日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

ソニーとテルモ、オリンパス提携相手選択の肝

2012-07-27 | 経営
医療機器メーカーのテルモがオリンパスに統合提案を公開で行ったという件、先行して資本出資による提携話をすすめながらなかなか具体案に至らない“本命”ソニーとのプランに一石を投じるモノとして大いに注目に値する話であると捉えています。

ソニーとの資本提携とテルモの提案との一番の違いは、「弱みの補強」か「強みの強化」かという点にあります。ソニーがこれまで、パナソニックや富士写真フィルム等他のオリンパスへの資本出資提案企業よりも本件を優位に進めてきた背景には、オリンパスの不振部門であるカメラ事業の立て直しにデジカメ世界シェア2位ソニーとの提携による部品調達コストの改善等による採算改善の見通しが大きいと言われています。個人的な印象では、オリンパスの「弱みの補強」にエレキに替わる新たな柱探しのソニーが便乗したどこかすっきりしない形かと感じておりました。

一方のテルモの提案の趣旨は、老舗の大手医療機器メーカーとして長年の医療機器事業におけるノウハウを活かし、得意分野がバッティングしないオリンパスとの提携により、患者負担が少ない医療機器開発をはじめとした医療機器分野における技術革新を推し進めることで、世界を相手に対等に戦える企業の実現をめざすというもの。こちらは、オリンパスの稼ぎ頭である医療分野を同業大手のノウハウによってより強固なものに仕立て上げようというお互いの「強みの強化」であると言ってもいいのではないでしょうか。ビジョン性の有無という観点から考えても、個人的にはこちらの方により説得力を感じるところです。

そもそもソニーがオリンパスへの出資表明をした段階から、「またもソニーイズムに反する人のフンドシ・ビジネス?」と思わされたものです。たまたま出資提携に関する競合先が同じ、“技術先行型”のパナソニックや富士フィルムであったがために、最もシナジーが大きいと思しきソニーが同じ土俵での比較優位により、“本命”として話が進んできた感が強くあります。オリンパス側のメリットは、先にあげたオリンパスカメラ部門の採算改善に加えて、ソニーの画像センサー技術を内視鏡分野に活かすという技術的な側面もありますが、あくまでお互いの「企業の論理」一辺倒を脱しきれない提携話ではないかと思わざるを得ないところなのです。今回、テルモの提案が登場したことでその点がより一層鮮明になった気がします。

ソニーの資本出資提携話が遅々として進まずにここまで来ていた原因は、どうもこの「企業の論理」から今一歩脱しきれないソニーの提案に、オリンパス側が二の足を踏んでいたのではないか、とも思えてきます。言ってみればこのところのソニーの凋落の最大の原因を担ってきた「利用者目線の欠如」が、こんなところにも現れそれがオリンパスに伝わるが故の提携話の停滞ではないのかと。医療機器の老舗大手テルモが、共に手を携えてその医療分野におけるノウハウを投じて新たな患者負担の少ない製品開発をおこなおうという提案の方が、よほどかつてのソニーイズム的製品開発に近いのではないかとすら思わせられはしないでしょうか。

提携先の選定にはマーケット動向も重要な要素にはなるわけで、新聞報道によれば「株式市場では、それでもソニーが有利との声が多い」(日経新聞27日朝刊)とか。マーケットはどうしても短期的な見通し優先でものを考えがちであり、これはやむを得ないことなのかもしれません。しかし、当のオリンパス経営陣と同社株主がどう考えるべきか、これは別問題ではないでしょうか。オリンパス経営陣や株主の皆さんにおかれましては、同社が過去に犯した不祥事が「企業の論理」の行き過ぎが引き起こしたものであるとの認識を今一度新たにした上で、ソニー、テルモどちら提案がより同社にとってあるべき道を歩ませる提携になりうるのか、そう言った観点からも慎重な検討を重ねて結論を導き出すべき問題なのではないかと考えます。

“政治的判断”という「グレー」の違和感

2012-07-25 | その他あれこれ
今年の4月にボツワナで象狩りをしていたとして、緊縮財政を強いられている国民の反感をかったスペインのカルロス国王。このたび、世界自然保護基金の名誉総裁職を解任されるという憂き目に会いました。同基金のスペイン事務局は、「ボツワナでの象狩りは違法ではないが多くの会員が不快感をしめした」とその理由を説明。国王は「私が間違っていた。二度としない」と国民に謝罪したと言います。

スペイン国王は、法は犯していない「グレー」な行為をもって「それはブラック」と断じられた訳です。20世紀の時代までは我が国も含めた世界における物事の判断基準として、ブラックとホワイトの間に「グレー」というものが確実に存在していました。要するに、「限りなくブラックに近いものでも法的にセーフであれば「グレー」として目をつぶる」という風潮です。しかしながら、今世紀に入ってから先進国においては、コンプライアンス(法令順守=この日本語訳は感心しませんが)の考え方が確立され、一般人の間にもブラックとホワイトの中間色である「グレー」は存在しないという考え方が広く浸透するようになっています。

我が国で言うならば、「法に違反していないなら文句ないだろうは通用しない」という「コンプライアンスの時代に、もはや「グレー」はブラックである」ということを世に示した実例が、ホリエモンのライブドア事件であったと記憶しています。また、法の網の目をかいくぐったドラッグ「合法ハーブ」を「脱法ハーブ」と呼び変えたメディアの報道は単なる言葉の遊びではなく、“法の目くぐり”は「「グレー」ではなく確実にブラック」を印象付けた好例でもあります。

このような形で世間一般から「グレー」なものはどんどん排除されているのにもかかわらず、どうも我が国の政治の世界にだけは「グレー」なやり方がいまだに幅をきかせているように思えてなりません。国民生活の安全性確保という責務は言ってみれば政治に課された「法」でもありますが、その政治が安全性の確保をうやむやにしたやり方を次々と打ち出している今の状況は、まさに「グレー」そのもの。原発もオスプレイも、その有効性うんぬんではなく国民生活の安全性確保という観点から考えるなら、十分には検証し尽くされずに「政治的判断」と言う名の「グレー」な判断で前に前にすすめられているわけです。

本当にそれでいいのでしょうか。今の時代、我が国の政治だけに「グレー」が許されていいはずはないのではないかと。確かに問題の類は少々違いますが、スペイン国民は自国の国王の「グレー」な行為をブラックと断じて、謝罪させるに至りました。どんな形であれ、果たして日本国民が国民生活の安全性確保を怠る行為を繰り返す野田首相をひざまずかせ謝罪させることができるのか、政治的コンプライアンス違反を正すことができるのか、日本の政治におけるコンプライアンス度が今試されているのではないでしょうか。

「結論ありき」というやり方

2012-07-20 | 経営
今さら言っても仕方がないのですが、東電の家庭向料金値上げのお話。値上げ幅が、当初東電案の10.28%から8.47%に下がって決着したと。値上げ幅が下がろうと、株主責任、貸し手責任を問わず利用者への負担転嫁をすることに何ら変わりはないわけで、このやり方で本当にいいのか(東電の破たん処理も含めて)国民的議論を展開することなく、決めてしまった政府のやり方には今さらながらですがいささか疑問を感じるところであります。

そもそも拙ブログでも申し上げてきたとおりに、東電の再建計画を国が受理した段階ですべては終わっていたわけで、再建計画が提出されたあの時点でなぜもっと(受理するべきではないという)国民的議論が盛り上がらなかったのか。考えてみればすべて当初のシナリオ通りなんでしょうけど。最初は枝野大臣が「再建計画受理は甘くないぞ!」と東電を恫喝し、「これは一転、破たん処理もあるかな」と国民に思わせておきながら、徐々に世論の争点を削減努力という存続うんぬんではなく東電から見た場合の条件闘争への巧みな転換をはかって、最後は値上げ幅の縮小と言う世論対策のガス抜きで決着。こういう展開を「結論ありき」と言います。

「結論ありき」というやり方は一般的には、ある議論に関して比較少数の反対派が存在する際に、反対派を強硬に切り捨てるようなやり方は組織運営にとってプラスではない、そんな場面で使われるどちらかと言えば非常時対応手段です。形ばかりの再検討の場を作って反対派の「ガス抜き」をおこない、その後に予定の結論に導く。「予定調和」とも言います。この手は、非常時にたまに使うから効果もあり許されもするわけですが、毎度毎度であったり、やり方がまずかったりすると「子供だまし」にも成り得ます。今の民主党政権のやり方を見る限り「結論ありき」連発で、これではまさに「子供だまし」であり、「国民をバカにしているのか」ということになるのではないかと思うのです。

原発の再稼動もそう、この不況下での増税議論もそう、オスプレイの配備も恐らくはその意図で進めているのでしょう。全て形ばかりの「ガス抜き」をして最後は予定された結論に持ち込む「結論ありき」「予定調和」のやり方は、実は聞く耳を一切持たないやり方でもあるのです。一般企業においても、カリスマ経営者が全てを決めそれが成功を支えてきた独裁的経営管理は別ですが、“民主的サラリーマン管理組織”において経営が運営にかかわる何事を決めるのにも「結論ありき」を連発するなら、組織内には「言っても無駄」が蔓延し活力や求心力は急速に失われ組織は崩壊に向かって突き進むことになるのです。

「結論ありき」の連発は、圧倒的な支持率を誇るリーダーの下でこそ成り立つやり方です。支持率が下降かつ底バイ状態をたどっていながら国民の審判を仰ぐこともなく、表向き国民の味方のようなフリをして誰かの利権を守るための官僚の口車に乗せられ、国民世論を形ばかりの「ガス抜き」だけできれいに裏切り次方次へと「予定調和」を積み重ねていく。民主国家「日本」と言う組織の経営者として、それは間違ったやり方であると思うのですが、いかがでしょう。

筋の通らない利用者負担にNOを突き付けた国民世論は切り捨てられ、気がつけばいつの間にか料金値上げを既成事実化して値上げ幅議論へと突き進められての昨日の正式決定と言うこのタイミングでこそ、「「結論ありき」「予定調和」連発のやり方はおかしい」「民主主義の危機である」と、国民は声を大にして叫ぶべき時に来ているように思います。官僚が陰で糸を引く、これ以上の「結論ありき」という国民の支持なき実質独裁制にストップをかけないといけないと改めて思った次第です。

くま辛NEWS ~ 7.19

2012-07-19 | ビジネス
◆明日7月20日(金)午前11時5分~NHKテレビ総合「こんにちは いっと6けん」で、「くま辛」が大々的に取り上げられます。
番組では、「くま辛」の概要や参加メニューの数々が紹介されますが、その中で「青山カレー工房」の「熊谷大和芋カレー」も堂々登場します!
ぜひ、ご覧ください。

◆7月20日(金)21日(土)22日(日)は、熊谷最大のお祭り「うちわ祭」が開催されます。
「くま辛」は21日と22日に、星川通り駅寄りの「リバーサイド・パーキング」で「くま辛ガーデン」を開催します!
「くま辛ガーデン」は、子供の遊び場と「くま辛」メニュー飲食をお楽しみいただける総合レジャースペースです。ぜひご家族連れで遊びに来てください。「くま辛」をお試しいただける絶好のチャンスでもありまず。
「青山カレー工房」も、「熊谷大和芋カレー」持参で参加いたします。


★「くま辛」パンフレットおよび「熊谷大和芋カレー」の情報は、

http://www.studio-02.net/aoyamacurry/

へどうぞ。


大津の事件と「タブー」という存在

2012-07-17 | ニュース雑感
大津市の中学2年生自殺の事件、問題の根本原因、再発防止のポイントを考えれば考えるほど、何か得体のしれない深い闇に引きづり込まれていくかのような、スッキリしない嫌な感じを覚えるのは私だけでしょうか。もちろんその一旦は、先週拙ブログでも取り上げた「隠ぺい」の構図にあることは間違いないのですが、何かそれだけではない不透明感が一連の事件の流れ、事件報道、関係者の発言等々から漂っているように思えてならないのです。

いじめはその度合いの違いはあるにせよ、ストレス社会が生む必然的人間行動としてある程度は避けられないものなのではないか、とは私の思うところです。大人社会にもある種のいじめ行動と受けとめられるパワーハラスメントとうものも存在しています。しかし、社会経験未熟な子供社会では、行き過ぎたいじめや回避のすべを知らない被害者の存在が、自殺と言う悲劇を生んでしまっているわけです。

子供社会におけるこのような悲劇防止には、いじめの芽を経験豊富な大人が摘むことでレスキューの役割を果たす必要があるわけなのですが、今回の事件ではそれが全く機能しなかった。ここに来てまたぞろ噴出する大人たち特に学校教師の明らかな「見て見ぬフリ」はなぜ起きてしまったのか。さらに一連の報道は学校や教育関係者の責任追求こそすれども、そこに対して明快な回答が得られない。これらがために私のモヤモヤ感は高まる一方になっているのではないか感じています。

ではいったい何がそうさせているのでしょうか。このようなモヤモヤ感が感じられるような場合、そこに「タブー」と言うものが存在していることが往々にしてあります。「タブー」とは。最近あまり耳にしなくなった言葉ですが、この場合の辞書的な意味合いは、「禁止された事物や言動。それについて極力、言及しないこと。禁忌。禁制」。特定の地域や特定の集団においては、様の古今東西を問わず、この「タブー」というものが厳然と存在してます。

今回の事件に関して、どう考えても納得のいかない事件に至った関係者の動きや、その後の歯切れの悪い報道内容等からは、この地域に由来するある種の「タブー」の存在があるのではないかと思えてなりません(実際、真偽のほどは定かではありませが、一部ネット情報では、事件発生地域周辺における「タブー」的存在を具体的に指摘をしているものもあるようです。裏付けのとれていない情報なので、ここには取り上げません)。「タブー」が人の正義的行動を抑制させることが悲劇を生み、「タブー」が報道にブレーキをかけることで問題の根本的解決や真の再発防止に向けた行動を鈍らせているのではないかと。私のモヤモヤ感はそんなところに原因を求めている感じです。

「タブー」はそれを口にすることが「差別」につながるものとして、公言することが不適とされる正当な理由に裏付けられる場合もありますが、相手方の「差別」行為等過去の負い目を逆手に取り歪曲した既得権として、それに触れさせないことから発展して悪意を持って強大な力を行使し理不尽がまかり通るケースも間々あるのです。後者のような場合でも、善意の「タブー」関係者になんらかの被害が及ぶ可能性も否定できず、歪曲した既得権をなかなか排除できないというケースもあると聞きます。

また「既得権とタブー」という観点で申し上げるなら、原発の問題もオスプレイの問題も、要は「政治的タブー」が政治家の言動を不透明にさせ、問題の本質を見えにくくさせているとも言えるのではないでしょうか。現代において「タブー」とは一体何なぜ存在するのか。なぜ「タブー」はなくならないのか。過去の体制が臭いものに蓋をしてきたことの積み重ねが「既得権」とそれを脅かす「タブー」を生み、そのことが新たな悲劇を生みだしているということもまたある種の真実なのではないかと思うのです。「タブー」は、実にいろいろな問題の陰に存在しているものなのです。

大津の事件の陰に、もし本当に「タブー」の存在があるのなら、正義の第三者であるべき報道メディアはその「タブー」から反射的な回避をするのではなく、「タブー」とどう向き合うのかを考えその考えを国民に提示する機会としてもらえないものかと思うところです。ひとつの尊い命が失われた事件を、単なる関係者の責任追及で終わらせるのでなく、過去の過ちを正しこれからの社会づくり資することもメディアの使命でもあるはずだと思うからです。

オリンピックとパラリンピックは統合したらどうか?

2012-07-13 | ニュース雑感
ロンドン・オリンピックまであと2週間。壮行試合やらなんやらで、徐々にオリンピックムードが高まりつつある今日この頃です。

オリンピック関連で少し前に目にしたニュースに、「義足のランナー、オリンピック代表に」というものがありました。南アフリカの陸上選手であるピストリウス選手が、同国の陸上競技リレー代表に選出され、悲願のオリンピック出場を果たすというものです。彼はカーボン義足の“ブレードランナー”として有名で、障害者の国際大会であるパラリンピックではすでに4つの金メダルを取っているというトップ・アスリートです。

前回の北京大会でもオリンピック出場が取りざたされたものの、国際陸上競技連盟 (IAAF) が「カーボン製の義足による推進力が競技規定に抵触する」として参加を却下し無念の断念となったのでした。今回の出場は、2008年スポーツ仲裁裁判所 (CAS) がIAAFの判断を覆しピストリウス選手が健常者のレースに出場することを認める裁定を下したことを受けて実現したもので、障害者スポーツが新たな歴史を刻む上で大変大きな意義を持っていると考えます。

大きな意義とは、オリンピックとパラリンピックの統合に向けての意義です。そもそも、障害者スポーツは東京オリンピック開催以前のローマ大会からオリンピックに合わせた国際大会開催を実現してきていながら、IOC(国際オリンピック委員会)によるオリンピック類似名称の使用への難色などによる“差別”扱いを受けるなど苦難の時代が続きました。そして2000年IOCとIPC(国際パラリンピック委員会)との間で協定が結ばれ、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを行うこととIPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催が正式に義務化されたのです。

それでもまだまだ陽の当らないパラリンピック。あくまで開催地の“義務”を脱しきれない現状のオリンピック後開催の方式のままでは、「健常者でないものの記録に何の価値があるのか」という先入観を受け続けることは確実であり、スポーツの過去の歴史における「記録的に劣る女子スポーツにどれほどの価値があるのか」という考えから女子競技導入を渋り続けた前世紀前半の女子スポーツに対する差別の歴史を、再び繰り返されるかのような気分にもさせられるところです。

女子の男子に混ざっての競技参加が認められたのは1900年の第二回パリ大会であったとか。しかしながら、女子限定の競技種目が正式にオリンピックに導入されたのは1936年であり、それまでの間は男子に伍して戦える能力のある女子は限定された競技への出場が認められたものの、女子限定の国際競技はオリンピックとは別に開催され続けるという厳然たる差別扱いが続いたと聞きます。今回の“障害者の雄”ピストリウス選手のオリンピック出場は、女子差別の歴史に置き換えるならいままだ1900年時点の状況ではありますが、障害者スポーツの評価向上に向けては本当に大きな意義を持つことであると思うのです。

オリンピックが平和の祭典である以上(もちろん、過去の政治介入などいろいろ問題が多いのも事実ではありますが)、やはり差別なく平等に能力の高いアスリートには大会への出場権利を与えるべきではないのかと思うのです。つまり、競技種目として男子、女子に加えてオリンピック障害者部門を一刻も早く設け、パラリンピック選手として差別するのではなくオリンピック選手として同じ大会に出場させ、両大会を統合することでその栄誉をたたえるべきではないのかと切に感じるのです(実施に際しての、種目の再調整やルール、出場資格等々整備すべき課題点が多数あり、難題もおおかろうことは想像に難くないところですが…)。

ロンドン大会でピストリウス選手の出場シーンでは、メディアがこぞってその栄誉をたたえることに違いありません。この機会こそ、来るべきオリンピックとパラリンピックの統合の必要を世界に人々に理解を求める絶好の機会でもあるはずです。そしてまた、2020年のオリンピック開催地に立候補している東京が、この機会にオリンピック、パラリンピックの統合を掲げてあらゆる差別のないオリンピックの実現を大会趣旨として宣言するなら、国内外のオリンピック開催に対する支持も大きく得られるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

「隠ぺい」は根絶できないものか

2012-07-11 | 経営
東電がらみの相次ぐ新事実発覚や大津市の中学生自殺事件にからむ学校側と教育委員会の前言撤回など、連日非常に胸糞の悪くなるような報道が目立っています。

これらの報道を聞いて胸糞が悪くなる原因を考えてみるに、どちらも「隠ぺい」という言葉が脳裏に浮かんでくるからではないかと思うのです。漢字で書くと「隠蔽」。字を見ただけでなんか非常に嫌な感じがしたりします。辞書的な意味を調べてみると、「事の真相などを故意に覆い隠すこと」とあります。

この中で問題は「故意に」の部分でしょうね。これが非常に見る者の心証を害し、胸糞を悪くさせる原因なのではないかと思うところです。発覚した時に、見ている人の心証を大いに害するであろうことは想像に難くないハズなのですが、それでも「隠ぺい」が後を絶たない理由はどこにあるのでしょう。

できれば見せたくないから「隠ぺい」する。「万が一後からバレたらタダじゃ済まないよね」、恐らく「隠ぺい」関係者は「隠ぺい」するかしないか決断を迫られた際に、そう考えるはずです。それでも最終的に「隠ぺい」を選択した東電関係者や大津市の学校関係者を決断たらしめたモノは何であるのか。世間が注目する事件であればあるほど、密告も含めて「隠ぺい」は必ずバレるものであると、なぜ気がつかないのでしょうか。

「隠ぺい」を決断させる最大の理由は、たいていは「保身」なのではないかと思います。「保身」が判断を誤らせるわけです。「保身」の辞書的意味は、「自分の地位・名誉・安全などを守ること」です。要するに「自己中」的発想です。この「自己中」に裏打ちされた「隠ぺい」がセットで提供されるから、非常に胸糞が悪くなるわけで、「隠ぺい」が人に見る人の心証を著しく害するメカニズムはなんとなく分かってきます。

では「自己中」じゃない「隠ぺい」ってあるのでしょうか。あるとすれば「機密」というヤツでしょうか。「機密」とうのはよく政府とかが使う言葉ですが、これは同じ隠すのでも、どこか大義名分がある感じが漂います。例えば、「国民の利益を優先するが故に、国家機密は保持されるべきである」とかの言い回し。もちろんそれが本当に国民の利益のためであるのか、実は誰かさんの「保身」のためではないのか、疑ってかかるとキリがないのですが。「機密事項です」とか言われると、「そりゃ仕方ない」と諦めモードに入って胸糞は悪くならないわけです。

今回の東電や大津市の件は、「それは「機密」だったのです」とは言えなかったのか。それは無理ですね。誰が考えても「お前たちが責められたくないから隠したな!」と袋叩きになるわけで、やはりどこをどうとっても「保身」以外の何ものでもなかったのですから。とすると、やはり東電も大津市の学校関係者も「隠ぺい」を決断する前に、「これは「機密」か「隠ぺい」か?」を議論すべきだったのでしょう。要は今ある情報を出さないことが誰の利益になるのか、それをしっかり判断することが組織的「隠ぺい」を防ぐ際のポイントであると思うのです。

それに加えて、世の中一般も「隠ぺい」は重罪であると、世間的にももっともっと強くメッセージすべきなのではないのかとも思われます。例えば、事件を聞いた時の胸糞の悪さから言えば「飲酒運転事故」に近いような気がするので、同じように「隠ぺい」を重罪として断罪する「許しません!隠蔽」みたいな一大キャンペーンを文科省や経産省あたりが旗振りで展開するとか、できないものかなと。官僚が自分のクビ締めちゃいますかね。ならばメディアに期待を。いや、メディアもスネに傷持つ同志?

いずれにせよ、なんかこうスッキリしない、後から分かる「隠ぺい」の事実に対するやり場のない怒りというか、繰り返して欲しくないわけです。「隠ぺい」故に原因の究明が遅れたり、誤った対応策を講じる無駄が生じたり、本当に罪な存在なのです。官も民もあらゆる組織や個人も含め、事件・事故の当事者になった際には、「隠ぺい」の罪の重さを改めて自覚して、どんな状況下においても「隠ぺい」はしないと誓って欲しいと思うところです。

これでいいの?テレビ番組制作のコスト意識

2012-07-07 | ビジネス
6月にスタートした“日本一暑い街”熊谷の食の街おこし「くま辛」は、メディア取材も順調に増加。関東圏を中心として急速に多くの皆さまの知るところとなりつつあります。

一応「くま辛」の広報担当でもある小職としましては、このところあちこちのメディア対応に大わらわ。とにかくテレビ取材の大変さにはけっこう参らされておるのです。と言いますのも、なにしろ取材対応に時間がかかることかかること。こればっかりは映像媒体というものではいたし方のないところではあるのでしょうが、5分弱の編集番組を制作するのに収録取材は半日がかりはどう考えてもすごいです。こちらも、メディア対応はもともと仕事でやっている分野ではあるとはいえ、あくまで「くま辛」広報担当は無報酬なもので、連日の長時間拘束は他の業務にも差し障りが出る訳でけっこう困りものであったりもするのです(それはどうでもいい話です)。

5分弱のカンパケ制作用素材の収録に5時間かけたとして、局からの往復移動を含めると8時間。ちょうど週休2日制の場合の1日当たりの法定勤務時間になるわけです。そこにかかる人数はと言いますと、一昨日の某民放局の場合、レポーター、ディレクター、アシスタント・ディレクター、カメラマン、音声兼照明、それに取材車両の運転手、総勢6名。よくは分かりませんが、残業代もあるでしょうが一日の総人件費を考えると、本体社員ばかりではないので平均日給ベースで1万5千円として、×(かける)6イコール9万円ぐらい?他にガソリン代やら諸経費もろもろで1日約10万円ぐらいはかかっているのではないでしょうか。

撮った素材を今度は編集するのに丸1日まではかからないとしても、3名×1万円ぐらいはかかるでしょうから、人件費だけで3万円。その他本件取材に係る番組運営に諸経費2万円程度がかかるとして、私の頭で総トータル約15万円はかかっている計算です。しつこいようですが出来上がりのカンパケはわずか5分。見かけ上は意味のない単純計算ですが、5分=15万円とすると1時間で90万円。高コストのタレントを使わなくても一日24時間で2160万円のコストになるのです。なんでこんな勝手な想像に基づく計算上だけの意味のない数字を出したかと言うと、要するに5分=15万円の経費が許される環境の企業は、他の制作方法の場合の制作コスト感覚(例えばタレントを使う場合、総出演料の目安等)もそのレベル以上にはあるわけで、テレビと言う業界における「運営コスト感覚」というものはなんとなく分かるのではないかなと思った次第です。

で何が言いたいのかというと、どうなんだろうかこの金銭感覚という感じがひどくする訳です。確かにモノづくりに携わる人間として、「とにかくいいモノをつくるのだ」という使命感も当然あるのでしょうが、たいていこの手のロケは平気でタイムスケジュールが押せ押せになるわけで、なんか少しでも早く終わらせて効率化をはかることで番組制作のコストダウンにつなげよう、なんて考えは全くないように感じられます。このあたりからもコスト感覚の部分で今の時代にあっては、けっこう“浮世離れ”しているのかなと思わざるを得ないころなのです。

さらにおまけとして、一昨日の収録素材は編集までして本番でボツになりました。朝の生番組のニュースワイド内での放映予定だったのですが、番組終了後電話があってディレクター氏の曰く「原発がらみが予定外に時間を取ってしまいまして、結局あぶれちゃいました。今回の素材はもう使用はできないのですいません、またの機会という事で」と。そりぁまぁ「タダ働きの俺の時間を返せ!」と言いたくないこともないのですが、そこは目をつぶるとして、でも気になるのは先の15万円は結局ドブに捨てている点ですね。

飲食店で言えば仕入れロスっちゃロスですが、人がこれだけ動いて、私をはじめとした無償での取材協力者のコストロスまで考えると「本当にそれってアリなの?」と。これがテレビ局の常識感覚であるとすると、やはりコスト意識の部分で首を傾げざるを得ないのではないのかなと思うところです。ちなみに、この民放局、同様の「取材⇒編集⇒ボツ」は今シーズン早くも2回目です。

最後に何を申し上げて締めるかなのですが、ネット時代の本格到来と共に広告媒体として押され気味傾向にあるテレビ業界。景気低迷の影響もあって“高価な”テレビ広告が、昔のような殿様商売はとてもできない状況にあるのは間違いのないところ。出演タレントの人数調整やギャラ調整で制作費の圧縮努力はされてはいるようですが、現場の制作姿勢に見るコスト削減の観点から考えればほとんど手つかずの状況なのではないかと思わされたわけです。今後も費用対効果面から有効な広告媒体として生き残っていくためには、やはり根本の制作姿勢という部分からの意識改革こそが必要なのではないかなと思わされるところです。そもそも活字媒体とは成り立ちが違うイコール広告媒体であるテレビという媒体。あまりにも“昭和然”とした取材・制作姿勢のまま生き残れるものかと、老婆心ながら思った次第であります。ま、余計なお世話でしょうかね。

普通の会社に“ブラック営業”が生まれる理由

2012-07-05 | 経営
J-CASTさんの拙連載で「ブラック営業を生む管理」の話を取り上げたところ、自社の経営や管理が意図せぬブラック営業を生んでいるか否かのチェックはいかにすればよいのかとの質問を複数いただきました。
◆棒グラフを壁に貼っている会社は「ブラック営業」なのか◆ 
http://www.j-cast.com/kaisha/2012/07/03137955.html

私が書いたのは、営業に目標数字を貼りつけて「目標必達が至上命令」「実績数字が評価指標」というような社内風土が出来上がってしまうと、経営者や管理者がただただ企業実績を伸ばさんがために指示してることが、結果的にブラック営業を生むことになるというお話でした。それを、「棒グラフを壁に貼っている会社は「ブラック営業」なのか」というタイトルで取り上げたので、「もしやうちも?」と一部の経営者の方が不安に感じられたということのようです。

ビジネス関連で最近よく耳にする「ブラック企業」という言葉。もちろん反社会的勢力の関連やそういった方々と付き合いがある会社は当然のことですが、最近の「ブラック」の使われ方はもう少し範囲が広がっているように思います。特にクローズアップされているのは以下のふたつ。ひとつは、社員を法的な枠を超えて“コキ使う”会社。もうひとつは、実績優先で顧客の意図を後回しにしてモノを売る会社です。前者は基準に「法的勤務時間超過」とか「残業代不払い」とか、法の存在や明らかなブラック行為があるので比較的分かりやすい存在なのですが、後者はちょっと厄介です。

この後者の代表が、まさしく経営や管理が生む本来会社が意図せざるブラック営業活動によるブラック企業化なのです。もっと具体的に言うと、顧客が当面必要としてないものを無理に押し込む営業であったり、欠点やリスクなどの説明をせずに売り込む営業などがそれにあたります。これらの営業は、本人が「社内で認められたい」「人事的に評価されたい」という気持ちに基づく実績の積み上げを行為として具現化されるのがほとんどのケースであり、その裏には実績数字至上主義的管理や経営が必ずといっていいほど存在するのです。

営業管理手法には、実績と共に「行動管理をしっかりせよ」というセオリーがあります。すなわち、商品別ターゲット選定管理や定期目標進捗管理だけでは管理が甘くなるとの発想から、営業担当者の一日の行動を管理するという管理手法が加えらえていくのが行動管理の一般系なのですが、実はここに落とし穴が存在しているのです。と言いますのは、「行動管理」には「行動密度管理」と「行動内容管理」が存在するのですが、目先の実績を追いかければ追いかけるほど「密度管理」にばかり目を奪われて「内容管理」が疎かになる傾向が強く、これが結果として「ブラック営業」を生み出すことになるのです。私が見る限り、会社が若く若い管理者が多いと、「行動管理」が抜け落ちて「密度管理」一辺倒になりやすいという傾向も確実にあるように思います。

「密度管理」とは、一言で言うと「一日何件訪問したか」であり、これは確率論的営業実績伸展管理手法で、もちろん営業管理においては大切なことではあるのですが、こればかりに偏ってしまうと「とにかく一軒でも多く回って、一件でも多く獲得して来い!」というブラック管理になってしまいがちです。一方の「内容管理」は、担当者が「どういう先にどのような提案をしているか」を管理するもので、言ってみれば顧客の役に立つ意義深い行動をしているか否かを管理する部分なのです。要するに、「ただ件数稼げばいいってもんじゃないぞ」というブラック化の歯止めとなるものが、「内容管理」であるのです。

ですから、冒頭の「自社の経営や管理が意図せぬブラック営業を生んでいるか否かのチェック」法に関する質問の回答は、営業の管理者が行動管理における「内容管理」がしっかりできているかを確認すること、ということになるわけです。そして経営者もまた、管理者の行動管理をおこない、その「内容管理」をしっかりと実行していただく。さらに人事管理的な面で申し添えれば、その「内容管理」から得られたものをしっかりと評価に反映させる仕組み作りをすること、それらの徹底につきるのではないでしょうか。

営業はややもすると「実績上げてなんぼ」と思われがちでありますが、それが社内的にまかり通る会社は営業担当者を単なる販売担当と見ている会社であり、それこそブラック企業であるのです。正しくは、「営業担当者は販売者ではなく、サービスコンサルタントである」との考えの下、しっかりとそのコンサルティング活動を管理していることが、ホワイト営業を育てるホワイト企業であるのです。実績の棒グラフが壁に張り出されているか否かが問題なのではなくて、棒グラフに表された数字のみで管理・評価をしていないかこそが大切なのことです。