日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

ソニー「終わりのはじまり」が「終わりの終わりに」向かう時(今年の企業総括その3)

2012-12-29 | 経営
本年最後のエントリは、この1年において拙ブログでもっとも多く取り上げた企業ソニーについてです。ソニーを取り上げたエントリのテーマは、基本的に「ソニーは再生できるか」の1点に尽きます。

ソニーを取り上げた直近のエントリで、株主向けIR資料に使われた平井CEO顔写真の顔色の悪さから、兆候把握材料として内部の危機的状況がうかがい知れる旨書いたところ、過去のエントリをお読みでない方々から「なんの根拠もない言いがかり」「勝手な妄想」などといったご批判も頂戴していますので、これまでの総括としてのソニーの危機的状況と小職が考えるその打開策のあるべき方向をこの機会にしっかり記しておきたいと思います。

ソニーを考える時に、まずその経営者による時代の移り変わりを知っておく必要があります。創生期と言える井深、盛田両氏の時代、それを継いだ発展期岩間、大賀両氏の時代、そして世界に大きく飛躍を目指しつつも失速をはじめた迷走・低迷期出井、ストリンガー両氏の時代です。そしてもうひとつ、ソニーが残してきたヒット商品、トランジスタラジオ、家庭用テープレコーダーとカセットテープ、トリニトロン・カラーテレビ、ウォークマン、ハンディカム、CD・MD、プレイステーション、バイオ等々も知っておく必要があるでしょう。

井深氏、盛田氏の時代から大賀氏の時代までは、ソニーのヒット商品は主に技術力を背景にした、便利な小型化や喜ばれる高機能化でありました。上記の商品群で言うなら、ハンディカムあたりまでがそれに該当するでしょう。これは一介の町工場から技術者である井深、盛田両氏が、日本の技術で消費者のハートを捉えることで世界を目指していた時代の流れであったともいえると思います。

しかし、出井氏以降のソニーは大きくその姿を変えてしまいました。出井氏が技術畑の人間ではないということがまず考えられるのですが、実は前任の大賀氏もまた技術者ではなく芸大出身の変り種経営者でありました。では、大賀時代と出井時代以降の違いは何か。一番大きな違いは、大賀氏の時代までは盛田氏が存命で、一般的に言われるソニー・スピリット(=技術のソニー)が組織の中で息づいていたと考えられることです。

出井時代のヒット商品を見てみるとそれ以前との違いがよく分かります。大ヒットしたプレイステーション2は、DVDソフトが再生できるという組み合わせの妙がウケた製品でした。“銀パソ”と言われたバイオは、性能はさておき主にはその色合いやスタイリッシュなフォルムがウケ、デザイン先行でブームになったと記憶しています。

これはまさしく文系経営者井出氏の経営スタイルと符合します。技術とは無縁な音楽ソフト、映画ソフトの販売に注力し、イメージ戦略を重視してIRを強化しブランド価値の向上にばかり力を注ぐ。その結果として、技術は置き去られ実体を大きく超えて膨らまされた中身の伴わない虚構のソニーブランドばかりが表に出ることになったのではないでしょうか。

ウォークマンで築き上げた携帯音楽プレーヤーのマーケット圧倒的トップの地位は、利用者の心をくすぐるiPodの登場によって完全に奪い去られ、トリニトロンで世界のソニーを印象付けたテレビ市場は、利用者が満足する技術水準を安価で提供する韓国勢力に圧倒されるに至りました。出井時代に中身の伴わないままた高められた「幻想のソニーブランド」が、ここ数年馬脚を現したのは当然のことであり、出井氏の跡を継いだ技術とは無縁のストリンガー氏もまた、傷を深くしただけで何の実績も残せぬ不毛な7年間をソニーにもたらしたと思います。

盛田氏亡き後にトップに座った出井氏が残しストリンガー氏が引き継いだものは、「幻想」に彩られたソニーイズムだけだったのではないでしょうか。ソニー本来の姿は、町工場ではぐくまれた日本の技術を、いかに消費者が喜ぶ便利で高性能な製品として提供するかに腐心することであったはずです。いまだ夢から覚めることなく、自らを実力以上に大きく見せ「幻想のソニーイズム」で身の丈を超えた企業発展を志すと言うソニーの姿は、痛々しくさえあるのです。

今年ストリンガー氏を継いでCEOに就任した平井一夫氏。就任当初は、51歳の若きリーダーに期待を寄せる声も聞かれていました。しかし、今年話題を集めたオリンパスとの提携による医療機器分野への本格進出などの舵取りを見る限り、彼もまた「幻想のソニーイズム」にドップリと浸かった出井チルドレンに過ぎないのかなと、落胆を禁じえないところであります。やはり、文化系出身の“音楽とゲームの貴公子”に、凋落ソニーの舵取りは荷が重すぎるのではないかと感じるところです。

今ソニーが戻るべき原点は、井深、盛田両氏が築きあげた町工場が世界に夢をはせたあの時代の「技術のソニー」のスピリットであり、それこそが真のソニーイズムであるはずです。平井氏が口にする目指す姿「ソニーの復権」は、彼のマネジメントを見る限り、出井氏時代以降の「幻想」への回帰に過ぎず、それに彼が気がつかない限りにおいては「ソニーの復権」は実現し得ないのではないでしょうか。

「ソニー終わりの始まり」と揶揄される出井時代、このままでは平井ソニーが「ソニー終わりの終わり」に向かっているように思えてなりません。

※本年は本エントリにて終了となります。本年も拙ブログをご愛読いただきありがとうございました。皆様、よいお年をお迎えください。

東京電力とあるべき銀行与信判断(今年の企業総括その2)

2012-12-28 | 経営
今年拙ブログで二番目に登場回数が多かった企業は東京電力です。どのエントリーも、一言で言うなら再生スキームの正当性を問うたものでした。小職の主張は首尾一貫、「東電は破たん処理せよ」です。破たん処理の必要性については、株主責任、貸し手責任を問わずに料金値上げという形での利用者責任を問うやり方は著しく納得性に欠ける、という論旨です。

破たん処理の必要性については、様々な形で識者の皆さんも口にされているところですので、年末に際してのここではもう一段掘り下げて、あるべき金融与信の正常な機能という観点に絞ってこの問題を再度取り上げてみたいと思います。

今回の国が選んだ東電の処理スキームは、中期的な観点での黒字化見通しを軸とした再建計画を提出させることを条件として国が一時国有化をすることの前提の下、取引金融機関の追加融資によって“延命策”をはかるというものでした。

はっきり申し上げて現状の東電をめぐる環境は、先の見えない損害賠償、廃炉処理、使用済み核燃料の廃棄処理等に今後どれだけの費用がかかるのかも全く見当もつかない不透明な状況にあります。そんな状況下で、鉛筆をなめて作らせた机上の空論ともいえる再建計画を受理し東電を延命させるということの罪の重さを、国も国民はもっとしっかりと理解すべきではないかと思うのです。

“延命策”への協力により当面債権は守られた取引銀行は本件に関して言うなら、与信業務を放棄しています。先行きの見えない賠償負債を含めれば実質債務超過状態にある“死に体”企業に対して、“絵に描いた餅”の計画を元にして多額の追加融資を実行するなどということは、銀行としてその公共的使命を放棄したに等しい愚行であると考えます。

この問題に関して銀行が正しい与信判断をすることはものすごく重要な意味を持っています。なぜなら、銀行が東電に対してあるべき与信的判断から追加融資に「NO」を突きつけるなら、原子力発電所を持つ電力会社に対するあるべき与信リスクが成立し、「電力事業と原発のあり方」という問題提起を生むことになるからです。

すなわち、銀行が追加融資を断り東電が破たん処理をせざるを得ない状況に陥るなら、それは原子力発電所の事故リスクというものを正当に判断した企業評価をくだすことを意味し、原子力発電を持つ他の電力会社に対する与信リスク管理も同様の判断基準で運用されることになるのです。

そうなれば、本当の意味で安全性が確保されていない原子力発電所を稼動しようとする電力会社に対しての融資姿勢は当然厳しいものになるわけで、ここに銀行の与信業務によってあるべき企業の事業健全性が求められることになるという流れが実現されるわけなのです。

その流れからは、ごまかしの安全性確保により原発再稼動に乗り出す電力会社に対してはそのリスクを計量化した高い貸出金利が適応されることになるでしょうし、あまりに杜撰な管理をしている場合には融資を引き上げるという動きにもつながるので、電力会社には存続にかかわる危機感を与え原発エネルギー活用に対して嫌がうえにも電力会社経営の観点から慎重な対応を迫られることになるわけなのです。

これがあるべき銀行の与信判断であるはずです。現状はどうかと言えば、政府が実現性の乏しい計画書を受理することである種の“お墨付き”を与えて強引に銀行から追加融資の承諾をとりつけ、一時的に東電も国も銀行も薄氷の上で手をつないでお遊戯をしているような状況にあるだけなのです。

現に、東電は早くも計画のシナリオどおりの進行は難しいと弱音を吐いており、原発の不十分な安全確認下での本格再稼動や利用者負担の強引な積み増しでもしない限り、かなり近い将来にこの“延命策”は破綻の憂き目にあうことは確実な状況にあると思われます。

銀行が多額の不良債権を発生させたくない気持ちはよく分かりますが、完全に死に体の企業に対してつかの間の“延命策”としての「追い貸し」をすることが最終的には一層傷を深くすることになり、絶対にやってはいけないということは融資業務の「イロハのイ」ではないですか。少なくとも私が知っている銀行融資の考え方はそうです。繰り返しますが、今の東電取引行は国の指導の下談合して与信業務放棄をしているのです。

あるべき与信業務をすることで、原発を持つ電力会社のリスクを正しく評価し原発への取り組みを含めたその経営方針を正しい方向に導いていく、銀行は今こそ公共的な使命を帯びた機関であるということを自覚した上で行動をとるべきではないのでしょうか。

国が重い腰を上げないのなら、金融機関は東京電力に対して「期限の利益」を喪失させ破たん処理に追い込んで行く。原子力エネルギーの将来を正しい目で議論していくためにも、金融という公的役割を担う銀行には今こそそのような判断が求められているのではないかと思われるのです。

計画遂行で早くも弱音を吐いている東電に対して無用な“延命策”を続けることは、また来年何の罪もない一般利用者に責任をなすりつけるような再度の料金値上げという事態にもつながるでしょう。庶民レベルの負担増は景気の足を引っ張るだけで、何のメリットもありません。

仮に自民党政権が経団連はじめ電力ムラとの関係で“東電延命策”を継続する方針を打ち出したとしても、銀行は「正当な与信業務を通じた健全な経済活動の支援」という自身の社会的責任を認識したあるべき対応をして欲しいと思います。

以上のような観点を含めて拙ブログでは、東京電力に関しては被災者保護を法的に担保した上での早期破たん処理の必要性を、引き続き訴えていく所存です。

ドコモとiPhone(今年の企業総括その1)

2012-12-27 | 経営
そろそろ今年を振り返る時期がやってまいりました。拙ブログのカラーを考えて今年の企業ネタの中で多く取り上げたテーマは何の話であったのか、ザッと調べてみたら一番登場回数が多そうだったのはソニー。次が東京電力、そしてNTTドコモがベスト3でした。年末に際して、これら個人的に関心の高い3社の今年の総括をしておきたいと思います。まずは第三位、NTTドコモから。

ドコモネタを多く取り上げてきた理由は、アップルのiPhoneを取り扱う可能性はあるのかないのか、今だにそれを取り扱えない理由は何なのか、といった世間一般が抱いているであろう疑問点を探ってみようというものでした。さまざまな観点からいろいろなことを書いて来ましたが、この問題に関して今年の年末段階での私なりの考えを復習してまとめておきたいと思います。

iPhoneを今だに取り扱えない理由は、以下の3点に集約されるでしょう。
①アップルのiPhone販売ノルマとドコモ既存サービス維持の問題。
②電波行政における外国企業製品シェアの問題
③絶不調家電大手メーカー擁護の問題

①は幅広くいろいろなところで言われ書かれている問題です。簡潔にまとめるなら、ドコモがiPhone取り扱いたいならiPhone向けの特別な料金体系を組み、ドコモの携帯電話総販売量の50%以上をiPhoneで確保せよという条件がアップル側から提示されていると言われています。これはノルマの大きさもさることながら、一律の料金体系を崩すことはドコモの基本戦略や収益構造を著しく歪め、収益面のマイナスは販売店手数料の大幅な見直しを迫られて、販売代理店との関係をも見直しせざるを得ない状況に追い込まれることを意味しています。

それと既存サービス維持の問題。過去に膨大な投資を掛けてきたお財布ケータイやDCMXなどの付随サービスがiPhoneでは取り扱いができないことをはじめ、iPhone上ではその他ドコモの既存サービスにも様々な制約が発生することも予測されています。そんなiPhoneがノルマにより全販売台数の50%以上を占めることになるなら、コンテンツ・ビジネスを今後収益源の大きな柱として考えているドコモにとっては、通信キャリアにおける「巨人」の座を揺るがしかねない状況にもなりうるのです。

②の話は、総務省が牛耳る電波行政において、アメリカの巨大企業が通信機器を通じて支配しうる状況を作り出すことをよしとしていないのではないかという観点です。以前にこの話を書いたときに、「サムスンやLGなど韓国企業の製品をドコモは扱っており、アメリカはダメと言う論旨はおかしい」といった趣旨のご指摘を複数いただきました。

この点に関して言うなら、サムスン、LGが現状どんなにがんばってもドコモだけでなくau、ソフトバンクも含めた、国内全携帯販売台数の50%を超えるシェアをとるなどということはありえない訳ですが、ドコモが同社シェア50%以上のノルマの下iPhoneの取り扱いを開始したなら、アップル製品が国内全携帯電話販売数の50%を超える可能性も出てくるわけです。アップルだからとかアメリカだからではではなく、海外の特定企業の製品が民間通信機器として50%以上のシェアを持つことは、有事対策という観点からみても総務相が好ましいことではないと考えて当然ではないのかと思うのです。

③の話は先月の拙エントリで取り上げ、各種メディアでも幅広く紹介されるなど、多くの反響を頂戴した視点です。かいつまんで復習すれば、ドコモがiPhoneを扱い販売シェアの50%というノルマを飲むなら、既存の国内携帯メーカーの大半は携帯製造分野からの撤退を余儀なくされるであろうということ。具体的には、富士通はかろうじて生き残ったとして、NEC、パナソニック、シャープ、ソニーは撤退せざるを得ないのではないかなと。

そうなれば各社に与えるダメージは甚大であり、出口が見えない赤字にあえぐ一部メーカーは息の根を止められかねず、わが国の景気回復にも大きく暗い影を落とすことになるのではないのかと思うのです。NTTグループの筆頭株主である日本国財務大臣が、そのような国家的リスクのある策を不況下の現段階ではよしとしないのではないかと、そんな話であります。それと、ドコモが二人三脚で携帯のガラパゴス的ビジネスモデルを作ってきた大手家電各社に、現状で引導を渡すような仕打ちができるのかと言う点からもこれは難しいのではないかと思えるのです。

こうやって見てくると、考えれば考えるほど現段階でドコモがiPhoneを扱う可能性は極めて低いと思えます。来年に向けてドコモが望んでいることは、iPhoneの早期取り扱いではなくiPhoneの早期自発的地位低下ではないのかなとも。iPhoneに関して致命的な不具合などに起因する“神風”を待つ心境であるのかもしれません。

民営化郵政は年賀状配達でもう少し努力すべきと思う件

2012-12-25 | 経営
行きつけのスポーツクラブのロッカールームで、初老の紳士お二人が着替えながらこんな会話をしていました。

「年賀状は元旦に着くためには25日までに出せとテレビで言ってたけど、なかなかそうは言ってもできないんだよね」
「私もまだ出せていませんよ。普通なら翌日には届く場所への郵便が1週間かかるってのは、いくら特別な時期とは言ってもどうなんだろうって思いますがね」
「それが昔から当たり前になっちゃっているからね。やっている側には何の問題意識もないんだと思うよ。年賀状を書け書けってさんざん商売しておいて、元旦に届けたいなら1週間前に出せって言うのは、殿様商売だよね。うらやましい話だ」

人生経験豊富な先輩方のこの会話から、私はとてもいい気づきをちょうだいしました。企業の利用者の満足度を高めるサービスのあり方についてです。

確かにこの紳士方がお話されているように、年賀状は通常の郵便とは異なって、元旦に相手宅に届けるためには、一週間前には投函する必要があるというのは今も昔も変わるところがありません。郵便番号すら存在しなかった時代も、郵便番号が7ケタに細分化された今も。すべて手作業でおこなっていた時代も、機械化やIT化が進んだ今の時代も。そして、官業として営業していた時代も、民営化した今も。10年1日の如く変わることがありません。

そうもっとも重要なポイントは、最後の「民営化した今も」の部分です。民営化した以上民間ですから、サービスの向上は組織繁栄に向け不可欠な企業努力であるはずです。郵政批判が本エントリーの目的ではないのですが、選ばれる企業になるためには「今までの“当たり前”をいかに打破するか」がセオリーであり、どうもそこが甘いのじゃないのかなと思わずにはいられないのです。もっとも現在年賀状配達におけるライバルが存在しないので、現状のままでも「選ばれる」ことは間違いないのですが。

冒頭の初老紳士方のご指摘部分について申し上げるなら、民営化郵政はいかに一日でも短く元旦に届けるかについて、まず努力姿勢を見せることこそが企業の対利用者サービスとして重要なのであって、「毎年こういうことになっていますので」という姿勢のままいつまでもこの状態をよしとするのなら、ライバルが存在したなら「選ばれる企業」にはなり得ないと思うのです。もし仮に、宅配業者が年賀状配達に参入して「当社は3日前投函で、元旦にお届けします!」なんていうサービスをぶつけられようものなら、そこで初めて満足度を高める不断の努力の重要性を知ることになるのかもしれません。

膨大な量の郵便物の仕分け作業に、膨大なコストがかかることも分かりますが、テレビスポットで「年賀状は25日までに投函を」を告知するコストだってバカにできない金額がかかっていると思いますし、要はどこによりコストのかけるかの問題なのかなと。また、上乗せコスト説明をした上で「元旦に着くためには、25日まで投函なら50円、26日投函なら60円、27日投函なら70円…」のように、金額を段階的に変えていく方式で利用者に選択権をゆだねることだって民間としてはあっていいサービスのようにも思います。

プロダクトアウトの時代はとっくに去りマーケットインの時代になって久しい今、消費者向けのサービスを提供する企業が何より利用者の満足度を高めるサービスに腐心するのは、どこの業界でも当たり前のことになっています。そしてまた、より一層利用者の満足度を高め企業価値を高めるためには、「消費者から見ても当たり前と思っていることでも打ち破る努力を怠らないこと」にこそ、秘策が隠されているのです。

初老の紳士方の会話に今の時代のあるべき民間のサービスを思い、民営化郵政が本当の民間意識を持つまでにはまだまだだ時間がかかるのかなと感じさせられた次第です。

ソニーが益々心配になる平井CEOの顔色

2012-12-21 | 経営
写真をご覧ください。ソニーが先月株主向けに配布した上期業績の報告に関するIR資料です。これを見せられてびっくりしませんか?私はビックリでした。



いきなり目に飛び込んでくる平井CEOの顔色です。二日酔いレベルのなんとも生気のない顔色(添付の写真は、最近のデジカメの性能が良すぎて自動で顔色に赤味の色調整をしてしまうようで、実際の刷り物よりも少し顔色が良くなっています)。しかも笑顔のかけらもなく、何とも疲れ切った表情。こんな写真をトップの近影として平気で使用する天下のソニー、大丈夫ですか。今ソニーに一体何が起きているのか、ちょっと気になるところです。

写真に関して言うなら、常識的にはソニーほどの企業なら、意図して出さない限りこんな写真がIR資料に使われるはずがないということ。少なくとも出井ソニーの時代以降、企業イメージを大切にしてブランド価値をひたすら高めてきた同社の企業文化の在り様を考えるなら、これは考えられないことだからです。

ならば誰の意図であると考えるべきなのか。ひとつ考えられるのは、平井CEOを快く思っていない社内の反乱分子の仕業。でもそれはどうかなと。こんなアイドルのポスターにヒゲの落書きをするような小細工は自社のイメージダウンになる以外何の発展性もなく、誰も得をしないでしょうから。

では、平井CEO自身が意図的にこの写真を使ったと考えるのはどうか。IR担当が作成したであろう文面には、当然「とりあえずいろいろ手を打っています」「下期もがんばって業績回復に努めます」という前向きな話が書かれていますが、平井氏がこの文面を読んで「実際はそうじゃないだろう。そうは言っても株主にすべて本当のところを話すわけにもいかない。せめてできるのは、私の顔の顔色や表情から現状を察してもらうぐらいか」と考えたとするなら、けっこうたいした経営者であるのかもしれません。

以上はあくまで想像の域を出ない話です。それをなんでことさらに書いたのかと言えば、世界水準でのIR活動を展開してきたソニーともあろう企業が、もし誰の意図もなくしてトップのこんな写真をIR資料に掲載してしまうような管理の甘さが社内に蔓延しているとするのなら、そのことの方がよっぽど企業として危機的な状況ではないのかと思ったからです。一般的にはこういう小さなことにこそ、組織管理における危機的状況の「兆候」は現れるものなのです。

実は同じような「兆候」と言える管理の甘さを露呈した出来事が、他にもありました。やはり先日新聞紙上をにぎわせていた同社の電池事業からの撤退の話。実はこの電池事業の製品、今年の株主総会での株主用のお土産として蓄電池セットが配られていたのです。報道内容の信憑性がどこまであるかはともかく、「火のないところに煙は立たず」であり、撤退が取りざたされるような事業部門の製品を株主に「引き続きがんばります」と配布するのは、管理の甘さ以外の何ものでもないわけです。

この“事件”にしても、担当が何も考えずに「とりあえず、お土産になるような商品と言えば電池ぐらいかな」というノリで決まったことだとしてもIR管理面から問題ありですが、もし仮に「不良在庫が多いんだから、株主向けのお土産で一掃しておけ」という社内での意図的な動きがあったなら、IR管理不在ともいえる一層危機的な管理状態であると言えるでしょう。

ソニーが今苦しいのは確かです。企業も平井氏ご自身も。派手にぶち上げたオリンパスとの提携も、オリンパスの自社主導へのこだわりが邪魔してどこまで成果を上げることができるのか、かなり疑問符が付いてもいます。どん底のテレビ事業にしても光明がさす話など現状何ひとつとして存在しない。

平井氏は、当初ストリンガー前CEO続投下の“通訳兼下働き”としての社長職を務める予定が、ストリンガー氏の想定外で起きた指名委員会によるストリンガー氏更迭により突如としてCEOの重責を担われることになった“音楽とゲーム事業の貴公子”です。ソニー未曾有の危機的な状況下での舵取りにはちと荷が重すぎるのではないかと、就任時に心配したことが早くも現実化した感じです。

それにしても悪すぎる平井氏の顔色。もしこれが彼の意図せざる掲載であるのなら、この顔色以上にソニーの組織管理の実態は大変な状況にあるのは間違いないと思うのです。

小沢一郎氏がどうしても身につけられなかった今様「リーダーの資質」

2012-12-20 | 経営
今回の選挙における民主党の大敗を見て、タラレバ論ではありますが、思わず「もしあの時小沢一郎氏が首相になっていたらどうなっていただろうか」と考えてしまいました。

「あの時」とは、今から2年ちょっと前、民主党の代表選を菅直人氏と小沢一郎氏が争った「あの時」。少なくとも小沢氏は常にマニフェスト遵守が基本姿勢でありましたし、最後までそれを貫き離党をまでしたのですから、マニフェストに沿った政権運営は何を導き出しただろうか、3.11後の管理運営に関しても国民から総スカンを食らった菅氏のような運営には至らずどう舵取りをしただろうか、と今更ながらですが興味はあるところです。

いやそんなことよりも、もし「あの時」小沢氏が総理になっていたなら、小沢氏の政治家としての人生や国民からの評価はずいぶんと違ったものになっていたかもしれないとは思えないでしょうか。

小沢氏はつくづく損な性分であるなと思います。氏が「多くは言わぬ、黙ってオレに着いて来い」的な昭和型の古いタイプのリーダーであるということが、良くも悪くも本音が見えにくく「見える化」などとはおよそ縁遠い印象を生み、このことが評判のいい時はともかく、悪い状況に陥ると際限なく悪い印象に導かれかねないリスクを負っていたのだと思うのです。

一部で言われる、言われなきメディアの“小沢叩き”というものも、長年の「見える化」不足の氏のあらゆる言動が生んだ誤解に誤解を重ねた結果であったのかもしれません。そしてなお、叩かれても叩かれても口を閉ざし続けた氏の対応が、メディアの思うツボ的一層の“ヒール(悪者)”イメージづくりに寄与してしまったのではないかとも思えるのです。

もし小沢一郎氏が総理になる最後で最大のチャンスであった「あの時」、総理になっていたなら、立場上いやがうえにも自己の「見える化」は進めざるを得なかったであろうわけで、一国の首相に対しメディアの勝手な“ヒール”イメージづくりは思うようには進まなかったのではないかなと。菅氏が首相としてメチャクチャにしてしまった政権運営がどうなったのかと言うこと以上に、「見える化」された小沢氏に対する国民の印象も随分と違ったものになっていたかもしれないということ、個人的にはそちらへの関心の方が尽きないところです。

「国民の生活が第一」でも代表にこそ就任したものの、相も変らぬメディアの“ヒール”扱いに氏の「見える化」不足状態も変わることのない状況のままでした。さらに、合流した「日本未来の党」に至っては、メディアのイメージ攻撃を恐れた嘉田代表から裏方専念を強要されダンマリを強いられたことが、一層の“黒幕的悪(わる)”の イメージ化に結びついてしまい、これが“脱原発”への支持を欠く中で「未来」惨敗の大きな一因になったのではないかとすら思えるところです。

結論ですが、私が言いたいことは、小沢擁護でも小沢批判でもありません。学ぶべきは、リーダーにおける「見える化」の大切さ、特に評判下降気味の時の「見える化」不足は誤解が誤解を生むマイナスのスパイラルに陥りかねず、それはリーダーの命取りにもなりかねないということ。私はリーダー自身の「見える化」のことを能動的意味合いを込めて「見せる力」と呼んでいますが、今の時代のリーダーにはこの「見せる力」が絶対に必要であると思うのです。

昭和の時代は「多くは言わぬ、黙ってオレに着いて来い」が、リーダーとしてのカリスマ性や威厳を保つ上でからも良しとされた時代でありました。今は違います。リーダーにもカリスマ性や威厳よりも欧米的なロジカルさが求められる時代になり、何事においても「見えること」「明確であること」が重要になっているのです。言ってみるなら、リーダーにとっては「沈黙は金」ではなく、「沈黙は悪」の時代です。経営者や管理者の皆さん、今回の選挙からそんなことを学びとられてみてはいかがでしょうか。

「素人は政治に手を出すな!」を改めて実感した衆院選

2012-12-17 | ニュース雑感
衆議院選挙が終わりました。結果は大方の予想通り。自公圧勝、民主惨敗。結果分析はプロの評論家の方々にお任せするとして、今回の選挙は個人的には改めて「素人は政治に手を出すな!」を強く印象付けられた選挙でありました。

それを何より強く感じさせられたのが、福田衣里子前衆議院議員。薬害肝炎訴訟の原告団代表として若くして世間の注目を集め、09年の総選挙で小沢一郎氏の出馬要請を受けて長崎2区から立候補。民主政権交代の追い風にも乗って、現職の大臣経験のある自民党候補を破って当選するという、時の選挙の象徴的な出来事により“小沢ガールズ”の代表的格としてクローズアップされたのでした。

しかし、民主党では消費税増税決議に反対票を投じ処分を受けるなどの自己主張を展開しつつも、小沢氏の民主離脱「国民の生活が第一」立ち上げには加わらず、衆院解散のタイミングで民主党を離党し「みどりの風」に合流したのでした。ところが、この「みどりの党」がこともあろうに選挙直前に「未来の党」に合流することになり、なんと袂を分かった小沢一派と思いもよらぬ鉢合わせに。

今月はじめには、「未来」嘉田代表との約束で名簿順位単独2位を引き換えに近畿比例ブロックでの出馬を決めたものの、その後旧「国民の生活が第一」との名簿順位をめぐるいざこざがあったのか、公示直前に名簿順位が最下位14位に下げられるという憂き目に会ったわけです。本人も選挙運動期間中に名簿順位のことをたずねられると、「奇跡を願うしかない手術に、多額の私財を投じるのと同じ。でもここまできたらやるしかない」と悲壮なコメントを。まさに政治力学に翻弄された素人の悲劇ではないでしょうか。

タレント議員の大半も同じような存在ではあるわけで、“旬”なうちは「蝶よ花よ」とおだてられ、“旬”をすぎれば使い捨て。間違っても、何かの勘違いで自己主張などして、“センセイ”に盾などつこうものなら即刻切捨て。それでも、売れなくなればポイがあたり前の世界で生きかつ金銭感覚が一般人とは異なるであろうタレントならば、まだ「しゃーないな」で済むかもしれませんが、一般人がこんな目に会おうものなら再起不能ではないのかと。

恐ろしい世界ですよ、政界というものは。利権のせめぎあいという意味で言うなら、ヤクザの世界ともあまりに近しいのではないかと。世襲で確固たる基盤をお持ちの方であるか、あるいはコツコツと一介の地方議員から始めて、徐々に中央に上り詰めていくという筋金入りの政治家志望でもない限りは、素人が絶対に踏み入れてはいけない世界なのではないかとつくづく思わされるわけです。

にもかかわらず、今回もまた犠牲者が何人も出ています。“人気”にあやかって国政進出をなんて甘い夢を見た維新の会の素人候補者たちも、私財を投じあるいは多額の借金をしょわされ、それでなお落選の憂き目を見て借金だけが残る。常識的には、実績のない彼らに次はないわけで、再起不能の奈落へと突き落とされ気分ではないのでしょうか。

日本の政治は利権争奪戦を繰り広げる“政治屋”が運営している以上、その気になったりおだてられた素人が手を出したらいかんのです。ヤクザの賭博場に素人が入り込んだら、最初は少しいい思いをさせてもらったとしても、最後は必ず丸裸にされて終わりです。政治の枠組みがいかに変化しようとも、日本の政治が根本から変わらない限り「素人は政治に手を出すな!」は変わることなし、なのです。

ブラックが生まれるマネジメントとは

2012-12-14 | 経営
「一部でうちのことをブラック企業だと揶揄する噂が出回っている。どうも情報の出所は辞めた元社員らしい。当社がブラック呼ばわりされる覚えはありませんが、どう否定したらいいのか。営利企業である以上、利益を上げるためにしていることをブラックといわれてはかなわない。胸を張ってブラックと呼ばせない経営をするには、どうしたらいいのでしょう」と、とある経営者。たずねられた私は、一呼吸おいて次のような話をしました。

企業経営には忘れてはならない3つのことがあります。
① コンプライアンスを守ること
② お客様への利益提供を忘れないこと
③ 社員の幸せを願うこと
経営者は事あるごとに自分のマネジメント姿勢を振り返って、自身があるいは自社が、この3つのことを犯していないか、自問自答することが大切です。

「コンプライアンスを守る」ということは、すなわち社会の一員として最低限のルールを遵守し人に迷惑をかけたり不快感を与えたりしないことです。もちろん、コンプライアンスは法律を守るということだけではなく、常識をはずさないこと、モラルを守ることに他なりません。

会社の経営理念を再構築する際に、「まずは、当社の社会的存在意義は何かを考えること」と言われることがありますが、まさしくそれです。経営者が自社の社会的存在意義を意識して会社の舵取りをするなら、決してモラルや常識を外すことはあり得ませんから。

「お客様への利益提供を忘れない」とは、今風に言うなら「WIN-WINの関係」を常に忘れないということです。企業はボランティア活動ではなく営利活動であるわけですから、利益を得ることは「悪」ではありません。ただ自分だけが一方的に利益を得ようとするなら、それは相手から見て「悪」になってしまうのです。

価格にみあったいい商品やいいサービスを提供しているか、嘘やごまかしや誇張で商品やサービスの説明をしていないか、売ってしまえば後は知らないというような“売り逃げ”はしていないか、そういった目で自社のビジネスモデルをしっかり点検してください。自己の利益と、顧客の利益が両立しているなら心配はいりません。

「社員の幸せを願う」とは、すなわち社員を“金儲けの道具”として扱わないことです。簡単に言うなら、会社と社員の間でも「WIN-WINの関係」を忘れないことです。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、突き詰めれば、社員一人ひとりの人生を大切にしてあげること、夢の実現を手伝ってあげることです。

注意しなくてはいけないのは、「社員の幸せを願うこと」が社長だけにとどまっていたのではいけないということ。社員に対して日々具体的な支持命令を出している管理者に社長の思いを理解させ共有することが不可欠です。そのためには、社長の社内コミュニケーションの量が重要になってきます。管理者が社長の意に反して、自己の“金儲け”すなわち出世や報酬のために部下を道具にしてしまうケースは多いです。

私が見るに、今ブラックと噂されている企業の多くは、この「社員の幸せを願うこと」がややおろそかになっているのではないかと思っています。業績のことに加えて、近年では法令順守のことを社内に直接話しかけ徹底をはかっている経営者は増えていますが、「上下、左右、社内の人間関係を大切にしろ」と声を大にして徹底している経営者は本当に少ないです。日航を立て直した稲盛さんのフィロソフィー経営が有効であるのは、そんな理由でもあるのです。

昭和の高度成長の時代は、会社組織は運命共同体的存在で、嫌が上にも上下、左右の人間関係はプライベートな部分にまでつながりを持たされていたが故に、結果大切にせざるを得なかったのです。しかしバブル経済の崩壊後は、収益重視、成果主義等が組織運営の新常識として認知されるに至っておかしな個人主義に移行し、社内の人間関係は置き去られてしまいました。さらに低成長、デフレがそれに追い討ちをかけ、経営が意図せぬものも含めた企業のブラック化が増えていると考えます。

当社がブラック企業との噂を流されているのなら、この三つの点、特に三番目を十分検証してみることをおすすめします。

※この話は他の多くの企業さんにも言えることですので、経営者の皆様、年末に今年を振り返って一度自己検証の機会を作ってみられてはいかがでしょうか。

国民はより良い「革新的保守思想」を望んでいる?

2012-12-11 | その他あれこれ
日本中は選挙戦真っ只中です。総選挙は各政党勝ったり負けたりの繰り返し。結局のところこの繰り返しおこなわれる政党の勝ち負けというものを左右するところの、日本の有権者が求めている政治的思想ってなんなのだろうかと、ちょっと考えてみたくなりました。

その前提として、意識すべきこと。日本は以前より1億総中流社会と言われているように階級社会や人種差別的なものは社会全体を覆うような明確な形では存在しません。加えて、階級や人種の問題が存在しないということにも関係があるのかもしれませんが、宗教というものも国民性を覆うような形では存在しません。しかも、陸続きの他国からの侵略の脅威という概念もありません。

こういった世の中では基本的な国民の意識はたいてい、現状に100%満足ではないもの、大きく変わりすぎるリスクには不安を感じている、となるのではないかと。大まかに言って似たり寄ったりのひとつの考え方に集約されがちなわけで、対立する階層や人種や宗教等の利益に立脚するような主義主張に拠る政党制というものはなかなか存立し得ない環境にあるとも言えると思います。だから現状総選挙前の各党の主張を見るに、細かい足の引っ張り合いはあるにしても突き詰めれば基本は「保守」といった感じに思えてしまうのでしょう。

ではそんな日本において、基本「保守」に立脚した国民が求めより多くの支持を受ける政党の主張とはいかなるものであるのでしょう。ここ20年ほどの流れを振り返ってみると、それは一言で言うなら「革新的保守思想」とでも言えそうなものかなと思えてきます。もちろん古く昭和高度成長の時代はまったくの「保守」一辺倒だったものが、バブル経済崩壊後に様相が変わぅたのかなと。細川政権の成立は、「保守」一辺倒に対する国民の最初の拒否反応だったのでしょう。ここに「革新的保守思想」の流れが誕生したように思われます。

その流れの強さは、近年2000年以降の政界ではより明確になります。自さ社連立で過去との決別をイメージさせ政権を奪還した自民党。さらには「自民党をぶっ壊す」とぶち上げてかなり高い国民の支持をあつめた小泉政権が、自民党の生き残り策を古い体質からの脱却と定義し、国民受けする「革新的保守思想」を政権のイメージにダブらせることで実に見事にゆるがせのない長期政権を確立したのでした。

ところが小泉後の自民党は、小泉人気を守ろうとした保守性ばかりが目につきはじめます。前進感を失った印象の政権運営に国民は嫌気し、1年毎に入れ替わったどの政権にも「革新性」を見出すことができずに、支持率は下降線の一途をたどったわけです。そこで、自民党枝分かれの人間もメンバーに加わわることで「保守」的な安心感を一部に感じさせながら、かつ「変えてくれそうだ」という期待感すなわち「革新性」を抱かせた民主党に一度政権を渡してみることを国民が望み、前回の総選挙では民主党が圧勝して政権交代が実現したわけでした。

では今回はどうなのか。民主党の支持率が下がりながらも依然「革新性」を欠く自民党の支持率が上がらないという状況が長く続いていた中、登場した「第三極」政党。雨後の筍のごとく発生し離合集散を繰り返し今回の選挙に至った背景には、表向きの主要政策の違いこそあるものの、どの政党も「第一極」「第二極」から「革新性」が感じられないが故の政党立ち上げであったと思われるのです。格差の拡大やかつてない隣国の脅威は、より一層国民に「革新性」を求める気持ちを高めたかもしれません。しかし行き過ぎはダメ。大きすぎる変化を望まない日本人には、基本線が「保守」でなくては受け入れられないからです。

私は今回選挙戦では各党党首レベルの演説を極力多く聴きまわっていますが、選挙戦に入ってようやく「第一極」も「第二極」も自分たちは「革新性」が高いのだというイメージの打ち出しに腐心している様子がうかがえました。一方の「第三極」各党は、まず「第一極」「第二極」の「革新性」のなさを叩き、その上で「第三極」の中でもっとも現状を守りながら「革新的」であるのは自分たちである、「安心でき確実な変化を実現するのは我々」と、そんな主張を戦わせているように感じました。主要政党は皆、自分たちなりの解釈で国民が好むであろう「革新的保守思想」を説いて回っている、そんな印象です。

バブル崩壊以降、少しづつ形を変えながらも日本国民に支持される「革新的保守思想」の現状における具体像とはいかなるものであるのでしょう。選挙戦も終盤にさしかかり世論調査等を見る限りにおいてすでにそれなりの答えは出つつある状況ではありますが、5日後の総選挙の結果を見届けてその視点からの検証を是非してみたいと思っています。