日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

経営のトリセツ54 ~ 「ロジカル」の第一歩→「理由を明確にする」

2009-02-27 | 経営
前回触れた管理者の3つの管理のうち、もっとも難関とお話しした「感情の管理」について、もう少し分かりやすく追加説明します。

「感情の管理」とは、「言動が感情的にならないよう管理する」ということです。では、「感情的にならない」とはどういうことでしょう。この場合の「感情的」の反対語を考えてみましょう。一般的な対義語ではないかもしれませんが、この場合は「論理的」が「感情的」の対義語にあたるのと考えます。なぜなら、ここで言う「感情的に人と接すること」は、「論理的でなく、思いつきで言動を発すること」だからです。

でも「感情の管理」をするために「論理的に行動せよ」と言われても、どう動いていいものか、ちょっと難しいですね。ではこう考えましょう。「感情的になる」とは、先ほど「論理的でなく、思いつきで言動を発すること」と言いました。すなわち、「思いつきで行動しないこと」がここで言う「論理的行動」となります。ということは、「思いつきでない」とは「考えて言動を発する」ことになるのです。「考えて言動を発する」をさらに一歩進めて「何を考えて」かに焦点をあてると、すなわち「自分の言動の理由を考えて」であることが分かります。つまり、「論理的に行動をする」とは、「自分の言動の理由を考えて行動する」ことであるのです。

ではなぜ、「理由を明確にする」ことが「論理的行動」につながるのでしょう。ロジック・ツリー分析を思い浮かべてください。ロジック・ツリーはひとつの出来事の原因を次々ツリー状にして展開し、その一番根源となる原因を探り出して問題解決につなげるフレーム・ワークでした。そう、このロジック・ツリーこそ究極の「理由探し」のフレーム・ワークであり、理由を明確化することこそが「論理的展開」の裏づけになるという考えの下、「ロジック・ツリー」=「論理の樹」と呼ばれているのです。

こうやって考えると、論理的な言動をすることの第一歩は「その言動の理由を明確にすること」であることがお分かりいただけるのではないかと思います。理由が明確でそれを知らせながら、相手に指示・命令をおこなうなら、相手はその理由が理不尽でない限りにおいて指示・命令に従わざるを得なくなるのです。まさに「感情の管理」ができる論理的管理者の姿がそこにあります。

「感情の管理」すなわち、感情的でない言動や受け答えができることは、一人前の管理者になるための必須条件です。一方感情的でない言動、すなわち「論理的言動」を心がけることは難しいと思われがちです。難しいと思う人が多いからこそ、「ロジカル○○」と言ったノウハウ本が本屋さんの店頭で目につく昨今なのでしょう。でも実は、「論理的」=「ロジカル」な言動の実現は簡単なのです。基本は、「理由を明確に伝えること」に他ならないのですから。逆に自分の言動で、その理由がうまく説明できないとしたら、それは「論理的でない」=「感情的」な言動に他ならない訳です。

ロジカルな経営者、ロジカルな管理者であるためには、自身の言動のつど「その理由」を自問自答し、その「正当性」について常に自己チェックを心がけることです。

<NEWS雑感>2/26号「笹川尭・鈴木茂」

2009-02-26 | ニュース雑感

●笹川総務会長、またまた「失言」●

またやってくれたました、この人。自民党笹川総務会長が、今の内閣と並ぶ史上最低支持率だった末期の森内閣崩壊を回顧して、首相辞任の引き金となった「えひめ丸事件」を引き合いに「あの事件のせいで内閣は“沈没”した」と、被害者家族の心境も省みない無神経発言。一体どうなっているのでしょうか?挙げ句、テレビの取材に、「内閣がダメになることを一般的表現で“沈没”と言ったまで。(僕の発言)何もおかしくないでしょ」とは、どこまでも常識知らずの総務会長様な訳です。

笹川氏は、大政翼賛会時代に国会議員の経験もある“右翼の超大物”笹川良一氏のご子息。明らかに“上から目線”でモノを言い、庶民の感情など気にも留めない“思い上がり”の姿勢は、親子二代“スジ金入りの特権階級”ですから、「あ~、ヤッパリね」と思わずにはいられないのです。度重なる「失言」は、“特権階級”の奢りと非常識以外の何者でもありませんね。苦労知らずの二代目は本当に困ったものです。

これまで2回の「失言」は、米下院議長と小渕少子化担当大臣に対する「女性蔑視発言」でした。内容はともに聞くに耐えないものでしたが、前者は海の向こうの話であったこと、後者は同じ自民党の“身内”に対して発せられたものであることで意外にも大きな問題には発展せず、どちらの「差別」も危ないところをギリギリで“難”を逃れたのでした。でも今回はそうはいかないんじゃないですか、と思っていたら、本日突然飛び出した民主党小沢代表の“第7艦隊発言”。「失言」の矛先は急展開で向きを変えました。毎度毎度ツイてますね、笹川さん。運も実力のうち?


●ギタリスト鈴木茂が大麻不法所持で逮捕●

昨日知ったのですが、日本のロックバンドの先がけで多くのミュージシャンに影響を与えた「はっぴいえんど(細野晴臣・大瀧詠一・松本隆)」の元ギタリストでミュージシャン鈴木茂(57)が、17日に大麻取締法違反(所持)の現行犯で、東京湾岸署に逮捕されていたそうです。鈴木茂と言えば、我々70年代からのバンドフリークにとっては、憧れのと言うよりむしろ“神様”に近い存在かもしれないほどの人物です。何しろ、70年代当時日米の音楽的スキルの差が激しくあったその時代に、単身渡米レコーディングしアメリカの一流バンド、リトル・フィートに在籍していた故ローウェル・ジョージのような大物ギタリストと、対等に渡り合ったという伝説を持つビッグネームなのです。

今回の一報は、とにかく音楽ファンとして「情けない」の一言です。いい大人が、57歳のオヤジがですよ、大麻不法所持とは…。ガキが面白半分に手を出したのとは違う意味で、呆れかえってしまいます。売れなくなって落ちぶれた芸能人が“クスリ”に手を出したというなら、まだ理由としては成り立つ気がしますが、鈴木茂氏はその世界では今でも“大物”として確固たる地位にあり、日本人ギタリストとしては確実に5本指に入るような存在です。何が彼をこんなバカげた行為に手を染めさせたのか。

これもまた、ショービズ界に生きる“特権階級”の奢りと非常識でしょうか。鈴木茂のような大物が、呆れる愚行を当たり前のようにしているこの事実。音楽関係者は自分達の世界の「常識」と一般社会の「常識」とのズレを認識し、一人ひとりが襟を正すべき重大事件であるとの認識をもって、再発防止に努めるべきであると思います。

気になるコンプライアンス関連報道

2009-02-24 | ニュース雑感

取り上げ漏れていた、コンプライアンス的観点から気になる報道を2つほど…。

●「かんぽの宿」一括払下げ疑惑●

この一件、だいぶ世間をにぎわせています。民営化郵政が“赤字垂れ流し”の「かんぽの宿」施設を、オリックス・グループに格安の金額で払い下げの“形式落札”をしていたというものです。問題点は多々ありますが、私が最も問題視したいのはオリックスの立場です。郵政民営化の議論に際して、政府の「規制改革・民間開放推進会議」の座長を務めていたのが同社宮内義彦会長ですから、どうみてもこの取引は“マズイ”でしょう。こういうのを一般的には「癒着」による「出来レース」と言います。

宮内さんはこれまでも少なからずグレーな話の多い方で、オリックスをあれだけの企業にまで持ち上げ公的なお仕事も多数受けている方なのですから、コンプライアンスには一般の企業にも増して、しっかり取り組んでほしいと思います。仮にもし何の癒着や裏話がなかったとしても(確実にあったとは思いますが…)、「李下に冠を正さず」です。民営化検討の当事者が民営化後の郵政の資産を格安で購入となれば、常識で考えてどう見てもよろしくない訳です。その点財界を代表する経営者として、まずしっかりと釈明なり、謝罪なりするべきであると思いますが、いかがなものでしょうか。


●弁当値引禁止令で、セブン・イレブンに公取が立入調査●

この一件、セブン・イレブンの加盟店が、売れ残り弁当の廃棄前値引き販売をフランチャイズ本部から禁止されているのは違法の疑いがある、というものです。当初のフランチャイズ契約に謳われた内容ではあるものの、これは優越的地位の乱用を禁じた独禁法違反の疑いが強いと報じています。利益は本部と加盟店が折半、損失は加盟店の一方的な負担というビジネスモデル自体に疑問符を投げかけた形になります。確かにコンビニが価格競争に巻き込まれれば、アメリカの例がそうであったように、スーパーとの血みどろの争いなり現在のビジネスモデルが崩れて、コンビニの存在そのものまで根底から揺り動かされる可能性も否定できません。

ただ、今のようなフランチャイズ本部の“ひとり儲け”スキームは、WIN-WINをよしとする現在のビジネス界の常識的思想からはずれるやり方でもあります。それより何より、消費者が賞味期限の迫った商品の値引き販売を望んでいることはスーパー等での購買動向を見れば明らかであり、消費者をも袖にした今のやり方はいかがなものであるのか、考えさせられる部分大なのです。本件をきっかけとして、各コンビニチェーン・フランチャイズ本部にはコンプライアンス的観点での加盟店契約の厳正な検証と同時に、大不況下の低成長時代の今こそ、消費者重視の姿勢に立ち返り老朽化したビジネスモデルの根本的見直しへの取り組みにも期待したいところであります。

「おくりびと」米アカデミー賞受賞の意義

2009-02-23 | マーケティング
日本映画「おくりびと」が米アカデミー賞の外国映画賞を受賞しました。

短編やアニメを除き作品そのものの評価として日本映画がアカデミー賞を受けたのは、「羅生門(51年黒沢明監督)」「地獄門(54年衣笠貞之助監督)」「宮本武蔵(55年稲垣浩監督)」以来の快挙です。しかも、前3作はすべて日本的歴史モノであり、“フジヤマ”“サムライ”的作品以外の本格実写モノ映画での受賞は史上初と言っていいと思います。その意味では、大変意義深いオスカー受賞だと言えるでしょう。

「おくりびと」は、「納棺師」という遺体を清め納棺衣装に着替えさせ“死に化粧”を施して“あの世”へ送り出す、特殊な職業を扱った物語です。葬儀を扱った過去の映画でのヒット作品と言うと、故伊丹十三監督の「お葬式」という映画が思い浮かびます。売れた映画、高い評価を得る映画は、常にその時代の風潮をしっかりと織り込ませているものです。「お葬式」が制作された84年は、ちょうど高度成長からバブル期へと向かう転換期に位置し、無条件に大量の物事を受け入れ続けた時代からモノの裏側や本質を探索する傾向が次第に強くなる時代への転換期でもあり、この作品はそんな時代背景を上手に取り入れた新しい映画の在り方を提示した作品でもありました。

「おくりびと」は「納棺師」という特殊な職業を題材として扱っていながら、“伊丹作品的”な舞台裏暴露モノではなく、「死」というものの本来考えるべき意味合いや「家族」と「死」というテーマにストレートに切り込み、かなりメッセージ色の強い作品に仕上がっています。切り込みのポイントとなっているテーマは、「ホスピタリティ」。機械的な発展を遂げた「高度成長期」や物欲に突き動かされ続けた「バブル期」を経て、「心根」や「優しさ」という概念がようやく人として大切なものであると気がつかされる時が訪れ、「ホスピタリティ」を正面から扱った作品が人々の心をとらえる時代がやってきた---。この映画のヒットの陰にはそんな時代背景があるのです。

アメリカを舞台としたアカデミー賞にまでこの作品の制作ポリシーが受け入れられた理由ですが、一昨年来のサブプライム問題に端を発し昨年秋のリーマン・ショックにより爆発した「米国版バブル崩壊」と、直情型リーダーのブッシュから熟考型リーダーのオバマに政権がバトンタッチされたことも、少なからず影響を与えているように思われます。少し大げさな言い方をすれば、アメリカ経済を中心とした世界的なトレンドが、新たな時代に入ったことの反映であると言えるのかもしれません。

「人として大切なもの」「心根」「優しさ」・・・すなわち「ホスピタリティ」は、好景気や高成長期には気がつかれなかったり、ついつい忘れられたりしがちなものなのです。いち早くバブル期とその崩壊を経験した日本であればこそ、今世界の国々に先駆けて全世界に向けて「ホスピタリティ」の重要性を語りかけることができるのではないでしょうか。「おくりびと」のアカデミー賞受賞は、そんな日本から世界へ向けた“心根のメッセンジャー”的存在として、真に胸を張れる素晴らしい出来事であったと思います。

フェブラリー・ステークス

2009-02-22 | 競馬
今年お初の競馬ネタ。GⅠフェブラリー・ステークス予想です。

人気の2頭②カネヒキリ⑨ヴァーミリアンに、③サンライズバッカスを加えた3頭のレースとみます。3頭とも“ダート最強世代”の7歳馬。カネヒキリは06年のこのレースの覇者、ヴァーミリアンは昨年の覇者、サンライズも07年にこのレースを勝っています。

レース的には先行勢が多くハイペースが予想され、差し馬の競馬になる公算が大。展開的にサンライズに有利とみます。前走惨敗で人気を下げた形ですが、その前走は先行有利な競馬で出番のなかったもので、前日オッズで9番人気はおいしすぎの感じです。内枠がやや不安ですが、2年目三浦皇成の初GⅠ制覇に期待します。

相手は、連戦の疲れが心配な②よりも⑨を上位にみます。穴は、横山典の注文競馬で直線一気にかけるであろう⑩ビクトリーテツニーと⑦ヒシカツリーダーの5歳の差し馬2頭。もう1頭の5歳馬岩田康誠騎乗の⑯フェラーリピサも抑えます。

馬連③-⑨、②-③。ワイドで③から②⑦⑨⑩⑯へ。

経営のトリセツ53 ~ 管理者必須!「3つの管理」

2009-02-20 | 経営
管理者の育成は中小企業にとって、共通の悩みどころです。

最近は管理者研修や管理者育成プログラム策定の相談が、際立って増えているように感じます。100年に一度の大不況到来とともに“生き残り”を賭けて「少数精鋭化」「人的効率化」が必須課題となりつつなる現在、中小企業組織でも管理者育成への取り組みは避けては通れない道になっているようです。

通常、管理者教育の場で具体論に入る前に私が最初にお話するのは、「管理者の意識」「管理の意味」「管理のポイント」の3点です。「管理者の意識」の話はよくある初歩的なお話ですのでここでは省き、さらに「管理のポイント」はイコール私が提唱する「五感管理」の話ですので他に譲るとして(下の※ご参照)、ここでは管理者教育の際に意外に忘れられることの多い「管理の意味」について少しお話してみます。

「管理」すなわち「マネジメント」は、その奥行きの深さゆえ、管理者のレベルに応じた様々な解釈でその意味を伝えることが可能です。ここではごくごく初歩的と言える「担当者との違い」という非常に分かりやすい視点での説明を紹介します。この場合「管理者の管理」は、「「管理者」であるから求められ担当者には求められない『3つの管理』という仕事である」と説明します。ではその『3つの管理』とは…。

まず1番目は「業務の管理」。これはもう当たり前のことですから、ここでの細かい説明は不要であると思います。簡単に一言で言っておくと「自分のことだけじゃなく、チームとしていかに実績を上げるか、いかに顧客によろこんでもらうか、を考え実践すること」です。具体的行動としては、「実績の管理」と「部下の育成」に直結します。

2番目は「時間の管理」。「時間の管理」とは「常に締切意識を持つ(持たせる)」ということです。自分がおこなうすべての行動や計画、部下に対するすべての指示、チームで動くすべての事柄に、「いつまでに」という「締切」を課すことです。実は「時間の管理」こそが「管理」という意味では一番大切なものでもあるのです。上に立つものが下の者を「管理」する際に、「管理のモノサシ」が必要になるのですが、「時間」という常に客観性を失うことのない「モノサシ」はぶれることがないので、「管理」を習慣づけるのに最適なツールであるのです。

3番目は「感情の管理」です。「管理者」は組織の1ポジションとして業務を遂行する訳で、個人的な感情で判断をしたり物事をすすめたりするのは好ましくありません。例えば「管理者」が感情的に部下と接することは、良いにつけ悪いにつけ評価の不公平感を生むことにもなります。部下に感情的にモノを言ったり接したりするのも、物理的ポジショニングで上に立っている立場の人がするのことは極力控えないと、思わぬ事態を招くことにもなります(パワー・ハラスメント発生はその最たるものです)。コミュニケーションの中で万が一部下が感情的にぶつかってきても、「管理者」はそれを感情で返すことなく、相手の立場を汲んだコミュニケーションを心がけることが大切です。

この「感情の管理」ができるか否かこそが、「管理者と担当者を明確に線引きするポイント」でもあります。言い換えれば、「感情の管理」ができるようになってはじめて、“一人前の管理者”であるとも言えるのです。実は中小企業経営者の中には組織のトップでありながら、この「管理者の3つの管理」ができずに社内を引っ掻き回している人が間々います。経営者の場合、3つのうち「業務の管理」はOK、「時間の管理」もだいたいよし、でも「感情の管理」がおぼつかないというケースが意外に多いようです。「感情的行動」は、ロジカルに物事をすすめる際の最大の“敵”であることをお忘れなく。

中小企業経営者や管理者の皆様にはぜひとも、この「管理者の3つの管理」の観点でご自身をよく振り返っていただきたいところです。「3つの管理」で気がついたご自身の不十分な点を改善すると組織が案外うまく回って、懸案が解決したりするものです。

※「五感経営」「五感管理」について
→http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/4e286c1208aea3fd2d26a5dcc2f279e4

趣味の延長にCSRは成立せず~青山ユニマット美術館閉館に思う

2009-02-19 | その他あれこれ
東京での仕事の合間を見つけて青山ユニマット美術館を訪ねてみました。コーヒーのユニマット社社長である高橋洋二氏が、会社所蔵の絵画の一般公開を通じた文化的貢献を目的として06年7月に開館し、シャガール等価値の高い貴重な作品群を常設展示する企業CSR型ミュージアムです。

青山通りの同社グループの建物が集まる一角から脇へ入った立地は、佇まい的に申し分なく、落ち着いたデザインのこじまんりとした建物に上品なアート感覚の入口を配し、建物の2~4階が展示フロア、1階にはカフェ(コーヒーのユニマットですから、これは得意分野ですね)とミュージアム・ショップを設けています。企業運営型のプロトタイプになりうる実によくできた美術館であるとの印象を受けました。

美術館のコンセプトは「シャガールとエコール・ド・パリ・コレクション」で、同館開館時に本邦初公開の目玉作品と言われた「ブルー・コンサート(写真)」はじめ多数のマルク・シャガールの作品(4階フロアと3階の半分はシャガール作品で占められています)、その他にもゴッホ、ピカソ、モネなどの貴重な作品群を所蔵し、価値の高い展示物をそろえた民間美術館として一定の評価を得てきたようです。

ところが聞いてビックリだったのが、このユニマット美術館、今年3月いっぱいで「閉館」するとのお話(つい先日1月29日にプレス発表されたそうです)。あまりにも突然の出来事のようで、ネット上でも多くの美術愛好家の方々から、「閉館」を惜しむ声が聞こえております。なにしろ、開館からわずか3年足らずでの「閉館」ですから、本当に異例中の異例の展開であると言えるのでしょう。

1月29日付けのニュース・リリースを見てみると、「閉館」の理由として「当美術館の発起人であり統括責任者の取締役副館長額賀雅敏が、病のため昨年12月に急逝いたしましたために、当美術館の企画運営に支障をきたし」たためと記されています。詳しくは存じ上げませんが、聞くところによれば故額賀氏は広尾でギャラリーを経営し、レストラン平松経営者と優れた洋画家の弟を持つ希代の画商であるとか。おそらく美術愛好家の高橋社長との交遊関係の中から培われた人脈として、コレクションの買い付けにはじまり当館オープンに尽力をされた方なのでしょう。

だがしかしです、いかに開館に尽力をされた重鎮の専門家で当館副館長であろうとも、その人が亡くなったことを理由にしての「閉館」は企業の文化貢献CSR活動としてどうなのでしょうか。同館のホームページには、開館に際してのコンセプトと主催企業発のCSRメッセージと受け取れるコメントとして、次のような記載があります。

= ユニマットグループ代表であり美術館館長である高橋洋二とユニマットグループの数社は、長年に渡り美術品蒐集を行ってまいりましたが、その過程においてバブル経済の破綻後における優れた貴重な美術品の国外流出という現象を目の当たりにしました。この傷ましい事態に少しでも歯止めをかけるべく微力ながら日本にそれらの優品を少しでも留める為に、特に西洋絵画の蒐集に力をいれてまいりました =

それがこのような属人的な理由での「閉館」とは、あまりにも無責任な「形だけのCSR活動であった」と言われても仕方のないやり方であると思います。そんなに安易な気持ちで芸術をもて遊ぶなよ、とちょっと言いたい気分にもさせられます。成功し資金力のある経営者が、趣味の一環として芸術作品を買いあさるのは個人の自由であります。しかし、それを企業の名のもとに「文化資産の保護」名目のCSR活動の一環で自社美術館を設けたのであるなら、このような安易な「閉館」は継続性を旨とする「企業の社会的責任」としていかがなものであるのか、と思わずにはおれないのです。

もちろん、「閉館」の表に出ない本当の理由として大不況時代到来のあおりによる経済的理由があることも想像させられます。もしそうであるならば、“死人”を閉館理由に押し立てるやり方はいかがなものかと思われますし、「閉館」でなくせめて景気回復までの間の「休館」にできなかったものか、とも思わずにはいられないところです。

あの作品たちは、いつまた多くの人の目に触れることが許されるのか…。はじめて足を運んだ青山ユニマット美術館が思いのほか素晴らしい施設であったがために、余計に残念・無念な気持ちにさせられました。企業の文化的CSR活動は、経営者の趣味の延長では絶対に成立し得ない、社会的責任を十分に認識し大きな覚悟をもった上でなければ手を染めるべきではない、そんなことを改めて感じさせられた次第です。

<NEWS雑感> ~ 2・17号 「中川昭一、藤田伸二」

2009-02-17 | ニュース雑感

●野党、中川財務相の問責決議案提出へ~麻生首相は何思う?●

中川昭一財務相兼金融担当相のG7酩酊会見が、大変な問題になっています。

酒を飲んで酔っ払っていた以外にない状況ですから、素直に認めたほうがいいのではないか、皆が思うところです。確かに国務大臣ともあろう方が国際会議後の記者会見を酩酊状態で出席するなんぞはもってのほかではありますが、今の自民党の体たらくを考えるに、「定額給付」へのムダな固執など最も欠けている“潔さ”を前面に出すべきだったのではないでしょうか。「カゼ薬」のせいにするようなくだらない言い訳はせず、武士の如き「潔さ」を前面に出して「酔っておりました、申し訳ない!」と謝罪したなら、若干は彼の味方をする論客も出てきいたような気がします。

問責決議だ何だと野党は騒いでおりますが、親分の麻生総理は早々に「留任」の指示を本人にしたとか。そりゃ内閣支持率にとっては、さらなるダメージでして痛手ではありますが、太郎ちゃん個人にとっては、「郵政民営化見直し発言」をめぐって元総理も加わっての“袋叩き状態”だっただけに、「こりゃ矛先が変わってくれて助かった」というのが本音じゃないでしょうか。その意味では、すぐに「更迭」してしまってはまた自分に矛先が戻ってくる可能性大な訳で、しばらくは“盟友”中川氏に野党、世論、マスコミからの批判の“盾役”を続けてもらいたいところなのかもしれません。


●騎乗停止処分の藤田 JRA裁決委に激怒!~問われるJRAの現場管理●

15日のJRA競馬「きさらぎ賞」で、走行妨害により開催日1日の騎乗停止処分が下された藤田伸二騎手が、自身のブログ「男道」で裁決委員とJRAに対して怒りをあらわにしたとか。藤田騎手は、「進路妨害」は認めながらも「決して-故意-ではない」と強調。「今年から制裁制度が変わったばかりなのに、ここまで理解がない人間の集まり、レースにも全くの無経験者、それより馬も満足に乗れない人種に、そこまでの権限を与えている-競馬会-に問題ありだ!」とブチ切れしているようです。

結論から申し上げると、立場をわきまえない愚かな発言の一言です。仮に納得いかないという問題であっても、JRAを代表する騎手である藤田伸二がとるべき行為はどうあるべきなのか、“オトナ”の思慮深さがあってしかるべきではないでしょうか。確かにJRAは農水省傘下の国営法人であり、官僚文化の巣窟であることは間違いのないところ。官僚的対応の数々に納得のいかないことが積もり積もってのことなのかもしれません。しかし彼は、JRAの枠組みの中で働き生活している訳です。それが、いきなりネットという開かれた場所で所属団体批判を感情にまかせ展開すると言うのは、組織管理論的見地から見てもいかがなものか、ということになるのです(JRAの管理に対する主張は、騎手会を通す等ルールに則ったやり方があるハズです)。

一般の企業に勤める者が、自社の経営批判を自身のブログでしたらどういうことになるか、企業に入って間もないヒヨッコでも分かることだと思います。社会人20年にもなろうという手本となるべき騎手が、こんな常識的なことが分からない、となればJRAの現場管理、現場教育に問題があるのではないか、すなわちJRAの管理上に問題ありということになってくるのです。ちなみに彼は、何年か前にも飲食店でトラブルを起こし、暴力をはたらいて長期間の騎乗停止処分を受けてもいます。

JRAはこの問題への対処で、官僚的な「制裁措置」で単純に処理する高圧的「再発防止策」に出るかもしれません。私が申し上げたいのは、個別の対応策とは別に問題の本質はどこにあるのか、よく考えるべきであるということです。官僚が管理する全く別世界の現場教育はどう行うべきなのか、JRAは我が国の競馬ビジネスを運営する責任団体として、この機会に官僚的現場管理の問題点をきっちり洗い直すべきであると考えます。この視点は、総務省官僚とJ-POST特定郵便局の間にある、官僚的現場無責任管理の問題点とも共通する、官制改革の重要なポイントでもあるのです。

“小泉発言”に対する、問題だらけの政治家たちの反応

2009-02-16 | ニュース雑感
12日の小泉発言がここ数日間、巷をにぎわせています。

発言の真意がよくつかめず、しばし流れを見守っておりました。最初に思ったのは、誰かが後ろで糸を引いていよいよ“麻生おろし”の幕開けか?という想像でした。1日、2日経過を見てもどうもその気配はなく、どうやら例によっての小泉単独“変人発言”にすぎなかったようだと判断するに至りました。

そうなると、個人的に感じた問題点がいくつかあります。まず小泉氏。氏はもともと自他共に認める“変人”ではありますが、元首相という立場を考えればあの発言はいかがなものかとなる訳です。この発言に対して、町村官房長官あたりは露骨な不快感をあらわにしておりましたが、問題は当の麻生首相。ここは「元首相ともあろう方が、余計事態を混迷させるような発言をするとは何事か!政界引退を目前にして老害をまき散らすのは見苦しい」ぐらいのことをハッキリ言うべきではないのかと思います。

麻生首相のコメントは、「叱咤激励であると受け止めている」というあまりに情けないもの。この手のコメントは、自身の支持率が強固な状態にある時に余裕の発言としてするなら効果がありますが、今のような時にこんな弱気な発言をしていたのでは、「本当にこの人大丈夫か?」となってしまうのがオチです。週末の支持率調査で遂に10%割れとなったとの報道がありますが、当たり前の結果でしょう。

もう一点、“変人発言”をわが世の春とばかりにもろ手をあげて喜ぶ“小泉チルドレン”と言われる1年生議員たち。いつまでも小泉じゃない訳で、引退を表明している“過去の人”の発言を、現実も省みずに盲目的にありがたがっているのは、今の対策を何ひとつとして提案することのできない自分たちの無能さを表明しているようなものです。小泉フリークの一国民が発言を礼賛するのとは訳が違います。これでは単なる“チルドレン”状態な訳で、政治家としての自覚ゼロと言っていいでしょう。

郵政民営化の是非問題はともかくとしても、「小泉改革」と称して展開された「民間の規制緩和先行」+「公務員改革手つかず」のツケは、格差、派遣切り、財政垂れ流しなどの形で一気に噴出している訳です。もちろん今、後出しジャンケン的に過去の政策を批判するのはどうかとは思います。ただ現実を棚にあげもろ手で「小泉万歳」を叫ぶような態度は、自身の当落以外眼中にない典型的自己中議員のそれであります。

ヒラリー・クリントン国務長官が本日来日するそうですが、日本のこんな“政治家”とも呼べない国政を預かる輩の実態を目の当たりにすれば、米国務相として「日本は取るに足らない政治後進国」と思うに違いありません。日本がなめられれば、米国債の大量引受要請等一方的にアメリカの景気回復に利用されることにもなりかねないでしょう。国際化しているのは経済だけではありません。海外出張先での記者会見席上で泥酔・居眠り・シドロモドロの方も含め、政治家の皆さんは、ご自身の一挙手一投足が日本の国際的評価に影響を与え、ひいては国民生活の浮沈を左右する国益にさえ多大な影響を及ぼしかねないことを強く自覚すべきであると思います。

〈70年代の100枚〉№63~“世紀の一発屋”を生んだ時代のイタズラ

2009-02-15 | 洋楽
「20世紀を代表する“一発屋”と言えば誰?」と問われて、即座に「ナック」と答える洋楽ファンは案外多かもしれません。

№62   「ゲット・ザ・ナック/ザ・ナック」

79年春、彗星の如くヒット・チャートを駆け上がったバンド、それがナックでした。明らかに「ウイズ・ザ・ビートルス」を意識したと思しきタイトルとジャケット、ギター2本、ドラム、ベースの4人というメンバー構成、1曲3分前後のコンパクトなナンバーを矢継ぎ早に聞かせるイメージのアルバムづくりなどは、ビートルスのデビュー時を連想させるもので、シングル「マイ・シャローナ」の5週連続全米No.1とも相まって、「70年代も終わりに登場した、待望久しい“ビートルスの再来”」とまで言われていたのです。

「マイ・シャローナ」に代表されるナックの魅力はと言えば、マジー・ビート系の正統派ブリティッシュ・ビートを基調にしながらも、硬派に走り過ぎず程よい甘さを漂わせた心地よさにあると思います。その意味では、彼らのプロデュースを引き受けた、腕利きプロデューサーのマイク・チャップマンの存在は無視できないところでしょう。

マイクは、70年代前半のグラム・ロック・ブームの折に、ニッキー・チンとのコンビでソング・ライター兼プロデューサーとして、スウィート、スージー・クアトロ、ブロンディなどをスターダムに押し上げた、いわば“元祖パワー・ポップの仕掛人”としてよく知られた存在です。そのマイクがニッキーとのコンビを解消し、自身の過去からの音楽的資産を投じて送り出したのがナックだったというわけなのです。

アルバムを通して聞くと、確かにビートルスの流れを汲むいわゆる“パワー・ポップ”的な魅力に溢れています。ただ、果たして全米No.1を6週間も続けるほどの内容を持ったアルバムなのかと言うと、いささか疑問を感じます。パワー・ポップと言えば既に70年代前半に、ビートルズ直系のバッド・フィンガーやパイロット、エリック・カルメン率いるラズベリーズなどが活躍しましたが、そのいずれもが良質の音楽センスを持ち合わせていながら、決してチャートを制覇するような存在にはなり得なかったのです。

すなわち、70年代に登場したパワー・ポップは、常に“二番煎じ”的域を脱し得ず“亜流”という評価を覆すことはなかった。そう考えるとナックの売れ方は、それまでのパワー・ポップの常識を打ち破るある意味“異常”な現象だったとも言えるのです。

その“異常”発生を紐解く鍵は、彼らがデビューした79年当時の時代背景にあります。当時は、前回登場のドナ・サマーをはじめとしたディスコ・ビート全盛の時代。ストーンズやロッド・スチュワートまでもが、ディスコ・ビートに媚びた「ミス・ユー」や「アイム・セクシー」といった曲でヒット・チャートを賑わしていたのです。また同時期に、メロディーやリズムよりもロックを自己主張の道具として攻撃的な姿勢を売りにした、パンク・ロックが突如登場し大衆音楽の新しい流れをつくりはじめた時期でもありました。

そんな中、正統派ロックの流れを感じさせつつポップな感覚をも持ちあわせた、旧世代的ロック・ヒーロー風キャラクターの登場は、世を賑わすディスコ旋風やパンク・ムーブメントを必ずしも快く思っていなかった私のような音楽ファンからも、積極的支持までは至らずもアンチ・ディスコ・ミュージック的、あるいはアンチ・パンク・ロッカー的支持を得て、想定外の大ヒットをもたらしたように思います。その意味では、ナックは時代の転換期が産み落とした、“予定外”の副産物であったのかもしれません。

その“予定外”を是正するかのように、彼らの人気は次作以降あまりに急激にしぼんでいきます。そして次第にナックは“20世紀最大の一発屋”というような、不本意な言葉で呼ばれるようになるのです。ただ私個人的には、この稀代の“一発屋”ナックの誕生は、常に音楽界の脇役であったパワー・ポップを突如メイン・ストリームに引っ張り出した「変革の時代」の“イタズラ”だったのではないかと思うのです。

ひとつ確実に言えることは、「マイ・シャローナ」はその後も頻繁に我が国のCM等で使われており、イントロ、メロディー、アレンジ…すべてにおいてとびきり魅力的な、間違いなく70年代を代表する“パワー・ポップの名曲”であるということです。