日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

お知らせ~連載コーナースタートについて

2011-04-29 | その他あれこれ
突然ですが、お知らせです。

このたびWebニュース大手「J-CAST」さんのページで、新たに署名連載をスタートさせていただきました。

「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」というコーナーで、若手ビジネスマンに多い営業および管理の悩みに毎回Q&A方式で答えていくものです。

「すべての問題は『コミュニケーション能力向上による“見える化”』で解決できる」をモットーとして、組織に入り込みあらゆる課題に取り組んでおります弊社スタジオ02のコンサルティング・スタンスをベースに、毎回斬新な回答を提供して参る所存です。

本ブログと併せまして、ぜひともご高覧いただければ幸いです。
コメント欄への書き込み、質問等大いに歓迎いたします。
更新は月2回を予定しております。

★第一回掲載ページ
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/04/28094524.html

★インデックス(ブックマークはここでお願いします)
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php

よろしくお願い申しあげます。


「大人の流儀」とブレない『軸』

2011-04-27 | その他あれこれ
久しぶりにつれづれなるままに書いてみようと思う。

作家伊集院静氏のエッセー「大人の流儀」という本が売れているというので、買って読んでみた。売れているから読むという本の買い方はめったにしないのだが、「大人の流儀」というタイトルに惹かれるものがあったのだ。『大人』って何だろう?自分が突然何かの対応を迫られた時などに、どういう行動をすべきなのかなどと考えた後、自分の思いついた行動を実行に移す前に「大人としてこれで正しい?」などと自問自答する自分がいたりする。そんなときには決まって「『大人』ってなんだろう」って思ったりするものだ。だからこそ他人が考える「『大人』の定義を聞いてみたい、『「大人の流儀」って何だろう?』、そんな気持ちがこの本を手に取らせたように思う。

シンガーソングライターの佐野元春氏は我々の少し兄貴世代で、私などは社会に出たての若僧の時代にはけっこうその歌詞の一節を支えにして唇を噛み締めて過ごした時期があった。その代表的なものが「つまらない大人にはなりたくない」というフレーズ(fromガラスのジェネレーション)。学生時代はロッカー(着替えをしまう方ではない)だったのに、就職活動で志望の出版業界に失望し「専門学校に行くつもりで5年間」と思い銀行に務めた自分の周囲には、当時の自分からみて「つまらない大人」たちがたくさんいたのだろう。とびきりお気に入りのフレーズで毎日念仏のように呟いていた。私が若い頃に持っていた『大人』を象徴するイメージと言えば、「体制迎合」「妥協」「角の取れた」‥そんなところを代表とするどちらかと言えば決してプラスではない印象のものが大半を占めていたのだ。

そんな時代のある日、RCサクセションの“原発ソング発禁事件”が起きた。熱狂的に支持する若者層と「所属レコード会社グループ(東芝)を“告発”するようなやり方はいかがなものか」と揶揄する一部メディアに別れ、賛否両論の議論の渦が巻き起こった。首謀者の忌野清志郎氏はそんな議論をよそにこう言い放った。「正しいか正しくないかじゃない。思ったら行動する、ロックってそういうものだろ?」(言い回しは、あくまで私の記憶)。カッコいいと思った。良い意味での『大人』だなぁと思った。カッコいい『大人』をはじめて見た気がした。こういう『大人』になりたいと思った。

なぜ『大人』であると思ったのかと言えば、彼の言動にブレない『軸』の存在を感じたからだ。彼は、“反原発のヒーロー”として祭り上げられることを嫌った。自分の目的はそこにはなかったからだ。彼は自分を支持する若者たちがいるかいないかすら、どうでもよかったのだ。恐ろしくブレない『軸』だと思った。私はなぜ、音楽的には特にファンでもなかった忌野清志郎氏の葬儀に、これと言った理由も見当たらないまま使命感に急き立てられるように6時間以上も並んで参列したのか?たぶんそんな「手本とすべき『大人』」のまさしく「大人の流儀」を、“原発ソング発禁事件”の彼に見たからなのかもしれない。早いもので、5月2日で彼の死から2年が経つ。

翻って、書籍「大人の流儀」にこんな一節がある。「『いろいろ事情があるんだろうよ…』大人はそういう言い方をする。(中略)人間一人が、この世を生き抜いて行こうとすると、他人には話せぬ事情をかかえるものだ」。なるほどその通りかもしれない。だが真の『大人』というもの、どんな事情をかかえていようともブレない『軸』をもって突き進んでいかなくてはならない。私は組織を離れ独立して生きてきて数年がたち、今改めてそんなことを実感している。

私の名盤コレクション2 ~ Hejira / Joni Mitchell

2011-04-24 | 洋楽
ジョニ・ミッチェルの紙ジャケットがようやく発売されました。それにちなんで、彼女のアルバムの中で最高にお気に入りの1枚を取り上げます。


★ Hejira / Joni Mitchell

1. Coyote
2. Amelia
3. Furry Sings The Blues
4. A Strange Boy
5. Hejira
6. Song For Sharon
7. Black Crow
8. Blue Motel Room
9. Refuge Of The Roads

ジョニ・ミッチェルの音楽はアートです。彼女の音楽は内面をすべてさらけ出すかのような繊細さを常に感じさせ、その時々の心模様を非常にストレートに表現しようとしているように思えます。その軸になっているのが彼女独自の変則なオープンチューニングであり、そのチューニングの結果として得られる不思議な旋律もまた、微妙に揺れ動く彼女の内面を赤裸々に表わしているかのようで、一度はまると聞く者の心の耳を捉えて離さない不思議な魅力に満ち溢れているのです。決して美人とは言い難い彼女が、デビッド・ブルーやジェームス・テイラー、グラハム・ナッシュ、ジャコ・パストリアスといった音楽界の錚々たるイケ面たちと恋仲にあったという事実は、その繊細で謎めいた女性としての魅力に引きつけられた結果であろうと、彼女の音楽を聞いているだけでその人間的魅力が分かるような気がするのです。

彼女の音楽キャリアの中で、一般的な名盤と言えば初期のシンガーソングライター的告白アルバム「ブルー」や、ジャズメンとの美しすぎる融合作であった「コート・アンド・スパーク」あたりが常に上げられるのでしょうが、私のイチオシは76年の作品「逃避行」です。先に記した彼女の繊細さや謎めいた印象が最も強く表れた作品であり、このアルバムで初めて共演した、ジャズ界の鬼才ベーシストであるジャコ・パストリアスのベース・ラインがあまりにジョニの音楽性にマッチして、恐ろしいほどに深く、しかしながら恐ろしいほどに澄んだジョニ・ミッチェルの世界へと誘ってくれるのです。

アルバム全9曲は捨て曲なしの素晴らしい楽曲水準にあることはもちろんですが、やはり特筆すべきはジャコとの共演である①⑤⑦⑨が圧巻の出来栄えであると思います。まず①「コヨーテ」は軽快なジョニのギターとアンニュイなニュアンスのジャコのベースにボビー・ホールのパーカッションがアクセントに入る程度でありながら、冒頭からこの雰囲気はなんなのだという実に不思議な世界へといきなり引きずり込まれる思いがします。⑤「逃避行」は歌うジャコのベースがさながらジョニのボーカルとデュオを奏でている、そんな印象の1曲です。さすがにタイトルナンバー、アルバム全体を覆う言うに言われぬ独自のムードが最も強く感じられる名演であると思います。

⑦「黒いカラス」は、アルバムの内ジャケットでジョニ自身が翼を広げたカラスを模したアクションをとっており、アルバムのもう一つの主題と言っていい楽曲でしょう。ジョニのアコーステックのコードカッティングにジャコのエフェクティブなコーラス・ベースとラリー・カールトンの不思議なリード・ギター、3者の演奏だけで構成されるカラスの羽ばたきはまるで絵画を見ているかのような演奏です。音楽家であり画家・写真家でもある彼女の作品はどれもみな絵画的な表現が多いのが特徴でもあるのですが、この曲における写実性は他のどの作品よりもすさまじいものがあると思います。

このアルバムの共演を機にジャコとの蜜月が始まり、次作では芸術家同士の競演がやや一般リスナーとなかけ離れた芸術の領域に入り込む嫌いも出てきます。それは言ってみれば、出会って間もなくの舞い上がっていたジョンとヨーコとも相通じる、芸術家故の嵯峨であるのかもしれません。そういった意味からも、出会いがしらのギリギリの緊張感の中で、作られたこのアルバムこそが奇跡の1枚であり、ジャケット・アートとの統一感も含め長いジョニの音楽キャリアを通じての最高傑作と呼ぶにふさわしいアルバムであると、私は信じて止まないのです。

田中好子さんの訃報に思う、キャンディーズが残したもの

2011-04-23 | 昭和
元キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さんが55歳の若さで亡くなられました。スーちゃんネタで1本お悔やみを書ける程のファンではなかったので、昭和のガールズアイドルとは何かを振り返えることで、お悔やみに代えます。

今思えば、キャンディーズは女性グループ初のアイドルだったかなと。昭和40年代前半までは、歌手はまず歌が人並み以上にうまいことが最低条件だったので、純粋なルックスから入る“作られたアイドル”はいなかったように思います。30年代後半~40年代前半にかけての女性グループの人気者と言えば、こまどり姉妹、ピーナッツ、ジュンとネネあたりですが(他にもいましたっけ?なんかあまり思い浮かびません)、皆歌から入っていますから、その後の「ルックスありきで歌は二の次」というアイドル路線はこの時代に存在しなかったのです。

昭和40年代末期に登場したキャンディーズは、歌ではなくまず“可愛い女の子が3人”とい売り出し方をされたように思います。だから初期には歌が売れなくとも、けっこうバライティ番組に使ってもらったりとかしています。ただし音楽学院スクールメイツ出の経歴で人並み以上には歌えていたところが前時代の影を引いており、その後のアイドルとは一線を隔していたと言えます(キャンディーズは一応しっかりハモってましたね)。その後のアイドルとは「おにゃんこ」の秋元系、「モーニング娘。」のつんく系がその代表です。秋元系は徹底して素人路線。とにかく数集めた素人娘をユニゾンで歌わせて素人っぽさを魅力にする、みたいな形でした。「モームス」はオーディション系ですが、基本はまんま素人の女の子の将来性を買うみたいなノリ。いずれもプロとして育てられてプロとして管理されたキャンディーズとは、似て非なるものなのです(キャンディーズと同時代のピンクレディもオーディション出ではあるものの、完璧に造られた“アイドル(偶像)”として“非人間的”管理下で売り出されたスターでした)。

あの時代のアイドルの実態は、キャンディーズの3人が「普通の女の子に戻りたい」という名言と共に、突然自主的に「解散→引退」宣言したという流れが全てを物語っています。要するに当時は鍛えられビッチリ管理された“人造アイドル”こそがアイドルであり、睡眠時間は3時間、恋愛はご法度、プライベートはなし、いわば「アイドルはウンコしない」みたいな“非人間的”管理が彼らを苦しめたのです。それがキャンディーズ、ピンクレディの時代でした。キャンディーズの3人はそんな生活に疲れ、嫌気がさして突如「解散・引退宣言」をしてしまった訳です。

解散後の3人の芸能界復帰に際しては、「普通の女の子になるんじゃなかったのかい?」とおっしゃる方々も多数いた訳ですが、彼女たちが引退したかったのはあくまで当時の「人造アイドル稼業」であり、戻りたかった「普通の女の子」とは「普通の芸能人」のことだったのです。ですから芸能事務所がこの後アイドルの人気絶頂期での自主引退リスクを回避すべく、必要以上に造り込み過ぎず一定範囲で私生活も確保した「おにゃんこ」や「モームス」タイプに、女性アイドルグループを変質させていったのは芸能界の管理面における必然の流れであったのです。従い今のガールズグループは、キャンディーズが身を呈して“作られた非人間的アイドル”という商品を廃品に追い込んだ結果生まれたものであると言えるのではないかと思うのです(韓流ガールズグループのKARAが事務所とモメている問題は、韓国の芸能界が20~30年遅れていることを如実に物語っているように思います。今後彼女たちが日本におけるキャンディーズの役割を担うことになるのかもしれません)。

このように昭和を駆け抜けた元祖“作られたガールズアイドルグループ”のキャンディーズ。ピンクレディと共に確実に昭和芸能界のガールズ文化を象徴する存在でありました。こういう“作られたアイドルグループ”の場合、作られたものであるが故、年月を経ての再結成なんて全くのナンセンスで、もう二度と3人一緒に歌う生姿はありえないと見る側の覚悟は暗黙に決まっているものです(なので最近再結成したピンクレディが、全く盛り上がらないのは至極当たり前のことなのです)。ただ仮にそうであったとしても、田中さんの死でそれが動かぬ事実として確定させられてしまったことは、同じ時代を過ごした我々世代の気持ち的にはなんともさびしい限りではある訳です。

田中好子さんのご冥福をお祈りいたします。

皐月賞GⅠ がんばろう東日本その2

2011-04-23 | 競馬
牡馬クラシック第一弾皐月賞です。

今CMで流れているミホノブルボン、好きでしたね。本当に強い逃げ馬でした。坂路の申し子と言われた筋骨隆々の体つきで、無敗のまま小島貞昭騎手に初クラシックをプレゼントしました。この後、ダービーも勝って三冠を目指しましたが、菊花賞では“悲運の名馬”ライスシャワーに敗れ、ジャパンカップを目指しての調整中に故障が判明してそのまま引退。古馬になっていたら、相当強かったのではないかと残念でした。

さて今年。主役不在の混戦模様です。震災の影響で、開催が例年とはちがう東京になるのとステップレースの開催場所、日程が変更になったので過去のデータはそのままでは使いにくく、ますます予想がしにくい状況です。

今回もこだわりは東日本。今週から震災後ようやく関東圏での開催が再開された訳ですから。少なくとも春開催の関東でのGⅠは関東所属騎手または関東馬にばがんばってもらいたい。阪神開催の桜花賞を関西馬、関西騎手にもっていかれたので、とくに再開初週のこのレースはなんとしてもね。そうなると、注目は関東の内田博幸騎手⑥ダノンミルです。このところ皐月賞で好成績の若葉賞勝ち馬でもあり、かつ今年が東京開催で東京得意の父ジャングルポケットというのも心強いです。

気になるのは、7枠の2頭。⑬リベルタスは鞍上が関東のエース横山典です。前走こそ大敗したものの、朝日杯3着後に出世レースと言われる若駒ステークスを快勝しています。⑭フェイトフルウォーは、距離が2000メートルに延びてからクラシックで好成績馬が出るようになった京成杯の勝ち馬。鞍上関東の田中勝は数少ないGⅠ勝ちをこの皐月賞であげています。⑮デボネアは関西馬に関西騎手ですが、京成杯2着、弥生賞3着ならここで勝っても驚けない存在です。

枠連で、3-7
(ちなみに3枠のダノンミル以外のもう1頭は、“一生買わない最低野郎”柴田善⑤ナカヤマナイトなのでそこは困りものですが、関東馬に関東騎手なので震災復興特別恩赦ということで春開催の限り枠連の“代用品”のみ解禁します)。
あとは、ワイドで⑥⑬⑭のBOXでもおさえておきますか。

④サダムパテックが人気ですが、GⅠ朝日杯を1番人気で4着したように「大レースに弱そうでなんとなく買いたくない馬」なので、消しとします。

昭和問わず語り6~プロ野球「黒い霧事件」と“悲運”の剛速球エース

2011-04-21 | 昭和
この企画も随分と間が空いてしまいました。再開します。
先日の大相撲の話の際に思い出した「プロ野球黒い霧事件」の話です。私の思い入れも含めて。

昭和44年のシーズンオフ。突如発覚したプロ野球界の「八百長事件」がありました。野球賭博にからんで、暴力団からカネを受け取って「わざと負けろ」という依頼を実行したとして、西鉄ライオンズ(現西武)の永易投手がスポーツ新聞に告発され、本人がこれを認めたこともあって即「永久追放」処分となりました。これが、いわゆる「プロ地野球黒い霧事件」の始まりでした。当時私は小学校の4年生の野球少年。知り合いにいただく後楽園球場ボックスシートの余り券である東映フライヤーズ戦に足しげく通い、大杉、張本、白、大下、大橋らが活躍すれど万年Bクラスのフライヤーズを熱狂的に応援していた周囲とは少し毛色の違う野球少年でありました。その意味では、フライヤーズが属するパリーグで起きたこの事件には、周囲の子供たちよりも大きな衝撃を受けたのでした。

ただ、永易投手の一件が巷をにぎわした頃は当人をあまりよく知らなかったこともあり、(実は元東映所属でトレードで西鉄に移籍したという重大な事実をその時点では全く知らず)、事件は自分の応援するチームには無関係の話であると思いこんでいたのです。永易投手の「永久追放」で一件落着かと思われたこの事件は、年が明けて翌シーズンが始まる頃、にわかにさらに大きな事件へと発展したのでした。キッカケは永易投手が八百長関与選手の名を公表したことにありました。まず告発されたのは同じライオンズの同僚たち。しかも大物の名が次々と公表され、前年とは比較にならないほど大きな騒ぎになったのでした。告発されたのは、池永、与田、益田の“西鉄投手三本柱”。三人合計で年間40~50勝を稼いでいた主軸選手たちであり、特に池永投手は西鉄のみならずパリーグを代表する人気投手であったがために、その衝撃はとてつもなく大きなものであったのです。

池永投手らの名前があがったのが3月、3人に永易投手と同じ「永久追放」の処分が下されたのが5月でした。この事件の広がりはとどまることを知らず、遂に永易投手の旧同僚である我が東映フライヤーズの選手にまで黒い影は忍び寄ってきました。池永投手らの処分が下された5月に、名前があがったのがフライヤーズの当時のエース森安敏明投手でした。私は後楽園球場で彼の投球は何度も目にしていました。サイドクオーターから投げおろされる剛速球で打者を次々三振に打ち取る姿が実にかっこよく、ちょいワルな風貌と併せあこがれの選手でもあったのです(同じ速球派の代表格である江夏投手はその後も事あるごとに、「史上最高の剛速球投手は森安だ」と断言しています)。「嘘であって欲しい。あのカッコいいエースの森安投手がそんなことするわけないよ」。本当に祈るような気持ちで、事件の推移を父親に尋ねていたのをよく覚えています。しかし祈りも空しく、森安投手の処分もまた「永久追放」でした。この後も何人かの選手が告発されて、「永久追放」「出場停止」の処分が相次ぎました。1年にわたった事件はとりあえず45年のシーズン終了ごろまでに“膿”を出し切り、一応の平穏を取り戻したのでした。日本中が「大阪万博」に沸き立つ中、野球界は稀にみる暗い1年を送ったのです。これが事件の概要です。

私がよく覚えているのは、「永久追放」となった大半の選手は事件への関与を認めていたものの、池永、森安の両エースは「訳あってカネを握らされたが、八百長はやっていない」という主張を最後まで曲げなかったことです(エースの自覚が八百長をさせなかったと私は思っています)。私は信じて止みませんでした。「森安投手は八百長をやっていないよ!」「本人がやっていないと言っているのに、なぜ永久追放なの?」・・・。フライヤーズを応援する子供心に、“大人の世界”からドス黒く大きな影が落とされたのを感じました。池永氏の場合は九州の人気球団のエース故、その後も“復権”を訴える支援者が多く現れ、その主張も多くのメディアで紹介されました。しかし片や森安投手は、当時東京フランチャイズで万年Bクラスの人気最低球団の選手であったが故、その後もほとんどメディアに取り上げられることもなく、忘れられた存在として闇に葬り去られてしまったかのような扱いであったのです。私は池永投手の件がメディアで取り上げられるたびに、「なぜ森安投手のことを一緒に取り上げてくれないのか」と悲しい気持ちにもなりました。

池永投手はプロ野球OB界の尽力もあって、2005年ようやくプロ野球規約の改定により処分から35年を経て復権を果たしました。しかしその時森安投手は既にこの世になく(98年に死去。享年50歳)、この復権すら間に合わず悲運の剛速球エースは最後の最後までツキに見放され汚名をはらすことができなかったのです。彼は晩年、地元岡山に戻り少年野球指導に傾注したと聞きます(ロッテ・マリーンズのサブロー選手は彼の教え子だそうです)。事件の真相は闇の中ですが、プロ野球機構が検証不十分なまま処分を急ぎ業界の浄化イメージを優先したがための悲劇であったのかもしれないと思うにつけ、稀代の剛速球投手の選手生命を奪った判断が本当に正しいものであったのか疑問が残ります。子供心を曇らせられた暗い思い出に、今だに後味の悪さばかりが感じられてしまうのです。

大人をワクワクさせる“趣味趣味”FM番組

2011-04-19 | その他あれこれ
個人的に懇意にしていただいている音楽雑誌「レコード・コレクターズ」等でおなじみの音楽評論家の山岸伸一さんから、先日お手紙で「ラジオ番組をはじめました」とのご一報を頂戴しました。

ラジオ局は「エフエム戸塚83.7MHz」だそうで、いわゆるコミュニティFM局。「そんなものその地域に住んでいなければ聞けないだろ!」とお思いのあなた、相当古いですよその考え。コミュニティFMが地域でしか聞けなかったのは今は昔。現在では全国のラジオがどこででも聞ける時代になったのです。その仕組みはサイマル・ラジオと言いまして、インターネット経由で聞くことが出来るラジオです。

まずは、
http://www.simulradio.jp/
へアクセス。

お好きな放送局の「放送を聴く」をクリックすればOK!簡単でしょ?自分のパソコンにウインドウズ・メディア・プレーヤーが入っていれば即放送中の音が流れてきます。PCで聞くのは面倒くさいと言う方には、スマートフォン向けのフリーアプリが出回っています。I-phoneおよびアンドロイド対応共にあるようです。ちなみに私はI-podなのでITUNE-STOREから、「コミュニティfm for iphone」なる無料アプリをダウンロードして快適に聞くことができています。「エフエム戸塚」以外にも、現時点で全国のコミュニティFM局23局の放送がリアルタイムで聞くことができるのです。

さてさてラジオの説明が長くなりましたが、肝心の山岸さんの番組は金曜日の19時~19時55分(同日23時から再放送)に放送されている「ミュージック・ラウンドアバウト」なる番組です。タイトルはまさしく70年代のプログレ・バンドYESの名曲のタイトルそのままですが(もちろんタイトルバックはこの曲)、中身は決してプログレ一辺倒ではなくて幅広い世界のポピュラーミュージックから選りすぐりった“こだわり山岸ワールド”といった趣。私が初めて聞いた15日の放送では、1月に来日したチップ・テイラーなる知る人ぞ知るアーティストを特集していました(ジミヘンの「ワイルド・シング=というより映画<メジャーリーグ>で有名?」やジャニス・ジョプリン「トライ」の作者として知られる人です)。素晴らしきマニアック加減です。

このチップ・テイラーのような大々的に紹介される機会が少ないために残念ながら日本では陽の目を見ていないアーティストはじめ、世界の有名無名問わぬ山岸さんの趣味趣味音楽で埋め尽くされた約1時間。ちょうど私が少年時代に一生懸命聞いたDr北山修の深夜放送や、松任谷正隆氏のFM放送とも相通じる“プロのこだわり番組”の印象が実に素晴らしい。70年代に比べ音楽情報の絶対量は増えながらも売れ線偏重を否めない今だからこそ、貴重な放送であると心底思わされるのです。プログレの長尺モノや、日本ではマイナーなカントリー系のアーティストなどでも「良いものは良い」の精神で遠慮なくかけまくるというような意気込みが、いただいたお手紙からも伝わってきました。この先どんな知られざる“趣味趣味”音楽をご紹介いただけるのか、大いに期待して待ちたいと思います。

少年時代を思い起こさせ、大人の音楽ファンをワクワクさせる久しぶりのいいラジオに出会えたと思えました。ラジオっていいですね。よろしければ皆さんも、ぜひ一度サイマルラジオで聞いてみてください。

私の名盤コレクション1 ~ Tazana Kid / John Sebastian

2011-04-17 | 洋楽
震災以降、軽ネタをお休みしていたので70年代洋楽ロードがどう展開していたのか正確には分からなくなってしまいました。そんなこんなで書き上げ済で未ロードの原稿も含め読み返してみたのですが、突然の大震災による影響なのか、自分の今の気分がなんとなく、この企画のような悠長に時代の流れを検証するノリではなくなったとつくづく感じてしまったのです。そんな訳で、少なくとも気分が戻るまで一旦中断させてもらおうと思います。

ただ洋楽ネタは引き続き取り上げていきたいので、暫定的ではありますが違う切り口のものを初めてみます。もっと自分の嗜好を前面に出していこうと思います。ブログですから。以前、「アメリカで売れた」という基準で100枚のアルバムを取り上げました。今回は、個人的な名盤をなぜそれが好きなのかを思い入れを語りつつ自己分析しながら、取り上げてみたいと思います。1回に1~2枚づつ取り上げられればと思います。では第1回。


★Tazana Kid / John Sebastian

1. Sitting In Limbo
2. Friends Again
3. Dixie Chicken
4. Stories We Could Tell
5. Face Of Appalachia
6. Wild Wood Flower
7. Wild About My Lovin'
8. Singing The Blues
9. Sportin' Life
10. Harpoon

いきなりマニアックに、ジョン・セバスチャンです。
彼は60年代に、ラビンスプーンフルと言うバンドで「魔法を信じるかい」「ディドリーム」などのヒット曲を放っています。
このアルバムは74年のリリースで、ソロになってのスタジオ盤としては3作目。
実に彼らしいカントリーやルーツ・ミュージック的な音楽に溢れた、素晴らしく温かみのあるアルバムです。

オリジナル曲ではA2「フレンズ・アゲイン」A4「ストーリー・ウイ・クッド・テル」が白眉です。
彼の人柄がにじみ出るようなやさしいメロディは、その歌声と相まってとにかく最高に癒されること間違いなしです。

カバーではジミー・クリフのA1「シッティング・イン・リンボ」、リトル・フィートのA3「ディキシー・チキン」という今となっては超有名曲を、いち早く取り上げています。
特に「ディキシー・・・」では、作者の今は亡きローウェル・ジョージがギターを弾き同時期にリリースされたフィートのアレンジとは一味違う粋な演奏を聞かせてくれています。
フィートのオリジナルではビル・ペインのピアノがかなり強力なアクセントになっているのですが、ここではキーボードはなく完全ギターアレンジのジョンとローウェルのデュオ的な演奏が最高にイカしています(ローウェルとの共演はもう1曲、共作の「フェイス・オブ・アパラチア」が収められています)。

他には56年ガイ・ミッチェルの№1ヒット「シンギング・ザ・ブルース」なんていう、個人的に最高にセンスのいいカバーもあったり、「ワイルドウッド・アバウト・マイ・ラヴィン」や「スポーティン・ライフ」と言ったトラディショナルをもとにスプーンフル時代にカバー&改作していた曲のセルフカバーもあり、本当に彼の魅力の全てが凝縮された作品なのです。しかもゲスト陣には、ローウェルの他にもライ・クーダーやデビッド・リンドレー、さらにポインター・シスターズなど私の大好きな面々の名前がズラリ。このセンスすごいわと思ずにはいられない訳です。最高。古き良き70年代がここにあります。

この後76年に、テレビドラマの主題歌「ウエルカム・バック」の№1ヒットでにぎにぎしく表舞台に復活する彼ですが、同曲収録の同名タイトルアルバムよりもゲスト陣の活躍も含め楽曲、演奏とも断然こちらの出来が優っています。

レコード時代には日本発売された形跡はなかったものの、04年に限定紙ジャケで突如奇跡の国内リリースがなされました(来日でもないのに)。今はもう入手は難しい?手に入るなら、絶対に一聴して損のない名盤です。

P.S.アマゾンで輸入盤ありました。
http://www.amazon.co.jp/Tarzana-Kid-John-Sebastian/dp/B000IAZN9U

大相撲再生への道険し

2011-04-15 | ニュース雑感
震災ネタを中心にこのところのブログを書いていたので、取り上げ損なっていた大相撲の話ですが、これまでもいろいろ主張してきたので最近の動向に関する雑感を少し書いておきます。

まず夏場所の対応。入場料無料で一般解放するが「技量審査場所」として本場所ではない形でおこなうとのこと。実に中途半端。時期同じく震災発生もあった訳で、「国技」と自負する大相撲であるなら、単に入場料無料と言うファンへのお詫び的顔見世興業とするのではなく、国の一大事に対して「国技」としての姿勢を示す、被災地支援に資するようなやり方が出来なかったものかと、残念に思います。具体的には、本場所とするか否かはともかく、入場料はとる(価格は別途協議)がすべて被災地に寄付する、TV中継もするが放映権料はすべて被災地に寄付する、力士が受け取る懸賞金もまた同じ・・・、その程度のことは子供でも思い付けることではないかと。結局「国技」としてのいらぬプライドは持ちながら、「国技」を名乗る「責任感」には欠如していると思わされてしまう訳です。今からでも遅くないので、場所開催での被災地支援策は是が非でも打ち出すべきです。地に落ちた相撲界の復権にも必ずつながると思います。

次に八百長力士の処分について。23人の“疑惑力士”に対する引退勧告という一見思いきった処分をようやく取ったかに見えたものの、その実自ら関与を認めている数人以外は疑惑判定があくまで「状況証拠」のみによるものという杜撰さもあり、当該力士からは不平不満が続出。早く本場所を復活させたい一心で「とり急ぎ形を整えました」的な印象がぬぐいきれません。昨日も追加で引退勧告を受けた力士が勧告に従わず解雇処分となったことを不満として、地位保全の申し立てをしたと。問題がこじれるのは協会の杜撰なやり方が原因であり、今後裁判沙汰への発展等があれば、問題は長期化し余計に八百長問題の全面解明と大相撲の“出直し再興”が先延ばしになるだけです。

昭和40年代にプロ野球界を襲った八百長「黒い霧事件」でも、「疑わしきは罰す」という荒っぽいやり方で無理やりに幕引きを行い、その後も永久追放にされ人生を突然狂わされた複数の選手からの告発が長引くような事態が起きています(真実は闇の中ですが)。昭和の時代はそれで済んだのかもしれませんが、協会が「野球界も昔同じやり方で乗り切ったんだから、我々もそれでOK」ともし思っているならそれは大きな間違いであると思います。客観性あるエビデンスを提示し、誰もがシロクロを明確に認識できる状況下で処分を決めることが、今の時代の常識であるのです。

それともう一点、何よりの問題点はこの一件につきまとうモヤモヤ感払しょくがなんらなされていない事であると思います。具体的には、これら荒っぽい協会の処分と処分に怒りをぶちまけながらも退職届を出して退職金を受け取る疑惑力士たち、唯一退職届をださなかった親方は「もらう退職金がなかった」とか、昨日地位保全を申し立てた2力士も「解雇でありながら退職金は出る」とか、一貫性を欠く一連の協会と力士の行動は相撲界の文化そのものであり、その深く根ざした“慣れ合い”や“ごっつあん”と言う言葉に代表される「だらしない文化」を払しょくすることが到底できないとの印象を強く持たせられてしまうのです。すなわち極論すれば問題の根源が結局分かっていない、小手先で取り繕っているにすぎないという事に成る訳です。

相撲協会の自浄能力の欠如は今始まったことではありませんが、これを正すべく組織された特別調査委員会の動き方もどうなのかと疑問を呈したくなります。座長を務める伊藤滋氏(伊藤整氏の息子)の不遜なモノ言いからうかがわれる荒っぽい性格(学者気質+育ち?)がそのまま委員会の指導姿勢で出ているようにも思え、相撲界再生に向けては外部識者の人選ももっと慎重に行う必要があるように感じさせられるのです。いずれにしましてもここ1~2週間の動きをみる限り、相撲界再生への道は険しいと言わざるを得ない事だけは確かなようです。

東京電力清水社長の愚行に学ぶ危機管理広報

2011-04-13 | 経営
昨日福島を訪れた東京電力清水社長の件は、いろいろメディアでも叩かれてもいますが、近年稀に見る「空気を読まない」官僚答弁のようでした。今日午後会見があると言うので、何か重大な動きがあるのかと書くのを待っていたのですが、悪評の上塗りに終わったようです。これは清水社長個人の問題と言うよりも、東京電力という会社の体質の問題である訳です。社長が「専制君主」で、誰も彼の行動を止められないもしくは指示・アドバイスできない、そんな会社であることが手に取るように良く分かります。普通なら、面会を断られている県知事あて訪問しますか。しかも現地入りしながら避難所訪問をまったくしないで。

対外広報担当役員は企業防衛、危機管理の観点から、「まずは福島県内の避難所を出来る限り多く訪問して、直接お詫びの言葉をお伝えしましょう。罵声を浴びせられるかもしれませんが、当社の責任において甘んじて受けざるを得ない状況でありますので、何卒ご理解のほどお願いいたします」と進言するべきでした。しかしながら、それができずに社長は会えない県知事に名刺だけ渡して帰る最悪の結果になったのです。「専制君主」にあるべき行動が進言できず、県知事が面会をなぜ断っているのか、この会社も社長もはまったくお分かりでないかのような行動に至ったわけです。少なくとも東京電力ほど公共性の高い会社の広報責任者が分かっていないはずがありません。自らの「保身」で正しい判断を進言できなかったのでしょう。「避難民の方々の声は届いていますか?」という皮肉交じりの記者質問に、「担当役員を通じて聞いています」なんて、トンチンカンな受け答えをさせちゃいけません。自分は避難民の声を直接聞く気はないと言ってしまったようなものです。あの場面でスタッフは社長に、少なくとも今回避難所を訪問しない理由ぐらいは最低限明確にさせないといけないでしょう。

また、自社の社員を守ることもトップに課された責務であります。今、東京電力の社員はあらぬ悪口を言われたり、罵詈雑言を浴びせられたりと肩身の狭い思いをしていると聞きます。ようやく、震災から1カ月たってトップが公式の場に出て話をした訳ですから、会社および経営の責任は認めつつも社員一人ひとりに罪はないということをしっかりと訴えかけるべきだったのではないかと思います。ケースが違うので、比較にはふさわしいか分かりませんが、あの97年山一証券倒産時の野澤社長の「社員は悪くありません、みんな私らが悪いんです・・・」という一言は、世間の理解を呼び社員を勇気づけることにもつながりました。今自社の社員たちが必死の作業をしながらも、世間から冷たい目で見られている状況を経営はどう考えているのか。会社の責任と社員の立場に一切触れないトップも取り巻きも、お粗末極まりない“保身の塊”であると思えました。

さらに今日の会見。被害補償について仮払い扱いで前倒し対応をするというのが、会社側が用意した本日の会見の「目玉」であったはず。ところが「いつから」「どれくらい」については、「極力早く」「協議して」という言葉を繰り返すのみ。「監督官庁はじめ関係各方面との調整がありますので、ハッキリした日時では申し上げられませんが、遅くも5月連休明けにはスタートできるよう対応をすすめております。具体的なスタート日につきましては見通しを逐次ご報告させていただきます」と、横からでも対外広報担当役員が一言言えばそれだけでも記者の印象は随分と違ったと思うのです。それにしても中身がなさすぎ。「極力早く」をあまりにしつこく繰り返したがために、「蕎麦屋の出前か?」というかなり辛辣なツッコミも浴びせられました。とにかくせっかく前向きなことを発表しても、いつやるのかがハッキリしない事でせっかくの発表事実そのものまでにいい加減な印象を与えてしまう訳です。イメージダウンを挽回しようと、中身の固まりきっていないことまで発表することで、急場凌ぎの取り繕い広報があからさまになって逆効果になる。プレス対応リスク管理の基本中の基本すら、できていないお粗末東電でした。