日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「自転車マナー強化」通達は、政治・行政の手抜きの上塗りだ!

2011-10-27 | ニュース雑感
「自転車の交通マナー悪化を受け、警察庁は対応を強化する方針を固め、25日、各管区警察局・各都道府県の警察に通達した。通達では、自転車が通行可能な歩道の幅を原則「2メートル以上」「3メートル以上」とした(以下略)」(BLOGOS「"自転車は車道へ" 取締強化」より)。

これまでも平成20年の道路交通法改正時に、「自転車の車道走行強化」がはかられてきてはいるものの、依然として自転車走行マナーの改善がみられないために、更なる強化策が打ち出された模様です。ただ、現状の道交法の規定は有名な“ザル規程”であり、その点こそが問題なのであって、そこのテコ入れがされない限りはいくら今回のような強化通達が出されようとも全く意味をなさないと思われるのです。すなわち、文書的な規制強化よりも先に、法の内容を順守されるような環境整備がなされていないことが問題の根源なのであり、道交法改正からのこの3年間の間に何もせずにきた、“お上(カミ)”の怠慢こそ諸悪の根源であるのです。

問題の道交法。同法では、自転車を「軽車両」と定め「歩道と車道の区別があるところでは車道を通行するのが原則であり、車道の左側(車両通行帯のない道路では左側端)を通行しなければならない」としています。しかしながら、「原則」に呼応する「例外」の説明として別項で「普通自転車の歩道通行に関する規定」というものがあり、そこでは「車道又は交通の状況に照らして当該普通自転車の通行の安全を確保するため、歩道を通行することがやむを得ないと認められるときには、歩道を通行することができる」とされてもいるのです。これは実にあいまいかついい加減な定めあり、まさに“ザル”そのもの。要は、「一応は車道を走ってね」なのですが「危ないと思う時は歩道を走ってもいいよ」と言っているのです。

この規定の中で欠けているモノは「誰が」です。誰をして「歩道を通行することがやむを得ないと認められる」かが、全く記載されていないのです。これでは、どんなに歩道が狭い場所であろうが「車道を走ることは俺が危ないと思ったのだから、歩道を走っても文句はないだろう」ということになってしまいます。しかも今回の通達では、またもや得意の「自転車が通行可能な歩道の幅を原則「2メートル以上」「3メートル以上」とした」と「原則」の文字を入れる「例外容認規定」であり、受ける側の自転車に乗る人間からすれば、こんな“ザル法”に“ザル通達”出されようが出されまいが何も変わらないのです。

「誰が」が抜けているのは、明らかな責任回避です。ではどうするべきなのか。やはり「誰が」をハッキリさせ「責任」を明確化させるためには、各自治体に全権限を委譲して県警との共同作業によって「この歩道は周辺車道の状況から考えて自転車通行可である」とか「この歩道は3メートル以上あるので歩道通行可である」とかを、誰が見ても分かるように明示すべきなのです。運転免許を持たない人間は道路標識を見るという習慣がないでしょうから、自転車幼児や老人や障害者以外でも歩道の自転車通行が可能な場所は歩道の色を変えるとか、ガードレールの色を変えるとか、そんな工夫を行政の責任においてすればよいのです。

このような環境整備をまず行った上で、道路交通法における「歩道を通行することがやむを得ないと認められるときには」の部分において「各自治体の判断により」という文言を入れ「自転車運転者の判断ではない」と言う点を明確にしない限り、自転車マナーの根本的な改善はなされないと思うのです。もちろん地方財政状況も厳しい中インフラ対応は難しいと言う声もあるかもしれません。であるなら政府が、これまで何度となく問題の俎上に上がった来たものでありながら抜け道だらけの形式的な法整備でお茶を濁してきた“お上”としての責任において、自転車マナーの問題は「由々しき問題」なのか「止むなし」なのか、ここいらで明確な結論付けをおこない、環境整備をするのか否か、する場合には何年度までにそれを完了させるのか国民の前に明示する必要があるのではないでしょうか。

たかが自転車マナーの問題ではありますが、その場しのぎの“モグラ叩き”で問題先送りを繰り返す今の日本の政治・行政を象徴するような事象であり、政治・行政の取り組み姿勢の根本を正す起爆剤にもなりうる問題であるように思えています。

銀座・有楽町~老舗デパート苦し紛れの迷走劇?

2011-10-25 | ビジネス
15日に有楽町マリオンの阪急百貨店がリニューアルオープン。28日には同じマリオンの西武百貨店の後釜である有楽町ルミネがグランドオープンします。一方ボーナス商戦を控えた有楽町百貨店の活性化に呼応して、銀座の百貨店も動きがあわただしくなってきました。長年のライバル松屋銀座と銀座三越が19日、初の共同イベント「ギンザファッションウィーク」をスタートさせ、不況下で締まり気味になっている消費者の財布のヒモをなんとかゆるめようと熱い戦いの火ぶたが切って落とされた、そんな印象です。

そもそもの流れはこうです。不況にあえぐ銀座界隈に外資を含めた低価格アパレル販売の進出が相次ぎ、隣接地域の有楽町まで巻き込んでの業界地図塗り替えが始まったのがここ4~5年の流れ。有楽町マリオンの西武デパートは防衛策として女性特化の戦略を打ち出したものの、隣接地域への丸井イトシアの新規出店もあり、敢え無く撤退の憂き目に。銀座松坂屋はメインテナントに外資系低価格ファッションブランド「フォーエバー21」を迎えると言う“禁じ手”に出て、テナント貸しへの転換ともとれる言わば“開店休業”状態に陥りました。松屋、三越、阪急は老舗名門のプライドに賭けて思いきった戦略の転換を図ってきた、そんな現状であるようです。

まず、阪急。西武とのマリオン対決の時代から黒字は確保しつつも、どこか中途半端で古臭い一般百貨店を続けてきました。イトシアの出店で赤字転落を余儀なくされ、起死回生策として打って出たのが高級紳士物に特化した「阪急MEN'S TOKYO」へのリニューアルでした。これは大阪梅田でのメンズ館の成功に味をしめての計画であるようです。同店では、「ここには世界中からビジネスマンや観光客が集まるが、これまで見合う規模のメンズ業態はなく十分成立する」と自信をみせているようですが、果たしてどうでしょうか。

個人的には難しいとみています。まず第一に梅田メンズ館の成功は、大阪と言う土地における阪急ブランドのなせる技であったという点。親会社の阪急電鉄沿線には芦屋をはじめ日本でも指折りの高級住宅地が軒を連ね、長年にわたって阪急沿線のハイソなブランドイメージが阪急電鉄グループのブランド作りに大きく貢献しています。それがあってはじめて高級紳士物メインのメンズ館は成り立つ訳ですし、また沿線高級住宅地の高所得者の層の暑さもこれを支える裏付けとなっているのです。一方関東で紳士物で成功している百貨店は唯一伊勢丹のみと言ってもいいほど難しい領域です。これとて長年にわたる企業のブランド戦略と有能なバイヤーの努力の賜物であり、阪急百貨店に対する確固たるイメージすらおぼつかない関東圏での冒険戦略は、先行きかなり険しいと言わざるを得ないように思います。

松屋、三越の共同戦線にはさらに「?」が付きます。「ギンザファッションウィーク」では、共通ブランドの開発や紙袋の共用化などで、銀座ブランドを“復権”させると鼻息は荒いようですが、所詮はプロダクトアウト的な送り手メインの戦略にすぎないように思えます。もう20年以上も前から消費の世界はマーケットイン主流の時代に移っているにもかかわらず、「古き良き銀座」の復興に向けてやり方まで昭和元禄を思わせる送り手メインに逆行するとは、新興勢力に追われて苦しまぎれに手を結んだ老舗デパート連合の迷える姿そのものであるかのようです。もちろんこの提携戦略がこの先どのように実のあるマーケットインの流れに移行していくのか、結論はそれからではあるとは思いますが・・・。

このような中、マリオンのルミネが28日にオープンする訳ですが、ルミネといえば20~30代をメインにした流行最先端をいくファッション・スペースです。H&Mやフォーエバー21がなぜ銀座界隈を変えつつあるのかを考えれば、低価格戦略でなくともルミネの有楽町進出は至って納得性の高いものであると思えます。そう考えると、個人的には“富裕層”や“復興”で呼び戻しを狙う老舗百貨店の、何とはなしに感じさせる時代感覚の“ズレ”が実に悩ましい気分にさせられたりもしますが、皆さんはどうお感じになりますか?

ギリシャのゼネストは既得権全廃に向かう“一揆”だ!

2011-10-21 | ニュース雑感
ウォールストリートのデモの話にギリシャのゼネストの話。世界の出口の見当たらない底なし不景気の象徴のような出来事であり、わが国とて決して他人事ではなく考えさせられることが多くあります。

ウォールストリートで聞かれる代表的な声は、「金融街など人口のわずか1%の人たちが世界を仕切っていて、99%の人々が苦しんでいるのはおかしい」。ギリシャのゼネストで聞かれる代表的な声は、「一部の金持ちを守って、庶民に負担を強いる財政再建策は許せない」。ともに資本主義社会が積み上げてきた社会構造を、根底から否定する主張であります。言ってみれば、資本主義が行き着いた格差社会に対する疑問を投げかけ、その是正を求める民の声です。

先進国を襲う世界的大不況は、今後一層の高齢化社会が進行する未来において改善の灯はほとんど見えてこないと言っていいでしょう。すなわち、先進国の経済成長期に大量消費で経済を支えてきた若年層は今や老年層になろうとしていて、先々への備えを考え「使う」ことではなく「貯める」ことを美徳とした生活に移行しています。一方、未来を支えるべき若年層はその絶対数が大幅に減少しているがために、今後彼らに消費経済の活性化を期待しても多くを望むことはできないのです。

そういった構造的な問題が大きく横たわっているということが前提にあり、「格差の是正はこの先永久にできない」と庶民層は肌で感じているからこそ生存欲求から発せられる危機感が、デモやストライキといった抗議行動となって現れているのです。時代や国は違いますが、日本の江戸時代の一揆もまた「封建社会のままでは、苦しみ続ける状況はこのまま変わらない」という生存欲求に起因する危機感から生まれた抗議行動であり、同じ類のものであると言っていいでしょう。

江戸時代の一揆における庶民の決起理由は、封建社会が作り出した特権階級武士層と一般庶民との格差に対する疑問と抗議でした。そしてその末に導かれたものは、時代の流れや大原則を覆す明治維新だった訳で、身分制度という根本的な価値観の転換や既得権の放棄がもたらした社会改革によって国家としての再生をなし得たと思われます。今の時代に置き替えて考えるなら、先進国の民主主義、資本主義の下で身分制度は存在しません。ならば基本的には、資本主義社会の中で構築された既得権の扱いをどう転換させるかこそが、悪しき格差社会の弊害を取り除きこの先にある未来をしっかりと築き上げていくために必要なのではないでしょうか。

この場合、個々の階層の既得権の見直しも大切ではありますが、資本主義における最大の既得権は法人等が生み出した利益を一部個人が独占することにより築かれた資産の無条件相続であり、その見直しこそが本丸であると思えてなりません。江戸時代から明治維新への移行時に行われた社会構造改革は、まさしく身分と資産の無条件相続の否定だったのです。すなわち現代において資本主義社会が行き着いた先にあった既得権に守られた格差を正すような方向修正は、決して社会主義や共産主義が埋め合わせるものでないことは歴史的自明事項ですが、既得権と資産の無条件相続を何らかの方法で否定する必要があるのではないかと思われるのです。

誤解を恐れずに申し上げるなら、実は相続税の見直しこそが格差社会を是正し「貯める」から「使う」へ社会構造を変えていく最も大きな既得権廃止策でないかと。要するに法人での稼ぎを個人に転化したとしても、その一代で使いきるのは良しとし(少子化社会における「使う」の助長)、相続により無条件に次世代に引き継がれること(「貯める」の助長)を否定し、黙って格差創造を容認する流れを止める仕組みを作るのです。

この部分だけを読めば、馬鹿げていると一蹴されかねないかなり乱暴な話かもしれません。特にわが国においては「税の公平性」という見かけ上平等を装った作られた原則論に守られ、実現の可能性は極めて低いでしょう。しかし、資産相続を含めた「生まれながらの既得権」の是正による根本的社会構造変革こそが、格差に奪われたエネルギーを取り戻させ活力ある次代を生みだすと、一揆から“明治維新”に至る歴史は教えてくれているように思えるのです。ウォールストリートやギリシャの一件から、遠い江戸末期を思い浮かべ夢想的にそんなことを考えさせられた次第です。

各地で続出“不安のホットスポット”を国は放置するな!

2011-10-18 | ニュース雑感
世田谷に続いて横浜、さらには足立、船橋、川崎・・・、首都圏各地で続々高放射線量が検出されたとの報道が相次いでいます。

これだけいろいろな場所で高放射線量が検出されているのは、これまで少なくとも一般民間人とは縁遠かった放射性量計測が身近なモノになってきた流れがあります。あらゆる場所で放射線量が計測される機会が増え、局地的に放射線量が高い“ホットスポット”なる言葉も一般的になるほどその存在が続々明らかになってきているのです。

しかし、世田谷のケースがその典型例であったように、これらの高放射線量はほとんど福島第一原発問題とは無関係のようでもあり、これら“ホットスポット”の存在はもし福島の一件がなかったなら、誰も気づくことなく通り過ぎていたであろう話でもあるのです。大学の先生あたりからは「局地的に放射線量が高い“ホットスポット”の存在が、大抵は即周辺住民に悪影響を与えるわけではなく過剰な反応は不要」との声も聞かれています。

それでも自ら放射能測定をおこなう住民たちの不安はとどまるところを知りません。今までは気づかず通り過ぎていた“ホットスポット”を自らすすんで見つけ出し、3・11以降過敏になった放射能汚染に対して生活上の不安を自ら増大させてもいる・・・、どうも少しおかしな状況になりつつあるのかな、私の目にはそう映って見えます。

原因と思しきは、報道の姿勢にもあるのかなと。報道自体が冷静な判断を怠って、必要以上に不安を掻き立てるかのような記事の取り上げを好んでしているのではないかと。世田谷の一件は言うに及ばず、横浜、足立等の報道も「大事件発生!」というようなトーンに思えます。仮に「“ホットスポット”近隣住民のがん発症率が異常に高いと言う調査結果がある」というのなら「大事件」ですが、単に長年気がつかなった“ホットスポット”がたまたま見つかったと言う「事実」をどのような姿勢で取り上げるべきなのか、報道も一に立ち返って考えてみてはいかがかなと思ったりもしています。

そんな訳で、今報道されている“ホットスポット”は、私にはメディアの“書き得”報道により作られた“不安のホットスポット”であるように思えています。もちろん、メディアの“書き得”状況は、政府がしっかりとした見解を明らかにしないことに根本原因はある訳です。政府は“不安のホットスポット”への対応を各自治体任せにするのではなく、一刻も早く自己の責任において続々登場する“ホットスポット”の正しい分類なり捉え方なり考え方なりを明示し、国民生活の不安を取り除く努力をして欲しいと思います。

小沢一郎に学ぶ、「コミュニケーション能力に欠けたリーダーシップの末路」

2011-10-12 | 経営
小沢一郎氏の初公判とその後の記者会見について、各方面でより現場に近い方々がいろいろ書かれていますのでここまで静観をしてまいりました。私が言いたいことも出尽くしの感が強いですし、そもそも有罪か無罪かの話は個人的にはどちらでもよい、かつ「説明責任を全うせよ」の論調も効果がなさそうなので止めにして、本業である組織コミュニケーションの観点から少し書いてみます。

小沢氏の会見を振り返って見れば、①延々自己主張のコメントを一方的に読み上げ、②新聞電波2問+フリー&ネット2問の質問のみ、③さらに都合の悪い質問には“禁じ手”の「問い返し」をした挙句に最後は恫喝。自己主張をするだけして、皆が聞きたいことには一切答えないだけでなく、凄んで黙らせる。会見をする立場の人間のコミュニケーションとしては最悪と言ってもいいのではないでしょうか。これではメディアからも、国民からも信頼が得られるわけがありません。周囲の誰もそれを氏に忠告できないという“裸の王様”ぶりには、なんとなくもの悲しいものすら感じさせられる会見でした。

小沢氏はつくづく“コミュニケーション下手”なのだなと思います。普段からほとんどその心の内を見せようとしない、敢えて見せたくないのか、そうかと思えば今回のように突然一方的に感情むき出しの発言をする。それを見ている国民にいい印象を持てと言うほうが無理なのです。新聞はじめマスメディアが“悪者”と決めつけて扱っている影響もあるかとは思いますが、それとてメディアに対して自身を見せないことの繰り返しが招いたこと。「メディアは国民の代弁者である」とはよく新聞記者が口にする言葉ですが、それが正しいが否かは別としても、確かにメディアを敵に回して国民を味方につけることは難しいと改めて実感させられる流れではありました。

“コミュニケーション下手”と申し上げましたが、正確には「今の時代においては、“コミュニケーション下手”と受け止められる」ということかもしれません。要するに古いタイプのコミュニケーターなのです。氏が田中角栄に師事して政界の帝王学を学んだ時代には「見える化」などといういう言葉は影も形もない時代でした。“偉い人”は口数少ないことが威厳を保つのによろしいとされ、何でもあけすけに話をする「軽口」は軽薄の極みぐらいに思われていました。そして時々忘れた頃に、ガツンと一発カミナリを落とす。それがまた周囲への畏怖心を生みだし一層の威厳構築に寄与する、政治家に限らず私が社会人になった昭和50~60年代頃までは大抵の“偉い人”はそんなやり方で威厳を保っていたように思います。

しかし平成の時代、特に21世紀は全く違います。正しかろうが間違っていようが自分の考えを明確に表明し、内面を見せているが如くに振舞うことが国民の信頼を得られるのだと、くしくも小泉元首相は教えてくれました。彼の主義主張が正しいか正しくないかではなく、その内にこもらない明快さが長期政権を維持させ高支持率を支えたと言って良いかと。昔“変人”と呼ばれたその人は、気がつけば最も支持される存在になり得たわけです。小沢氏がもう少し早く、少なくとも民主党に合流した時点でこの時代の流れに気がつき、ご自身のリーダーシップの活かし方を考え直していたなら、今頃は初代民主党首相として安定政権の下、震災復興に辣腕を振るい国民の圧倒的な支持を得ていたかもしれません。

リーダーシップ論では、リーダーシップにはいくつかの種類があり必ずしも小沢氏のような「専制的リーダーシップ」が悪いものであるとは限っていません。ただ、高度成長に支えられた時代と出口のない不透明感が蔓延する現在とでは、リーダーシップを支える背景となるものが全く異なっているのです。不透明感の強い時代にそのリーダーシップを有効に機能させられるか否かについては、そのより大きな部分をリーダー自身のコミュニケーション能力に頼らざるを得なくなっていることが氏の悲劇だったわけです。氏のような“見えにくく”かつ“強引な”コミュニケーションのとり方は、今の時代には求められない、いやむしろ疎まれる存在になってしまったのです。

そうは言いつつも、政党を転々としながらも長年にわたり政界の頂点近くに君臨しているというまぎれもない事実は、単に政治資金収集力的な理由だけでは説明できない氏の素晴らしいリーダーシップがあるからに相違ありません。今回の会見のやり取りを見るにつけ、そのリーダーシップを活かしきれなくなった本人の言動は、わが国にとって実は大変な損失なのではないかとさえ思わされるのです。

と言う訳で、最後に私の職業的な結論です。
どんなに有能な経営者であっても、コミュニケーション能力(単に口が達者なだけではなく、しっかり立場を踏まえかつ相手の立場でモノが言えるか否か)の欠如が災いすると、自己利益を追求する社員以外はついてこなくなり会社はひとつにならないのだということを、企業経営者は政治家小沢一郎の言動から反面教師的に学ぶ必要がある、
ということになるでしょう。