日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

この時期のガソリン価格高騰を疑問に思う件

2013-01-31 | 経営
聞くところによると、現在年をまたいで8週連続でガソリン価格が高騰しているとか。8週前と言うことは、すなわち解散総選挙が決まった直後から、ということです。要するに、「政権交代→アベノミクスに期待」という観測が広がり、為替が円安にふれ始めた頃とちょうど時期を同じくしているわけです。ガソリンメーカーの言い分はやはりというか思ったとおり、「原油価格の高止まりと、円安の影響」ということらしいのですが、なんか少し怪しい気がしています。

思い起こせば80円を割り込む急激な円高局面に入った頃に、巷でもけっこう話題になっていたのが、「急激な円高になっても、ガソリン価格が安くならない」という類の消費者サイドからの不満の声でした。この時に供給サイドが言っていたことは、「為替の動きとガソリン価格の間は一定のタイムラグあり、すぐに価格に反映されるものではない」と。しかしその後は、「原油価格の高騰」もあって結局円高によるガソリン価格への恩恵は感じることが出来ずじまいでした。

タイムラグというのは、原油価格や為替レートが影響するのは日本企業が原油を仕入れた段階の話で、その後原油が日本に運ばれて精油されてガソリンスタンドで販売されるまでに2~3ヶ月はかかるという価格反映へのズレの話でした。では、今回の為替が円安にふれたのとほぼ同じタイミングで動き出したガソリン価格の8週連続高騰の要因は何なのでしょう?

先のタイムラグを勘案すれば、ガソリン価格が高騰し始めた12月初旬よりも2~3ヶ月前の段階での為替と原油価格を見てみる必要があるのですが、昨年9~10月の円ドルレートは78円台でかなり安定した円高傾向が続いていた時期で、原油価格(WITI)に至っては9月から10月にかけてはむしろ若干ですが相場を下げているのです。こうなると、国内メーカーが円高のときに主張していた「為替や原油価格がガソリン価格に及ぼす仕入れと販売のタイムラグ」はどうも怪しいということになりはしないでしょうか。

会計における在庫管理の原則で、「先入れ先出し法」というのと「先入れ後出し(後入れ先出し)法」というものがあります。前者は、先に仕入れたものから順次販売するというやり方で、まさに国内メーカーが円高時に言っていたところの価格反映される商品が市場に出るのはその前の仕入れ分を売り切ってからというやり方のこと。後者は、とりあえず後から仕入れたものを在庫の有無に関係なく先に販売して、即座に仕入れコスト増を販売価格に転嫁するというものです。

ということは便乗値上げでこそないものの、どうもガソリンメーカーは円高や原油価格下落の時には「先入れ先出し法」で価格を決め、円安や原油価格高等局面に入ると「先入れ後出し法」に転じるという、同一ルールを貫くという会計原則を逸脱するかのようなやり方をしているのではないかと思えてくるわけです(会計処理上はもちろん一定ルールでやっているのだとは思いますが)。しかも今回の件に関して言うのなら、冬の掻き入れ時に「後入れ」した分がまだ製品化される前から値上げをしているわけで、今後の値上がりを見込んで「安い仕入れの商品で、販売価格を上げて稼げるときに稼いでおけ」というちょっと悪どい商法が透けて見えるように思うのです。

背景には、安倍政権が掲げる「インフレ目標2%」というものが“免罪符”になっているのかもしれません。要するに、自民党政権ベッタリの大手企業であるメーカーの経営サイドには、「今ならガソリン価格を上げたところで、それはインフレに寄与する要因であり、言ってみれば国の政策を後押しするのだから文句は言われまい」ぐらいの思惑もあったりするように思えてならないのです。

本当に原油価格や為替レートの実態を反映して仕入れ価格が上昇した商品の販売に際して価格が高騰しているのなら、それは正当な価格決定プロセスをへた商品価格であり納得もいくところですが、今回の背景を見るにどうも怪し感じがして納得がいかない気がしてなりません。もし本当に私が思っているようなことがあるのなら、これは広い意味での「コンプライアンス違反」と言っていいマネジメントであると思います。メディアには、不透明なガソリン価格を見える化していくという観点からも、ぜひこのあたりの検証を正確にして欲しいところです。

日揮は「勇気ある撤退」を決断すべきと思う件

2013-01-29 | 経営
アルジェリアのテロ事件の関連で、あるべきマネジメントの観点から一言だけ記しておきたいと思います。

私がオリジナルで作成している「簡易版企業倒産確率診断シート」というものがあります。これは企業の2年後の倒産確率を、長年の経験を踏まえて抽出した「コンプライアンス」「経営私物化」「マネジメント」「本業」の非財務系の4分野30のチェック項目から割り出すという、セミナー等で大変ご好評をいただいているものです。

このチェック項目の「本業」の中に、「身の丈に合わない海外取引リスク」というものがあります。企業にとって海外取引と言うものは、世界中どこの国でビジネスを展開しようとも、日本国内の常識はそのままでは通用しないのが常であり、そのことを自社の経験やノウハウやあるいは人脈等でどこまでカバーできるのか、それを見誤ると企業経営にとって大きなリスクになり得るという多くの実例を受けて項目化したものです。

中小企業がなんらかのメリットを求めて海外取引に手を染めるケースでは、彼らが思いもよらなかったリスクが潜んでいて、痛い目に会うというケースはよくある話ではあります。このようなケースでは、「中小企業が大企業のまねなんかするから痛い目に会うんだ」との陰口を耳にすることもあるのですが、大企業ならどんな海外取引でもOKなのかと言えばそうではないのです。

世界には我々の生活とはかけ離れた未開の土地や日本ではわずかな情報しか得られないような土地がいくらでも存在し、そこで生活する人々の考え方まで含めれば海外取引リスクというものはまさしく“青天井”なのです。すなわち海外取引を進出や継続を検討する際には、規模の大小に関係なくそれぞれの企業の実力(前述の自社の経験やノウハウやあるいは人脈等です)に鑑みたリスクテイクにおける「身の丈」という許容ラインがそこには必ず存在するのです。

今回のアルジェリアの件はどうなのか。事件を受けて、アルジェリアと言う国はテロ活動が頻繁に起きており、政府とテロの戦いが及ぼすリスクと対峙しながらビジネスを続けざる負えない状況にあることがよく分かりました。これは私を含めた一般人レベルの話であり、当事者の日揮さんは確実にそのような状況を知った上で事業展開をしてきたことと思います。

リスクの存在を知りながらも、自己のビジネス展開の観点、国際協力の観点とリスクをバランスさせた上でアルジェリアでの事業を継続してこられたのでしょうが、当地における許容リスク判断が果たして同社の“身の丈”にあっていたのか、社員10名もの尊い命が失われたテロ事件の後となってはいさかさか疑問であるという気もしてくるのです(もちろん、これは結果論であり日揮さんの責任であると申し上げるつもりはありません)。

同社の“身の丈”と言うよりは、アルジェリアでビジネスを続けることは日本企業の“身の丈”に合わないのだということではないかとすら思えています。なぜなら、テロの日常的な存在はさておくとしても、今回の事件で安倍首相をして「人命最優先での事件解決」をアルジェリア政府に直接希望を伝えながら、人質の乗った車両を空爆するという同国政府の強攻策はどう考えても日本の常識には適わないからです。

問題は、アルジェリア政府が今回の強攻策をテロに屈しない強い政府を体現するものとして肯定していることも、それぞれの国がおかれた環境や立場を勘案するなら、非難に値しないだろうという国際世論の存在です。国際世論が人命優先を反故にするような強攻策を「否」としないような環境下でビジネスを展開することは、いかなる理由があろうとも日本企業の海外事業における“身の丈”は明らかに越えていると思うのです。

今回の件で「安全対策」を口にするメディアも散見されますが、日揮は世界でも最高水準のセキュリティ体制を取られていたそうです。「安全対策」とは落ち度があってそれをいかに改善し再発を防止するかと言った観点で行うのが大原則であり、予期せぬテロ、政府の強攻策という企業側にはどうにも防ぎようのない問題に対していかに「安全対策」を叫んでも、むなしく響くだけなのではないかと思います。

「従業員の安全、命の安全が第一ですから、これが確保できなければビジネスは成り立たない」。25日に犠牲者の遺体とともに帰国した日揮の川名浩一社長は会見で、事件の影響を問われてこう語っています。社長の言葉が、現時点でイコール「アルジェリア撤退」を意味するものではないのでしょうが、私は同社に落ち度なく発生した今回の悲劇をで受け“身の丈を越えるリスク”の存在が明らかになった以上、いかなるビジネス上の理由があろうとも「勇気ある撤退」こそが今同社のマネジメントが決断すべき英断であると思います。

それが犠牲者に対する何よりの弔いになるのではないでしょうか。

「保身」行為を「ブラック」呼ばわりして、教育現場を粛清したらどうか

2013-01-25 | 経営
「ブラック企業」の定義を考えていて、ふと思ったことを徒然なるままに書いてみます。

「ブラック」と言う言葉はなぜ企業関係だけに使われるのか。「ブラック企業」の他にも、「ブラック経営者」とか「ブラック営業」とかも言われます。何を思ったのかというと、「ブラック高校」とか「ブラック校長」とか「ブラック教師」とか教育現場に関しては、いわゆる“袖の下”的行為以外ではあまり「ブラック」という表現は使われないなと思いまして。

なぜでしょう?
企業は営利団体であり、「悪いことをして金儲けをしている」ということが世間一般の「ブラック」の定義になっていると言うことなんでしょうか。“袖の下”的行為は学校関係でも「ブラック」と言われることからも、「営利」がキーワードかなと思えるところです。

でもよくよく考えると、学校そのものは営利団体ではないとしても(私学場合は事情が違いますが…)、大阪の桜宮高校の一件にしても、教師の「体罰」自体が要は強い運動部を作って顧問としての自分の評価を高めたいと言う個人的な「営利」に違いないわけで…。

学校としてその事実を知っていながら見てみぬフリをしていたというのも、校長や教頭が自分に罰点がついて先がなくなることを恐れた保身であって、これだって個人的な「営利」です。

相変わらず各地で一向に無くならない「イジメ」の問題にしても、事が起きていつも争点になるのは、「学校の見て見ぬフリ」、「隠蔽体質」です。コレも皆、突きつめれば教師たちの「保身→個人的“営利”」なワケです。教育の現場こそ、「保身」から出た「個人的“営利”」目的などというものはあってはいけない最大の「コンプライアンス違反」であるはずなのにです。

企業が本当は「ブラック」でも何でもないのに、やや流行語のように「ブラック」「ブラック」と呼ばれているのは、やや行き過ぎの感もあり決して感心できる風潮ではないのですが、半面、世間で「ブラック」と言う言葉が頻繁に使われ、「ブラック=コンプライアンス違反=退場」という暗黙のルールが成り立つことで、少なくとも企業には営利活動において「ルールを守る」という一定の抑止力にはなっているのではないかなと思ったりもするわけです。

学校、教師と言う存在は古くから「エライ存在」と位置づけられ、治外法権的な扱いを歴史的に受けてきたせいなのか、世間の見る目が甘く、学校、教師側にもどこか「俺たちはエラいんだ」的な思い上がりがあって、「体罰」や「イジメ」で世間を騒がすような事件が起きても、“喉元過ぎれば”でどうも改善がなされない、そんな気もするのです。

橋下大阪市長がとった入試中止の措置を巡っては、喧々諤々、賛否両論が世間を騒がしていますが、民間企業にルール違反があった場合に「業務停止」「営業停止」は当たり前の措置です。どうも学校にそれを求めてはいけないかのような風潮も感じます。今回の件に関しては、橋下市長の対応に賛同です。

「生徒の立場はどうなる」という意見もありますが、民間企業の「業務停止」でも「そのサービスを受けている人への影響」は当然存在するのです。
(人によっては教育とサービスは類が違う言われるかもしれませんが、私はそれこそが教育現場に対する不要な思い上がりを助長することにもなるのではないかと思ったりもします。この議論は本筋からそれるので、ここではこの程度にとどめます)

何が言いたいのかというと、学校教育における教師の「保身=個人的営利」行為に対して、企業と同じく世間の監視の目を強化し現場の教師たちにそれは「コンプライアンス違反」であるとハッキリと意識させることが、現場の自己浄化機能を有効にさせる唯一の道であるのかなと。

そのためには、やや下世話な話に聞こえるかもしれませんが、学校関係にも「ブラック高校」「ブラック校長」「ブラック教師」という言葉を遠慮なく使って、日常的な世間の監視の目を強化するべきなのではないか、と思うのです。「ブラック」であることは、「コンプライアンス違反」であるというです。すなわち、学校も教師も、もっと「コンプライアンス」を理解ししっかりと意識するべきなのです。

日本の企業のモラルがバブル経済崩壊以降、格段にアップしたのは「コンプライアンス」というものが、90年代後半以降、企業経営者だけでなくその組織構成員にまで広く意識され徹底されるに至ったからに他なりません。「体罰」や「イジメ」が、現場の隠蔽体質によって一向に撲滅方向に向かわないのは、教育現場の「コンプライアンス意識」の欠如に他ならないのです。

教育現場の「コンプライアンス意識」欠如の改善をめざして、意識させやすく「コンプライアンス違反」を指摘する手段として、誰にも分かりやすい表現である「ブラック」という言葉を使って、経常的な監視の目を強化し日々反省を促してていくべきであろうと思った次第です。

昨日、大阪市と大阪府の両教育委員長が市長、知事の面前で、自己の正当化をという「保身」から、あろうことか“なじり合い”をしたとか。さしずめ、このニュースあたりからメディアは「ブラック教育委員長同志が、保身目的のブラックな痴話喧嘩」とでも評して大々的に報道してあげて欲しいものです。

サントリーの“失敗”とオーナー企業にありがちな「業務私物化」文化

2013-01-22 | 経営
サントリーが昨年鳴り物入りで発売したロックバンド、ローリング・ストーンズとのタイアップ商品「ストーンズバー」の取り扱いを終了すると発表しました。そもそも期間限定商品ではなく、「複数年にわたり新商品も出す予定」と公言していただけに、発売から1年持たずでの終了はかなり異例とも言える展開であります。

サントリーと言えばマーケティング上手という点で日本屈指の企業でもありますが、ことこの商品に関しては発売当初からどうもシックリ来ていない印象を受けておりました。ローリング・ストーンズと言えば今年デビュー50周年を迎えるロック・レジェンドであり、幅広いファン層を得ているとはいえ、彼らのライブに足を運んでも分かるとおり、そのファンの中心は40~60代。それでありながら、「炭酸入りで柑橘系の香りをつけたハイボールやエナジー系の、アルコール度数を4~5%とした発泡性の酒」ってどうなんですか、という感じはあったわけです。

同社宣伝部長氏は昨春商品発売を前にしたインタビューで、「若い人のビール離れ、酒離れに歯止めをかけるため、(ストーンズの)マークを商品開発に生かそうと考えた。『団塊の世代』のロックファンには、新しい軽めの酒として楽しんでほしい」と話していましたが、団塊と若年を両にらみしたターゲット戦略はおよそマーケティング上手の企業の発想ではないなと違和感を覚えたものです。若者のビール離れにストップをかけるのにストーンズ?団塊の世代を含むストーンズのコア層であるオヤジ世代を捕まえるのに「シトラスの香りがするビール飲料」?どっちつかずのおかしなマーケット戦略が、商品のターゲット戦略をいたずらにあやふやにしてしまったのだと思います。このおかしな戦略に至った原因はどこにあったのか、気になるところです。

実は昨春、この商品の発売がメディアで報じられると、我々熊谷のHOTな食の街おこし「くま辛」のメンバー内で、ストーンズのベロマークが辛いものを食べたときの口の反応ともとれるデザインなので、ためしにタイアップの可能性を打診してみてはどうかという話が持ちあがりました。というのも、その前に別のビールメーカーが出している夏向けのカクテル飲料にタイアップを持ちかけたところ、とんとん拍子に話が進み当該カクテルの「くま辛」加盟店への無償配布やタイアップポスターの無償提供などが実現していたからです。

この手のタイアップは、メーカーにとっては安価な宣広費で取引のない飲食店に入り込む絶好のチャンスであり、どう組むかは別としても基本的にはウエルカムなはずなのです。そこで期待感をもってサントリー営業担当氏にタイアップの打診をしたのですが、結果は意外な反応でした。「いやー、これプッシュじゃないんですよ。本社の“筋金入りのストーンズ狂部長”の肝いりで実現したという特殊な商品なものですから。他の話でお願いします」との即答。この商品の社内における異常な位置づけを感じさせられる出来事でもありました。

おかしなマーケティング戦略に加えて地元におけるこの出来事から推測されることは、言い方としてやや誤解を招くかもしれませんが私的に言わせていただければ、今回の「ストーンズバー」は商品開発段階において「業務の私物化」があったのではないか、そのことが商品の失敗を招いたのではないか、ということになるのです。誤解を招くかもと申し上げたのは、「私物化」という言葉が刺激過ぎる嫌いがあるからなのですが、コンプライアンス違反とは別問題ですのでその点は誤解なきよう。

すなわち、ここで言う「私物化」とは、オーナー企業にありがちなオーナーおよび社内実力者の“一存”による金融投資や新規事業投資です。金融投資に関して言うなら、投資コンサルタント等の指南による株式投資や為替投資、あるいは個人的な知り合い企業に対する出資などがこれにあたります。古くは、バブル期に花盛りだったいわゆる“財テクブーム”に乗せられた類の“私物化”投資で、これで大きな穴をあけ企業を傾かせた例は山ほどありました。

新規事業投資についても“私物化”投資は、株式等金融面での“私物化”投資となんら変わりません。要するに、オーナーや実力者の個人的人間関係や個人的趣味の世界への事業投資に他ならないのです。代表的な例を挙げるなら、創業社長でありながら自己の競馬趣味への傾倒から「フサイチ」の冠名を付した競走馬所有を会社の事業として注力したために、メイテック社社長解任の憂き目に会った関口房朗氏が挙げられるでしょう。オーナー企業、特に上意下達文化が強いケースでは、社長に限らず役員はじめ上位管理職の趣味や嗜好優先の事業投資がまかりとおるケースがままあるのです。

さて、サントリーの「ストーンズバー」はどうか。私は、マーケティング戦略のかなり初歩的なミスマッチ、地元での営業担当のこの商品に対するいささかシラけた対応を見る限り、“筋金入りのストーンズ狂部長”の“私物化事業投資”である可能性はかなり高いのではないかと思っています。どうみてもサントリーらしからぬおかしなマーケティング戦略は、ストーンズのメイン支持層である40代以降をターゲットに絞ってもビールの嗜好がすでに固まっているここに割って入るという成功の見通しは低く、無理に若者層を並列メインターゲットに抱き合わせ無理無理商品化にこぎつけたのではないかと、推測されるところでもあるからです。

「ストーンズバー」のニュースと時同じくして、一部ではサントリーは業務一層の国際化を視野に入れサントリーHDを非上場のまま子会サントリー食品を上場すると情報も報じられています。これには専門家から、「サントリー食品が、親会社HDの大株主である創業家の意向ばかりを重視し、一般株主との「利益相反」が起こる可能性」を指摘する声が上がっています。これはまさしく同社の企業文化に鑑みて「業務の私物化」を懸念する声に他なりません。「サントリーバー」の失敗と子会社の上場。このふたつのニュースから示唆されるものは、サントリーが世界の舞台で一層の飛躍を遂げるためには、同社を支えてきた「やってみなはれ」の企業文化から「業務の私物化」を徹底して取り除くことではないかと感じる次第です。

状況一転!ドコモがiPhoneを扱う条件

2013-01-18 | 経営
年末に「ドコモとiPhone」というエントリで、ドコモがiPhoneを扱いたくても扱えない理由を3点挙げて「当面ドコモのiPhone取り扱いはない」と結論付けて1ヶ月もたたぬうちに恐縮ですが、ここ数日の報道を見るに今年中のドコモのiPhone取り扱いが俄然現実味を帯びてきたと感じさせられています。
◆「ドコモとiPhone」
http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/54c0a996b1b290728ee9cc884cdb39c0

当面、次のモデルチェンジぐらいまでは磐石ではないかと思えていたiPhone、iPadの販売における急速な減速感がその理由のすべてです。日経新聞16日の記事、「アップル、市場期待冷める」によれば、「アップル向け液晶パネル大手が1~3月の生産量を当初計画の半分程度の減らすことが明らかになり、14日の米株式市場でアップルの株価が急落」したと。株価は昨年秋の700ドルから一時500ドルを割り込むところまで下げたというのだから、投資家の同社の成長性に対する評価はかなり急降下したと言っていいと思います。
◆ 日経新聞「アップル、市場期待冷める」
http://www.nikkei.com/article/DGXDASGM1507H_V10C13A1FF2000/

むしろ衝撃性でこのニュースを上回ったのは、その前日15日の同じ日経新聞の記事、「タブレット商戦、米グーグルがアップル逆転」でしょう。この記事によれば、「年末商戦の国内タブレット市場で、米グーグル「ネクサス」のシェアが米アップル「iPad」を初めて上回った」と。販売台数シェアで、台湾エイスースが44.4%、アップルは40.1%とのことで、iPadは発売以来初めて首位の座を明け渡したというのです。
◆ 日経新聞「タブレット商戦 米グーグルがアップル逆転」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC1600T_W3A110C1TJ0000/

これで即座にアップルが一気の劣勢に転じるとは思いませんが、市場の潮目が確実に変わってきていることだけは確かなようです。恐らくそれを一番敏感にかつ危機感をもって受け止めているのはアップル自身でしょう。次のモデルチェンジが大きな節目になる可能性もあり、製品開発だけでなくあらゆる点で戦略の転換を検討しリスクの極小化に動き始めているのではないかと思われます。

こと販売という点に関して言うなら、日本市場におけるアップルの販売戦略にも変化があってもおかしくありません。すなわち、対ドコモ戦略です。従来は総販売台数の50%近いシェアをノルマとして要求してきたと言われる強気一辺倒のアップルの姿勢でしたが、勢いの低下は事実であり商品差別化力に陰りを感じるならシェアにこだわらずともまず膨大なドコモの顧客の一部取り込みからスタートするという戦術に転換をしてくることも、大いに考えられるのではないかと思うのです。

ドコモ側の考えうるiPhone取り扱いに向けたネックは、年末に私が書いたとおり、①既存のコンテンツサービス維持、②アップル製品に市場を席巻される電波行政面での懸念、③ドコモと二人三脚でガラケービジネスモデルを支えてきた大手家電各社の擁護、です。しかしこのいずれもが、アップル側が提示する高い販売シェアノルマにかかわるものであり、そのシェアが交渉によって引き下げる余地が生まれるのなら、俄然ドコモのiPhone取り扱いは現実味を帯びてくるでしょう。

では、どのくらいの販売シェアノルマまで下がるならドコモは取り扱いにGOを出すのかです。ランチェスター戦略にけるシェアの考え方から探ってみます。有名な目安数値に42%というのがあります。これは特定の市場において「独走」を決定付ける数値であり、アップルはこれまで戦略的に考えてこの42%を上回る販売シェアノルマを提示し、ドコモの携帯販売においても独走を実現しようと目論んでいたに違いありません。ドコモ側(および大株主の日本政府側)とするなら、この42%は最低でも下回らなくては話にならないわけで、これまでの交渉がたびたび決裂してきた理由はここにあります。

42%の次にある目安数値は、26%。これは市場争いをする際に言われる「強者」を決定付ける数値です。すなわちiPhoneが販売ノルマで26%以上のシェアを持つなら、ドコモの全製品内で「強者」に位置づけられることは確実であり、ドコモや日本政府の思惑からすればこの数値も上回ることは好ましくないはずなのです。

さらにその次は、19%と11%です。19%は市場における上位グループの目安、11%は市場に影響を与える存在の目安数値です。すなわち、少しアバウトに言うなら10~20%あたりが「存在感がありながらも強い存在にはあと一歩」といった市場シェアになります。ここらあたりがドコモや日本政府的には、どうにか納得でアップルと握手できる限界点ではないのかと考えられるところです。問題はアップルがこの数値をどう考えるかです。現実的には恐らく20~25%ぐらいが両者の攻防ラインになるのではないかと考えます。

ドコモがアップルとの交渉を継続していることは確実であり、これまでは隔たりが大きかった両者の主張ですが、シェアの面でアップル側からの歩み寄りが見られるなら、一気に交渉成立ということもありうる展開だろうと思います。ドコモもiPhoneの勢いが落ちているとはいえ、今年度の業績下方修正を受けて迎える加藤体制にとって2年目の来年度は正念場。販売台数、ナンバーポータブル大幅増加が見込めるiPhoneは製品の勢いは落ちていようとも確実に欲しいアイテムではあります。一方のアップルもジョブズ後の新製品開発力の低下が否めない中での減速で、販売戦略の強化は至上命題でもあります。

両者の思惑の変化による歩み寄りも現実味を帯び、秋のiPhone5S(?)からのドコモ取り扱いの可能性はゼロから五分五分までは高まってきたとみていいでしょう。秋からの取り扱いを前提で考えるなら、来年度入り前の2~3月が交渉のヤマ場になるのではないでしょうか。両社の動向を注目して追いかけたいと思います。

「体罰」撲滅は文科省の本気度次第

2013-01-17 | ニュース雑感
大阪市立桜宮高校の体罰自殺問題が波紋を広げています。

体罰は憎むべきものであり絶対にいけませんし、今回の事件が体罰以外の何物でもないことは確かです。しかし、こういった事件が起きると、必ず先生の側も生徒の側も、また親の側も必要以上に神経質になり、健全な教育環境を維持していく上で多々問題が噴出する件がぬぐいきれません。

例えば、先生が「体罰」と言われることを恐れて生徒に対してのあるべき指導を怠るとか、逆に生徒が「体罰」を楯に先生の言うことを聞かなくなるとか。あるいは、親がちょっとしたことでも「体罰ではないか」と過敏な反応をすることで、本来の指導趣旨が全うされなくなるとか、です。「体罰」そのものの問題共に、ある意味教育現場の危機につながる問題でもあります。

文部科学省はこの機会に、「体罰」に関する明確な定義づけと責任官庁としてリーダーシップあるスタンスを明示しておく必要があるのではないかと思うのです。定義がなされていない、されていても徹底されていないから事件が起きた、「体罰」がなくならない、とまでは申しませんが、何事においても問題事象の再発をさせないためには、どこからが問題となるのかを明確に定義づけし、抜け道をつくらないよう定義にはまらないものの例外対応を責任者が責任感持って対応することが大切なのです。これは企業の組織運営においては常識なのです。

文科省のこれまでの「体罰」に関する見解は、平成19年に出された「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の別紙「学校教育法第11条に規定する学童生徒に対する懲戒・体罰に関する考え方」中で、一応定義らしきものが以下のように記載されています。
( http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm より引用。 )

◆「体罰」となるもの
懲戒の内容が身体的性質のもの、
・身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)
・被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)
に当たると判断された場合
◆「体罰」とならないもの
・放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。
・授業中、教室内に起立させる。
・学習課題や清掃活動を課す。
・学校当番を多く割り当てる。
・立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。

なんだちゃんと定義がされているじゃないかと思われるのは早計でして、これだけでは不十分であるのは当然のことなのですが、驚くことにこの文科省「通知」では具体例が書かれた別紙に移る前の本文においていきなり、
「体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械的に判定することが困難である」
と書かれているのです。

なんとも心もとない。官僚的な責任回避、逃げの一文です。解釈すると、「はじめに言っておくけど、俺が決める話じゃないからね。一応、参考程度に実例は挙げておくけどあとは現場で判断してね」ってことです。この通知が、各都道府県教育委員会教育長、各指定都市教育委員会教育長、各都道府県知事、附属学校を置く各国立大学法人学長宛に出されているということは、あとは現場と各地域の教育委員会でうまくやってくれ、という非常に官僚らしいきれいな現場押し付け的責任回避体質がみてとれます。

事の判断がケース・バイ・ケースであるのは当然のことですが、監督官庁たるもの「体罰相談窓口」を設置してでも、「この通知で分からないケースはいつでも俺んところに聞いて来い!文科省がルールブックだ!」というぐらいのリーダーシップを発揮してもらわなければ、問題の根本的な解決には至らないのです。今回のような事件により、社会問題化したのであればなおさら、国の責任において本気で取り組んでもらわなくてはいけないのです。「そこまでは俺の仕事じゃない」とか「そんな対応したら仕事にならない」とか言っているうちはダメ。要するに、本気度です、本気度。

キツイ言い方をするなら、責任回避行為は責任官庁の管理放棄でもあるのです。例えば民間企業で現場の判断ミスによる事故が起きたときに、再発防止を本気で考えるなら、本社サイドが判断ミスが起きないよう相談窓口を設置して対応しあらゆるケース情報を収集することで、より精緻なルールブック作りにつなげるというのがセオリーです。責任部署が「最終的には現場の問題ですから」と逃げていたのでは、生きた情報の収集すらままならず何の改善にもつながらないのです。

今のままでは、「体罰」を桜宮高校レベル、あるいは大阪市レベルで再発防止することはできても、全国レベルで実現することはできないでしょう。今回の社会問題化した事件を機に、「体罰」の国レベルでの撲滅に向けた文科省の責任官庁としての本気の対応に期待します。

軽減税率議論よりも先にすべきことと新聞の思惑

2013-01-15 | ニュース雑感
来年4月に予定されている消費税増税に関する議論が盛り上がりを見せてきました。昨日は自民、公明両党が休日返上で軽減税率の実施に関する議論をおこなったとか。政権奪取後早くもアベノミクス効果が株価上昇、円安傾向を生み出したと自信を深めた安倍政権は、「来年の実施」を前提に着々と外堀固めをすすめているようです。

ただちょっと待ってくださいよ。増税に関しては確かに、現行5%の消費税を14年4月から8%、15年9月から10%に引き上げる法案が昨夏成立していますが、ここには「景気条項」というものが一応設けられていていたはずです。ところがこのところの報道は、どうも予定のスケジュールどおりでの実施がすでに決まったかのような報道姿勢に思えてなりません。

今一度、復習しましょう。増税のスケジュールどおりの実施を前に、13年度4~6月の経済回復状況を見て、実施の可否を判断するとなっていたはずです。ただ問題点は、この法案には、「2011年度から20年度までの平均で名目3%、実質2%」を目指すという中長期での経済状況の好転が政策の努力目標として盛り込まれているに過ぎず、増税前の経済状況を具体的な数字を提示した実施条件とはなっていない点です。要は首相のさじ加減ひとつでこの条項はいかようにもなるわけです。

法案内容の詰めの段階で、経済回復を判断する明確な指標を条件として入れるか否かの議論があったものの、最終的には政府が「景気好転が確認された」と判断すればGOが出せるというモノに落ち着いてしまったのでした。この点は、財務官僚に操られた野田政権と政権交代が視野に入っていた官僚寄り自民党の利害が一致したことで二大政党の相互牽制が効かず、片手落ち法案の感が強くなってしまったわけです。あの当時から、十分嫌な予感は感じさせられてはいたのですが、結局景気動向に関係なく実施できる“増税ありき”法案であるという懸念がぬぐえないのです。

問題はメディアの対応にもあります。それは冒頭でも触れたように、現段階で新聞各社がこの点を全く振り返えることもなく、増税の施行細則詰めの議論報道にばかりに走っている点です。税負担の公平の原則の立場からも、軽減税率等の問題は確かに重要ですが、事の順序から言えば新聞各社が今なすべきことはこう言った実施細則の詰めよりはむしろ、実施スケジュールを左右する「経済状況好転の判断」を何の数字を持っておこなうかを決めさせることなのではないのでしょうか。

ここを決めないことには国民の増税のスケジュールどおりでの実施に関する最終的な納得は得られないわけであり、私は夏の参院選における最大の争点をそこに持っていくべきなのではないかとさえ思うのです。結局このまま、「首相の政治的決断に増税実施の可否をゆだねます」となってしまったのでは、専門家の意見を無視した野田政権下での原発再稼動となんら変わりないのではないかとさえ思えます。

現段階で経済の専門家による判断指標の策定を急ぎ、秋になってからの“後出しじゃんけん”をさせないために、「この指標は○○以上なら実施、未満なら実施延期」という誰の目にも明らかな増税の実施可否のルールを今国民に提示した上で、実施の可否決定は明快にすすめられるべきだと思うのです。

本題からはややそれますが、新聞がこの点にことさら言及しないのには、理由がある気もしています。そのヒントは、公明党が主張する軽減税率対象品目に新聞が入っていた点です。「コメ」「みそ」「新聞」という並びに違和感を覚えない人はいないでしょう。なぜ「新聞」が?当然公明党の思惑は、同党支持団体の主要財源が新聞購読料であるという理由なのは想像に難くないのですが。

大手新聞社サイドはどうか。軽減税率の対象品目になるかならないかは、ビジネス上においては増税の影響を回避する意味でとても重要な問題であり、どの業界も「うちを軽減税率対象にして欲しい」と政府財務省に働きかける等、業界をあげて軽減税率対象品目化をめざすのが至極当然な動きでもあるわけです。現に新聞協会も、「新聞を含む知識への課税強化は民主主義の維持・発展を損なう」との公式コメントを出してもいますから(言っていることはよく分かりませんが)、新聞は業界あげて軽減税率対象の座を虎視眈々狙っているのです。

これは政府財務省にとってみれば、格好のメディア言論操作のチャンスです。新聞の軽減税率化をちらつかせつつ、計画通りの増税実施を既定路線姿勢で報道をさせ、国民に景気条項の存在など忘れさせてスムーズに増税実施になだれ込むことできれば御の字な訳ですから。若干なりとも言論統制のにおいを感じさせられることは、非常に不安な心持にさせられます。ここ2~3日の新聞報道では、軽減税率の対象として「新聞」の名は各紙とも引っ込めているようで、世間の批判を浴びないよう細心の注意が払われているようにも思えるのです。

本題に戻ります。今なすべきは「経済状況の好転」を判断する数値の決定です。企業経営においても、事業の成否を判断する際に目標となる数値の達否をもっておこなわないなら、すなわちそれは“どんぶり勘定”以外の何物でもないのです。判断指標としてGDPがよいのか、消費者物価指数がよいのか、あるいは様々な指標をミックして出される新たな指標が必要であるのか、論理的に増税実施の可否を国民に説明できる指標を今決めるべきだと思うのです。いずれにしても、“後出しじゃんけん”だけは絶対に許してはいけません。

増税が単に増税にとどまらずに、景気の先行きに大きく影響を及ぼす重大な問題だけに今黙っていてはいけないのだと思うのです。財政再建の観点から消費増税の必要性は認めつつも、不況下での増税実施には最大限の慎重さもって臨む必要があるのです。官僚や政治家や一部財界の既得権益擁護目的に利用されては絶対にいけません。新聞各紙はその自覚をもって増税実施に向けて今なすべきことを、自己の利益を捨てでも訴えかけて欲しいと思います。

ブログとロック、ブロガーとロッカー、似てません?

2013-01-11 | 経営
ブログと電子書籍はこれからの時代のコミュニケーションの鍵握るツールになるであろうと考え、個人的にはこれに積極的に取り組んでいます。年明けでもあるので、この両ツールの今後のあり方についてちょっと考えてみたいと思います。今日はまずメディアとしてのブログの可能性について、考えてみます。

私はコミュニケーション界(という考え方が成立するのかどうか分かりませんが、あるとすれば)におけるブログとブロガーの存在は、音楽界におけるロックとロッカーの立ち位置の歴史に似ているように思ぅています。ロックはハミ出し者の音楽としてスタートし、先人たるクラシックやジャズにはないやや過激とも思える主張性やアウトロー性を帯びたまま成長し、誕生から約半世紀を経てようやく市民権を得てきた感があります。

ちなみに私が洋楽のロックを聴き始めて今年でちょうど40年になります。当時は1950年代半ばにロックが誕生してまだ20年足らず、60年代に創生期を受けロックのバトンを確実につないだビートルズが解散して3年、ロックは形を変えながらも存続し受け入れてもらえる層を広げながら徐々に市民権を得る階段を登り始めたばかりでありました。

そうは言いつつも当時の日本国内はどうだったのかと言えば、まだまだ「ロックなんかエレキギターをかき鳴らすイカれた連中の音楽で、エレキを弾くヤツ、バンドをやるヤツは不良」という穿ったレッテルがまかり通っていた時代でありました。「ロックは騒音、音楽じゃない」、「ロッカーなんていうのは破壊者であり、プロ・アマ問わずろくな者じゃない」、そんな意識が一般的であったのかもしれません。

それと言うのも、「ロックな生き方」と聞けば荒くれでアウトローなイメージが基本であり、当時の大人たちから見れば、従来の常識や既成概念を破って言いたい事を言ってやりたいようにやる、そんな無秩序な若者文化が生み出した学生運動にも似た一過性の病気ぐらいに思われていたからなのかもしれません。

一方ブログの発祥は、web情報によれば今から16年前の97年にweblogとして登場し、自由で無制限な表現の場は個人の遊び場としてごく限られた人たちに利用されていたものが、01年の9・11テロの発生という悲劇をきっかけに、一気に「個人メディア」という公的色彩を帯びることとなります。ここらがロックにおける60年代のビートルズの登場にあたるのかもしれません。

その後、ツイッターやSNSなどとの連動を深めつつ、「個人メディア」というものの存在感を徐々に高めて現在に至っています。ロックの歴史で言うなら今の状況は、ビートルズの登場で一般にも受け入れられ始めた流が太くなりつつあった、ちょうど私がロックを聞き始めた70年代前半あたりの状況に立っているのかなという印象です。

現状ブログメディアの存在は、社会的に地位を認められた人たちのブログも増え、その存在自体は大きくなってはいるものの、信頼感や安定感の点ではまだまだメディアとしての地位は低いと思います。70年代前半のロック音楽やロッカーたちと同じく、確固たる市民権を得るには至っていないと言えるでしょう。

その理由として、当時のロックがレッテルを貼られていた“不良感”と同じものが、ブログにもあるのではないかと。ひとつは、有象無象がひしめくブログに掲載される「情報の質」のバラツキに関する問題。もうひとつは、ブログ「炎上」という事件性にその暴力的なイメージが印象付けられてしまいがちであるようにも思います。

これらの問題点に時間をかけて何らかの変化が及ぼされるのなら、ブログだからこそなし得る既存メディアのタブーへの挑戦や恣意的な情報操作を排除する自浄作用が正しい目を持ってクローズアップされ、ブログのメディアとしての市民権確立に向かわせるのではないかと。ちょうどロック界における原理主義的存在としてのパンクロックの登場を期に70年代後半以降のロックが成長期に入り、周辺のビジネス領域にまで及ぶ影響力の行使を通じて次第に市民権を得ていったようにです(単純に産業ロック化の流れの肯定は意図していません)。

ブログの「情報の質」に関しては、ある程度選別を経たブログを集めると言う新たな試みとして09年にスタートしたBLOGOSに代表されるやり方が、似たようなサイトが次々と立ち上げられている昨今の動きを見るに、ようやくその有効性を感じさせる段階に入ったのかなと。この傾向の一層の進展とツイッター利用やフェイスブックをはじめとしたSNSの広がりと併せて、ブログ系メディアの色分けが徐々に進んで確固たる市民権の獲得に向けていい流れがつくられるのではないかなと思っています。

一方の「炎上」問題。双方向のコミュニケーションが可能である点、誰もが議論に参加できる点はブログメディアの既存メディアにない利点であり、ネット上の意見におけるモラル上の自浄作用の観点含めて、「炎上」を暴力的行為と片付けてしまうのは違うとは思います。ただ、常識的な議論を逸脱する“見せしめ”や行き過ぎた“社会的制裁”は非難されてしかるべきであり、こういった便乗犯的行為の抑制はブログメディアが今後信頼に足るメディアとして確固たる市民権を得るために、越えるべきハードルではないかと思うところです。

ロックが音楽ジャンルとして誰からも後ろ指を指されることなく、確固たる市民権を得るのに費やした時間は約半世紀。ブログメディアは登場からまだ15年ほどに過ぎません。ブログメディアが既存メディアと同様に確固たる市民権を得て、対等のあるいはそれ以上の力を持つコミュニケーションツールになるのには多くの時間を要するのかもしれません。しかし、これからも既存のメディアに刺激を与えつつ、確実にその存在感を増していくことは間違いないという考えの下、私は引き続きブログを大切にしてまいります。今年に関して言うなら、まずは夏の参院選に向け選挙運動のネット解禁。国はそこいらから確実に取り組んで欲しいものです。

日本企業のあるべき国際化とは~ソニー、シャープ、パナソニック、ラスベガス発のニュース雑感

2013-01-09 | 経営
米国家電見本市CESがラスベガスで開幕し話題を集めています。
注目は不振にあえぐ日本企業がいかなる“次の一手”を提示するか。日本企業の国際戦略のあり方をも、原点に立ち帰って考え直す必要すら感じさせられる昨今。各社発表の戦術に、そんな観点からはいろいろ思うところありです。

この問題に関しては、まだ個人的な考えがまとまりきれていないので、以下ややメモ書き的に書き連ねてみますのでご了承ください。

日本企業の国際戦略ってどうあるべきなんでしょう。
家電業界は少なくとも、ここ数年は負け続けです。そもそも島国のお坊ちゃん育ちの日本企業には、海外での戦いはハードルが高いのではないかと思ったりします。

日本企業が積極的に海外に出て成功を収めてきた時代は、国内で認められ支持された技術や製品やサービスを、その実績と言う裏付けを持ってまず海外進出を進め、徐々に徐々に戦略の国際化に手を染めていったように思います。

しかし国際化は、一度手を広げてその規模が大きくなってしまうとなかなかダウンサイジングは難しく、知らぬ間に国際部門の規模のほうが大きくなったりして、海外は海外の独自戦略で戦うことになってお坊ちゃんは勝負に負けてしまったりするわけです。

サムスンあたりは、巷で言われているように、税の優遇やらウォン安戦略やら国家ぐるみのバックアップがあって戦いを有利に進めているわけで、少なくとも利用者が求める製品水準を確保した商品の価格競争では勝てないことはハッキリしました。

ならば日本はどうするのか。基本は原点回帰ではないのかと。まずは国内で支持されるものや、支持されるビジネスモデルを今一度原点に立ち帰って作り上げた上で、それを持って海外に戦いを挑むべきなのではないのかと。

国際化戦略のモデルの違いは、実例を挙げるならユニクロとソフトバンクの例が分かりやすいでしょう。
ユニクロは、基本的には国内で成功したビジネスモデルを持って国際化をするやり方をとっています。経営者や企業戦略に対する好き嫌いは別にして、こういった成功モデルの輸出的やり方には好感が持てますし(ビジネスモデルの中身は、デフレの元凶ではないのかという問題はありますが)、過去の日本企業の歴史を見るにひとまずは海外での成功路線に乗っているように思います。

一方のソフトバンク。アメリカの通信キャリア大手を買収し、国際化に本格参入をしようともくろんでいます。しかし国内でソフトバンクが成功した要因は、iPhoneあってのこと。しかも当初はiPhoneを扱える唯一の国内通信キャリアであったという強みを最大限に活かしてのもの。これが、国内成功モデルを持ちこめずに文化もルールも違う米国に打って出てお人よしの日本企業がうまくいくのだろうかと考えると、私のような素人の目からは非常に難しいのではないかと思えるわけです。

国内家電大手の再生に必要なことはまず、ソフトバンクではなくユニクロ的国際戦略が必要なのではないのかと思うのです。国内で利用者の分厚い支持を集める技術、製品、サービスを今一度生み出す努力をし、その分厚い支持をもって海外に出ることの重要性が問われているのではないのかと。

今日本企業はアップルが何をしようが、グーグルが何をしようが、とりあえずは日本人の嗜好研究、ニーズ研究に立ち返るべきなのではないのかと。日本人消費者のニーズって国際的に見てもかなりレベルは高いと思うのですが…。

利用者にとってすごいとは思うけどなくてもいい技術や製品ではなく、すごいかすごくないかではなく今後もずっと欲しいと消費者に思ってもらえる技術や製品を生み出すことが必要なのでしょう。高度成長の時代ならともかく今はそんな話ありえない、と思われる向きもあるかもしれませんが、それを可能にしたのがアップルでありグーグルだったのではないのでしょうか。

昨日来のラスベガスからの報道では…
ソニーは、スマホで撮った画像がワンタッチで大画面テレビに映し出される新製品を発表したとか。
シャープは、他社も取り組んではいますが高精細4Kテレビを目玉に据えたとか。
本日の報道によれば、パナソニックはGMやIBMと提携してIT関連の事業を強化する方針を明らかにしたそうです。

ソニーやシャープの製品は、確かに革新的な技術であるのだとは思いますが、一般消費者から見たときになくてもいい技術や製品ではありませんか。果たして国内の消費者の心を捉え、分厚い支持を得られるものでしょうか。

パナソニックに至っては、国内経済の再生が新政権の重要テーマである今、なぜトヨタ、日産、ホンダではないのか、なぜ富士通、NECではないのか。もちろん個別に諸々大人の事情はあるのでしょうが、何か歯車が狂ったままの国際化路線に空虚な活路を見出そうとしているように思えてなりません。

まとまりのないまま書きっぱなしてしまいましたが、この問題は今後の日本企業のあり方、日本経済の真の再生を考える上で、大変重要な問題であると思っています。個人的にも、引き続き様々な角度から思考を重ね、考えをまとめていきたいと思っています。

「ブラック企業名言集」は本当にブラック?

2013-01-06 | 経営
今年は明日7日が仕事始めと言う企業も多いようです。休みが長くなればなるだけ、仕事に出るのが嫌になると言うのも人情であります。そんな働き手の皆さんの憂鬱な気持ちの表れか、ネット掲示板に「ブラック企業名言集」なるスレッドが立っていました。そこに書き込まれていた“名言”を、抜粋して列挙してみます。

1 当たり前に出来ることを何故当たり前に出来ない?
2 自分が社風に合わないと感じるなら石にかじりついてでも合わせろ
3 残業はタイムカード押してからしろ
4 とにかくここで経験積んどけ。ここに慣れれば他どんな職場も楽に感じるから
5 用事ないなら休むな、当然だ
6 お前の代わりはいくらでもいる
7 お客様にとっちゃ社員だろうがバイトだろうが関係ないからな
8 昨日のお前より一秒でも早く作業を終わらせろ
9 ここでダメだったら勤まる職場なんてないぞ!
10 休みの日でも呼び出しかかるかもしれないんだから、常に出勤できる準備しておけよ

以上は掲示板にあったもの全てではありませんが、実際によく聞かれそうなものを10個選んでみました。この中で完全にアウトというのは、3、5、10の3件。これらの台詞が本当にまかり通っているのなら、完璧な労基法違反であり即刻改善が必要な状況であります。経営者の皆さん、あなたご自身がこのような発言をしていることは間違ってもないとは思いますが、あなたの会社の管理者がこんなことを言っていないか否か十分ご注意いただきたいと思います。

さて、この3つ以外のものは果たしてブラックと言えるのか否か。どういう状況でどういう流れの元でこれらの言葉が発言されたのか分からないので、あくまでこの言葉のみで判断をさせていただきますが、言い方の良し悪しはともかく果たしてこれらの台詞がブラックかと言えば、必ずしもブラックではないと思えています。

1や2や6あたりは、部下を鼓舞するものとして決してほめられた言い方ではありませんし、むしろ働いている人間の立場からすれば勤労欲を下げるような物言いで、できれば避けて欲しい表現ではあります。でも思うに、管理者サイドのイライラがつのって強い口調に出ると、このような表現も発しうるのかもしれません。これだけをもってブラックと言ってしまうのもどうなのかなと、やや懐疑的にならざるを得ないところではあります。

さらに残りの4、7、8、9に関して言うなら、「ブラック」どころか、むしろ教育的な立場から言っている物言いなのではないのかとすら思えています。

例えば4「とにかくここで経験積んどけ。ここに慣れれば他どんな職場も楽に感じるから」。これはもう現場ではよく言われている、「現場さえしっかりこなせるようになればうちの会社で怖いものはないから」という意味合いで使われる上司の言葉なのではないでしょうか。

同様に7「お客様にとっちゃ社員だろうがバイトだろうが関係ないからな」。このあたりは、サービス業における、顧客目線を意識した顧客の立場に立ったサービス提供というものをバイト君に教え込む際の常套句でさえあるのではないかと思えます。

さらに8「昨日のお前より一秒でも早く作業を終わらせろ」は、一度できたことに安住させず常に向上心を持たせようとする上司の台詞であり、9の「ここでダメだったら勤まる職場なんてないぞ!」は、緊張感の足りない部下に対して危機感を持たせる際の台詞として十分ありうるものと考えられます。

何が言いたいのかと言えば、「うちの会社はブラックだ」と思っている人の多くは実は「ブラック」ではなくて、経営の立場、管理者の立場というものを知らずに「ブラック」と思い込んでいるケースが多いのではないかと思うわけなのです。ここにあげたもので言うなら、自社を「ブラック」と思っている人の7割は実はそうではないのではないのかなということになるわけですから。

もちろん、長い正月休みを終えて明日からまた嫌な仕事に逆戻りだという憂鬱な気分が、「うちの会社もブラックだぜ、聞いてくれよ」と書き込ませたのかもしれませんが。長引く不況下で「ブラック」という言葉は流行語のようになってしまい、言葉ばかりが一人歩きしてしまっているかのようにも思えてきます。

もちろん絶対に許されない正真正銘の「ブラック」企業が存在することも事実ではあるのですが、経営者の立場、管理者の立場から発言したことが従業員の立場から見たら「ブラック」に写ってしまっているという側面も、否定できないように思います。コミュニケーションの欠如が相互理解を妨げ、不景気下での不平不満に後押しされる形で、従業員の疑念に基づく似非(エセ)「ブラック」が作り出されているのかもしれません。

今年は経営と社員の間におけるコミュニケーションのデフレ化にも歯止めをかけて、似非「ブラック」の全廃を願いたいところです。景気浮揚に向けてこれもまた重要なポイントであるように思えるのです。