日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

NEWS雑感 ~ 諸々…

2009-09-28 | ニュース雑感
いろいろモヤモヤさせられる事件が多いので、とりあえず喰い散らかしつつ世論代弁大会をしてみます。

●JR西日本
すでに世間の怒り爆発ですが…。どんなに大変な大事故を起こしていても、反省よりも懺悔よりも何よりも、結局自己組織防衛が勝ると言う恐るべき「官僚体質」です。お願いする方もする方ですが、機密漏洩の元委員は罰則規定が無くとも、事故調査委員会として厳罰を課すべきでしょう。1千万円でも2千万円でも、5千万円でも1億円でも、払える限りの罰金を委員会の信用失墜に対して科してその罰金を遺族への補償の足しにするべきです。情報漏洩および操作依頼をした元社長と副社長は退職金返上で、この分も遺族補償に回すべきです。だいたい、この期に及んでまだ「組織ぐるみではない」とかとぼけているのは、反省の色なしです。見ていて腹立たしい限りです。この手の組織体質に起因する件は、厳罰処分以外に再発防止策はないと思います。

●谷垣さん
皆が思っていること…。「自民党は変わり映えしない」。そもそも自民党は変わる気があるのか。石原ジュニアも舛添も、「今出るのは総理の目も失うし得策ではない」とか考えての不出馬ですよね。本当の意味で、党の再建を考えていない、危機感がないとしか言いようがないです。この調子だと、改革とは程遠く来年の参院選はまた惨敗?来年も負けてダメ野党のイメージが染み付いてしまったらもう当分政権奪取は見込めそうにないですね…。いっそ小泉ジュニアにでも総裁をやらせたらどうでしょう?誰よりも人気だけは取れるんじゃないでしょうか。けっこうしっかりしてると思いますよ、彼。

●東国原宮崎県知事
「私は中立」とか、いけしゃぁしゃぁとのたまいながら鳩山総理を訪問したとか。自民党に「私を総裁候補にするなら自民党から出馬する」と、ついこの間の選挙前に言って世間を騒がせたばかり。それが、舌の根も乾かぬうちのこの発言です。呆れてモノも言えませぬ。前回の“総裁候補条件発言”の時も申し上げましたが、この人単なる権力欲で面の皮が突っ張ったただの目立ちたがりに過ぎません。今や自民党にひっ付いていても何も注目されないので、姑息な“コウモリ作戦”に出た訳ですね。政治家として恥ずべき無責任さは、宮崎県民も断固糾弾すべきと思いますが…。

●再び亀井静香
利息まで支払い免除とか言い放ち、依然国会への「借入返済モラトリアム策」上程に意欲満々のこの方。市場経済を理解しない、社会主義者そのものです。中小企業支援策を講じるなら、国として何をするかでしょう。銀行が融資を渋るのは不良債権化して、資産内容を悪化させ金融不安を招いてはならないからです。政府が全額保証して中小企業融資をどんどん出しやすいよう支援するというならまだ分かりますが(マネー・サプライ的におかしくなることは別問題として)、人のふんどしで相撲を取った上そのふんどしを売り払って返さないみたいな話ですよね。財政が苦しいからと言って「国債を予定通りには償還しません利金も払いません」と言ったら、国の信用はゼロですよね?それと同じ類のことを国としてしようとしているのですよ。日本の信用を失墜させる愚策を早く止めてください、鳩山さん。

●横綱審議員会
ヨコシンと言っても横浜信用金庫ではありません。人のふんどしの話の後はマワシの世界のお話です。昨日優勝した横綱朝青竜関、土俵の上での勝利の「ガッツ・ポーズ」を、ヨコシンが「けしからん」と怒っているとか。以前も注意したとかしないとか。まぁどうでもいいです、そんなこと。「ガッツ・ポーズ」の何が悪いのか?「国技たる日本の伝統的武道を汚す行為である」とか言うんですかね。アメフトのゲーム中に日本的な「おじぎ」で挨拶したら「けしからん」とはならんでしょ。おかしいですよ、絶対。ヨコシンは朝青竜が嫌いなんでしょ、きっと。勝って思わず「ガッツ・ポーズ」が出ると言うのは“ガチンコ”の証拠です。むしろ八百長だなんだと言われた過去に比べれば、ほめられてもいいぐらいじゃないですか。「ガッツ」って輸入品だからダメなの?ガッツ石松さんは、国技館には入れないのかもしれないですね。

<音楽夜話>私を育ててくれた「全米TOP40」とラジオ文化

2009-09-26 | 洋楽
ブログの日付は、書き始めの段階での日付が打たれます。本日の文章は土曜日に書き始めて止まっていたので、アップ日と打刻日が2日ほどずれてしまいますがご容赦ください。

当ブログでは土日祝日の“ユルネタ”企画として、私を育ててくれた70年代の洋楽シーンを<70年代の100枚>として振り返っています。現在85枚完了。いよいよあと15枚と言う段になった今、この企画の選出基準たる「全米TOP40的」という部分について、あれこれ当時を思い出しつつ改めて様々に思いを巡らせたりしていますので、この機会に少しだけこの点を説明的に書き留めておこうと思います。

「全米TOP40」は1970年7月に全米でその放送が始まり、日本では遅れること約2年、1972年10月にラジオ関東(現ラジオ日本)土曜夜10時~午前1時という帯で放送が開始されたのでした。メイン・パーソナリティは音楽評論家の湯川れい子さん、チャート紹介はラジ関の坂井隆夫アナウンサーというコンビで毎週オンエア。番組では、毎週40位から1位の順位を10位ごとに本場のケーシー・ケイサム(当時湯川さんはケーシー・ケーソンと呼んでいました)の紹介による米国版の番組テープを流して、そのあと解説をするという形式の番組でした。とにかく洋楽情報が今と比べると圧倒的に少ない時代に、最も新しい米国の音楽状況が最も早く手に入るという番組価値はものすごいものがありました。当時のこの番組は米国版の1週遅れではあったようですが、向こうのアーティストの国内盤新譜発売は早くて1カ月遅れが当たり前の時代ですから、かなり“リアルタイム”に近い音楽情報番組であった訳です。

当時中学~高校生時代だった私は、ほぼ毎週欠かさずラジオにかぶりついて聞いたものです(途中うたた寝は得意でしたが…)。中高生ですから土曜日の夜に飲みに行く訳でもなく大抵は家にいる訳で、1週間の中でも確実にルーチンな時間だったと記憶しています。もちろん、メモと鉛筆は必携です。当時は、湯川さん発のアーティストに関する情報はとにかく新鮮で、「イーグルスが新譜を制作中」とか「ツェッペリンがツアーに出るらしい」とか「エルトンがジョン・レノンと共演した」とか、ありとあらゆるアーティスト情報の宝庫であった訳です。時々渋公あたりで番組主催のフィルム・フェスティバルとかがあって、湯川さん坂井さんとゲスト評論家が進行役となってプロモーション・ビデオ大会みたいのも開催されてました。抽選でポスターやレコード会社販促グッズが当たったりもあったように記憶しています。とにかく毎週毎週、「今週はどんな新曲やニュー・アーティストが登場するのかな?」とか「僕が好きなあの曲は今週何位まで上がったかな?」と番組を心待ちにしていたのです。

この番組とセットで聞いていたのが、NHK-FM日曜日午後6~7時の「リクエスト・アワー」なる番組です。この番組は洋楽専門のリクエスト番組で、「納涼水モノ大会」とか各種テーマ・リクエスト特集もあったりしたのですが、毎月1~2回番組の中で、全米TOP40チャートへの新登場曲を紹介してオンエアしてくれてもいたのです。この当時のFMの重要な役割として「エア・チェック(要は録音)」がありましたが、この番組は心得たもので余計なおしゃべりを一切かぶせず、しっかりとイントロからエンディングまでフルでかけてくれたのです。ですから、「TOP40」で新曲をチェックしてNHKで録るというのがお決まりのパターンでありました。私の同年代でこのパターンにはまっていた人、けっこう多いと思います。なにしろ、日本未発売なんていう曲もかけてくれて、この番組で録り漏らすとまず手に入らない音源なんていうのが当時けっこうあったのです。ちなみに進行は、石田豊アナ。洋楽とは不釣り合いの優等生的しゃべりがアンバランスで、妙に魅力的でもありました(石田さん、95年に亡くなられたそうです。ご冥福をお祈りいたします)。

そんな私の“TOP40時代”は、ちょうど大学に入って一時期東京を離れる80年の春まで続いたのですが、東京に戻って以降も両番組ともトンと聞かなくなりました。転居という個人的な理由ばかりでなく、80年代の洋楽がつまらなくなったことも大きな要因であると思っています。80年代はプロモーション・ビデオ全盛時代の到来でMTV花盛りとなり、情報メディアとしてのラジオはどんどん隅においやられていきました。でも日本の洋楽文化形成は、70年代のラジオ関東「全米TOP40」抜きには絶対に語れないと思っています。少なくともあの当時のコアな洋楽ファンは何らかの形でこの番組の影響を受けて全米チャート情報を意識し、今でもそれが個々人の記憶のひとつの基準として生きていると思って間違いないのです。そんな理由で、一昨年70年代の重要なポピュラー・ミュージックを振り返るという企画である「70年代の100枚」を企画した際に、「全米TOP40的」というモノサシでアルバム選出することこそ、もっとも当時のトレンドを反映し“70年代少年&少女”的ノスタルジーに浸らせてくれるだろうと考えた訳なのです。

それにしても、80年代以降MTVの時代になって音楽シーンは俄然つまらなくなったと思うのは私だけでしょうか?やっぱりラジオっていいですよね。想像力をかきたててくれるし、ラジオから流れる音を聞きながらあれこれ空想の世界に浸ることもできますから。テレビはつまらない。MTVは音楽を音としてでなく画像として流すことで、その曲の勝手なイメージを聞き手に押しつけてしまうのです。70年代は“ラジオ全盛”の時代です。想像力を育ててくれたこの時代のラジオ文化は、今だからこそ再評価されてしかるべきであると思っています。私は音楽ファンとして、ラジオ番組「全米TOP40」をメイン・ソースとして育ったことを誇りに思っています。そんな思いで、「70年代の100枚」を2年間書き続けてまいりました。70年代洋楽ファンの皆様が、あの頃を思い出し個々のノスタルジーに浸っていただけたなら幸いです。

八ッ場ダム問題~対話による解決を

2009-09-24 | ニュース雑感
このところの八ッ場ダム建設中止関連報道に思うところです。

建設検討から57年、民主党政権の下建設の白紙撤回が宣言されたお隣群馬県の八ッ場ダム。26日に現地視察をした前原国交相は、予定していた地元住民との意見交換会を中止決定の白紙撤回を求める住民側のボイコットで実現できず、初回視察はやや空振りに終わった感が否めませんでした。長年にわたって、建設か中止かのはざまで翻弄され続けたのはまさに住民の方々です。自分が住む地区の国策による移転の決意を求められ、ようやく合意したその後に今度は中止。この点は、住処をいいように操られるその立場になってみれば、辛いことこの上ないであろうと心から同情申し上げるところです。

しかしながら一言言わせていただけば、昨日の意見交換会拒否は感心いたしかねます。やはりどんなに辛い問題、どんなに理不尽な問題であろうとも、対話=コミュニケーションなくして解決の道はないと思うからです。ダム建設中止をマニフェストに掲げた政府=民主党としても、政府公約となった今、口を閉ざしたままの相手に対して「それなら白紙撤回をします」とは言えない立場であることは理解をしなくてはいけないのではないでしょうか。民主党がマニフェストに掲げた段階では十分な調査ができていなかったことも考えられますし、十分な調査、ヒアリングもしないで無条件中止を地元に飲ませるようなそんな無責任な旗振りであるなら、それこそ世論が中止を許さないと言う流れにもなりうるハズです。今はまず、対話を再開し自分たちの積年の思いを政府=民主党に対して、力強く訴えていくことこそが大切ではないかと思うのです。

ビジネス・シーンでも、組織運営でも全く同じようなことがよくあります。交渉事や調整事の当事者の一方が、納得がいかない、承服しかねるという事象にぶちあたったとき、その立場の者が“聞く耳を持たない”というやり方で解決策を見出すことはほどんど皆無と言っていいと思います。ビジネスや組織も一般社会も人間と人間が関わり合ってはじめて成り立つものであり、そこになくてはならないものは常にコミュニケーションに他なりません。コミュニケーションを一方的に拒否することには何のプラスもないと私は考えます。

細かい事情を何も存じ上げない私如きが余計な口出しであるとは思いますが、まず話し合うことで世論に対しても正当な判断材料を提供していくことができるでしょうし、民主党の判断が誤っているのなら、判断材料を対話を通じてマスメディア経由で提供することにより世論を動かすことも可能であると思うのです。今のままでは、むしろダンマリは世論受けも決していいものではなく、この状態が続いてしまえば「住民側は自分勝手なわがままをい言ってるのではないか」とすら思われてしまうリスクもあると思います。

対話の中でいろいろな譲歩や折衷案など、ある程度満足のいく解決策も生まれないとは限りません。でも何事も前に進めないことには、どんな妙案も決して生まれえないのです。住民の皆さんには、一日も早い対話再開を心からおすすめいたします。一方民主党政権は相手軸に立った対話を続けながら地元住民の気持ちを十分に思い諮ったうえで、政府として一方的な中止決定だけに終わらない解決策を提示する責任があると思います。そして、その議論の末出される最終解決案と計画進行のどちらがより国として選択すべき道であるのかを、世論にも問いかけながらその段階であたらためて慎重な判断の下に決定を下していくべきであると考えます。

〈70年代の100枚〉№85~ノスタルジー・ブームで息を吹き返した“アメリカ代表”

2009-09-23 | 洋楽
ビーチ・ボーイズです。「ビーチ・ボーイズって60年代のバンドでしょ?」って?その通り、60年代の大スターですが、70年代も健在?実は70年代前半の彼らは勢いを失っていたのですが、突如発売されたこのアルバムで一気にブーム再燃となったのでした。

№85   「エンドレス・サマー/ビーチ・ボーイズ」

60年代に大活躍したサーフ・ミュージックの元祖、ビーチ・ボーイズ。A5「サーフィンUSA」C1「アイ・ゲット・アラウンド」C3「ドント・ウォーリー・ベイビー」D3「ヘルプ・ミー・ロンダ」などなど、ヒットを量産し英国産のビートルズに対するアメリカの代表としていかにもヤンキーなノリで一世を風靡した訳です。60年代半ばにビートルズの「ラバー・ソウル」に衝撃を受けた中心メンバーのブライアン・ウイルソンにより制作された「ペット・サウンズ」の発表がバンドの運命を大きく変えました。今でこそ大名盤とされる「ペット・サウンズ」も当時は一般に受け入れられず、売上はイマイチ。結果、レコード会社との不仲、ブライアンのノイローゼ等々がバンドに暗い影を落とすことになり、70年代に入るとやや過去の存在となりつつあった訳です。そんな折も折、突如出されたのがこの2枚組のベスト盤でした。

当時アメリカでは、前年の大ヒット映画「アメリカン・グラフィティ」に端を発した一大ノスタルジー・ブームが巻き起こっていました。映画は1962年のアメリカが舞台で、ビーチ・ボーイズの同年のヒット曲も2曲取り上げられた同映画のサントラ盤が大ヒット。また同時期、カーペンターズもノスタルジックなアルバム「ナウ&ゼン」をリリースし、60年代メドレーで彼らの「ファン・ファン・ファン」を取り上げ、これも新しい世代の話題になっていました。ここまでお膳立てが揃えば、本家が出ない手はないでしょうから、ある意味“満を持して”のベスト盤リリースだったと言うことなのだと思います。

この流れにしたがって、選曲は「ペット・サウンズ」以前の20曲。と言う訳ですから、名曲「グッド・バイブレーション」は入っておりません。あくまで「サーフイン」=「サマー」な訳です。ベスト盤としてはちょっとさびしい気はします。でも、現行のCDにボーナス・トラックで「グッド・バイブレーション」が入っているのを聞くと、ボーナス・トラックとはいえ、選曲コンセプトを考えるとこれまたちょっと複雑な思いにもさせられたりもするのです。このアルバム、ベスト盤としてでなく、60年代前半のサーフ・ミュージック・ブームを懐かしむアルバムとして聞くのが正しいのかもしれません。

2枚組全20曲入りなのですが、なにせ1曲が平均2分少々という短い曲ばかりの彼らですからLP1面で12分前後、4面合わせても50分弱な訳です。果たして2枚組にする必要があったのか疑問ですよね。この点は、前年に出ているビートルズの初期2枚組ベスト盤「赤盤」への対抗意識に違いないと思ったりします。どこまでも、ライバルはビートルズな訳でして。最近でも「20世紀の名盤特集」みたいな企画では、決まってビートルズの「サージェント・ペパーズ…」と「ペット・サウンズ」が上位を争う展開になっているようで、“永遠のライバル争い”は21世紀も続いているのです。

この2枚組ベスト盤、アルバム・チャートで1位を獲得するという快挙を成し遂げまして、当時のバンドの不振ぶりが信じられないような状況に驚かされるとともに、アメリカ人のビーチ・ボーイズ好きに感心されたりしたものです。ちなみにこの時期、なぜか再びシングル・カットされた「サーフィンUSA」がシングル・チャートで36位にまで上がるリバイバル・ヒットとなる“珍事”も起こっています。このアルバムをきっかけにビーチボーズ人気はすっかり意気を吹き返し、翌75年本作の続編「スピリット・オブ・アメリカ」(これが「青盤」?)の連続ヒット(最高位8位)や、当時人気絶頂シカゴとのジョイント全米ツアー「ビーチャゴ」の大成功につながり、76年にはシングル「ロックンロール・ミュージック」が10年ぶりのトップ10ヒットとなる全米5位を記録するほどの大復活へとつながったのでした。めでたし、めでたし。

〈70年代の100枚〉№84~“黒いビートルズ”と呼ばれたモータウン第2世代の星

2009-09-21 | 洋楽
「70年代の100枚」もスタートから2年を数え、残すところあと20枚を切りました。なんとか年内に100枚に到着すべく、祝日のユルネタ日を使って枚数をこなします。

№84    「ナチュラル・ハイ/コモドアーズ」

コモドアーズは今でこそ、ライオネル・リッチーが所属していたということでその名を知られるグループですが、もともとは黒人レーベル=モータウン所属のいわゆる“第2世代グループ”で、60年代後半から70年代初頭にかけてジャクソン5のバックや前座を務め徐々に頭角を現し、73年に正式デビューを果たします。デビュー当時は、先輩テンプスやトップスのようなコーラス・グループではなくブラック系のファンクバンドと言う印象で、74年のスマッシュ・ヒット「マシンガン」もインスト・ナンバーでした(ライオネルはサックス&キーボード担当!)。その後、日本では当時のディスコで新ステップとしてちょい流行した「バンプ」(このお尻をぶつけ合うダンス知ってる人はかなりな70年代フリーク!)が、小ヒット。KC&ザ・サンシャイン・バンドなどと同類の扱いで、ディスコ・ファンの間で名前を知られる存在になります。

彼らの転機は77年のアルバム「コモドアーズ」。空飛ぶ彼らのロゴ・マークをメイン・ビジュアルに据えたこのアルバムからの第二弾シングルとしてカットされた「イージー」は、それまでの彼らとは一味違うロッカ・バラードでした。リード・ボーカルのライオネル・リッチーの声質がこんなにもバラード系に合うとは、当時は誰もが驚いたのではないかと思います。シングルは全米4位、アルバムもヒットに押されて3位まで上昇します。そして、そんなヒット・アルバムの余勢を駆って翌年リリースされたのが、この「ナチュラル・ハイ」です。前作の空飛ぶロゴが着陸を試みるかのようなジャケット・デザインは、新たな飛び立ちの前作により遂に自分たちの「道」を見つけたとの宣言でしょうか。アルバム的には前作をさらにグレード・アップさせ、確固たるコモドアーズ・スタイルを決定づけるものでした。

そしてこのアルバム最大の聞きモノであり、その後のバンドとライオネル・リッチーの方向づけをした1曲が「スリー・タイムス・ア・レディ(永遠の人に捧げる歌)」です。ヒット曲「イージー」をさらに一歩前進、ポップなリズムを一切排した本格ラブ・バラードとなっています。「詞よし!曲よし!歌いっぷりよし!」の、まさに歴史に残る名曲、名唱と言うにふさわしいできばえです。当時のディスコのチーク・タイムの超定番でもありました。この曲で彼らは初の全米№1を獲得。アルバムは前作同様3位まで上昇しました。そしてこの後はご存じ、コモドアーズのバラード路線が大爆発。「セイル・オン(4位)」「スティル(1位)」「レイディ(8位)」とバラードばかりが大ヒットを記録する訳です。82年にライオネルはバンドを脱退し、さらなるバラード路線をひた走るのです。

ただ誤解をしてはいけないのは、この後シングルヒットはバラード一辺倒になってしまった彼らですが、このアルバムを聴いても分かるようにファンク・バンドの基本は忘れずに、リズミカルでメロディアスな曲の数々は健在なのです。前作の「コモドアーズ」本作「ナチュラル・ハイ」次作「ミッドナイト・マジック」あたりはまさしく彼らの全盛期で、“黒いビートルズ”などと呼ばれてもいたのもうなずけるほどの見事な曲作りとアレンジの数々が満載であり、アルバム単位で聞いてみるとバンドとしてのバラードだけではない実力が十分にうかがい知れるのです。

ただ残念なことに、現在国内発売の彼らの作品ですが、ベスト盤、オムニバス、コンピレーションの類いは多数出ているもののオリジナル作は調べた限りすべて廃盤。ブラック・ミュージック界の個々のアーティストの本質を捉えずに、ごく一部のスーパー・スターをのぞいては一介の“使い捨て”ダンス・ミュージック的な扱いに終始する日本のレコード会社の対応には、やや人種差別的な思想を感じざるを得ず本当に残念な限りであります。

〈70年代の100枚〉№83~AORを形作ったJAZZサイドからのアプローチ

2009-09-19 | 洋楽
ジャズボーカル・サイドからAORの原型を作ったロバータ・フラッグに続いては、ジャズ・ギターの名手のAORサイドへのアプローチ作です。

№83   「ブリージン/ジョージ・ベンソン」

76年はAORにとって記念すべき年でした。そもそもAORの起源となる作品は74年のニック・デカロの「イタリアン・グラフィティ」とする説が有力です。「ジャズやソウルの匂いがする大人のポップ・アルバムを作れないか」と言うデカロの相談に乗りこのアルバムをプロデュースしたトミー・リピューマこそ、AORの創始者とも言える重要人物。このアルバムそのものは大きなヒットにこそならなかったものの、音楽制作シーンにおける影響力は多大なモノがあり、この考え方をベースにトミーが企画・プロデュースし、AOR確立の決定打となったのが、76年ジャズ・サイドから初のAOR的アプローチであるジョージ・ベンソンの本作でした。

このアルバムにおける衝撃は、なんと言ってもシングル・カットされたA2「マスカレード」に集約されます。ジョージ・ベンソンは60年代にウェス・モンゴメリーの後継者と言われた、正統派ジャズ・ギタリストです。ところがこの曲でのジョージは、それまでとは違う新たな“顔”、すなわちボーカリストとして見事な力量を披露したのです。曲はあのスワンプ・ロックの重鎮レオン・ラッセルの名曲です。このアルバムのリリースから2年ほど前にカーペンターズがカバーして再注目されていたタイミングでもあり、ニック・デカロがトミーに言った「カーペンターズやビーチボーイズにもっと大人の味付けをできないか」というAORの起源的発想を、トミーとジョージ・ベンソンはまんま実現させてしまった訳なのです。

レオンの「カーニー」収録されているこの曲のオリジナルはかなりゴスペル寄りのムードであり、またカーペンターズのカバーではよりポピュラー寄りにアレンジされていますが、ジョージのバージョンではジャジーな雰囲気満載で、抜群のアダルトムードに仕上げています。やはり決め手は彼のギターとスキャットをメインに据えたアレンジにあるでしょう。それにしてもこのジャジーなアレンジにぴったりな歌の見事さはなんでしょう。エリック・クラプトンもしかりですが、メロディアスにフレーズを聞かせるギタリストは、歌心も人一倍あるのですね。アルバムにおけるボーカル曲はこの1曲ですが、タイトル・ナンバーのA1をはじめとしたインストナンバーはどれもジャズと言うにはあまりにメロディアスであり、ジャズサイドからの新しいアプローチであると実感させられます。当時こうしたジャズサイドからポピュラーサイドへのアプローチを、日本では「クロスオーバー」と呼んでおりました(懐かしき死語!)

シングル「マスカレード」は、チャート10位まで上がるヒットを記録。さらにアルバムは、POP、R&B、JAZZ3つのチャートで同時に1位になるという史上初の快挙を成し遂げます。AORがアメリカでは、「アルバム・オリエンテド・ラジオ」の略であることは有名なお話ですが、このアルバムはその観点からもまさにAORの代表作である訳です。ちなみに翌77年、シングル「マスカレード」、アルバム「ブリージン」は共にグラミー賞を受賞しています。

さて話を戻して、AOR成立のカギを握るプロデューサー、トミー・リピューマのお話を少々。彼はこのアルバムと対になるポピュラーサイドからのAORアルバムを同じ年に世に送り出してもいます。それが、マイケル・フランクスのデビュー作「アート・オブ・ティー」です。このアルバムでも彼はジャズのフルバンド、クルセイダースの面々をバックに配するなど、徹底したジャズとポピュラーの融合を試みています。「ブリージン」ではジャズサイドから、「アート・オブ・ティー」ではポピュラー・サイドから、同時稼働させることで70年代半ばの新たな音楽の流れとなりうるAORを形作ろうとしていた訳です。さらにトミーは同年、ジャズ系スタジオ・ミュージシャン集団「スタッフ」のバンド・デビューをプロデュースしてもいて、確信犯的にAORブームづくりを企てていたと言っていいでしょう。そしてこうした動きは次の段階で、クルセイダースのAORアルバム「ストリート・ライフ」「ラプソディ&ブルース」やグローバー・ワシントンJrのボーカルアルバム「ワインライト」の大ヒット等、ジャズとポピュラーの垣根が取り払われる大きなうねりにつながる訳です。

AORと言うと一般的にボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルがその先駆者であるかのように言われています。実は彼らは“ブルー・アイド・ソウル”という別のジャンルで区分けされるべきアーティストなのですが(初期のホール&オーツなども同じ仲間です)、トミー・リピューマ系のAORが形作られたのと時期的な一致点を見たことでAORの定義がより幅広い範囲を指し示すことになり、セールス面での成功と相まって彼らこそがAORの代表格であるかの如く祭り上げられたと私は認識しています。私が考える本当の意味での元祖AORは、トミー・リピューマ系のアルバムに他なりません。中でも、ジャズサイドのミュージシャンが初めて明確な形でポピュラーにアプローチをしたこのアルバム「ブリージン」は、70年代半ばに新たなうねりを見せ始めた音楽シーンを語る上で欠かすことのできない最重要な1枚なのです。

“亀井徳政令”のバカさ加減

2009-09-18 | ニュース雑感
民主党政権がいよいよ動き出し、マニフェスト記載事項の実行に向けた動きが早くも本格化しています。そんな中、目立ちたいのか国民にアピールしたいのか「こりゃ何を考えてるんだ!」というようなバカな話も出始めております。その筆頭が亀井静香金融担当大臣。就任後の初会見で「景気対策として、中小企業、個人の銀行借り入れの返済猶予策を実現する」という“徳政令”を宣言してしまったのです。いやーバカらしいことこの上ない。各方面で既にこの発言を問題視する形で取り上げられていますが、私もこれはかなり常識に欠ける軽率な発言であると思います。

まず何より、銀行貸出を政府の命令で「返済猶予せよ!」とは国の何の権利が根拠でしょう?法的に全く根拠のないバカげたお話ではないですか?貸出先と銀行とは、証書貸付の場合「消費貸借契約」という法に則った契約に基づいてお金の貸し借りが成立している訳です。しかもその契約の中には、万が一貸出先が延滞、銀行取引停止等の重大事由に陥った場合、銀行は即座に全額返済を請求できそれが不可能な場合には担保処分や保証人への弁済請求等ができる「期限の利益の喪失」という重要な項目があります。今回の亀井発言は、銀行にこの「期限の利益の喪失」の権利を放棄させるような、全く法的根拠のないバカげた施策を口にした訳です。法務大臣と相談の上で何か法的根拠をもってお話しをされてるのならともかく、全くの私見での発言。「バカじゃなかろか」というのが正直な感想です。

景気対策として政府保証追加融資枠を増やすのとは訳が違います。この“徳政令”、中小企業融資に関して申し上げるなら、モラルハザード(要するに「やったー!金返さなくていいんだ」と安心して、企業努力をしなくなるという懸念のことです)の面からも問題大いにありであると思いますし、中小企業にモラルハザードが生じるならそれはかえって景気の回復を遅らせることになるのです。そんなことも分からずに金融担当大臣就任ですか?鳩山さん、ちょっと人選を誤りすぎてはいませんでしょうか?

今せいぜい、考えられるのは「返済条件緩和」。例えば、3年返済を5年返済に変更することで、月々返済額を軽減するという策です。「これって普通できないの?」とお思いの方も多いと思いますが、実は監督官庁である金融庁の指導でこういう返済条件変更をした場合は、「不良債権」の類として認定されるんですね。そうなると、銀行は貸倒引当金を積み増しさせられたり、自己資本比率が下がったり、もちろん金融庁に「おたくはどんな審査してるのか!」と怒られたり、良いことは一つもない訳で基本的にはやらないのですね。と言うことは、銀行が「返済条件緩和」をおこなっても「引当不要で一切お咎めなしだよ」と金融庁が言ってくれるなら、この策は有効に機能するハズなのです。もちろん、貸付先何でもかんでも対象ではなく、銀行の審査で「返済条件緩和」を認めるか否かは決める形でないといけません。

亀井大臣は「貸し渋り、貸し剥がし、銀行は努力が足りん!」という見解ですが、そもそも貸し渋りの原因は金融庁が作っている、すなわち政府が作っているということをお忘れなく!要するに、「業況の悪い企業にもっとお金を貸して助けてやれ」と言う訳ですが、それをして企業が倒産すれば「何やってんだ、お前の銀行は!」と金融庁に大目玉を喰らってかつ収益も圧迫し自己資本比率も下がって信用問題になる訳ですから、土台無理難題な訳です。お分かりですか?それを今度は、一気に「返済猶予せよ!」ですから、ハッキリ申し上げて銀行つぶしです。こんなことをやって、地方金融機関の破たんが相次ぎでもして金融不安になったら大変なことです。

このように民主党政権が掲げる「官僚主導から政治家主導へ」の旗印は、大臣の資質次第では国家的リスクをしょい込みかねない訳で、今回の“亀井発言”にはあきれると同時に、背筋に寒いモノが走りました。亀さん、金融素人なんだから“優秀な官僚”の意見をちゃんと聞いてよく考えてから発言してくださいね。

大丈夫?性急過ぎる“政治家主導”政策策定スキーム移行

2009-09-16 | ニュース雑感
いよいよ民主党による新政権がスタートしました。
新政権にからむ一連のニュース報道の中で、私の気になる点をひとつあげさせていただきます。

民主党が掲げる“霞が関改革”、「官僚主導→政治家主導へ」を旗印に新政権スタートと同時に早くもメイン施策が動き出すようです。今週月曜日の報道では、閣議決議事項を事前に決める「事務次官会議」が123年の歴史に幕をおろしたとありました。これまさに、民主党新政権下では政策決定は官僚主導から政治家主導に変更するという流れによるものです。すなわちこれまでは、官僚が議論し官僚が政策検討を行いそこで作られる政策案が事務次官の手を通じて閣議承認を得る、事務次官会議は官僚の手による官僚の主導の政策決定プロセスの象徴だった訳です。民主党はこれを抜本的に変えようとしているのです。

民主党が作った新スキームはこうです。
大臣の下に複数の副大臣を置き、さらにその下に複数の政務官を置いてすべて政治家で政策案を策定し、政治家が政策を決めるという流れを作ろうというのです。政治家を100人以上政策策定に送り込むと意気込んでいます。なるほど、もしうまくいくのなら、これは日本の政治に革命的な変化を及ぼすことになるのではないでしょうか。ただ果たしてそう簡単に、うまくいくかです。私はそんなに世の中甘くないと思います。自民党が楽をしていたかどうかは別として、明治時代から脈々と続く政府政策策定における官僚主導支配の流れは、それなりのメリットがあってここまで来たものです。確かに老朽化による疲弊の弊害が目立ち始めた古い制度には見直しが必要なことも事実ですが、これほど重たく重要な問題をそんなに簡単に、ある意味思いつきのように変えにかかってうまくいくのか、ちょっと疑問です。

官僚改革はぜひとも成し遂げていただきたい重要な施策ではありますが、重要であればあるほど、改革の本丸に近ければ近いほど、慎重に時間をかけて手掛けるべきなのではないかと思う訳です。聞けば今回の民主党案、党内のどこぞの誰かが聞きかじった知識をもとに、英国の例を真似てみてはどうかと言い出したように感じています。管直人氏が6月に実際に英国を訪問して実態を視察し(この人は言いだしっぺかどうかは知りませんが…)、「成果を得た」として総選挙対策もあり“急ごしらえ”をした制度であると思えてなりません。しかも英国での官僚による国会答弁や記者会見を否定する暗黙のルールを日本にも適用すべきとして、事務次官会見廃止を示唆するような話まで飛び出しています。政権を取ったその証としてまずは目立つ行動ということなのでしょうが、いかにも過激な動きに映り少しばかり危険なものを感じています。同じ議院内閣制をとる国とは言いながら、英国との文化や政治史的違いを十分に検証したうえで慎重に検討しないと、思わぬ落とし穴があるように思えてなりません。

さらに今回の改革は官僚という“相手”のあるものです。しからば、“相手”の外堀から徐々に埋めていくなり、現状からスタートして段階的に変革を実行するなり、慎重な動きが不可欠に思えるのです。民間企業においても、“相手”のある改革、すなわち人事制度等の改革は基本は「激変緩和措置」をセットして進めるのがセオリーです。なぜなら、“相手”のあるものは“相手”が人間である以上「感情」という改革の本筋とは関係のないモノが大きく動くことで、改革案の善し悪しとは全く別の基準で失敗を招く方向にバイアスがかかりかねないからなのです。しかも今回の“相手”は政治家よりも数段「頭の良い」官僚たちです。そんなに安々と、大人しくされるがままになるとはとても思えません。

常識的には、出口たる天下り問題あたりから手をつけて、一応国民に対するパフォーマンスを整えつつ官僚への改革意識の浸透をはかり、政策策定プロセス改革は期限を区切って徐々に進めるのがいいのではないかと思っているのですが…。今回の進め方はプロレスで言うなら、開始のゴング直後にいきなりコーナーのトップロープに上って、かまわず相手めがけて体を預けるようなものです。弱ってもいない相手に、目立つからといっていきなりこんな技を仕掛けても自爆するのがオチですよね。早くも“官僚憎し”のせっかち“イラ管”の、訪英情報に基づく短絡的判断が“大失策”とならなければいいのですが…。「政府の混乱」は景気に悪影響を及ぼし、結果「国民の損失」に直結します。

蛇足ですが…
管氏が視察した英国では、与党幹部の多くが大臣として政府に入り、政治家が主導する体制がとられているものの、最近では政府の力が強くなりすぎ議会のチェック機能が低下する問題などが指摘されています。また、英下院の行政特別委員会は管氏が訪英した同じ6月に「正しい政府」と題した報告書を出し、23人の閣僚と70人以上いる閣外相(民主党案の副大臣に相当)について「度を越した数の法案がつくられ、政府の決断力や明快で一貫した方向性を弱めてしまう」と政府内政治家の数の多さを批判。政治主導の政策は「実績欲しさにメディア受けするような短期的なものばかりを打ち上げ、国民のためでなく自身の利益を満たすようになる」と英国スタイルの「失敗」を訴えているのです。民主党さん、“イラ管”さんの報告を鵜呑みにしての即行動、本当に大丈夫ですか?

基本は同じ

2009-09-14 | その他あれこれ
仕事の関係で、26年続く地域サークルの幹事さんたちのお話をうかがう機会を得ました。

お目にかかったのは、会の創設以来その運営を盛り立ててきた会長さんはじめ3名の幹事(会長、副会長、会計幹事)の皆さん。この御三方70代後半から80代前半の高齢の女性の方々です。会は昔は婦人会的つながりで勉強会やら学習会やらがメインで運営されていたものが、今は会員の高齢化に伴い老人会的集まりになっているとのこと。それでも会員は200名を超えるという大所帯で、月3回の集まりを会員の皆さんが楽しみにしているというのが驚きです。現在その月3回のメイン行事は公共施設を借りてのカラオケ例会とか(もちろん、年に2回程度旅行会や「振り込め詐欺」や「介護問題」などをテーマにした勉強会も実施しているそうです)。それにしてもすごいことです。毎回200人を超す会員のうち20~30人が代わる代わる出席をしているそうで、仮に世の中にカラオケ好きなお年寄りがものすごく多いとしても、ただカラオケで歌が歌えるからだけで、この手の会がそうそう長く続くものではないと思います。

これは何か秘訣があるに違いない、組織運営のヒントがあるかも、と根掘り葉掘り話を聞いてみました。すると、やはりしっかり、その運営には秘訣らしきモノがありました。まず月3回のカラオケ例会ですが、この集まり基本は歌に覚えのある先生役の幹事の方(副会長)が参加者の歌いっぷりを指導しているそうです。この指導が振るってまして、「ダメなところを指摘しても気分はよくないでしょう。なるべくその人の良い点を伸ばしてあげられる指導を心がけています」とその“指導方針”を披露してくれました。なるほど、ホスピタリティあふれる対応じゃないですか。それで参加者の皆さん明るく楽しく前向きに参加をされているんですね。素晴らしい。参加者の皆さんはとにかく「楽しい」と口々に言っているそうです。脱会する人もほとんどないといいますから、皆さん気分良く心底楽しんでいる証拠ですね。

次に運営に関する物事の決定方法です。この手の集まりはややもすると知らず知らず会長がワンマンになりがちなのですが、当会では例えば旅行の案を決めるにも基本はアンケートで意見を収集し、会長の独断に陥らぬよう皆の意見を取り入れながら幹事を中心とした合議制で決めているといいます。さらに、会長だけが突出してしまい目立ったり権威的になって反感を買うことのないように、何事においても基本は幹事3人で分担運営をしている様を明確に知らしめているとか。特に不透明さが即分裂にもなりかねない金銭面の管理は、会長は手を触れずに元銀行勤めの会計幹事が責任をもって管理し牽制を働かせているそうです。これらのことは、40代、50代の人間がやっているのなら「普通」の範疇ですが、80歳前後の高齢の皆さんの気配りなのですから本当に驚かされます。このような誰も組織を私物化することなく透明性の高い運営を心がけることで、皆が気持ちよく会に参加することができるのでしょう。「この集まりに顔を出すと、不思議と普段話せないことも話せて、とても気持ちが安らぐ」という声も多いそうです。

人が集まってできる組織では、営利であろうとなかろうと基本は同じですね。明確なマネジメントの「見える化」をはかって、可能な限りトップの独断に陥らない運営を心掛けること。そして相互けん制をはたらかせることで、トップに座る権力者の組織私物化を防ぎクリーンな運営を心がけること。そして、上に立つものは下の者の良い点をほめてやる気を与えその才を伸ばすこと。実に活力ある組織の作り方の基本を地でいくやり方ではないですか。たとえいかなる組織でも、20年を超える長きにわたって多くの構成員をまとめて引っ張っていくことは容易ではありません。組織運営のお手本とも言えるポイントの大切さを、人生の大先輩方から改めてご指導いただいた気分でありました。

〈70年代の100枚〉No.82~AORの先駆者?ジャズとポピュラーの美しい出会い

2009-09-13 | 洋楽
前回のバーブラ・ストライザンドからコーヒーCMつながりで、ロバータ・フラッグの登場です。

No.82       「やさしく歌って/ロバータ・フラッグ」

ロバータ・フラッグは黒人女性ボーカリストですが、黒人レーベル「モータウン」のアーティストたちとは少し違う立ち位置にいるように思います。マイケル・ジャクソンに代表されるように、どちらかと言えば人種差別に虐げられた貧しいダウンタウン・ストリートから救い出された“才能”といった印象が強いモータウン系のアーティストたちに対して、彼女は大学でクラシックと声楽を学びプロ・デビューした“音楽エリート”なのです。ですから音楽的にも、パワフルでソウルフルなタイプのアーティストが多いモータウン系とは一線を隔して、実に上品かつソフトな歌を聞かせてくれます。

そんな彼女最大のヒット曲で彼女の代名詞とも言える曲が、A1のタイトル・ナンバー「やさしく歌って」です。もちろん曲も素晴らしいのですが、何より彼女のボーカルの美しいこと。シルキー・ボイスとでも言うのでしょうか。他の黒人女性ボーカルとは明らかに異なる、ソフトでジャジーな肌触りがそこにあります。クラシックを専攻し声楽を学んで、しっかりとした基礎の上に立って聞かせるソフトでありながら声量のあるボーカルは素晴らしいの一言に尽きます。彼女の歌の特徴として、「愛は面影の中に」や「愛のためいき」などの代表曲にも一貫して言えることは、極限までやさしくかつ力強くという本当に力量のあるボーカリストでなければできない歌い方をすることなのです。

演奏もまた、そんな彼女のボーカルに程よくマッチしたライト&メロウでジャジーなムードを醸し出しています。そこにはAORのハシリとも言えるようなムードが漂っていて、夜のムードにピッタリとくるとてもセンスの良い雰囲気をつくりだしています。ジャズとポピュラーの融合をこんなに早い段階で、試みていたとは今になって本当に驚かされてしまします。シングル「やさしく歌って」は73年、彼女にとって「愛は面影の中に」に続く2曲目の全米 1ヒット(5週連続)となり、翌年のグラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲、最優秀女性ボーカルの三部門を独占したのでした。

もうひとつ彼女のセンスの素晴らしさは、その選曲にもあります。このアルバムにおける選曲面での出色は、A2「我が心のジェシー」。この曲は、当時まだ無名の少女作曲家ジャニス・イアンの作品を取り上げたもので、素朴な味わいが特徴のジャニスの“若い”作品を実に上手にロバータの大人のムードでまとめあげているのです。彼女は、ジャニスだけでなくキャロル・キングなど、白人作家の作品も積極的に取り上げており、当時の黒人アーティストにはありがちだった逆差別的意識を排除したその姿勢が、より一層の音楽的幅を広げさせたとも言えるのではないかと思います。ちなみに彼女、矢沢永吉のファンだそうで、“音楽後進国”の作家である彼の曲も何の衒いもなく取り上げてもいるのです。

1937年生まれだそうですから、御歳72歳!この年齢にして昨年、「ビルボード・ライブ東京」で全く衰えを知らない素晴らしい歌声を披露してもくれました。一日でも長く現役シンガーとして活躍をして欲しい、まさしく“音楽界の至宝”と言える存在であると思います。ぜひまた日本にも来て欲しいですね。