日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№37 ~ 元祖“B 級”「大衆性≒ダサさ」の真骨頂

2008-08-30 | 洋楽
70年代に登場しその後も世間からは長く愛されながらも、評論家や専門家には間違いなく軽視されているアーティストがいます。その代表格がKISSでしょう。

№37    「ダブル・プラチナム/KISS」

KISSの日本上陸はかなり衝撃的でした。歌舞伎まがいのフルメイクと、後のヘビメタにも影響を与えたであろう独自のコスチューム。後年の評価としてダサイかどうかは別にして、明らかに時代を代表するひとつの象徴であったことは間違いありません。

日本でのデビューは、彼らの3枚目「地獄への接吻」。「ロックンロール・オールナイト」「激しい愛を」が盛んにオンエアされて話題を集めました。ちなみにジャケット写真は、ボブ・グルーエン。やや芸術的な渋いモノクロで、今思うとスーツ姿の4人は“ダサさ”がウリの彼らには妙に不釣り合いでした。そして、この直後リリースされた、初のライブ盤75年の「ALIVE!」が大ヒット。火を噴いたり、血のりを吐いたりするステージの人気とあいまって、その快進撃が始まります。

「ALIVE!」の後、「地獄の軍団」「地獄のロック・ファイヤー」「ラヴ・ガン」と、ダサいジャケットとダサいタイトルのアルバムが次々大ヒット。「デトロイト・ロック・シティ」「ハード・ラック・ウーマン」「ラヴ・ガン」などの全米ヒットを連発しました。と言う訳で、代表作を選ぶとなると「ALIVE!」の迫力は捨てがたいものの、楽曲的にはその後の3枚がそれぞれ充実作で甲乙つけ難し。と言う訳で、彼らはやはりベスト盤で聞くのが一番ということに落ち着きます。

本アルバム「ダブル・プラチナム」は78年リリースのベスト盤で、デビューから77年の「ラヴ・ガン」までの代表曲を2枚組に詰め込んだ当時の決定版だった訳です。タイトルからして、当時の彼らの人気ぶりとその自信のほどがうかがえると思います。それにしてもこのピカピカの銀色ジャケット、「B級」的でかなりダサイです。

個人的には、KISSと言えばC4「デトロイト・ロック・シティ」。高校時代そのストレートなロックっぽさにしびれていたものです。ソフトなボーカルを担当するドラムのピーター・クリスが歌うアコースティックなA3「ハード・ラック・ウーマン」やバラードのD4「ベス」は、彼らの音楽的懐の深さをうかがわせる名曲です。そしてやはり、C6「ロックンロール・オールナイト」は彼らのテーマ曲といった感じですね。他にも佳曲満載。高級感はゼロですがこのベスト盤を聞けば、彼らが意外なほどのメロディ・メーカーであることがお分かりいただけると思います。

彼らの初来日公演を放映したNHK「ヤング・ミュージック・ショー」は、今だに当時のロック小僧たちの伝説。数年前に「NHKアーカイブス」で再放送され、大変な反響になってもいました。KISSって実はロックの「B級」分類を確立し大衆に広めた点で、大変な功労者じゃないのかって思います。

ちなみに、KISSを露骨にマネをしてデビューしたのがあのデーモン閣下率いる「聖飢魔II」。同じようなメイクに身を包み、加えてメンバープロフィールに架空の物語をかぶせるというKISSの上をいくダサさは、KISSが「B級」なら、聖飢魔IIはさしづめ“D級”ってところですかね。さらに言えば、X-JAPANのメイクやコスチュームだって、KISSなくしては存在し得なかったと思います。

ルックスの派手さや音楽の明快さが、かえって評価面ではマイナスに働いていると思しきKISSですが、「B級」化を武器にロックを大衆化した功績ははかり知れません。同じ70年代当時ミーハー的と専門家から揶揄され低く見られていたグラム・ロックでさえ、今や「後世に多大なる影響を残した音楽スタイル」として高く評価されています。音楽評論家はじめ専門家の皆さん、今になってかっこつけて「あの当時、誰も聞いちゃいねーだろ!」的な“玄人好み”なモノばかり取り上げていないで、そろそろKISSあたりもちゃんと再評価した方がいいと思いますよ。

社会人としての“育ちの違い”と鍛えるべき『主観』

2008-08-28 | その他あれこれ
日本経済新聞の最終面の人気連載コーナーに「私の履歴書」というものがあります。各界の重鎮方がその半生を赤裸々に綴り、「今だから言える」的裏話も含め1か月単位で毎日紙面を盛りたてている人気コーナーです。

現在は連日、電通最高顧問の成田豊氏がその半生を書き綴っています。このコーナー、執筆者による当たり外れはかなりあります。今までの傾向分析をしてみると、私が興味深く読ませていただいてきたのは、たいてい創業社長か芸術家の方々のお話のように思われます。

まあ芸術家の方は、たいてい普通とは少し違う生い立ちがあるようで、生き様そのものが“作品”のようで面白い訳です。創業社長の場合は、会社設立時の苦労話はそれぞれが個性あふれるものですし、こちらも勉強になります。また黎明期に必ずと言っていいほど訪れる「倒産の危機」話からは、オーナーとしての責任感ある対処がうかがい知れる点も興味を惹かれる部分です。

一方、サラリーマン社長の方々の場合は、押しなべてその話のメインが会社を大きくした苦労話(一部自慢話)で、やはりサラリーマン的苦労や成功の域を脱しないものも多く、創業者に比べていま一つのめり込ませる魅力に乏しい気がしております。成田氏の場合も、同様の印象は強くあるのですが、広告業界と言う一般人にも馴染みやすい業界的な面白みもあってか、昭和から平成に到る日本の文化的背景をいかに広告業界が担ってきたかがよく分り、その点ではおもしろく読まさせてもらっています。

そんな中、氏の連載中気になった記述がひとつありました。北京オリンピック期間中、私が盛んに批判的立場から取り上げてきた「オリンピック商業化」に関するものです。成田氏は、電通も大きくかかわった例の商業化の転換点84年ロス五輪に触れ、「人類平和の象徴財産である五輪は、80年代の商業化が存続の危機を救った。商業化を誤りであるとする考えは間違い」と言う趣旨の主張をされていました。

確かに、商業資本を取り入れたことは、あの当時の赤字五輪開催による存続の危機を救ったのは確かだと思います。しかし、五輪が「人類平和の象徴財産」であるとしても、「スポーツ倫理」の危機問題は全く別次元の議論であります。「スポーツ倫理」の堅持は、いわばコンプライアンスの問題なのです。

商業化がたとえ過去に貴重な「人類の財産」を守ったとしても、私が先週ブログに書いた意見は、結果今の時代になってコンプライアンスを脅かす状況に陥ってしまっては、それはいかがなものかという主張です。あの時はよかったのかもしれません。ただ長い年月の中で、蝕まれた現状は認識をし、反省と改善が必要なのではないかと思う訳です。

先の成田氏の見解とは、相いれない関係にあることは明らかです。成田氏の見解を読んでいて、私との意見の違いは単なる世代の違いではないなと思いました。むしろ育った畑の違いによる、見識の違いではないのかと思ったのです。すなわち、氏は商業の最も商業らしい部分を担う広告代理店文化の論理展開なのでしょう。一方の私は、銀行育ちのコンプライアンス優先主義でのものの見方が身についてしまっているのかもしれません。

現実のビジネスにおいても、育った業界の違いによる意見のぶつかり合いや、お互いの「常識」のズレによるトラブルなどは多々あり、困惑させられることもしばしばです。新聞社時代に先輩記者から、「『客観』などというものは存在しない。だから常に『主観』を鍛えることを心がけなさい」と教えを受けました。成田氏の原稿に、思わずその言葉を思い出しました。社会人としての“育ち”の違いが原因で困惑させられる自分は、まだまだ『主観』の鍛え方が足りないのだなと思った次第です。

「世界から学ぶ機会」を放棄した政府管理の“箱庭五輪”

2008-08-26 | その他あれこれ
さて、オリンピック北京大会における中国政府の対応はどうだったのでしょう。

私は開会前に、中国国民13億人一人ひとりの一挙手一投足が国際評価される、とブログで書いたのですが、実態としてのオリンピック会場は「鳥の巣」ならぬ“鳥カゴ”状態に周辺地域が囲われて、厳重な会場周辺地域への出入りチェックと報道規制によって、13億人の一挙手一投足を海外メディアの目から遠ざけるやり方をとったようでした。言ってみれば、中国国内に期間中限定で作られた「治外法権的スポーツ特区」での大会だった訳です。

そして、それ以外の地域で政府は何をしていたかと言えば、オリンピック反対デモの封じ込めに躍起になっていたようです。IOCのロゲ会長が北京で会見した際に、「抗議ゾーンを設け70以上のデモ申請がありながら、1件もそれらが行われなかったことは、普通ではない」と批判的な意見を残しています。それに対して政府側は、「すべて話し合いにより、合意点が見出せた」という見え透いた嘘を言う百年一日の如き中国スタイルであり、この前世紀的政府対応は“真の近代化”に向け依然大きな課題として残ったように思われます。

このような「言論の自由」に対する対応の問題と、政府の「情報操作姿勢」とともに、メディアの取材に対する姿勢にも大きな問題を残しています。取材エリアや取材目的に関する規制が異常に多かったようですが、その最たるものとして抗議活動を取材していた海外メディアの記者が連行されるという事件も起きています。このような「報道の自由」に対する理解のなさは、国際社会で先進国として“市民権”を得ていくために、改めて大きな課題として露呈したと言えると思います。

環境問題をテーマにした大会運営の基本コンセプトとその徹底ぶり、さらには見事な開会式、閉会式の式典運営や先端的な競技会場と各競技運営には文句のつけようがなかった、というのが各国メディアの評価でした。しかしながら、それは北京に作られた国家直営の“箱庭”での出来事にすぎず、13億人の中国国民の目には自分たちの普段の生活とは分断されたこの“海外イベント”はどう映ったのでしょうか。

“箱庭”の裏側にある13億中国国民の大半の人々の実態は、「抑圧」と「規制」によって覆い隠されたままであり、正当な国際的評価を受ける状況にはなかったと思います。言いかえれば、中国政府は“真の先進国”入りを目指してオリンピック開催に手を挙げたものの、実態をすべて世界に見せ国際的評価を受ける段階には至っておらず、13億人の実態を世界の目から遠ざけざるを得なかったということでもあったのではないかと思うのです。

仮にそうであったとしても、今回国家直営“箱庭”方式で隠し通すやり方で良かったのでしょうか。仮に中国が今まだ実態を世界に見せ評価を問う段階になかったとしても、ディスクローズをすることで批判をも甘んじて受け、自国のこれからに役立てるというこれ以上ない機会を逸してしまったとは言えないでしょうか。

オリンピック開催は世界に評価を問うだけでなく「世界から学ぶ機会」でもあると、過去の日本、韓国開催は教えてくれてもいるのです。その機会をあえて放棄したと思える今回の中国政府の姿勢。13億大半の中国国民にとって、テレビで見る自国五輪開催は確かに「ナショナリズム高揚」には役立ったかもしれませんし、それで中国政府の大きな狙いのひとつは達しえたのかもしれません。しかし、国民一人ひとりにとっての、五輪開催の将来につながる意義はどこにも見出せてはいないと思うのです。

“反面教師”星野監督から学ぶこと

2008-08-25 | その他あれこれ
引き続きオリンピック・ネタを総集編的に…。

今回の北京オリンピックは、日本のお盆時にぶつけてくれたこと、時差が1時間と言う地の利があったことなどから、今までになく多くの競技を生で(生中継という意)観戦することができました。その結果、スポーツのイベント、特にオリンピックという短期決戦で世界的頂点を争う戦いからは、緊張感溢れる真剣勝負として多くのビジネスヒントを学ぶことができると、改めて強く実感させられたのでした。

特に考えさせられたのは、「あるべき指導者の姿とは?」という問題。この問題に関しては、ブログで大会中に「コーチ」というテーマで一度取り上げていますが、再度“反面教師”と言う意味で、野球チーム日本代表監督星野仙一氏に触れておきます。

ソフト・ボールの話を書いたときにも星野監督のことは少し触れましたが、選手と監督の主客転倒があまりにも強く出すぎたことが、今回の最大の敗因であったように思われました。「俺の会社だ、みんな言うこと聞け!」的なワンマン社長は、商店レベルの零細時代には理想的なほど機能するのですが、少々規模が大きくなって組織化してくると、それは逆効果となり「委縮」「イエスマンの集合体による活力の低下」「無意見・消極化」など組織の収縮を招きます。すなわち「ある程度プレイヤーに任せてポイントで指揮を執る」のが肝要になるのです。星野監督は、よくある中小企業経営者の悪い例と同じ過ちに陥った、と言えるように思います。

もう一点、星野監督に決定的な“過ち”がありました。準決勝韓国戦前に韓国メディアを挑発する発言があったことと、韓国戦に敗れ3位以下が決まった後にもさらに、記者会見で韓国記者の質問に挑発の上塗り的受け答えをしたことが一部で報道されていました。一選手の言動ならばまだしも、指揮官が感情的になって他国を個人的感情むき出しで批判するような行為は、マイナス以外の何物でもありません。

感情的に走るリーダーの下では、企業経営がおぼつかないのと同じことです。国際舞台の今回は、日本人として「恥」と思える発言であり、キャプテンの宮本選手が監督に代わってやんわりお詫びをしていました。これを見るに、選手間に余計な気を遣わせるなどの精神的動揺や、チームワークへの影響はかなりあったと思われます。残念ながら星野監督は、国際舞台での指揮官にはふさわしくない人物であったと言わざるを得ないでしょう。

ソフトボールの上野投手が優勝後のインタビューで、「最後は気持ちの強い方が勝つと実感した」と言っていました。「気持」を誰よりも強く持ち続けることは、「運」を呼び込むことも含めて必ず結果につながるものであると、今回多くの競技が教えてくれた真実でした。ただ、「指導者」「リーダー」たる人が、勘違いして誤った役割を勝手に演じてしまった場合には、せっかくの強い「気持」も消え「運」も逃げて行ってしまうのです。北京の星野監督は、経営者にとって格好の反面教師であったと言えると思います。

<音楽夜話>五輪閉会式にジミー・ペイジ登場!

2008-08-24 | 洋楽
北京で魅せた英国の底力!次回ロンドン五輪のPR役ということで、北京五輪の閉会式になんとレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ大先生が登場しました。

ジミー先生の役柄は、事前情報では新進の英国産歌姫レオナ・ルイスのバック・ギタリストということでしたので、何するんだろうかと思って見てびっくり!歌姫に歌わせた曲は、なんとツェッペリンの大名曲「胸いっぱいの愛を」じゃないですかい!いきなりの、お馴染みギターリフの登場にテレビの前でぶっ飛んでしまいました。英国の歴史に裏打ちされた懐の深さたるや、やっぱりすごい訳です。

大昔、67年に衛星放送のスタートを記念して、全世界同時中継番組「アワ・ワールド」という企画がありました。各国が趣向を凝らして、お国自慢的出し物を生中継で世界に伝えたのですが、この時も英国はビートルズを登場させ、なんと新曲「愛こそはすべて」を披露させたのでした。しかもジョンはガムを噛みながら歌っていたんだら、かっこいいことこの上ない訳です。私はリアルタイム目撃はしてませんが、後から聞いてもうらやましい程の制作センスです。ちなみにこの時日本の出し物は、東京の地下鉄工事やら高松の海老養殖場の模様だったそうな、この落差たるや…。

今回は、御歳64歳のジミー大先生を登場させ、娘より若いであろうレオナ・ルイスに英国産ロックの古典を中国の北京で歌わせちゃおうって言うんだから、日本には到底マネのできない芸当ですね。NHKのアナウンサー氏も同世代と見えて、やけに興奮気味で、そのあと登場のベッカムよりも断然大先生が気になっている様子でした。エコーギンギンのギターソロも少々入って、最高かっこえがったです。

ちょっと気になったのは、先生の指と音の微妙なズレ…。会場音声の関係であればいいのですが、開会式でも“口パク”をやってのけた北京五輪ですから、先生にも“エア・ギター”させた?それはともかく、ロンドン五輪の“予告編”がジミー・ペイジですから本番は、ツェッペリン?ストーンズ?はたまたビートルズ登場???音楽ファンの期待膨らむ2012年です。

そんな訳で4年後ロンドンへの期待感を十分に高めてくれた、ジミー・ペイジ先生の年齢を感じさせない素晴らしいパフォーマンスでありました。今宵は久々ツェッペリンでも聞いて、ロンドン五輪に想いを馳せることにいたします。

〈70年代の100枚〉№36 ~ 80年代への“橋渡し”を務めたデュオ

2008-08-23 | 洋楽
ダリル・ホール&ジョン・オーツというと、80年代を代表するアーティストのように思われがちですが、実はそのキャリアは古くデビューは72年にさかのぼります。

全米初ヒットは74年の「サラ・スマイル」が全米4位を記録、76年には「リッチ・ガール」が全米№1ヒットして一楽スターダムにのし上がります。しかしながら、その後一時期ポップなイメージと元来の持ち味であるソウルフルさのバランスが難しく、デビッド・フォスターをプロデュースに起用してのAOR路線を試みるなど若干の迷走状態に陥ります。そして、約3年の混迷期を経て彼ら自身の手でそのスタイルを完成させたのが、80年のアルバム「モダン・ヴォイス」でした。

№36    「モダン・ヴォイス/ダリル・ホール&ジョン・オーツ」

本企画の70年代の定義は、70年4月ビートルズ解散から80年12月ジョンレノンの死去までですから、まさに70年代終盤の会心作。このアルバムで70年代から80年代への橋渡しの役割を果たしたアーティストであった、と言うのが一番彼らにふさわしい形容かもしれません。ポップ、ロック、ソウル、ダンス…あらゆる要素を取り混ぜることで、楽曲の時代であった70年代的要素を持たせつつ、リズムやアレンジの時代である80年代的要素も織り交ぜた新しさが、彼らの魅力でありました。

このアルバム「モダン・ヴォイス」は初のセルフプロデュース作で、黒人音楽のメッカであるフィラデルフィア出身の彼らが、試行錯誤の末ポップな中にもソウルフルな味わいをにじませることで、他にはない「ホール&オーツ・ブランド」を作り上げた作品であると、位置づけることができると思います。ダリル・ホール自身も「本当のホール&オーツのはじまり」と語っているこのアルバム、個人的には大学時代リリース直後にレコードレンタルで借りて、出始めの「ウォークマン」で聞き倒した1枚です。

楽曲的には何と言っても№1ヒットのA5「キッス・オン・マイ・リスト」が出色。この曲なくして、次作である大ヒット作「プライベート・アイズ」の誕生もその後の「マン・イーター」のヒットもあり得なかったのです。ポップでリズミカルでメロディアス…。まさにホール&オーツの完成型がこの一曲に集約されていると言っていいでしょう。

他にも、ブルーアイドソウルの先輩グループであるライチャス・ブラザーズのカバーB1「ふられた気持」、85年にポール・ヤングのカバーで№1ヒットする名バラードB3「エブリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」、AOR的佳曲のA1「ハウ・ダズ・イット・フィール」やA4「イン・ラブ・ウイズ・ユー」(個人的にはこれがイチオシ!)など、本当に完成レベルの高いアルバムで、彼らにとっては初のミリオンセラーにもなっています。

この後、「プライベート・アイズ」、「マン・イーター」等のヒットで80年代前半に大ブレイクし全盛期を迎える彼らですが、その後は売れて大いに稼いだ安心感からか趣味のブラック・ミュージックへの傾倒が激しくなり、このアルバムで確立したせっかくの均整のとれた彼らのオリジナリティは失われてしまいました。それにつれて人気も下降線…。今も時々「昔の名前で出ています」的に日本にも来ている彼ら、ベンチャーズ的ナツメロ・アーティストとして生きるのでなく、昔のスタイルを思い出して、あの時代のホール&オーツらしさを感じさせる作品をまた聞かせて欲しいものです。

祝ソフトボール悲願の金メダル~星野ジャパンに足りないモノを見た

2008-08-21 | ニュース雑感
日本女子ソフトバールチームが、3大会連続優勝の宿敵アメリカを破って悲願の金メダルを獲得しました。

素晴らしく感動的なゲームでした。これまで3大会日本は4位→2位→3位。どうしてもアメリカに勝てず、今大会でもアメリカには予選、決勝トーナメントで2連敗中でした。その宿敵相手に息の詰まるような接戦を演じ、勝ち抜いて見事金メダルに輝いたのです。しかも今回がソフトボール最後のオリンピックでした。まさにラストチャンスをキッチリものにしたという訳です。

私はと言えば、どうせアメリカには勝てっこないと決めつけて、何点差で収まるのかといった感じの冷やかし半分でのテレビ観戦でしたが、エース上野投手を中心とした鬼気迫る雰囲気の中、徐々に徐々に引き込まれ、最後は本当に思わず目頭が熱くなるほどの感動を味わせてもらいました。度重なるピンチをしのぎ、少ないチャンスをものにできたのは、まさに素晴らしいチームワークとチームが醸し出す勝利への執念という「気迫」以外の何モノでもなかったように思います。

その中心にいたのがエース上野選手。昨日、午前アメリカ戦、夜オーストラリア戦に連続完投し、合計300球を超す熱投がオーストラリア戦での奇跡のサヨナラゲームを呼び込んだのでした。しかも連投で、今日もマウンドへ。聞けば試合前には連投の影響で、利き手の指のマメを潰すと言うアクシデントにも見舞われていたとか。それでも“絶対に勝つ!”という「気迫」溢れる姿勢が、より一層のチームワームを作り出したのでした。

「気迫」に力づけられたチームワークは、信じられパワーを生み出すものです。国と国との“闘い”である短期決戦の国際試合では、それがあってはじめて、不可能をも可能たらしめる力を与えてくれるものなのです。一昨年のワールド・ベースボール・クラシックでの、崖っぷちに立たされた日本チームの「気迫」が呼んだチームワークでの、韓国戦勝利を皮切りとした奇跡の逆転優勝を思わず思い出しました。あの時、チームの「気迫」の発火点となったのはイチロー選手でした。今回と同じ、中心選手の「気迫」がチームに乗り移ることで、不可能を可能に変えた瞬間だったのです。

さて、次なる焦点は野球の星野ジャパンがこのソフトボールチームに続けるかです。明日準決勝で韓国と戦い、勝てば決勝でキューバ・アメリカの勝者と決勝です。

私の見る限り、星野ジャパンは今ひとつこの「気迫」が足りないと思っています。ソフトボールチームやワールド・ベースボール・クラシック時の日本チームのような危機感がない。大一番を前にしていながら、今日の上野選手やあの時のイチロー選手にあたるような「気迫」の中心となる存在が出てこないのです。目立っているのは監督星野仙一の「気迫」ばかり。現場での監督の出過ぎた「気迫」はかえってマイナスではないでしょうか。試合をするのはあくまで選手。監督が先頭を切って「気迫」を表しすぎては、選手の影が薄くなってしまうのです。私はここを最大の問題点として見ています。

キャプテン宮本は人柄はいいものの、それ以上でもそれ以下でもない。エース、ダルビッシュは「気迫」あふれるピッチングが身上ながら、まだまだチームを引っ張っていくには若すぎます。一流選手が集まっていながら、どこか常に物足りなさを感じさせてしまう星野ジャパン。短期決戦の国際試合という特異な状況では、監督が一番“熱い”うちは、なかなか通用しないのではないかと思うのです。

やはり北京がオリンピック最後となる野球。イチロー選手がいない今回、金メダルへの執念による「気迫」の発火点となりうる新たなキーマン選手の出現はあるのか。中心選手の「気迫」発火による星野ジャパンの健闘を祈ります。

続発する故障者たちは、オリンピック商業化の被害者か

2008-08-20 | その他あれこれ
オリンピックに関するスポーツ倫理についての続編を。

先般は、野口みずき選手の「練習過多→故障→出場辞退」の話を中心に、「行き過ぎたトレーニングによる肉体破壊」とドーピングとの類似性の問題に端を発してのスポーツ倫理のあり方に関する問題提起をしました。
→http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/fffdbf170faba2979c87958adf9f1431 参照

その後も、野口選手同様に本番前の故障を圧して出場した女子マラソン土佐礼子選手が途中棄権、同じ女子マラソン世界最高タイム保持者のラドクリフも5月の左足大腿(だいたい)骨の疲労骨折の影響で失速の24位、中国の陸上110メートルハードル前大会金メダリストで国民的英雄の劉翔選手の「故障→レース直前棄権」…、「行き過ぎたトレーニング」が及ぼす肉体破壊による不本意な結果は後を絶ちません。

そもそもオリンピック精神、アマチュアリズムとは何でしょう?
「オリンピック憲章」第2条に以下のようにあります―『オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、全体としてバランスがとれるようこれを結合させることを目ざす人生哲学である。文化や教育とスポーツを一体にするオリンピズムが求めるのは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である 』

「行き過ぎたトレーニングによる肉体破壊」は果たして、「肉体と意志と知性の資質を高揚させ、全体としてバランスがとれるようこれを結合させることを目ざす人生哲学である」というオリンピック精神に則っているといえるのでしょうか。「肉体の資質」は「高揚」を超え、もはや「バランス」が崩れた状態にすらあるとは言えないでしょうか。

私は子供の頃、小学校の先生から“近代オリンピックの父”クーベルタン男爵の言葉『オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである』を教わりました。もちろんオリンピック参加選手がより上位の順位をめざしそれを勝ち得るに越したことはなく、当時本気で「参加」だけすればそれで満足という選手がいたというわけではありません。要するに男爵の言葉は、あまりに順位にとらわれて体を壊すような努力をしてまで上位を目指しても、それは意味のないことであると言っているのだと思うのです。ドーピングの禁止は、まさにそんな考え方の反映であったわけですから、“行き過ぎたトレーニング”にも同様の判断があってしかるべきなはずなのです。

前回、この“行き過ぎたトレーニング”の元凶は、84年のロス五輪以降「経済とスポーツの接近」が急激に進展したことにこそあるのではないか、と述べました。この点をもう少し詳しくお話します。

84年の“オリンピック経済開放”は、そもそもは旧共産圏(ソビエト連邦や東ドイツなど)の実質プロであるステートアマ問題に資本主義国が意見し、IOCはこれに応えるか否かの判断を迫られるました。こうした中IOCは、プロ選手を出場させる事によって得られそうな経済的な見返りの誘惑から、それまでの「アマチュア憲章」を放棄してオリンピックのオープン化を図るという“悪魔の選択”をしたのです。

この結果オリンピックに参加するスポーツ選手、特にトップレベルの選手がアマチュアであることに意味がなくなり、「強いものには経済的支援が得られより強くなれる」「強いことがオリンピックで証明されたものには、大きな経済的見返りが与えられる」という、商業社会の論理に“スポーツの祭典”は飲み込まれてしまったのです。

ゲーテの劇詩で有名な「ファウスト」をご存知でしょうか。ルネッサンス期に実在したという主人公ファウストは、悪魔に魂を売り渡す契約をして魔術を使えるようになり、放縦で享楽的な人生を送りますが、晩年その生活に疑問を抱き悪魔との契約が切れた瞬間に死するというストーリーです。84年以降のオリンピック精神は、まさにファウスト的衝動で「コマーシャリズム」という名の悪魔に魂を売り渡したのであり、そこから生まれる数々の弊害の責任はすべて“売り渡した張本人”であるIOCにあるのです。

ロス大会当時のIOC会長サマランチのもと商業主義は加速したといわれ、一時期は誘致活動にIOC委員への賄賂が提供された事なども問題になりました。こういった部分こそ現在では粛清され健全化をされている様相ではあるものの、健全なスポーツの精神が「悪魔」に侵食された状態は未だに続いていることに変わりはないのです。

「過度のトレーニングによる肉体破壊」を強いられる選手たちは、こういった問題の被害者に過ぎません。目先の問題としては、コーチの管理責任、監督の指揮責任が問われるのかもしれませんが、個別の管理責任を追及しても根本的な問題解決には至らず、4年後も8年後もまた同じ悲劇が起きるに違いありません。本当の責任の所在はどこにあるのか、北京オリンピック開催期間の今こそ世界のマスメディアは声を大にして、糾弾すべき時にきていると思うのです。

経営のトリセツ38 ~ IQとEQ

2008-08-19 | 経営
IQ(Intelligence Quotient)とは知能指数として一般的になっている用語ですが、EQという言葉をご存じでしょうか?EQ=Emotionally Intelligence Quotient、「情動指数」すなわち“心の知能指数”と呼ばれるものです。

ビジネスにおけるIQはコンセプチュアル・スキルと呼ばれるもので、戦略思考やクリティカル・シンキングなど、いわゆる「地頭力」がこの部分にあたります。一方のEQはヒューマン・スキルと呼ばれ、自己認知力・自己統制力・共感性・コミュニケーション力・柔軟性・楽観性などからなる「メンタル・マネジメント(後述のEQマネジメント)」が、これにあたるのです。

アメリカのダニエル・ゴールマンは、ビジネスで成功するための要素として、マーケティングやアカウンティング等の経営基本知識(テクニカル・スキル)を持った上で、IQとEQの両立した自己確立が必要であると説いています。そして、その上で、「社会で成功するにはIQの要素はかただか20%、残り80%はEQの要素が必要だ」とEQの重要性を主張しているのです。

その理由は簡単です。ビジネスはあらゆる場面で、人との関係なくしては成り立たないものです。これは対外的にも、内部的にもです(特にビジネススタイルが「プロダクト・アウト」から「マーケット・イン」に移行した今の時代ではなおさらです)。人には感情があるので、知識(テクニカル・スキル)やロジック(コンセプチュアル・スキル)だけでは、お互いの感情まではコントロールできないのです。それを補い、上手に相手との関係をつくり知識やロジックを受け入れてもらって、前に進めていく能力こそがEQ=「メンタル・マネジメント(ヒューマン・スキル)」(以下「EQマネジメント」)なのです。

EQが欠けている、あるいは低い人がビジネスを進めるとどうなるか。説得や指導を試みても相手は「頭では分かるけど心が納得しない」「言っていることは正しいように思うけど、なんとなく従いたくない」という結果になってしまうのです。「プロダクト・アウト」の時代や学問の世界であるなら、テクニカル・スキルである「知識」とコンセプチュアル・スキルである「ロジック」だけでもなんとかなるのかもしれません。しかし現代のビジネス社会では、両者に加えてヒューマン・スキルである「EQマネジメント」を抜きでは成功はありえない、そんな時代になっているのです。

経営者にとって、BtoBの組織の外への「EQマネジメント」も大切ですが、それ以前の問題として組織の内への「EQマネジメント」ができないことには、会社経営自体に歪みが生じ決して大きな成功は望めません。「EQマネジメント」は大きく2つに分けると、「自己マネジメント」と「対人マネジメント」になります。簡単に言えば「己を知り制御すること」と「他人を思いやりつつ自己を伝えること」、その双方が伴ってはじめて組織内での「EQマネジメント」も確立されるのです。

詳しくは、追々紹介していきますが、経営者はそのどちらが欠けても、またバランスに偏りがあってもダメなのです。そのための手助けとして、近年俄然注目されているのが「ビジネス・コーチング」です。「EQマネジメント」の重要性の高まりとともに、。「自己の確立」と「コミュニケーション能力向上」を助けるコーチングのスキルが注目をされてきたのは、至極当然の流れであるといえるでしょう。

余談ですが…
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい」。「草枕」の冒頭で、そう語って「EQマネジメント」の重要性を明治の日本で語っていた夏目漱石は、やはりただものではありません。「自己本位」と「則天去私」を根柢のテーマに据えた氏の多くの作品からは、学ぶべき「EQマネジメント」のヒントがたくさんあると付け加えておきます。

<音楽夜話>旧友再会の想い~ギルバート・オサリバン・ライブ

2008-08-17 | 洋楽
ギルバート・オサリバンのライブを、ビルボード・ライブで観てきました。

ギルバート・オサリバンと言えば、何と言っても72年の6週連続全米ナンバーワンヒット「アローン・アゲイン」が有名ですね。私は以前、と言ってももう随分前のことですが、新宿厚生年金会館でステージを見たことがあるのですが、その時の印象ではかなり単調で面白みの少ないパフォーマンスといった感じだったので、今回はあくまでお盆の暇つぶし程度に、あまり多くを期待せずに足を運びました。

ところがどっこい、結果はなかなかグー。オサリバン氏、聞けばすでに御歳62歳。近年ではメタボぶりにガッカリさせられるベテラン・アーティストが多い中、昔と変わらず長身&スリムな体型のままで、歌声も70年代のまんま。ギター、ベース、キーボード、ドラム、サックスの5人をバックに従えて、コンパクトによくまとまった歌と演奏を聞かせてくれました。このバックメンが、見た感じ皆50代以降の英国人的雰囲気を漂わせた品の良い叔父様たちでして、下手に若いミュージシャンを使わずに、気心の知れた音楽仲間とやってます的な感じがなんとも正解であったように思えました。

知らない曲もポツポツありましたが、「ナッシング・ライムド」や「クレア」、レゲエ調で聞かせた「ホワイ・オー・ホワイ」、アコギのバックでマイク片手に歌った「ハピネス」等々、70年代のヒットシングルも随所に織り交ぜながらの約70分、どこか旧友と久しぶりに再会を果たしたような、心温まるステージでした。

やはり極めつけは、アンコールでの“お待たせ”「アローン・アゲイン」と椅子に立ち上がっての熱演で、観客一体ノリノリパフォーマンスで締めた「ゲット・ダウン」の2曲。私が洋楽ファンになりはじめのかなり初期にシングル盤を買った「ゲット・ダウン」も最高でしたが、やはり生で聞く「アローン・アゲイン」はグレイト!本当に心にしみる稀代の名曲であると改めて実感した次第です。

昔は英米のライブハウスで、一流ミュージシャンを身近に体感できる話を聞いては、本当にうらやましく思ったものですが、今やそれが日本でも可能になった幸せを、しみじみ実感させてもらった“70年代旧友再会ライブ”でした。