新サービスを、しかもスマホ向けにって一体何でしょう???

思うにこれは、ドコモの対iPhone対抗スマホコンテンツなわけなのかなと。その証拠に、iPhoneを擁するauもソフトバンクもこの通信放送サービスへの参入は“静観”なわけで。iPhoneがないから、ドコモは手を変え品を変えガラケー戦略をスマホにまで仕掛けてくるのではないでしょうか。ワンセグやお財布ケータイとか既存サービスのスマホへの付加はまだしも、新たにまたガラケーサービスを載せるというのはなんか違うんじゃないかなぁと違和感を覚えるわけです。そもそも、そのスマホ向けオリジナル放送って、そんなにニーズがあるものなのでしょうか。どうも私には、アップルとどこまで行っても交渉決裂の状況が悔しく、苦し紛れに「うちのはこんなこともできるんだぜ!」と全く別のことで自己満足して紛らわす行為、心理学でいうところの「代償行為」のようにも見えてしまいます。もっと言えば、いよいよ諦めたのかなぁとも。

曲がりなりにも日本の通信トップ企業であるドコモが今回、我が国携帯業界の国際基準化の流れを阻止するかのようなスマホのガラケー化新サービスの動きをとっている姿を見るに、同社のiPhone取り扱いの可能性は限りなく少なくなったかなと思わずにいられません。

野菜高騰は消費者の自己責任?

2012-02-20 | ビジネス
スタッフに「野菜の高騰が続いているのに、なぜうちの野菜は安いんですか?」と言われて言葉に窮しました。うちの会社が経営するカレー専門店では、農家直送野菜を載せた「野菜カレー」が好評なので、仕入れた野菜の一部店頭で販売もしているのですが、その価格は白菜、椎茸、ほうれん草、山芋、トマト、ネギ、きゅうり…、すべてひと房またはひと袋80~100円。昨年6月の店舗開店から全く変わることがありません。冒頭のスタッフの言葉が気になったので店長に確認すると、「うちは仕入値が変わっていないので、この価格で問題ないですよ」とのことなのです。

冒頭のスタッフ曰く、「今一番高いのは葉モノ野菜で、ほうれん草なんてスーパーじゃ200円ぐらいしますよ」とか。えっ?ウチの倍?わが社の価格とスーパーの価格に生じた大きな差額、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。野菜の高騰についてネットで調べてみると、相次ぐ大寒波の到来で野菜の成長に打撃を受けて出荷が減っているのがその原因と言われています。うちは埼玉、群馬産の野菜を使っていて影響はゼロ。付き合いのある農家の話では、「確かに、野菜の成長に影響はあって収穫が減ったりはしているけど、それでイコール値上げなんてできません」と。

ん?じゃ一体誰が儲けてる?短絡的に憶測するとスーパーの一人儲けのような気もしてきます。というのも、うちの材料野菜には市場経由の野菜も一部使っているのですが、出入りの仲買業者の価格もここ数ヶ月間大きな変化はないのです。となると、結果的に価格高騰を演出しているのはスーパーなんじゃないのか、という推測が成り立つわけです。すわ、“便乗値上げ”か?と言いたくもなりますが、必ずしもそうとも言い切れない経済のメカニズムもそこには存在しているように思うので、その辺も考察しておきます。

①上記の証言のとおり農家はいつもと同じ価格で野菜を出荷、ただし数量の減少はある。市場経由あるいは農家からの直送でスーパーは野菜を仕入れるものの数の不足で売り切れが続く。
②このままでは売上が減少するので、消費者のニーズがあるのならと販売単価を上げて売上かさ上げをはかる。
③スーパー同士はライバル店の販売価格のチェックを怠らないから、それがマーケット水準を押し上げてしまう。
④それでも各店売れる状況が続くなら、スーパーの販売価格は高止まりする(ただし一部には仕入値を吊り上げてでも、モノを確保しようというスーパーもあって、その事が仲介価格を吊り上げる要因になっている例もあると思います)。

何がいいたいのかですが、「価格」と言うのは需給関係で決まるわけで、「品薄で売り切れるほどの需要があるから価格を上げてみる」→「それでも売り切れるならさらに価格を上げてみる」という悪循環に陥るわけなのです。すなわち、スーパーの悪意ある“便乗値上げ”と言うよりは(要するに数量ダウンで落ち込む売り上げを、受け入れられる範囲の価格調整で埋め合わせをしようということですから、悪意と言うのはちょっと違うかなと)、消費者自身の衰えぬ消費マインドが価格を吊り上げているのだということになるわけです。

ということは…。このところ「野菜が高くて嫌になっちゃうわよ」という主婦の声を店頭でもよく耳にしますが、「嫌になっても買っている」から価格が上がるわけで「嫌になったら買わない」ことが大切なのですね。皆が買わなければ、売れなくなるから「価格」は下がる訳です。オイルショックの時の狂乱物価は、「早く買わないとなくなってしまう」→「品薄」→「値上げ」のスパイラルに陥った、まさにこのメカニズムの最悪シナリオがもたらした現象だったのです。亡き我が父は昭和の物価高騰の折々に「高いものは買わなきゃいい。売れなきゃ安くするしかないんだから、買う奴が悪い!」とよく言っていましたが、まさしく正解だったわけです。

物価上昇は内外情勢の変化を受けてその時々さまざまな要因が原因となって起きるわけですが、店頭価格上昇一途の悪循環を導かないためには消費者の冷静な判断が不可欠なわけです。長引く現状の野菜高騰も実は消費者行動にもその原因の一端があるということは、いまさらですが我々一人ひとりがもっと意識してもいいのではないかと思うのです。加えてスーパーが安易な値上げに頼らない強い営業姿勢を構築するためにも、消費者が甘やかさないことも大切であると思う次第です。

オリンパス事件を機とした、監査役にかかわる法改正議論を

2012-02-17 | 経営
オリンパスの巨額粉飾事件で関係者7人が逮捕されました。メディアの注目は、この事件の“飛ばし”指南役とされる元証券会社社員が同社元役員とともに逮捕されたことのようで、昨日来の報道もこの指南役逮捕がクローズアップされたものになっています。私個人的には、外部関与の問題の明確化と罰則規定等の法整備の重要性も確かに理解できるのですが、本事件から強く示唆されるべきは企業のガバナンスのあり方の見直しであるはずで、昨日来の報道を見る限りにおいてはその部分が事件発覚からの日を追うごとにトーンダウンしつつあることに懸念を抱いています。

ガバナンス強化に向けた具体策は、日本の企業における監査役というものの定義および処遇の明確化が最重要ポイントであると思っています。今回の事件でももちろん諸悪の根源は経営トップにあることは確実ではあるのですが、具体的な粉飾を実行した元取締役がその後監査役に就任していたという点にこそ、ガバナンス機能不全の一番の根源があったと思われます。言ってみるなら、犯罪の実行犯が所轄警察の担当官であったという状況を作っていたわけで、事件が発覚すること自体を不能にしていたこの事実は、もっともっと叩くことで他の企業への警鐘をより一層派手に鳴らすべきなのではないかと思うのです。

そもそも我が国の監査役という存在自体が日本企業特有のもので、ガバナンスなどと言う言葉もなかった昭和の時代から長らくは「閑散役」等と言われる“ごほうびポスト”であり、役員経験者やそれに準じる組織功労者(その判断はトップの独断によるのですが)の“上がりポスト”として使われてきた形式的存在にすぎなかったわけです。しかし時代が変わって、マーケットの国際化に伴う企業統治におけるグローバル・スタンダードの考え方の導入と相次ぐ海外・国内の企業不祥事の発生とにより、無理やり日本的監査役を国際基準に押し込もうとしたが故にいろいろな抜けがいまだに存在することこそ大きな問題であり、今回のオリンパスの事件にしても国際的にみれば「なんでこんなトップ子飼いの人物が監査役をやっていたの」ということになるのです。

本来監査役は組織において独立した存在であり、取締役特に日本企業では絶対的な権力を持つ代表取締役の業務執行を監督することがその大きな役割であるのですから、トップの“子飼い”が監査役になるというようなことがまかり通っていたのでは、相互けん制を礎とするガバナンス機能が働くハズがないのです。そうは言っても現状の会社法における監査役の選出方法は取締役会での承認後、株主総会での決定によるという流れであり、代表取締役が絶対的な権限を有する日本の取締役会においてはその意を踏まえない人選などあり得ないわけです。言ってみれば“ザル”法です。理想形は監査役会が候補を選出し、取締役会へは報告の形をとりつつ自動的に株主総会議案になる、という流れが必要なのではないかと思うのです。

さらに監査役報酬にしてもその独立性の精神が同法に盛り込まれてはいるものの、総額が定款または株主総会で決められ、その範囲内で監査役会の協議にとより会社に通知され決定されるのですが、大元の総額決定議案自体が取締役会決定事項であるわけで、この部分も人選同様に“ザル”な訳です。要は取締役会での絶対権限者である代表取締役が、監査役全員の報酬を決めその総額をもって上限として株主総会議案として上程するなら、実質的には代表取締役が監査役報酬を決めていることとなんら変わりなく、報酬決定権者と配下人の関係が自然と成立していまうのですから。

現実はさらにひどくて、大半の企業では取締役報酬と同様に代表取締役が監査役報酬を決めて個別通知しているのが実態という、およそガバナンスなど期待できない状況にあります。監査役報酬の決定方法は、企業の財務情報を全て知りえる立場の監査役であるのですから、企業の経営状態、将来性、役員報酬水準、社員の平均給与などを勘案したうえで監査役会が協議をして個別監査役の報酬を決め、監査役の人選と同様に取締役会報告を経て株主総会で承認を得るという流れがふさわしいのではないかと考えます。

オリンパスのようなトップ子飼いの人物が監査役に就任して、実態として監査役によるガバナンス機能が働いていない例は、大企業においてもまだまだ多くの会社で存在していると思います。もちろん不祥事が起きるか起きないかは、それだけが原因ではありませんが、ことトップが関与している不祥事に歯止めがかかるか否かにおいては、監査役が本来果たすべきストッパーの役目は大変重要なものがあるのです。しかしながら、その重要性を認識できずに自己の支配下で監査役を動かそうという企業トップがいまだに多く存在する理由は、「監査役の定義」に対する正しい理解がなされていないことに尽きるからではないのでしょうか。

その認識を改めるためには、あまりほめられた方法ではありませんが、やはり経営トップに対する罰則規定を含む法的な縛りをもって理解を求めていく以外にはないのではないのかなと。オリンパス事件のような世間を揺るがす企業不祥事が噴出したときこそが見直しの絶好機であり、日本企業の経営における世界水準への向上、ひいては世界的な競争力強化に向けても大変重要なカギを握っていると思うのです。今回の逮捕を機に、不祥事に関係した外部指南者への罰則の法制化議論と共に監査役の選出や報酬に関する会社法の見直し議論は、もっともっと盛り上げるべきなのではないかと感じている次第です。