日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

プライベートブログ更新しました<洋楽>

2012-01-29 | 洋楽
いよいよスワンプも佳境。ジョージ・ハリスンの歴史的名盤の登場です。
★私の名盤コレクション18~Leon Russellとスワンプ名盤(7‐1)「All Things Must Pass /George Harrison」
前編は、ジョージの名作「オール・シングス・マスト・パス」にノンクレジットですが、レオン・ラッセルが恐らく参加しているだろうという推測です。

こちらからどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/ozozoz0930/e/dc179a951aa1acf640b2a042d347816c

“松井世代”と“ダルビッシュ世代”、育った時代でこんなに違う?

2012-01-27 | その他あれこれ
札幌ドームでファンを集めて開催されたダルビッシュ投手の大リーグ移籍会見は、本当にカッコよかったですね。感動的ですらありました。ファンを大切に思い、ファンの気持ちを考えて語る。「今ここにあるのもファンの皆さんのおかげ」「またいつかここに帰ってこれたら嬉しい」等の発言は、ややもすれば人気におぼれ人気に胡坐をかき、ファンあってのプロスポーツであるという原点を忘れてしまっている球団や選手も間々見受けられる昨今、若いのに本当に素晴らしいプロスポーツ選手であると感心させられました。

ダルビッシュ投手は「大リーグでの活躍を見てみたい」という周囲の声にも押され、自らは憧れではなく戦う場所を求めて挑む大リーグ。その上で、「できればまたいずれ地元のファンの皆さんの前に帰って来たい」とファン歓喜の言葉を残しての渡米です。どうしても比較をしたくなってしまうのが松井秀喜選手。以前から「もう日本ではプレーをすることはありません」と言ってはばからない彼。ピークを過ぎた今、「ヤンキース以外は考えられな」かったハズが、拾ってくれるチームを転々として年々年俸を下げながらDHで雇われる形でも大リーグ残留の道を探し続け、なおも「日本に戻ってプレーはしない」と大リーグでの現役全うにこだわる。多くのファンが日本球界復帰を望もうとも、まさに自己のプライド重視の生き様の様に映ります。これほどまでに明確なダルビッシュ投手との考え方の違いの根底には、単なる個人差以上に育った世代間の違いがあるように思えてなりません。

松井選手が74年生まれで今年38歳。ダルビッシュ有投手は86年生まれの今年26歳。ちょうどひと回り年齢が違います。この12年の生まれの違いの背景に何があるのでしょう。少し勝手な推測をしてみます。バブル経済ピークは平成元年、89年前後と言われています。戦後高度成長を続けてきた日本は、一時期オイルショックやドル=円為替の変動相場移行後の為替変動などによる景気の波こそあったものの、基本的には地価の右肩上がり神話に支えられた“土地本位制”の下での経済成長は膨張を続け、遂に天井を打ったのがこの時でした。以降はバブル崩壊後と名づけられ、合間合間にミニバブルは織り込みながらも地価は下落を続け“土地本位制”崩壊による低成長時代に突入した訳です。その後は90年代には金融危機が、00年代にはリーマンショックが襲いかかるという、気の抜けない経済情勢が人々の生活感にも大きな影響を及ぼしてきたと思います。一般的に人格形成期における世相背景の違いは、世代ごとの物の考え方の違いとして現れると言います。松井選手、ダルビッシュ投手それぞれが育った時代背景と心理的影響を順にみてみましょう。

松井選手の場合、バブルピーク時は中~高生。この時代には物心もついて、自分で稼いでこそなかったものの世間や家庭の雰囲気から、十分バブル景気を感じ取ってもいたのではないでしょうか。この環境下で育った現30代後半世代は、社会人デビュー当時に「昭和入社世代とは明らかに違う要注意世代」と言われました。高度成長期とは異なるバブル景気時に育った彼らは、「自分さえ頑張れば何でもできる」が根付いたのでしょうか「上下関係に縛られない」「社会性に乏しく自己中」などと評され、当時私ら昭和組の管理者は「世代の違いを十分理解し、“飲みニケーション”を押し付けるようなやり方はダメ」などと組織内教育上の注意事項として人事セクションからお達しを受けたものです。松井選手はまさにその時代の新人社員なのです。なるほど、彼が今も大リーグにこだわり続ける理由は、こんな世代的背景もあるのかもしれないと妙に納得させられます。

一方のダルビッシュ投手。物心がつく頃は、既にバブル崩壊後の金融危機の真っただ中。誰も予想もしなかった都市銀行、大手証券の倒産と不景気風が吹き荒れた暗い世間のムードは、少なからずその人格形成期の心理状況に大きく影響を及ぼしたハズです。バブル崩壊後の慢性的な長期的沈滞ムードの中で「無駄は悪」を叩き込まれた今の20代は、自己中ではなく、どちらかと言えば仲間や地域を重視しつつ無駄を排して苦しい状況を協力姿勢で抜け出す等、仲間を大切にする傾向が強い。すなわち「形」よりも「実」を取り、家も事務所もあらゆるものを「シェア」という協力体制で乗り切る考え方も抵抗もなく受け入れられる世代であります。そんな彼らには一例をあげるなら、「海外旅行には関心ない」「見栄で車は持たない」「可能なら買わずに貸し借りで済ます」などの特徴があります。ダルビッシュ選手の「大リーグ行きは、憧れではなく実力試し」という渡米動機や、自分を育ててくれた地元を何より大切にする気持ちは、そんな今様の若者気質に端を発した正直なものであるのだろうなと思わされます。不況が育てた若者気質の代表例と言えるのかもしれません。

こうしてみてくると、松井選手とダルビッシュ投手の言動には大きく異なる世代特有の考え方がその行動の裏側に脈々と生きているように思えておもしろいです。そのどちらもが、また松井世代のひとまわり上にあたる我々世代が二十代、三十代だった頃とも全然違ったりもするわけで、人格形成期の世の中の動向が影響を与えるその後の世代感覚の違いというのは確かにあるのでしょう。次代を背負う若手世代の代表として会見で垣間見たダルビッシュ選手の堅実で優しい物の考え方を受け取るなら、閉塞感満載の今の時代に一筋の光明を見る思いです。

続 東電の家庭向け料金値上げを、絶対に許してはいけない理由

2012-01-24 | ニュース雑感
東電の家庭向け料金値上げ関連のエントリーに、たくさんの反響をいただきありがとうございます。まだまだ言い足りない部分もありますので、前回の不足を少々付け加えます。

東京電力の料金は簡単に言うと「基本料+使用料+調整金」という構成で作られていますが、これはあくまで利用者向けの料金構成の見せ方であり、そもそも電気料金自体の見直し云々の根拠となっているものは「総括原価方式」というやり方で算出されるいわゆる「製造原価」の昇降を基準として決められています。ただこの部分、これまで少なくとも利用者にはしっかりとした形で開示されておらず、ブラックボックス的に扱われてもきました。この問題については、昨年11月から経産省の「電気料金制度・運用の見直しに係る有識者会議」というものが立ちあげられ、現在その中身の是非について議論がされるに至っています。

これまでの会議の議事録や資料を見る限り、原価計算上組み込まれている宣伝広告費やら寄付金やら、あるいは人件費をどこまで織り込むべきか等々、従来のやり方を見直しする方向でかなり建設的な意見が出されていることが確認できます。このような消費者に転嫁される電力の製造原価のあるべきあり方が議論されている最中に、このような動きとは全く別の世界であるかのように、「家庭向け電気料金も5~10%の値上げを行い、収益体質の改善をはかる」などという再建計画案「総合特別事業計画」が東京電力と政府が出資する原子力損害賠償支援機構との間で作成が進められているということ自体がおかしなものを感じざるを得ません。

言ってみれば、「経産省が取りまとめる有識者の意見はあくまで意見。一応形式的に聞く耳は用意しますが再建はそれとは別に我々は我々の考えでやらせていただく」、とでも言っているかのような態度に見えはしないでしょうか。少なくとも「総合特別事業計画」が、この有識者会議で出されている「オール電化関連向け宣広費、寄付金、団体費等は原価に含めるべきではない」等の意見を踏まえたものとは到底思えません。もし仮に東電が消費者向け料金の値上げを正式に申し出るのなら、「火力シフトによる燃料費の増加」などどいう理由に終始するのではなく、最低限この有識者提言をどう織り込み「製造原価」構成をいかに見直ししたのかのかはしっかりと明示する義務があると思います。

さらに言えば、世の企業どこでも原価が上がるから即値上げなどいう短絡的なものの考え方で動くような組織はほとんどありません。東電の即値上げ戦術はまさに市場独占企業の思い上がり以外の何者でもないでしょう。彼らがまず真っ先にすべきは、その「製造原価」の個々の項目についての削減目標を作り、それにしたがって新たな「製造原価」の下いかにして事業運営を継続していくかの努力であるはずです。その観点から申し上げるなら、有識者会議に提示されている「総括原価方式」にある役員人件費を含めた個々の内訳費目について、具体的な削減努力をまず認可求める政府および一般利用者宛明示すべきでしょう。その中身を見た上で、東電の経営努力をもってしてそれでもなお値上げは致し方ないとなるのか否か、です。

恐らく、先の「製造原価」からの一部費目除外と個々の費目別削減努力を目一杯実施をするなら、法人向けも含めた電気料金の値上げなどしなくとも再建計画として成り立つ形になるのではないかと思うのです。要するに現状は、努力もせず「権利」と言って憚らない安易な値上げに逃げているだけのことです。橋下大阪市長が大阪府知事に就任した際に、「あなた方は倒産企業の社員であるという認識をまず持て」と言い、職員の意識改革を求めることで改革への取り組みを強くリードし財政再建に実績をあげました。今の東電にも全く同じことが言えるでしょう。国がリーダーシップをもって、第三者による“独裁者”的運営で意識改革を徹底させること、それが見えない限り料金値上げなど1円たりとも認めるべきではないでしょう。

松井秀喜よ、日本に戻って復興“希望の星”となれ!

2012-01-23 | その他あれこれ
ダルビッシュ投手のレンジャース入団が決まって、スポーツメディアの報道はダル一色の様相です。年俸は6年契約で約46億円。単純計算なら1年あたり8億円弱(実際には1年目5億円台からスタートする複雑な契約のようです)といいますから、円高のあおりで円ベースでは過去最高には届かなかったものの、ドルベースでは松坂投手を抜いて日本人初年度契約の最高額を更新したそうです。個人的には、筋金入りの日ハムファンでもありもろ手を挙げて応援という気持ちでありますし、恐らくは並みいる大リーガーたちを前にバッタバッタと三振の山を築きあげてくれると確信してもいます。がんばれ、ダルビッシュ!

ところで時を同じくして、ここ一週間ばかりのこの派手な扱いのダルビッシュに比べていささか地味に報じられているのが、日本製の大砲ゴジラ松井クンの去就であります。2年前にヤンキースを出されエンゼルスに。さらに昨年エンゼルスを追われるも日本球界に戻ることなく私の反対を押し切って(って別に本人に声は届いていないでしょうが)アスレチックス入りをした松井クン。あの時も、また一年でお払い箱になってDM屋として転々とすることになりはしないか、と日本の至宝の行く末を心配をして日本球界への復帰を強く訴えました。果たして、予想違わず今年もFAを通告され(FAって言い方はいいですが、要は「お好きにどうぞ」の自由契約)、三年連続して行き先の決まらない宙ぶらりんなオフシーズンを過ごしているのです。

ON以来と言われた松井クンほどの選手がこんな状況に甘んじていて本当にいいのかと、さびしい気持ちにさせられもします。日本に逃げ帰るような形になることが本人のプライドから許せないのでしょうか。いいじゃないですか、古くは日ハムの新庄クンや阪神城島捕手だって、日本球界に戻って大いに日本の野球ファンを沸かせてくれています。聞けば今年どこの球団と再契約をしてもらうことになっても、大リーグでの年俸はせいぜい100万ドル程度とか。日本円で1億円いかないんですね。それってさびしくないですか。DH稼業も悪くはないですが、大リーガーってあちらでは攻・走・守の三拍子そろってこそ一流選手として評価される風潮が根強くあり、DHで中途半端な大リーグ生活を続け食いつなぐような状態が松井クン程の大選手にいかほどの価値があるのでしょう。これ以上大リーグに居残っても、年々自身の価値を下げることにしかならないのではないかなと…。

昨年も、「お払い箱→移籍」を繰り返すみじめな姿を晒す前に、日本球界が生んだ至宝として最後の何年かは日本に戻ってあなたを育ててくれた日本の野球ファンに“恩返し”をしたらどうかと提案しました。今年は昨年同様の理由に加えて、松井クンにできることとして東日本大震災からの復興支援というさらに大きなテーマがあるように思っています。もちろん、大リーグで全盛期のような活躍が期待できるのなら海の向こうから復興を支援をプレーで伝えることも可能でしょう。でも38歳になるDH稼業の今の松井クンに、それを期待しろというのは酷というものです。国内に戻って各地を回りながら、大リーグから戻って不屈の精神でがんばる松井選手のプレーを目の前で見せ感動を与えることで、大きな復興支援ができるのではないかと思うのです。

新生横浜ベスターズの新監督に就任した中畑氏も、「松井よ日本に戻ってうちでやらないか」とラブコールを送っていると聞きます。日本に戻る意思を表明するなら、多くの球団が契約交渉に乗り出すことは間違いないでしょう。それは松井クンが、今でも変わらず日本球界の至宝だからなのです。和製大リーガーたちもそろそろ世代代わりの時を迎えています。ダルビッシュ投手の大リーグ移籍はその大きな象徴でもあるのでしょう。まだ遅くありません。交流戦がある今、国内球団ならどこでプレーをしても全国を回ることができます。一日も早く国内復帰を宣言して、ぜひとも4月には日本でプレーをし日本を元気づけて欲しいと願っています。松井クン、4月に日本で会いましょう!日本の野球ファンは待っています。

東電の家庭向け料金値上げを、絶対に許してはいけない理由

2012-01-21 | ニュース雑感
予想されていたことではありますが、東電の電気料金値上げに関して企業向けの4月以降17%アップに続き、遂に家庭利用分に対してまで言及されるに至りました。個人的には様々な観点から考えて、これは絶対に許してはいけないことであると思っています。

まず、いろいろ情報が錯綜しているので、ちょっと整理をしてみたいと思います。

・情報の出所ですが、東京電力と政府が出資する原子力損害賠償支援機構が、金融機関の協力を引き出すために策定が進められている「総合特別事業計画」の素案が明らかになったというもの。
・その中で今後10年間の資金計画を提示。福島第1原発の廃炉費用を確保したうえで電力の安定供給を継続するには、2兆円規模の資金が必要と説明。(1)24年度中に企業と家庭向けで平均10%の値上げを実施する(2)柏崎刈羽原発(新潟県)を25年度に順次再稼働させる-との前提条件を示し、26年3月期には518億円の最終利益を確保できるとしていると。
・機構側は2兆円の資金のうち、1兆円は公的資金注入、残り1兆円は金融機関融資という考え。東電には公的資金注入による一時国有化は避けたいという考えが根強く、家庭向けの料金上げ幅を最大20%程度にすることで黒字幅を広げ、2兆円すべてを金融機関から引き出したいという考えがある。

ネット上から入手できるここ1~2日のニュース報道を整理すると、以上のような情勢であるようです。許してはいけない理由に関し、思うところをランダムに書き連ねます。

まず、“死に体”の東電が破綻処理をされてしかるべき状況下でなお図々しく「公的資金注入による一時国有化は避けたい」はあり得ないわけで、これがもし本当であるのなら、国民は口をそろえて、「そもそも盗人猛々しいとはお前のことだ」と言ってやらなくてはいかんでしょう。

次に本計画が、金融機関からの1兆円の融資金を引き出すためのものであるのなら、値上げと原発再稼働を原資とした国民生活を犠牲にするような計画に、高い公共性を帯びた金融機関が「YES」を言ってはいけないのではなかと考えます。この素案通りモノのがもし提示されるなら、金融機関はその判断に自社の社会的責任がかかってくると今から心して、断固「NO」を突き付けて欲しいところです。

さらに政府の姿勢の問題。家庭向け電気料金値上げには国の承認が必要であり、政府として金融機関融資1兆円の返済原資をこのような国民負担に求めるようなやり方を「是」とするような判断をするのなら、それは無責任極まりないということになると思います。

なぜなら今回の件は震災による原発事故発生と言う政府のエネルギー方針も大きくかかわった“人災”であり、政府は責任感をもって積極的にこの問題に関与すべき立場にあるからです。であるのなら、国民負担を前提とする再建計画を「是」とするのではなく、例えば政府保証付で1兆円の金融機関融資を引き出し国有化により東電の経営に積極関与することで、血のにじむような徹底したリストラ策と前向きな努力によって資金返済を実行させ再建に向かわせるべきであろうと思います。

おそらくこの案のまま国民負担に頼る再建策を軌道に乗せるなら、仮に一時国有化をしたとしても料金値上げと言う最も安易な返済原資が稼げる方法での再建策では、この期に及んで料金値上げをトップが「権利」と言って憚らない東電の抜本的な再生には到底つなげることはできないでしょう。“尻に火をつける”ことで本気を呼び起こし、真の再生を実行させる責任が政府にはあると思うのです。

企業向け電力の値上げだけでもコスト上昇による物価への影響や、一層の空洞化進展による雇用環境のさらなる悪化など、間接的な家計への影響は十分考えられる状況にあります。このうえ家庭向け電気料金を値上げすることは、我が国経済に計り知れないマイナスを生み出すことにもなるでしょう。政府には国民生活を守る立場からも、この問題には当事者としての責任感ある対応を強く求めたいと思います。増税と同じく値上げというモグラ叩き的対応策では、なんら問題の抜本的解決にはつながらないということに、早く気づくべきであると思うのです。

いずれにしましても、東電の家庭向け電気料金値上げを前提とした再建策は、絶対に認められるものではありません。

文科省のセンター試験ミス対応に、「不公平感」を“是”とする官僚文化を見た

2012-01-19 | ニュース雑感
先週末実施の大学入試センター試験において、試験問題の一部配布ミス等により大量の受験生が再試験になるという事態に陥り、昨日は平野文科大臣までもが謝罪会見をおこなうという異例の事態になっています。私は、一期校・二期校時代最終年度からセンター試験の前身である共通一次試験への移行期に複数回の大学受験を経験したのですが、大学受験では人一倍苦労をしてるだけに、この一件への文科省の対応については、受験生の立場の考えれば少々納得のいかないものを感じています。

我が国における大学受験は、世界的に見てちょっと特異な位置付けにあります。昭和の高度成長の時代から脈々と続く、官僚主義的学歴偏重。偏差値重視の学歴社会は私が就職をした時代に比べれば徐々に変化が出てきているとは言え、大企業を中心として依然として出身大学の偏差値によってその就職の有利不利が決まってしまう、もっと言えば、一人の人生が大学受験の結果如何によって大きく左右されてしまうこともあり得る、という状況の存在は今も否定できないと思うのです。

さらにその人生を左右する大学の入学試験は、基本的に今も昔も基本受験者の試験得点の相対評価によってその合否が決められます。であるなら、この手の試験において何より重要なことは、「公平性」の確保に他ならないのです。試験主催者側の落ち度によらない「不公平感」の発生(例えば天候や交通機関の事故等によるもの)であるなら、主催者側の可能な範囲の配慮(試験時間の開始遅延措置等)をおこなうことでの対応でやむを得ないかとも思います。しかし、今回のような、明らかな主催者側の人為的落ち度による場合にはどうなのでしょう。

文科省は今回の対応について、いとも簡単に「未受験等のあった受験生に対しては再試験を実施する」という結論を導き出していますが本当にそれでいいのか、いささか疑問に感じているところです。再試験は当然前回のセンター試験とは別の問題で実施されます。一般的には、再試験を想定して何種類かの試験問題は用意をされているようですから実施には支障がなく、この方法を選択したのだと思います。ただあくまでこの判断は、実施者側のご都合であり、受験生からみた「公平性」を考えるのなら、科目平均点が年ごとに上下することからも明らかなように、問題難易度の点から二回に分けて実施される試験の「公平性」を確保することは非常に困難であると言わざるを得ないのです。

ではどうするべきなのか。現実的ではないと言われるかもしれませんが、受験生の「公平性」を確保することを第一に考えるのなら、未受験が発生した当該科目の受験者全員に対して再試験を実施するべきではないかと思います。試験における事故発生の際のルールとして、今回のような措置は事前に決められたものであるのでしょうが、少なくとも主催者側の一方的な落ち度による今回のような事態では、「不公平感」が残ることの重要性を、もっと真剣に考え議論をしてもしかるべきであろうと思うのです。人為的な落ち度により発生した非現実的な「不公平感」という不具合には、一見非現実的であると思われる対応であろうとも責任をもって対処すべきではないのでしょうか。

受験生たち一人ひとりは、今目の前にある受験の難関を乗り越え大学生活を経て社会に出、明日の日本を支える重要な国の“人財”です。“お上”自ら民主主義における「公平性」の重要さというものを疎かにすることを「是」とするようなやり方を、自身の人生前半における重要な局面において彼らに見せつけることは、大袈裟に言うなら大切な“人財”の今後の人間形成への悪影響すら考えるべき問題であると思うのです。自己の責任における「不公平感」の発生を何とも思わないエリート官僚たちの至って事務的と思われる今回の対応には、あるべき官僚の意識改革の根本にもつながる問題として強く警鐘を鳴らすべきであると感じています。