日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

店主の心遣いにビジネスの基本を再認識

2010-11-30 | 経営
11月も今日でおしまい。いよいよ今年もあと1カ月です。この歳になると、あまりの月日の流れの速さにはホント嫌になります。12月は忘年会シーズン。サラリーマン時代に比べて、グッと忘年会の数も減っていまして、さらに自分が場所予約をする忘年会となると今はほとんどないのですが、たまに機会があるならお気に入りのお店でと思うわけです。そこで今年の数少ないそんな機会に魚のおいしいお気に入りの店でと、昨日予約の電話を入れてみました。忘年会の日程は12月後半なのですが、知る人ぞ知る“不況知らず”の人気店なので早めに動いてみたわけなのです。

そのお店は私よりも少しだけ年配とおぼしき店主を中心として、若い衆が6~7人で店の切り盛りをしているのですが、昨夜私が電話を入れますと電話を取られたのはどうやらその店の店主のようでした。予約の日時・人数を伝えOKをいただいて、予約の名前を告げた時です。「あ、大関様、埼玉の方の方でしたね。いつもありがとうございます」と思いがけない一言が。確かに初めてうかがった際に名刺はお渡ししましたしその後もここ数年間でこのお店には数回足を運んでもいますが、ここ1年以上は全くご無沙汰で本当に久しぶりに電話をしてみたという状況なのです。店に行って顔を見れば名前は分からなくとも、「あー、久しぶりですね。いつもありがとうございます」ぐらいのご挨拶はいただけるのかもしれませんが、顔が見えない電話で名を名乗っただけで常連でもない客のパーソナリティが浮かぶと言うのは、まさにサービス業のプロのなせる業です。感心しきりで、思わず「すいません、すっかりご無沙汰しまして」という言葉が口をついて出ていました。「客に恐縮させる」、これぞサービスの極意なのです。

そうやって思い起こしてみると、このお店確かに電話が鳴ると手を止めていつも真っ先に店主が電話をとっていたのを思い出しました。なるほど、店舗に入る電話と言えばお客さまからのものが大半な訳で、来店と同様お客さまとの接点としての電話は大変重要なポイントを握っているのです。ここで気がつかなくてはいけないこと。大企業などではその昔は、お客さまからの電話の応対に好感度を高めようと各社電話交換手を雇って応対印象向上に努めていました(最近では、バブル崩壊以降の不況時の経費削減等の折に真っ先にリストラの対象とされ、電話はダイヤルイン方式で各部門が直接応対する形に変わってきました)。中小企業はこれを見て「電話は女性や下っ端がとるもの」と勘違いしたのか、どうも電話応対は「本業外」の印象が強く若手やパート、アルバイトが勢い電話担当になりがちで、電話が鳴っていると「早く取れ!」と上席は偉そうに構えていると言う絵が浮かんでくるように思います(もちろんビジネスマナー上、電話応対は全スタッフに重要な基本項目ではありますが)。

大企業はともかく、電話は中小会社やお店においては確実に“顔”であり、お客さまにその会社を印象付ける一番の接点でもあるのです。それを年端もいかない下っ端や正社員ではないパート・アルバイトに任せっきりでいいのでしょうか。時には管理者が率先して電話を取るあるいは店主や社長が率先して電話を取る、「株式会社××、社長の○○です」と電話に出てきたら、ビックリしますよね。「あれ、社長さんがなんで?」と言われたら、「当社はお客さまを経営者自らが率先してお迎えしなくてはいけないと思っておりますので」とでも受け答えするなら、お金のかからないこれ以上のイメージアップ策はないと思います(私も銀行の支店長時代に電話をとって名乗ったら、「支店長が真っ先に電話を取るのか、すばらしい会社だね」とおほめいただいたことがあります)。お客さま対応の総責任者は経営者に相違なく、その第一接点を経営者自らが大切にする気持ちを持ち行動することが社内にもその考え方を浸透させ、なによりお客さまの高感度を高めることにつながるのであると、件のお店の店主はいみじくもお教えてくれているのです。

どこの世界でも、お客さまあってのビジネスです。“不況知らず”の人気店店主のこんな隠れた努力には学ぶ点が大いにあると思います。

音楽夜話~秋の音楽観戦記

2010-11-28 | 洋楽
機を逸してしまい書きそびれていた「秋の音楽観戦記」を少し書いておきます。

まず、10月「ビルボードライブ東京」初登場のドクター・ジョン。だいぶ歳を召されて、杖を頼りに足元おぼつかぬ様子で歩く姿はあのレオン・ラッセルを彷彿とさせます。声もしかりで、「背中にチャックがあって中にレオンが入っているんじゃないの」と冗談のひとつも言いたくなるほど似ています。彼の音楽はレオン・ラッセルのスワンプ・ミュージックのそれとも共通項のあるルーツ系ではありますが、ひとたびピアノを弾いて歌い出せばこちらはこちらで“ニューオリンズ仕込み”の独自風味を存分に味わせてくれるのです。また、足元のおぼつかなさとは裏腹に、ピアノタッチはさすがの鍵盤さばきでして、おもわず手元を凝視したくなるテクニックは20年ほど前に生で見たモノとほとんど変わることなし。今も昔も本当に素晴らしいピアノ・プレイヤーです。お約束の「ライト・プレイス・ロング・タイム」で中盤を盛り上げ、アンコールをしっかり「アイコ・アイコ」で締めるソツのなさも昔のまんま。大満足の“70分間ニューオリンズの旅”でした。

次に見たのは、史上最強のAOR仕掛け人が自身がプロデュースしたアーティストを次々登場させる「デビッド・フォスター&フレンズ」のライブ。会場の東京フォーラムAは受付で「当日券はありませ~ん」との声が聞かれるほどの超満員で、日本におけるAOR人気の根強さを再認識させられました。彼はピアノと巧みな話術を担当。お目当てだった元シカゴのピーター・セテラは声の出が悪くやや残念でしたが、ナタリー・コールの定番亡き父とのスクリーン共演やエアプレイ時代の名曲の再演など見どころは十分です。なんといっても驚きだったのは、ナタリーやピーターを抑えてトリを務めた、デビッドの新秘蔵っ子で弱冠18歳アジアの歌姫シャリース。YOU TUBEで一躍有名になったという“神が与えた”ものすごい声量の歌声には、鳥肌連発で会場はスタンディング・オベーションの嵐でした。なにしろ、「ボディガードのテーマ」をホイットニーよりうまく歌っちゃうっていうのは半端じゃないです。ナタリーもピーターも彼女の後じゃ辛いでしょうから、彼女がトリを務めた理由がよく分かりました。とにかく感動でした。他にも、サプライズで松田聖子が登場してデビッド作の「抱いて」を歌う場面も。聖子ナンバーでは大好きな曲なので、ちょっと得した気分。

さて、同じフォーラムで全く違うステージを展開したのがバッド・カンパニー。クィーンのボーカルとしても来日したあのポール・ロジャース率いる現役感バリバリの“70年代組”正統派ブリティッシュ・バンドです。ギターのミック・ラルフスが急病で来日できなかったものの、演奏的には元ハートのギタリスト、ハワード・リースががんばってくれてほとんど影響なし。「キャント・ゲット・イナッフ」「ラン・ウイズ・ザ・パック」「シューティング・スター」「バーニング・スカイ」等々代表曲の雨嵐に、感激一杯で大合唱させてもらいました。本当にポール・ロジャースはうまい!実にブルージーでイイ味出してます。その日はツアー最終日と言う事もあって、驚きのトリプル・アンコール。禁断のフリーの「ビー・マイ・フレンド」まで飛び出す大サービス(ポールが作ったTVドラマ「夜明けの刑事」のテーマも弾き語りするサービスも)も。やっぱりロックはイギリスに限るとしみじみ酔いしれた一夜でした。今や現役感ある本物の英国バンドは、ストーンズ、フーとこのバドカンぐらいですから。こうなったら来年は、ロッドとロンが共演する再結成フェイセズをぜひ見せて欲しいですね。

ロジカル競馬~ジャパンカップGⅠ

2010-11-27 | 競馬
今週から4週間、「ロジカル競馬」のベースとなる「GⅠ理論」が役に立ちにくいGⅠレースが続きます。今週、来週は国内データで解析しにくい外国馬が多数参戦するレース、その後の2週は基礎データ不足の2歳戦GⅠレースという訳です。

で今週はジャパンカップGⅠです。今年は海外からの招待馬が全8頭。近年になく頭数がそろったものの、招待馬は例年よりもレベルが低いと言われてはいますが意外に日本の馬場が合う馬がいたりして、やってみないことには分かりません。と言う訳でとりあえず日本馬の力関係分析ですが、基本的にはGⅠレベルのそれなりの馬がそろっているだけに、どれが来ても驚けないと言うのがこのレースの特徴と言えば特徴なのです。

強い馬がそろっておりガタガタ言ってもしかたないので、GⅠ理論的には次の1点のみをポイントします。
<GⅠポイント>
・2400メートル以上のGⅠレースで1、2着→2、1ポイント(ジャパンカップ実績は+0.5、牝馬限定戦は-0.5)

⑭オウケンブルースリ=3.5P
⑯ブエナビスタ=2.5P
⑩エイシンフラッシュ=2P
⑧ジャガーメイル=2P
⑥ローズキングダム=1P

昨年ウォッカのハナ差2着でポイントトップ、かつこのレースに強い鞍上ルメールの⑭を中心とします。相手は前走天皇賞秋GⅠ圧勝し名牝の域に達した⑯。
潔く⑭の単と⑭-⑯馬連&ワイドのみでいきます。
ご参考までに、理論上は⑩⑧⑥が連対圏上位馬ではあります。

凱旋門賞2着の⑪ナカヤマフェスタは、日本の良馬場での切れ味勝負では分が悪いように思いますが、果たして…。また、日本馬が強いと言われている時に限って外国馬が来たりしますから、日本を知り尽くした鞍上ペリエの⑨ティモス、デムーロの①ヴォワライシあたりは要注意かも?

三島由紀夫没後40年、再評価したい日本に稀有なアーティスト性

2010-11-26 | その他あれこれ
昨日11月25日は三島由紀夫の没後40年にあたる日でした。自衛隊市ヶ谷駐屯地での自決と言う三島の壮絶な最期は、当時三島の人となりさえ詳しくは知りもしない小学5年生だった私にとっても、翌日の朝日新聞1面の“生首写真”と併せて決して忘れることのできない大変衝撃的な出来事でした。

その後中学にあがった私は、その衝撃が心から離れず三島作品を読み漁り、また各種研究書物を乱読することで様々なことが私なりに分かってきました。11月25日の出来事は、自衛隊で当時のトップを人質をとって立てこもり隊員を集めて決起(いわゆる軍事クーデター)を促すも相手にされずに、自身の作品よろしく“憂国の想い”から割腹自殺に至ったというのが、ことの表向きの流れではあります。短編作品「憂国」にも国を憂えて妻と割腹心中をはかる軍人の話があり、まさにそれを地で行く自決であった訳ですが、よくよく考えるとあまりに出来過ぎたこの筋書きは、また戦後も25年を経たその当時に自衛隊をして軍事クーデターを企てるなどおよそ現実味の薄い話であり、東大“金時計組”の頭脳明晰な三島をもってして初めから自殺を目的とした彼一流のシナリオであったと思える訳です。

彼はノーベル賞候補にもなった世界的文筆家でありましたが(ノーベル賞辞退を公言していたため、彼ではなく川端康成がノーベル賞を受けたと言われています)、単に文筆家にとどまらない一種独自の世界観で様々な活動をしていたのでした。ひとつは、文学に端を発した演劇の世界への進出、ひとつは壮絶な最期につながった至って右翼的な活動(盾の会)、また今ひとつは自身の肉体を鍛え上げそれを誇示することで自身をも作品として世に問うといった芸術家的活動もありました。私が子供だったその当時にはハッキリとは分からなかったのですが、氏の作品をいくつも読んでみると、名作と言われるものに共通してあるのは独自の耽美的な描写であり、ある種デカダンスの匂いがする絵画的な風情も感じさせる不思議な魅力が漂っているのです。一言で言い表すなら、アートの世界。恐らく三島は文学者ではなくこの上なくアーティストであったのだと思います。絵画を軸に映像や音楽にも活動の場を広げた、アメリカの芸術家アンディ・ウォーホルとも共通する匂いを感じることができるのです。

共通する匂い…。ホモ結合を美徳としヘテロ結合を美的感性から良しとしない論理的同性愛者。美の世界を追及するアーティストには決して珍しくないことですが、三島もまたその世界に深く身を沈めた一人であったと言われています。そして昭和40年代という、今のような多様化した価値観を受け入れる土壌もない時代に、芸術的である自身の反ヘテロ思想(=ホモ思想)は実社会においては限界点を感じざるを得ず(ある意味右翼思想も反ヘテロ的であります)、「盾の会」の№2で三島の相方と言われる森田必勝に介錯をさせることで(実際には森田の介錯は事を果たせず、居合の名手「盾の会」古賀浩靖が最終的に介錯をしたと言います)右翼的な憂国美談に彩られながら想いを遂げた「心中」であったとも言われているのです。世間的には衝撃の大事件でありながら、なんとも芸術的な風情ではないでしょうか。そんな事実を知るにつけても、三島由紀夫と言う人は日本には他では例を見ないほど真のアーティストであったと、大人になった私はしみじみと感じ入ったものです(右翼思想礼賛、ホモ思想礼賛ではありません)。

今年はその没後40年と言うことからでしょう、あちこちの書店店頭で“三島フェア”が展開されています。もし、三島由紀夫に興味をお持ちで少しでもかじってみようとお思いでしたら、作品にとどまることなく人となりに触れるような人物研究書物(ムックタイプの編集版が多々出ています)を併せてお読みになることをおすすめいたします。異端性に富んだアーティスト三島由紀夫をより深く知ることで、氏の作品はより一層の輝きをもって迫って来るにちがいありません。没後40年を機に、多様化した価値観が受け入れられる今の時代であればこそ、作家にとどまらない芸術家としての三島由紀夫の評価が今一度見直されてもいいのではないかと思っています。

北朝鮮の“愚行”に思う、岡本太郎の平和観

2010-11-24 | その他あれこれ
“悪の枢軸”北朝鮮がまたもやらかしてくれました。なんと今度はいきなりの砲撃。しかも民家が点在する韓国の民間人居住地域へです。あり得ない話です。たとえどんな理由があろうとも、罪のない人を殺す行為をも何とも思わないその思想は到底今の世界に受け入れられるものではありません。国際世論は経済制裁措置も視野に入れつつ厳しく同国を糾弾すべきと思いますし、日本政府も早急に非人道的で一方的な軍事行動を強く非難するコメントを出すべきであると考えます。

昨日この事件を耳にして、今は亡きある世界的芸術家の作品を思い浮かべました。作者は岡本太郎氏。私は、氏の「明日の神話」という大作を真っ先に思い浮かべたのでした。「明日の神話」は、岡本氏がその名を広く世間に知らしめたあの大阪万博の「太陽の塔」と相前後して作られた、巨大な壁画作品です。70年当時、メキシコからのオファーを受けて同国の中心地を彩る芸術的モニュメントとして飾られる予定であったものが、作品は完成しながら当時のメキシコはじめ中米地域の政情不安の煽りを受けてどこにも飾られることなくその作品の行方が長く不明になっていたものでした。その後90年代以降、氏の弟子で養女、生涯のパートナーでもあった故岡本敏子さんの懸命のメキシコ捜索によって、03年に奇跡的に同地で発見されたいわく付きの作品なのです。

岡本太郎氏の生前の話によれば、「明日の神話」は「太陽の塔」と対をなす兄弟のような作品であるとのこと。しかしながらその見かけは全く異なっています。「太陽の塔」が万博会場のシンボルとして明るく堂々たるイメージで作られているのに対して、「明日の神話」は暗くおどろおどろしく、恐ろしくさえあるような作品なのです。黒や紺色の重く沈んだ色をベースに、真ん中には「太陽の塔」の骨かとも思われるものが火に包まれ、さらに周りからもそれを焼き尽くすかの如き煙や炎のうねりが幾重にも襲いかかっていくか如き、地獄絵図さながらの構図がものすごい迫力で迫ってくるのです。この作品がなぜ、「太陽の塔」と対になる作品なのでしょう。

恐らく「太陽の塔」がイメージさせるものは平和の祭典万博にふさわしい“平和の使者”であり、戦後25年を経て平和国家としての安定を手に入れたその象徴たるイベントを体現するシンボルであるのです。それとあまり知られていませんが、塔のその内部には「生命の樹」なるアートが存在し、「太陽の塔」がそれを守っているという構図になってもいるのです。それを知った上でもう一方の「明日の神話」を見てみると、なるほど中央で燃え盛る骨はまさに「太陽の塔」と「生命の樹」であるように思えますし、「生命の樹」の周りの生命たちが戦争によってもろくも燃え尽きて骨になってしまっていると見てとることができるのです。すなわち、岡本氏は当時の戦後日本の平和とメキシコ等中米地域の政情不安を対比させ、「平和」の大切さとそれを壊す人間の恐ろしさや「平和」のもろさをふたつの作品を通じて人々に訴えかけていたのだと思えるのです。「明日の神話」とは何とも示唆に富んだタイトルではないでしょうか。

「太陽の塔」は私の子供時代の楽しい出来事の代表でかつ大好きだった万博のシンボルであったのですが、「明日の神話」の発見のニュース以降その対になる作品の存在を知るにつけ、岡本氏が作品に込めた「平和」に関する本当のメッセージを受け取ることで、より一層感慨深いものになったのでした。話を戻せば、今回の突然の北朝鮮の許されざる暴力行為は、平穏な日本から決して遠い世界で起きたものではなくすぐお隣の話である訳で、まさに「平和」が未だに恒久のものではないのだと改めて思い知らされる出来事であるのです。岡本氏が作品を通じて訴え掛けていた、「平和」のありがたさもその裏腹のもろさもすべては人が作り出すものであるという警鐘は、作品制作から40年を経た今も残念なことに有効なメッセージであり、その意味において人間の進歩を阻み続ける北朝鮮の愚行は、人類レベルにおいて憎むべきものであると改めて思うのです。

※「明日の神話」は修復され、渋谷駅の井の頭線連絡通路壁面にその雄大な作品の全貌を掲げ(写真)、岡本氏の思いである世界平和の実現を祈り続けています。

企業や家庭の危機を救うカギ、「主」の責任感を思う

2010-11-22 | その他あれこれ
とある芸能ネタです。妻を自殺で亡くされた方を悪く言うつもりはないのですが、商売柄とても気なることがあったので一言書かさせていただきます。

「妻を自殺で亡くされた」で一部の方はピンとくるでしょうが、俳優の松平健さんのお話です。数年前にマツケン・サンバで突然ブレイクして、その頃再婚されたのがこのたび亡くなられた妻で元女優の松本友里さんだったそうです。その辺の事情は詳しくないので他にお譲りしますが、たまたまテレビをつけていて耳にした松平さんの妻の自殺とその原因たる病気に関するコメントにひっかかるものがありました。故松本さんの病は精神疾患だったようで、周囲に「死にたい」と漏らすこともあったとか。もちろん医師の治療は受けていたのでしょうが、このたび松平さんが出されたコメントにあったのは「気持ちが通じる医師とめぐり合う事がなく、残念な結果になってしまいました」というものでした。私には瞬間的に「なぜ、これを言うのか」「これは全く要らない一言ではないか」と思わされました。

もちろん詳しいことは存じ上げないというのが大前提ですが、このコメント悪く言えば「責任転嫁」ではないかと思えたのです。ご本人に仮にそんなつもりはなかったとしても、必要のない一言から、妻の死の原因が医師にあるかのような言い分であるともとれるのです。このコメントを聞いた担当医師はどう思うでしょう。「えっ?我々のせいなの?」と思うのではないでしょうか。松本さんの親族はどう思うでしょうか。「なんで、医者との巡り合いの話なの?」とは思わないでしょうか。これを企業経営に置き換えてみれば、よく分かると思います。会社が倒産した際に、責任者たる社長が株主等への説明会見の場で、「いいコンサルタントに巡りえなかったのも、残念なことになった原因です」と回答したとしたら、どう思うでしょうか。ほとんどの関係者は、「なんて無責任な経営者だ」「こんな経営者だから会社はつぶれるんだ」と思うのではないでしょうか。

「主(あるじ)」が常に問われているのは「主」であるが故の「主としての責任」です。言い方を変えれば、「主としての責任」ある行動をとっているか否かは「主」である以上、常に問われる訳です。少しでも「人のせい」にする気持ちがなかったか、「主としての責任」をしっかり全うしているか否かは、ちょっとした言動からはからずも露呈してしまうということなのです(松平さんの場合、先のような発言が出ることは仮に意識的に「医師のせい」にはしていないかったとしても、「主」としての責任感は足りなかったということになるではないかと思います)。不祥事の謝罪会見等でのマスコミとの何気ないやとりから、経営者が馬脚を現すことになるのはまさしくこの事例に他なりません。

何か重大な事件が起きた時に「自己の責任」を「主」が常に感じながら行動を取れるか否か、この点こそが家庭や企業を救えるか否かの分岐点になると思うのです。問題が起きた時に「主」として気をつけたいことは、「誰かのせいにしないこと」です。問題が起きると言う事実に対しては、その責任はすべて「主」にあるのです。先の例で言うなら、もし問題の発生の原因を少しでも「よい医者にめぐり合えなかったから」「コンサルサルタントが役に立たなかったから」と思うなら、それは「主」としては大きな誤りであると思うのです。「医者任せ」「コンサルタント頼り」にしたご自身にこそ責任あるのですから(コンサルタントが無責任な姿勢で仕事をしているという意味ではありません)。

私は経験上から、企業経営がうまくいくか否かの95%以上は経営者次第であると思っていますし、おそらくそれは正しい見方であるとも思います。特に中小企業の場合、例外なく経営者次第で会社は良くも悪くも変わるのです。家庭も同じです。「主」の善し悪しこそが家庭の善し悪しを決めると言ってよいでしょう。企業も家庭も、「主」にとって立場上必須の最も大切なことは「責任感」ある行動に相違ありません。企業で言うなら、「経営者」が例え不景気の時代でも、少しでも自社の不調を時代のせいや政治のせいにするようなことがあるなら、もう企業としては先がないと思ったほうがよいぐらいです。重大な事件が起きた時に、「主」が「なぜそうなったのか」と自己立場上の「責任」を大前提として対応を考える、それが出来るか否かで企業や家庭の運命は大きく変わると思うのです。芸能ネタのちょっとしたコメントから、改めてそんなことを思った次第です。

「70年代洋楽ロードの歩き方26」~ローリング・ストーンズ4

2010-11-21 | 洋楽
74年のアルバム「イッツ・オンリー・ロックンロール」リリース後、ギタリスト、ミック・テイラーの突然の脱退により、ストーンズは後釜探しの“グレート・ギタリスト・ハント”を始めます。これは、アルバムを制作しながら、ギタリスト候補をオーディションを兼ねてセッションに呼び寄せ次なるメンバーを決めようと言う大胆な企画でした。この時制作されたアルバム「ブラック・アンド・ブルー」に名を連ねたギタリストから推測するに、最終的に候補に残ったのは、ハーヴィー・マンデル、ウェイン・パーキンスそしてロン・ウッドの3人であったようで、結果はご存じの通り当時ちょうど所属のフェイセズが空中分解状態にあったロン・ウッドがある意味“順当”に後釜に収まった訳です。

彼が“順当”とされた最大の理由は、ミック・ジャガー、キース・リチャーズとは旧知の仲であり、その後のストーンズのイメージを決定づけた前作「イッツ・オンリー・ロックンロール」のタイトル・ナンバーの実質的作者とも言われるのが、ロン・ウッドその人でもあったからです。すなわち、68年の「ベガーズ・バンケット」以来ルーツ系に転換しスワンプ臭を付加しつつ試行錯誤を重ねた「70年代型ストーンズ」の最終形がいよいよ固まりつつあった時期に、ブルース・ギタリストのミック・テイラーが徐々に“場違い感”を感じつつその居場所を失っていった理由は、まさしくミック&キースにロン・ウッドが加わることで作り出された新たなグルーヴそのものであり、新型ストーンズにもっとも合うギタリストはロン・ウッド以外にない、とファンも含めて誰しもが薄々感じていたのです。

そして完成した76年の「ブラック・アンド・ブルー」(ロンは3曲に参加)で早くも登場したキース&ロン(写真)の真骨頂と言えるギター・アンサンブルは、B4「クレイジー・ママ」。まさにその後営々と続く“ストーンズ的な(ヘタウマな?)”ギターサウンドの原点は、この曲にあるといっていいと思います。そしてその新ギター・アンサンブルを引っ提げてロンの正式加入後初ツアーに出たストーンズは、このツアーを録音し77年に2枚組ライブ盤「ラブ・ユー・ライブ」をリリースします。これこそ「超」がつく名作ライブアルバム。60年代の代表曲も含め、キース&ロンの新ストーンズ・サウンドによって新たな息吹を与えられた名曲の数々には、まさに「70年代型ストーンズ」スタイルの完成形をみることができるのです。「ラブ・ユー・ライブ」はストーンズ・ファンのみならず、すべての洋楽ファン必聴の歴史的ライブアルバムなのです。

ロジカル競馬~マイルチャンピオンシップGⅠ

2010-11-20 | 競馬
独自構築「オリジナルGⅠ理論」でデータからGⅠレベル馬を選り分け、GⅠ予想をおこなう「ロジカル競馬」。今週もいってみます。

先週はGⅠ解析はバッチリでしたが、データ不足の外国馬にしてやられました。今週は秋のマイル(1600メートル)戦、マイルチャンピオンシップです。データからはけっこう特殊性のあるレースです。このレースの基本GⅠロジックは以下の通りです。

①当レースの過去の1、2、3着馬 → 3、2、1ポイント
②マイルGⅠレース1、2、3着馬 → 2、1、0.5ポイント
③その他GⅠレース1、2着馬 → 1、0.5ポイント

今回のGⅠレベル馬は、
3 ポイント → ⑰キンシャサノキセキ
2.5ポイント → ①ファイングレイン
2 ポイント → ⑥ジョーカプチーノ、⑦ショウワモダン、⑩マイネルファルケ
1 ポイント → ②スマイルジャック、④オウケンサクラ、⑯サプレザ

軸馬は2ポイント以上の5頭から臨戦態勢等を加味して選びます。①は近走低迷、⑦は秋不調で消し。⑩は展開に左右される故抑えまで。と言う訳でポイントトップの⑰キンシャサノキセキを軸とします。
相手は、GⅠ馬⑥、昨年の2、3着馬⑩⑯、春のマイル戦安田記念3着馬②、桜花賞2着馬④。特に⑯はまたしてもデータ不足の外国馬。要注意ですね。
⑩から馬連・ワイドで⑥⑩⑯②④へ。
昨年2着の⑩マイネルファルケは前売時点で16番人気。10倍以上のオッズの複勝で押さえる手も。

1番人気の⑧ダノンヨーヨーは、目下マイル戦4連勝なるもGⅠ初挑戦。危険な人気馬と見ます。

※そう言えば、優勝候補の一角②スマイルジャック騎乗予定だった三浦皇成くん。初GⅠ制覇のチャンスだったのに本日落馬負傷で乗り替わりとか。ほしのあき嬢との交際宣言直後の出来事だけに、相当な“さげまん”であると改めて実感した次第です。その意味では乗り替わりの②はけっこう怖いかもしれません。

官僚組織改革にまず活用を~中小企業経営者必修の新基準「ISO26000」とは

2010-11-19 | 経営
一般の方々はあまりご存じないと思いますが、国際機関のひとつにISO(国際標準化機構)と言う団体がありまして、これまでも「品質」とか「環境配慮」とかの観点から一定の基準を設けてそのクリアを認証することである種の企業の事業価値やサービス価値を規定し信頼感を創造する国際基準を制定してきています。そのISOにおいて、このたびISO26000という新たな基準が制定され(正確には5年にわたる検討作業を受けて9月に関係約90カ国の採決により採択)、11月1日に正式発行されました。

今回のISO26000は何の基準を設けたものであるのかと言えば、ズバリ「組織の社会的責任」。この言葉の定義は、「組織活動が社会及び環境に及ぼす影響に対して組織が担う責任」「様々な組織が持続可能な社会への貢献に責任を持つこと」となります。また同じ「社会的責任」でも「CSR」が企業を対象にしているのに対して、今回のISO26000が対象とする「社会的責任」は企業にとどまらないすべての組織を対象としている点が大きく異なっています。すなわち、内外にヒトとの関係が発生するあらゆる組織が組織として活動をしていく過程においては、社会的責任を全うする義務が生じる訳ですが、その社会的責任を全うするの在り方基準を定めたものが今回のISO26000なのです。

従来のISOの基準と大きく異なっている点がひとつあります。それは、従来のISOが第三者による認証を前提として「適合」を付与するものであったのに対して、この26000はあくまで社会的責任に関する考え方や具体的な行動事例を示しこのように行動するのが望ましい、と方向づけをするにとどまる「ガイダンス文書」である点です。では、どう使うのか。第三者認証がなされるものでははないと言う事はすなわち自己の適合宣言の有効性すらも否定するものであり、各組織がISO基準に則った組織活動をすることで例えば「弊社はISO26000を行動基準として企業活動を行っています」といった社会的責任の国際基準に則って活動をしていることを宣言しつつ組織内を本基準で運営していく、というのが基本的使い方であると考えられるのです。そもそも、「社会的責任」自体が個別の要求事項によって判断されるというような類のものでなく、適合性の評価そのものが何人なれども論理的に不可能であるというものですから。

このISO26000を我が国の民間企業ベースで考えた時に、国際取引のある大企業限定のテーマであるかと言えば決してそうでありません。この規程の主なテーマとするするところは、「組織統治」「人権」「労働慣行」「消費者課題」「コミュニティへの参画」「環境」「公正な事業慣行」の7つがあげられ、これらは組織運営のグローバル・スタンダード化の流れから見ればむしろ中小企業経営にこそ最も積極的に取り入れられるべき視点でもあるのです。その証拠に、ISOの国内委員会を務める(財)日本規格協会ではISO26000に関しては早くも「ISO26000と中小企業の事例」としてHPでは中小企業にターゲットを絞り込んだ啓もう活動を始めているのです。
☞ http://iso26000.jsa.or.jp/contents/

中小企業経営者にとっては、これからの企業経営においてはISO26000基準の理解と組織活動への浸透は不可欠な課題となると思われます。現時点ではまだISO26000の日本語版は「準備中」とのことですが、日本語版の発行以降企業経営にとって大きなテーマとして注目されることは確実であり、企業として「退場」を命ぜられないためにも十分な理解と取り組みが望まれるところです。このテーマは引き続き当ブログでも取り上げていきます。

この問題がらみで最後にひとつ提案です。先日の“生”事業仕分けを観戦してあまりに常識とかけ離れた官僚の意識と行動を目の当たりにした訳ですが、このISO26000の採択には日本も賛成をしている訳でして、まずは今のとんでもない官僚組織がISO26000に則った組織運営に取り組むと宣言するのがいいのではないかと思うのですが、いかがでしょう?先般の“生”事業仕分け観戦の際にも書きましたが、とにかく官僚組織の「意識改革」「常識改革」をおこなわない事には、財政再建は望むべくもないと実感されられた訳です。日本を“破滅の道”に導かないためにも、また世界に恥じない社会的責任意識を身に付けた社会の実現をはかるためにも、ぜひとも政府は官僚組織改革の基準として率先してこのISO26000を組織活動基準に採用し、真っ先に取り組むべきではないかと思うのです。

「iTunesストアでビートルズ配信スタート」が示唆する電子書籍ビジネスの雌雄

2010-11-17 | ビジネス
本日午前0時にアップル・コンピュータから、「ビートルズ楽曲のiTunesでの配信開始」のニュースが発表されました。

このニュースが一般ニュースとして(音楽ニュースとしてではなく)どれほどのニュースバリューがあるのか、正しく理解するには多少の予備知識が必要であります。その予備知識とは、アップル・コンピュータとビートルズの楽曲を管理するアップル・クロップスとの長年の確執問題です。アップル・コンピュータは、CEOのスティーブ・ジョブズ氏がビートルズが独自に作り上げたレーベル兼ビジネス・カンパニーであるアップルに敬意を表して名付けたと言われています。しかしながら、70年代後半にアップル・コンピュータが有名になってくると、“本家”アップルとの間で商標権を巡っての裁判や音楽ビジネスへの進出を巡ってのトラブルなどが長きにわたって繰り広げられてきたのです。この一連の争いは、07年に一応の決着をみてはいるものの、お互い“いわく付”の仲であったと言ってもいい関係ではあるのです。

それが、音楽ファンならずとも大注目のビートルズ楽曲データの初ダウンロード販売の取り扱いをその“いわく付”の相手アップル・コンピュータに真っ先に認可したと言うこの事実は、音楽ダウンロード販売サイトとしてのiTunes Storeの圧倒的な利用者からの支持を改めて示したことになると思います。しかも、販売方式は楽曲ごとの“バラ売り”あり&1曲200円設定というある意味アップル・コンピュータの“言いなり条件”でのスタートな訳で、この点からも市場における「アップル強し!」の感を印象付けられるものでありました。何よりリアルおよびネット上でのCD販売店にとっては、大変ショッキングな出来事でしょう。昨年のビートルズ・リマスターBOXや今年の「赤盤」「青盤」等は、ヒット作欠乏状態の音楽ソフト販売業界において、確実にヒットが見込める数少ないアイテムな訳ですから。これがネットで安価に、かつ手軽にダウンロードできるようになるというのは、販売店にとっては実に困った話に相違ないのです。

これは来るべき電子書籍ダウンロード販売の本格到来時の業界内力関係を、予感させるに十分すぎる出来事ではないでしょうか。人気書籍の電子化と安価バラ売りビジネス化を想像するに、リアル&バーチャルの紙書籍販売店は寒気する思いかもしれません。このままでいくと電子書籍ダウンロード販売ビジネスもアップル・コンピュータiTunes Storeの一人勝ちになってしまうのか、利用者目線で一体どんな魅力的な販売方法をくりだしていくるのか等々、ビートルズ争奪戦を制したアップル・コンピュータの今後の電子書籍販売戦略に興味は尽きません。