日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

被疑者写真の取り違えを、メディアは「お詫び」で済ませてはいけない

2012-10-31 | ニュース雑感
尼崎の連続変死事件の主犯と目されている角田美代子被告の写真とされ、各社で公開されていたモノが実は全く別人のものであったということが、写真本人からの申し出により分かったそうです。問題の写真は、各メディアに散々登場している和服を着た50代女性写真です。これはひどすぎます。報道によれば、取材記者が角田被告の長男の同級生の母親から入手したそうだが、本人の確認作業はどうなっているのでしょうか。本人の氏名、顔写真確認はメディア取材における“イロハのイ”です。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/10/31/kiji/K20121031004449060.html

本件は、警察における犯人の取り違え逮捕と同じレベルで責めを負うべき問題であるでしょう。あの写真を見たどれだけ多くの人があの写真に罵声を浴びせかけたことでしょう。それが全くの別人であったとは。女性は報道陣に「もの凄い憤りを感じている」と話したそうですが、その心中や察して余りあるところです。

二次使用、三次使用の新聞、テレビメディア各社は早速「お詫び」を伝えているようですが、他の事件で同じように本人の名誉を傷つけるような取り違えが発生したなら、こぞって原因追究にこれでもかと糾弾を続けるであろうメディアは、本件を「お詫び」の一言で終わらせてはならないと思います。読者、視聴者にとっては、いつ何時わが身に降りかかるかもしれない事態であり、詳細な原因究明と再発防止策を、我々の前に提示する義務があると思われるからです。

メディア各社には、どこのメディアが当該写真を最初に入手し、どのような手続きで本人と断定し使用したのか。二次使用、三次使用の各メディアは独自の確認作業を怠ったのではないのか。それはなぜか。同じような事態を起こさないためにはどのような対策を講じる必要があるのか。それらについて、速やかかつ詳細な調査と報告を求めたいと思います。

もうひとつ本件発生に至った大きな原因に、角田被告の写真を警察がこれまで公表していないということがあります。これに関しては捜査上様々な事情があるのかもしれませんが、このような二次被害を生むような事態になるほど、国民の関心が高い凶悪事件であり、主犯被疑者の写真を公開しないのなら、その理由を明確にする必要があると思われます(今回のような不明な部分が多い事件における被疑者の早期写真公開は、むしろ一般からの未入手情報の提供にもつながるものと考えられるだけに、どうも腑に落ちない感じもしております)。

いずれにしましても、メディアの不用意な対応による二次被害は絶対に起こしてはならないということを肝に銘じ、各メディアは早急にあるべき対応を確立して我々の前に提示して欲しいと思います。

石原新党に望むたった一つのこと

2012-10-26 | ニュース雑感
石原慎太郎都知事が知事職を辞任して新党を結成すると発表し、世間は大騒ぎになっています。石原氏の実績評価や今回の行動に関する是非については、専門の政治評論家の方々のエントリに譲るとして、ここでは石原新党の立ち上げを機に総選挙に向けた政党の“あるべき”を、組織戦略の観点から少し考えてみたいと思います。

昨日の石原氏の会見で氏は現状の国の問題点として、「財務諸表がない」と論じていました。企業であるならば必要不可欠なB/SやP/Lといった財務諸表を国もつくり、専門家の手によって分析させることで管理会計の手法を積極的に導入して財政の健全化をめざすべきであるとの意なのでしょう。この点は確かに言い得ているとは思うのですが、政治が企業運営に学ぶべきを石原氏が論ずるのであるなら、日本の政党には財務諸表以前に取り組むべき根本的問題があると思っています。

それは「ビジョン」の明確化です。「ビジョン」とは何か。一般的に企業運営において、一番上位に来るものが「ミッション=理念」であり、それを受けて「○年後までに、どうなっていたいか」をより具体的に明示する「ビジョン=めざす姿」があってはじめて、当面の方向感が見え社員が道に迷うことなく組織についていくことができるのです。付け加えるなら、「ビジョン」を受けて現状と「めざす姿」のギャップを埋めるためのものが「戦略」であり、その「戦略」をシナリオ的に成立させるためのものが個別の「戦術」であるわけなのです。

現状の政党にあるものは「理念」と「戦術」のみであり、どこに行こうとしているのかを明示すべき「ビジョン」がないのです。言ってみれば中身のない空洞化した“政党もどき”の選挙互助会なのです。民主党が失敗した理由もまさにそこ。「ビジョン」なき状況下で国民にとって喰いつきのいいおいしいことばかりを並べた「戦術」の寄せ集めであるマニフェストをいきなり作成したがために、マニフェストはいとも簡単に破棄され“嘘つき”呼ばわりをされるに至ったのです。「ビジョン」のない企業が報酬アップを餌に社員を引きとめていたものの、報酬アップができないことが分かり社員は軒並み退社して企業が存続の窮地に陥った、そんな感じです。

過去の歴史を振り返るなら、政治家としての良し悪しや個別政策の結果論はともかく、例えば池田勇人首相は「所得倍増計画」を、田中角栄元首相は「日本列島改造論」をぶち上げ明確な「ビジョン」を国民に提示することで政治に対する絶対的な信頼感を得てきたのです(それによって、付随する多々の問題発生はありましたが)。自民党の一党支配状況の崩壊からでしょうか、我が国の政治は国民に耳障りの良いことを並べ立てれば政権に近づけるという意識から、小手先の「戦術」提示ばかりに気を奪われるようになり、目的地はどこで到着予定はいつなのかという“時刻表” が全く見えないミステリー・ツアー状態になっているのです。

昨日の石原氏も含めて、“第三局”と言われる政党の皆さんから出てくるものは、細々(こまごま)とした「戦術」ばかり。何年後までに日本をどうしたいのか、国民生活をどのように改善してくれるのか、「ビジョン」は全くと言っていいほど見えてこないのです。これではダメな中小企業の経営と同じです。何かと言えば、「政策のすり合わせ次第では、連携、連合もありうる」という言い方をされていますが、連携・連合に一番必要なものは個別戦術のすり合わせではなく、「ビジョン」の一致でなくてはならないはずなのです。

石原氏が「最後のご奉公」と言って身を投げうつ覚悟で国政改革に乗り出すと言うのなら、現行政府の「財務」「外行」「憲法」の問題点ばかりをいたずらにあげつらって終わりでは、都政を投げ出したとの批判は免れ得ないでしょう。“選挙互助会”的政党こそ真っ先に批判の対象とすべきであり、国民に民主党政権を信頼してだまされた轍を再び踏ませぬためにも、まずなすべきは時間軸と共に自らの「ビジョン=めざす姿」を “第三局”の代表として率先して明示し、各党のビジョン的共通点・相違点を国民に対して詳らかにすることです。そしてそれがあって初めて、連携・連合の正当性の判断を有権者に委ねることができるのです。

組織において「ビジョン」の存在が社員に迷いを生じさせることなく導くのと同様、各党の「ビジョン」の明確化のより支持者を迷いなくその政党に追随させるものでなくてはいけないはずなのです。石原新党の登場により政局はより一層混迷を深め、有権者は何を判断基準として来るべき投票に臨むべきなのかがさらに見えにくくなることでしょう。石原氏は首都のリーダと言う職を投げうってまで一層の混乱に身を投じる以上、新たに立ち上げる新党で政党の“あるべき”を国民にしっかりと提示して欲しいと思います。

大臣と政府の「嘘」を見過ごしてはならない!

2012-10-24 | ニュース雑感
外国人からの献金、暴力団との交際が明るみに出た田中慶秋法務大臣が、“体調不良”を理由に大臣職を辞任しました。

これまでの経緯から氏が言うところの“体調不良”が、でっち上げの言い訳にすぎないことは誰の目にも明らかです。国民のほぼ100%の人が、辞任理由は「嘘」だと思っているでしょう。しかも、こんな白々しい「嘘」に関して、“ぶらさがり”をやらない首相の代りに記者団の質問に答えた藤村官房長官は、「体調の問題だ。いかんともし難い」と平気で言い放つ始末。

大臣の「嘘」も官房長官のシラキリも、首相の任命責任回避を目的とした組織ぐるみであることはあることは明らかなわけですが、国民に対してこんなにも平気で「嘘」をつき通すというのは許されざることです。大臣と言う“偉い人”が「嘘をついたり」「シラをきったり」することが許されるたのでは、子供の教育上よろしくないのはもとより、大げさに言うなら法治国家としてこの上なく由々しき問題であると思うからです。

メディア各社は、今回の大臣と政府の「嘘」を徹底的に糾弾すべきなのではないでしょうか。慣れっこになってはいけません。「あー、よくある政治家の嘘ね。まぁ“実質更迭”ということで書いておくからいいよ」で済ませていては、日本の三流政治改革などその根本の所から一歩たりとも前に進むはずがないのです。

「嘘とメディアの追求」の話というと、つい先日の山中伸弥教授ノーベル賞受賞に関連して、森口尚史氏なる人物が人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った世界初の治療をしたと主張した問題も、同じように国民の誰もが「嘘」だと確信をした問題でした。この時メディア各社は、森口氏を執拗に責め立てそこまでやる必要あるのかと思われるほど、何度も何度も会見やらインタビューやらを繰り返し「いい加減「嘘でした」と言え」と迫っていました。

それをやるなら、むしろ今回なんじゃないのでしょうか。田中慶秋氏は「嘘」の辞任理由を書面で公表しただけで辞任の会見すら開かない、首相の女房役である官房長官は「嘘」を真実であるかの如き前提で国民に対してシラをきる。首相の任命責任うんぬん以前の問題として、大臣が「嘘」をつきそれをよしとする政府を見過ごしてはなりません。メディアは国民の代弁者として断固たる態度で首相を引っ張り出し、これら一連の政府ぐるみの「嘘」に徹底的に糾弾すべきじゃないのでしょうか。

政府の“嘘つき体質”を目の当たりにして、「仕方ない」で通り過ぎるなんてあり得ません。これは大臣の違法献金問題や黒い交際問題なんかよりもはるかに重大な問題であると思うのです。私は怒っています。

「B-1グランプリ」が曲がり角に来ている件

2012-10-22 | ビジネス
北九州市でB級グルメの全国選手権「B-1グランプリ」が開かれ、「八戸せんべい汁」が今年のグランプリに輝いたそうです。

個人的には、そもそも「B-1グランプリ」のスタート時から、B級グルメの1等賞を決めると言うこの企画コンセプト自体に疑問を持ち続けているのですが、最近のこの大会を巡る流れを見るに、またぞろ様々な問題が噴出し「B-1グランプリ」自体が曲がり角に来ているのではないかと感じていますので、そのあたりに少し触れてみます。

まずそもそも論から。B級というのはA級じゃないからB級なのであって、人間に例えて言うなら、「一流大学出のエリートばかりがイイってもんじゃないんだよ。俺たちには俺たちの偏差値じゃ測れない良さがあるんだぜ」的な、ミシュランの3つ星とは対極にある「食」のアンチテーゼ的イベントであってしかるべきと思うわけです。

従いB級グルメのイベントは、B級というくくりのアンチ・エリート軍団を一同に会して、広く全国の皆さまに知っていただく機会としてのものでこそあれ、そこでのメインイベントが来場者の投票と言う最大公約数的な評価方法での順位づけという、言ってみれば偏差値エリートを生みだすのと変わらないシステムであるのはいかがなものなのかなと。“1等賞決め”至上主義のやり方は、地域の個性を第一に立たせるものではない、見せかけのアンチテーゼでしかないように思うのです。

次に、参加ルールと毎年開催しグランプリを決めると言うことの是非。「B-1グランプリ」を主催する愛Bリーグなる団体は団体加盟や大会運営にかなり厳しいルールをひいているようで、勢い各地域で組織化された地盤や資本的な背景のあるメニュー以外は、いかにおいしいメニューであってもハードルが高くなかなか参加できないという現状があります。

従い、取り扱い店舗が少ないメニューやポッと出のメニューは排除される傾向にあり(大会のために作られたようなポッと出の排除は、主催者の狙いでもあるようですが)、結局毎年ほとんど顔ぶれが変わらない上位常連の面子が顔をそろえて、毎年毎年同じ争いを単に場所を変えるだけで繰り広げるという流れになっているように思います。つまり、大会そのものが全国のデパートの催事場を回るB級グルメ展的な色合いが濃くなっていながら、毎年グランプリを決める意味はどこにあるのか、いささか疑問な感じもしているのです。

ちなみに、1度グランプリをとったメニューは“殿堂入り”と称して次回以降は投票対象からは除外されるというルールもあり、主要メンバーが順番待ちで優勝の栄誉をいただくという流れが出来上がっているわけです。今年グランプリを取った「八戸せんべい汁」も、これまでも2位、3位を続けていた上位の常連組で、目の上のたんこぶが次々「優勝⇒殿堂入り」で勝ち抜けする中で、ようやく今年順番が巡ってきたというそんな印象です。

もうひとつ、何でもそうですがプロジェクトが巨大化すれば、当然そこには利権が発生するわけです。具体的には、優勝することによる利権もさることながら、上位入賞の利権、さらには正会員、準会員というヒエラルキー創造による愛Bリーグ加盟そのもののハードルを高くしての正式加盟の利権まで発生しており、そんな中、主催者側との運営を巡る考え方の相違から、「三島コロッケ」「久留米焼き鳥」など愛Bリーグを脱退する有力団体も相次いでいると聞きます。

中でも最も由々しき問題であるのが、過去にグランプリ受賞経験のある「厚木シロコロホルモン」の昨年12月の脱退。詳細の事情は明らかにされていませんが、優勝による経済的なメリットは十分に享受したものの、“殿堂入り”後は不要な負担ばかりが増すだけで加盟を続けるうまみもないということなのでしょうか。常識的に考えて、何か加盟を続けることの大きなデメリットがないのならグランプリ受賞者が会を脱退するというのは、ちょっと考えにくい気がします。

今年は過去最大60万人以上の来場者を集めたという「B-1グランプリ」ですが、来場者からの悪い評判もチラホラ聞こえています。「食べたい人気メニューは何時間も行列しなくてはならず、結局1、2メニューしか口にできずにお腹をすかせて帰った」とか、「1食400~500円でほんのわずかな量しか入っていないものが多く、これでB級と言えるのか」等々。

メディアで大々的に取り上げられ、注目度が増せば増すほどあるべきB級のコンセプトから離れていくかのように思われる「B-1グランプリ」。権威化進行につきものの“既得権ビジネス化”による大会の退廃をいかに防ぎながら、B級グルメにエリート・グルメとは一味違う道を歩ませていくことができるのか。様々な問題点の発生を聞くにつけ、大会そのもののコンセプトの見直しを含めて、今大きな曲がり角に来ているように思います。

鳩山元首相の外交顧問就任は、民主政権の“脱対米従属”宣言?

2012-10-18 | ニュース雑感
民主党の鳩山由紀夫元首相が外交担当の党最高顧問に復帰したとか。これに対して自民党の高村正彦副総裁が、「日本には1億人以上も人がいるので、鳩山氏みたいな人がいることはそれほど驚くことではないが、政権与党の外交担当最高顧問に復帰するのは大いに驚くべきことだ」と皮肉ったと言います。さらに付け加えて、「これは野田佳彦首相が外交を国益と考えていないか、国益そのものが大事ではないと考えているのか、そのどちらかだ」と批判したと。

鳩山元首相と言えば沖縄の普天間基地辺野古移転問題で、「最低でも県外」の発言に端を発して国内世論を迷走させ、あげくにオバマ米大統領に対しての「Trust Me」発言でできもしない空手形を切り日米の信頼関係を考えうる最悪の状態にまで陥れた張本人です。その人物を同じ政権下で外交担当最高顧問に座らせるという事は、野田首相は鳩山外交に対する肯定姿勢を示したことになるわけです。

とすれば、「近いうちに」と約した総選挙に向かうにあたり何か現政権の目玉実績はないかと、鳩山外交が期せずして引き起こした「脱対米従属」を苦し紛れに民主党政権の“成果”として掲げ、高らかに宣言しておこうというものなのではないのかと。考えてみれば、鳩山外交による結果的「脱対米従属」路線化が、韓国李大統領の竹島上陸とそれに刺激された香港漁船の尖閣上陸に端を発した領有権問題再燃化を巡る日中関係の緊張を呼び込んだわけで、その後の外交はフルボッコ状態。「脱対米従属」を党の旗頭として掲げる覚悟でもないなら、今あえて鳩山氏を外交担当最高顧問に就任させる理由が見当たらないのです。

米国の後ろ盾なき状況下のあのタイミングで国有化の暴挙に出た“外交音痴”の象徴と言える尖閣問題への対応も、「脱対米従属」を内外に宣言する“旗揚げ興行”だったと考えるなら辻褄が合います。ならば、冒頭の自民党高村副総裁の発言を明らかな「対米従属」肯定発言と捉え、沖縄で米兵の婦女暴行事件も発生したこのタイミングで、野田首相が「国益を損なうのはむしろそちらの考えの方だ!」と反論して「脱対米従属」を明確に打ち出すに違いないとか、さらには当面の日米関係維持を重視し肯定姿勢を見せているTPP加盟やオスプレイ受け入れについても、一転TPP離脱、オスプレイ拒否への転身をはかるなんてことまであり得るのじゃないかとか、妄想させられもするのです。

どう見ても、国民をバカにしているとしか思えない今回の鳩山氏の外交担当最高顧問就任。「脱対米従属」を本気で次期衆院選の争点にする気でもない限り、いたずらに支持率を落とすばかりの納得性ゼロの施策であるとしか私には思えませんが、果たして首相の真意は…。

日本維新の会の戦略的誤りを示唆する「ランチェスターの法則」

2012-10-15 | ニュース雑感
日本維新の会の代表を務める橋下大阪市長が、13日に急きょ上京し石原慎太郎東京都知事と会談をもったそうです。以下記事の抜粋です。

 日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は13日、東京都内のホテルで石原慎太郎東京都知事と極秘会談した。次期衆院選での連携などについて協議したとみられる。石原氏は会談後、記者団に対し「いろいろな話をした」と語った。
 橋下氏は、報道各社の世論調査での維新の支持率低下などを受け、いったんは決別したみんなの党も含む第三極勢力と連携する方針を示している。石原氏との連携で、既成政党への対抗勢力をさらに拡大する狙いがあるとみられる。石原氏も自身を党首とする新党結成について「(近く出る健康診断の)結果をみて判断する」と、あらためて意欲を示しており、連携話が一気に進む可能性もある。(「Sponichi Annex」http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/10/14/kiji/K20121014004326400.html
より抜粋)

この記事の見出し「橋下氏、石原都知事にすがった!?支持率低下に焦り」というのは、けっこう言い得ているように思います。個人的な見解としては、拙ブログ11日のエントリ(「日本維新の会は桶狭間に学ぶべき?」http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/4ab88e74776e515e3e07dbabae83a29c)でも書きましたが、昨今の支持率の思わぬ低下をみて長老の力を借りるのではなく、今一度自身の選挙戦略の見直しをする方が先なのではないかと思っています。前回のエントリで触れた「ランチェスター戦略」の法則と選挙戦のかかわりについて、もう少し詳しく知りたいと言うお問い合わせもいただいておりますので、そのあたりから再度現状の維新の会の戦略的問題点を掘り下げてみます。

ランチェスターの法則は、第一次世界大戦時に英国のエンジニアであったFWランチェスター氏が発見した戦いの法則で、第二次大戦下ではアメリカによって利用され、近年ではこれがビジネス戦略に応用が可能であるとの考えから企業戦略向けにカスタマイズされて、競争戦略のバイブル的に扱われてもいます。政治における選挙選はまさに勢力争いを繰り広げる戦いそのものであり、企業戦略以上にランチェスターの法則が有効に機能する環境にあると考えられます。

ランチェスターの基本戦略において、何よりもまず心得なくていけないものに次の法則があります。
★「戦闘力=武器効率×兵力数」★
すなわち、軍の強さは「武器効力=武器の性能」を兵の数で乗じたものであり、正面勝負をしたならば、その数値の大小で戦の勝敗は決してしまう、というものです。実例をあげれば、戦国時代の織田信長が長篠の合戦で当時無敵と言われた武田騎馬軍を一蹴した背景には、鉄砲と言う最新鋭の“飛び道具”を使用することで「武器効力」を一気に高めたことが最大の勝因とされている、そんなところが分かりやすいでしょう。

選挙に置き換えるなら、「武器効力」は候補者一人ひとりの選挙戦を戦う力(選挙区における人脈等地盤、財力、政治経験、本人と所属政党の風評や人気等)であり、「兵力」は立候補者の数でしょう。すなわち2つの政党が同じ数の候補者を立てたなら、どちらが多くの議席数を確保できるかという勝負は候補者人ひとりが持っている「武器効力」の平均値の大小で勝負が決まると言うわけです。

となれば、現状全国で350~400という数の候補者(=「兵力」)を立てようと目論んでいる日本維新の会ですが、「武器効率」はどうなのかという点が、選挙戦と言う競争戦略を吟味する上で大変重要になってくる訳なのです。維新の会の「武器効率」はと言えば、既存政党に比べてまず候補者の基盤は弱い、個々の財力は「?」ですが既存政党の派閥から軍資金をもらっている候補者との比較では苦しい感じはします。政治経験から言えば素人が大半を占める候補者軍団が上位にあるとは言い難いでしょう。素人が大半の候補者本人の知名度や人気もまた同じ。要は、維新の会の「武器効率」は様々な要素を補って余りある政党の人気が支えきれるなら、「戦闘力」で他政党を凌駕し数でライバルに正面からぶつかっていく「強者の戦略」が通用するという“人気頼み”の状況なのです。

その肝心の政党としての人気ですが、各メディアの最新の世論調査では政党支持率2~4%台とここにきて凋落の一途と言う感じでして、その原因は「大量の素人軍団+既存政党の落ちこぼれ」という次第に明らかになってきた候補者の質の問題にも起因しているという厳然たる事実もあるわけです。ならばとばかりに、この期に及んでの動きが冒頭の他者連合。石原新党、立ちあがれ日本、みんなの党・・・これらとの連合が果たして人気回復による「武器効率」を凋落人気をV字回復させることにつながるのでしょうか。答えはノーです。橋下氏個人の人気に支えられてきたこれまでの維新の会人気を見るに、橋下氏の人気回復なくして党の人気回復はないとみるのがセオリーなのです。

とするならば、他者連合を組んででも数の論理で正面突破をはかろうという現状の「強者の戦略」は、今後選挙戦までに劇的な人気回復が見込まれない限りは、戦時の日本軍と変わらぬ無謀な戦いに足を踏み入れることになるのではないかと思われるのです。今なら間に合う日本維新の会の戦略的方向転換は、「ランチェスター弱者の戦略」以外にありません。まず自党の強み分析に基づいて選挙区を絞り、候補者を絞って、「局地戦」「一点集中戦」で来るべき選挙戦は確実に勝てる戦いに徹するべきなのです。大量候補者の無駄死にによるイメージダウンは、今後の政党の運営にも大きな影響を及ぼすことでしょう。戦略面で「強者の戦略」に転じれるか否かは、今回の選挙で当選した所属議員一人ひとりの活躍による「武器効率」の向上がはかれた後のその次の選挙戦で判断すべきことであると、歴史が実証した戦いの法則は教えてくれているのです。

村上春樹のノーベル文学賞受賞は永久にないと思う件

2012-10-12 | その他あれこれ
今年のノーベル文学賞が発表され、中国の莫言氏が中国人として初めて受賞しました。下馬評で最有力候補と言われていた村上春樹氏の受賞は今年も叶わず、早くも「来年こそ受賞」に期待する声が聞かれています。

以下はあくまで個人的な感覚ですから、村上春樹ファンの皆さまは気を悪くなさらないで欲しいのですが、どうも私にはいくら最有力候補と言われようとも村上春樹氏がノーベル文学賞というイメージが全然湧いてこないのです。そもそも村上氏の著作が文学?もとい、文学って何でしょう。音楽は私を含めどんなド素人が作曲しても音楽ですが、文学はそうではありません。ある一定の基準をクリアしたもののみが文学の評価を受け、文学としてこの世に存在するのではないでしょうか。だとすれば、より文学らしい作品がノーベル賞を受賞するのではないかと。もちろん、その一定の基準は個人の感覚に依るところも大きく、ノーベル賞選考委員の方々の感性にかかっているのかもしれませんが。

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成や、川端の受賞はこの人の受賞辞退宣言のお陰と言われた本来の初受賞最有力候補者三島由紀夫の作品は、確かに文学と言われるにふさわしい何かがあったと思いませんか。彼らの作品群を、川端文学、三島文学という言葉で語られることも、ごく自然におこなわれることであり何の違和感も感じないところです。

日本人として二人目のノーベル文学賞受賞作家である大江健三郎はどうか。社会派であるか否かは別としても、ノーベル賞受賞の理由のひとつにもあげられたその独自の散文的な表現方法はやはり文学と言われるにふさわしい匂いがそこにあるようには思われませんでしょうか。いささか個人的な感覚ではありますが、大江文学と言う言葉で表現してみても特に違和感ははなくさらりと受け止められる印象に感じられるところです。

村上氏はどうか。「ノルウェーの森」「風の歌を聞け」「1Q84」等々、文学の定義は不明なままあくまで感覚的な物言いでありながら、氏の代表作にいわゆる文学作品的な匂いに満ち溢れているかと言えばノーかなと。村上文学という言葉も、どこか耳馴染みが悪くピンとこないのが正直なところでもあるわけです。さらに、村上春樹ファンからの叱責を恐れずに言ってしまうなら、氏はどうしても文学者とは程遠いところに位置し流行作家の域を脱していないという気がするのです。

今回のオッズメーカーによる村上氏の本命予想も、その作品に込められた文学的な色合いを取り上げてのものと言うよりは、受賞の大きな要件とされる世界各国語への翻訳件数の多さによるものと言われています。一方、受賞の栄冠を勝ち取った莫言氏はと言えば、むしろその現実と幻想の入り混じった独自の作風が高い評価に値するとの見地から、対抗馬と目されていたと。結果はやはり、より「文学賞」にふさわしい作品が選ばれたのではないかと思えるわけです。

こうやって考えてくると、毎年毎年候補者に挙げられながら、落選を続けている氏の作品に対する評価は、この先もそんなに大きく変わることがあるのだろうかという疑問が頭をもたげてきませんか。すなわち、村上春樹氏は我々日本国民の期待とは裏腹に未来永劫ノーベル文学賞を受賞することはないのではないかと。ノーベル著作賞だったら受賞できたかもしれないのに文学賞は無理かなとか。やはり私には来年以降も、村上春樹氏がノーベル文学賞受賞というイメージが全然湧いてこないのです。