日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

東電の破たん処理なくして被害者は救われない!

2011-09-28 | ニュース雑感
東京電力の法人、個人事業主向けの福島第一原発事故に係る「損害補償」問題に関し、すでに仮払いを行った7000の事業者に対して賠償基準が記載された説明冊子と請求書が昨日発送されたそうです。その対応について、12日から始まった個人向けの「補償」説明の際には説明書類の多さと煩雑さに大変な批判が集まったようですが、法人向けの説明書類は幾分薄くなったとは言うもののまだまだかなりのボリュームがあったようで、TVでの報道を見る限りでは事業者からも不満の声が多数聞かれているようです。

もうひとつそれ以上に重要な問題は、その中身としての「補償基準」です。例えば、被害者の皆さんが口々に不満を述べているのが、観光業等での風評被害における被害額の「20%控除」問題。20%部分は自然災害による被害であり補償の対象外との解釈を押しつけているようですが、これには全く納得性が乏しいと思われます。聞けば「阪神大震災時の基準を参考にした」とか。自分たちの都合のいい部分だけを前例利用するというまるで悪徳官僚のような対応には、一企業人として、自社の存亡を賭けて「損害補償」に対峙している被害者の皆さんの気持ちを思えば強い憤りすら覚えるのです。

その他の問題にしても、製造業では一律前年の粗利分が補填対象となるとの東電側の決めですが、これとて個別企業においては事情がさまざまに異なっているということを全く無視した内容であると思われます。例えば本年の受注が昨年よりも増えていると言った業界的トレンドや、企業努力によって収益改善が図られていたといった事情は仮に確固たるエビデンスがあろうともまったく考慮されないとのことです。企業も個人と同じ“生き物”であり、たとえ膨大な対応作業になろうとも、それぞれの事情を勘案した被害者の立場に立った個別対応が必要なのではないでしょうか。

また報道では、移転を余儀なくされた工場等が立ち入り禁止で機械の移動ができないというケースでも、新たな設備投資資金は一銭も補償対象にならないとの事実も紹介されていました。これなどまさしく、無償融資等を含めた個別対応の検討が必要な事例かと思います。いかにして、被害事業者の存続を基本に真摯な対応ができるのか、東電に今最も求められている姿勢はそこに相違ないハズなのに。

この観点で見れば、東電は最悪です。例えば書類ひとつから、あるいはその中身の言い回しひとつから、被害者の立場でつくられていないことはこれまでも多くの被害者やメディアが指摘をしているとおりであり、書類ひとつ満足に被害者の立場で作れない企業が、被害者の立場を踏まえた賠償基準などつくれるハズがないのです。残念ながら東電には、被害者視点が全く欠落しているとしか思えません。繕う余裕のない有事発生時ほど企業文化が表に出てしまうものであるとするなら、これは企業文化のなせる技以外何者でもなく、被害者はどうにもならない問題として諦めるしかないのでしょうか。それでは、被害者があまりに不幸です。

東電の破たん処理の議論は、エネルギー政策や金融問題等の観点からばかり語られることが多いのですが、こういった組織風土に起因する問題対応を見ていると、むしろ被害者救済の視点からこそ真剣に議論されるべきなのではないかと思わされます。国が責任をもって破たん処理をおこない、被害者の立場でモノが考えられる第三者機関の手に経営をゆだねることで、なによりもまず企業文化そのものを破たん処理する必要があるのではないでしょうか。政治こそが東電が立とうとしない被害者の立場に立って、東電の扱いを真剣に議論すべき時に来ていると思います。

お知らせ~当ブログの分割化について

2011-09-27 | その他あれこれ
一部の方はお気づきかもしれませんが、 今月半ばから当ブログの原稿が「200万人が読むWEB上の論壇誌~BLOGOS」さんに転送掲載されることになり、当ブログのアクセス数およびコメント件数が急増しています。転載先でも記事によっては、「BLOGOSアクセスランキング」でトップに立つなど飛躍的に多くの方々の目に触れる機会を頂戴しています。当ブログ記事が沢山の方に読まれることは書き手として大変喜ばしいことであり、ブログスタートから丸4年を迎えより一層力が入るところです。

一方でブログの公共性が高くなればなるほど管理面も充実をさせていかなくてはならないとの考えも湧き起こってまいりました。あれこれ悩んだのですが、最終的にこれを機にブログを二分割させていただくのがよかろうとの結論に至りました。

具体的には、当ブログのメインネタでもあるビジネス、ニュース、トレンド分析等は本URLに残し、音楽、昭和、競馬等々の趣味にかかわるプライベートネタを別のURLにまとめることにしました。これは本ページが今後ビジネス色が高まる傾向が強く、著作権等にも十分な配慮が必要との考えにもよるものです。当ブログ愛読者の方々にはいささか不便をおかけすることになりますが、何卒ご理解をいただければ幸いです。

新しいプライペートブログはその名も
「大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと」です。
URLは、
http://blog.goo.ne.jp/ozozoz0930

アメブロ等の軽薄路線も考えたのですが、管理方法が違うとなにかと面倒くさいので引き続きgooさんにお世話になり、ozがひとつ多いだけのまさに弟分的URLにしました。

すでにページデザインも固めてページ自体はオープンしておりますが、原稿は今週末あたりから週末を中心に掲載していく予定です。ちょうどGⅠシリーズも始まりますので。

プライベート・ジャンルの過去原稿も徐々に引っ越しが出来ればと思っています。
とりあえず分割路線でやってみて、評判が悪いようでしたらまた考えましょう。

こちらのページでも新ページ更新のお知らせは極力するようにいたしますが、よろしければ、新ページのほうもこの機会にブックマークいただければ幸いです。

引き続き当ブログおよび新ブログをご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。

「増税の枠組み」よりも「復興債の考え方」の議論を!

2011-09-25 | その他あれこれ
24日の日経新聞にも取り上げられていたので、復興債について思うことろを少し書いておきたいと思います。

首相の交代を機に、いよいよ復興財源の話が具体的に動き出した訳ですが、どうも首相の話のリードが悪いのか「復興財源=増税議論」オンリーの話に終始している嫌いがあるように思います。ここで確認しておきます。今分かっている民主党政権の復興財源に関する考え方は、
①復興債を発行する
②集めた資金で復興に着手する
③復興債償還原資づくりとして臨時増税をする
④増税により税収で復興債の償還をおこなう
という流れであると認識しています。

このような流れにありながら、なぜはじめに出口に近い「増税」の話ばかりが問題になっているのか。どうも私にはその点がしっくりこないのですが、皆さんはいかがでしょうか。上記の流れに沿って考えるなら、常識的にまず真っ先に十分な議論をしておくべき問題は入口に位置する「復興債の考え方」ではないでしょうか。なぜなら「復興債の考え方」次第で、増税の総額や臨時増税期間に関することも大きく異なって来ると思えるからです。そこで以下に、復興債に関する私見を少々述べさせてもらいます。

まず復興債の償還期間ですが、政府は原則2022年までに償還を終える実質11年でことを完結させる枠組みを検討しています。これは野田総理の「次世代に負の遺産を引き継がない」という強い要望に沿ってのことと理解していますが、この考え方は本当に正しいのでしょうか。私はかなり違和感を感じています。投資に対する負担の考え方は、世代別「受益者負担の原則」を基本に据えるべきであり(被災地にのみ負担を負わせると言う意味はありません)、被災によって失われたものの復元や救済投資に関しては現世代負担とすることでよろしいでしょうが、新たな未来を築くための基礎部分への投資については現世代だけでなく次世代にも負担をお願いしても理解は得られるのではないかと考えます。

となれば、債券は「現状に資する部分」と「未来を築く基礎づくり部分」との二種類に分け、前者は先の最大11年償還の復興債として調達し、後者は通常の建設国債と同じ60年償還の債券で調達するという考え方がふさわしいのではないかと思うのです。これだけでも臨時増税の負担はかなり軽くなると思われます。さらに前者の11年償還復興債については一部を個人国債として、これまでも何度か当ブログで提言してきた、具体的資金使途別の債券発行による無利子の“ボランティア国債”として資金を集めることはできないかと思っています。我が国の豊富な個人貯蓄をこういった時に活用しない手はないのです。

必要資金が集まらなければ、不足分を改めて有利子の復興債として発行する形になりますが、今回の震災後に見せた日本人のボランティア精神の強さを鑑みれば、かなりの金額が無利子調達できるのではないかと思います。もし「現状に資する部分」全額が無利子発行で賄えるなら、当面は「未来を築く基礎づくり部分」を除いた債券の元本償還資金をどうねん出するかに的は絞られ、政府保有資産の売却等を優先的に検討することで増税は最小限に抑えられもするのです。もちろん、最長60年償還の建設国債の償還スケジュールも場当たり主義的対応ではなく、しっかりとした国家ビジョンの下策定される財政再建策の中でしっかりと計画的償還をしていくということになるのは前提条件かと思います。

出口の見えない世界的不況と円高のダブルパンチにあえぐ現況下で、「増税ありき」の復興策として所得税、法人税の大幅な増税を決定することは、さらに景気マインドを冷え込ませ確実に日本経済をより一層暗い影を落とすことになる訳です。上記案がそのまま現実的に機能するという意味ではありません。ただ今日本のリーダーがすべきことは出口近くの「増税」の枠組みを真っ先に決めることではなく、まずどうしたら「増税」を最小限に抑えられるのか、もっと入口の「復興債の考え方」すなわち未来の日本づくりを前提とした「我が国の復興のあり方」から十分な議論をリードすべきではないかと思い、あえて稚拙な私案を申し上げたまでです。根本の議論を御留守にして、国民への早目の根回しとばかりに安易に「増税」「増税」と叫ぶのは、結局前首相同様のリーダーとしての無能ぶりを明らかにするようなものではないかと思えてなりません。

iPhone取扱GETも、auに迫る背水の状況

2011-09-22 | ビジネス
今週号の日経ビジネスで、KDDI(au)が11月発売予定のアップル社の超人気スマートフォンiPhone5の販売取扱権を獲得したと報じられ、携帯電話業界に激震が走りました。当のKDDIのはアップルからの公表前であり、あくまで「ノーコメント」を通しているようですが、報道されている関係者の話を総合するとまず間違いのない事実であるようです。表向きの影響度合いという点で言えば、これまで国内でiPhoneの販売を独占しこれに頼って携帯電話市場のシェアを伸ばし続けてきた「ソフトバンクの行く末に暗雲」といった印象が強いのですが、果たしてそうなのでしょうか。

この問題を考えるときにひとつのポイントになってくるものとして、携帯電話の周波数割り当ての問題があります。ドコモとソフトバンクが完全に第三世代向け(3G)専用の周波数を使用しているのに対して、auは現時点では第二世代向けと併用の周波数を利用しているという事情です。どういうことが起きるのかと言えば、普通に携帯電話だけを使っているときには問題にならなかったのですが、スマートフォンの登場によって送信データ容量が爆発的に増えauのスマートフォンには他の二社に比べて明らかにサービス提供上で劣後する問題が生じてしまったのです。他にも一部auのスマートフォンではキャリアメール(ezweb)の取り扱いができないという、スマホにあるべからざるこの上なく不便な状況でスタート切らざるを得なかったという事実もあります。

アンドロイド携帯におけるこの問題に関しては、今月20日にようやく対応ソフトをダウンロードする形で一応の解決を見てはいますが、11月発売のiPhoneに関して間に合う対応ができるか否かは現時点では不明です。アンドロイド版ソフトの開発に半年以上の開発期間がかかった対応ですから、難しいという見方もあってしかるべきと考えます。auの第三世代向け周波数への完全移行は来年の7月の予定ですから、使い勝手をはじめあらゆるサービス提供面において、どれだけ早くソフトバンクに対して見劣りのしないサービスメニューが提供できるか否かはかなり重要性の高い問題であると思われます。

一般的に2つの店舗が同じ商品を扱う場合、価格や付随サービスで対等なスタートラインに立って競うためには同じ品質であることが大前提となります。例えばもし仮にau版iPhoneがアンドロイド携帯の時と同じくスタート時にキャリアメールを扱えないという問題が発生するなら、その時点で大きなハンデを背負い、場合によってはソフトバンクに比べて大幅な値引き等のサービスをしなければ競争にならない状況に追い込まれるかもしれません。そうなれば、アップル社からかなりキツい販売ノルマを背負わされて販売権を獲得したであろう背景を考えれば、競争上かなりな無理を強いられるのは必至で財務面への致命傷的なダメージをも受けかねない問題にまで発展するリスクをも負っているように思えます。

それともう一点、「アンドロイドau」を標榜して来たこれまでの同社のスマホ戦略と、三顧の礼をもって獲得した「アップル=iPhone」戦略をいかにバランスさせていくのか、です。“品揃えのau”という戦略は無効であるとは思いませんが、そんな緩い考え方のどっちつかずのやり方で許されるほどアップルは甘くはないでしょうし、まずはソフトバンクとの一騎打ちが派手に展開されることは間違いのないところなのではないでしょうか。もちろん電波の安定性で劣るソフトバンクにも弱点はあるわけで、必ずしも勝負の行方が決まっているわけではありませんが、現状契約回線数ジリ貧状態が続くauにとってはまさしく“背水の陣”であることだけは間違いのないところです。iPhone5発売のこの機を逃せば常識的に次は1年先であり、ここが正念場と見てのiPhone販売権獲得交渉だったのでしょう。auにとってアップル=iPhoneが果たして“カンフル剤”となるか、はたまた“毒まんじゅう”となるのか、大いに興味をそそられる「携帯冬の陣」です。


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公務員住宅は本当に必要か?

2011-09-20 | その他あれこれ
以前拙ブログでも取り上げた「朝霞米軍基地跡公務員住宅建設」の件(「増税の前にすべきこと」http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/f4578a560445f1a1269f75b5ae468c4a)が、国会の代表質問でみんなの党渡辺代表に取り上げられ、その際の野田首相とのやりとりが週末のメディアでも紹介されていました。「一度事業仕分けで“事業凍結”とされたものが、なぜ復活したのか」との質問に、「真に必要なものであると判断した」との回答をされたようです。何を基準にそう言っているのでしょうか。私には分かりません。

前回のブログでも書きましたが、支出削減に向けては個別論で話をしても何の解決にもならないと思います。事業仕分けチームは個別論でパフォーマンスを止めて、各問題分野ごとの基本方針を議論し政府として閣議決定すべきです。例えばこの「公務員住宅の必要性」についてなら、「真に必要なケース」とはどのようなものなのかという政府としての「基準」決めをおこない、併せて仕様や賃料の「基準」をも定める必要があると思います。こういった「基準」が決まるなら、それに従って既存の公務員住宅の存廃および売却、賃料見直しを決めればいいですし、建設計画についてもこの「基準」に従ってやるかやらないかを決めればいいのです。

そもそも公務員住宅って必要なのでしょうか。有無を言わさぬ全廃が正しいとは言いません。周囲に適当な民間住宅がない施設に通勤する公務員向けの住宅等は、確かにその必要はあるでしょう。しかしながら、今回の朝霞をはじめとして民間住宅がいくらでもあるような地域に、多額の国家予算を投じた公務員住宅が本当に必要なのでしょうか。この点を国家公務員に尋ねると「我々は民間よりも給与が安い。福利厚生としてそのぐらいの手当があってもいい」という話が、判を押したように聞こえてくるのですが、本当にそうなんでしょうか。彼らが比較をしている「民間」とは、大抵の場合大手企業でありますが、日本の就業人口のほとんどを占めているのは中小企業です。中小企業を基準に考えるなら、公務員給与は決して低くありません。しかも以前ならともかく、現在大半の中小企業に社宅など存在せず、長期景気低迷と終身雇用が常識の時代が終わった今では借り上げ方式を含めた社宅制度廃止は世間一般大きな流れでもあるのです。

何より国家公務員の皆さんが、大企業を比較基準としてご自身の処遇を考える事自体が間違っています。これはおそらく「国家公務員になっていなかったら、私は確実に大企業に入っていた」という偏差値教育の弊害ではないかと私は思います。国家公務員と言う職業を選んだ段階で、その職業選択は国民の生活を守りその水準を高めることを志したものであるはずです。すなわち、国民の平均的な生活環境を実感しつついかにそれをいいものに高めていくのか、それこそが彼ら国家公務員の使命であるはずなのです。彼らが一部の大企業と同様の処遇の下(あるいは今の公務員住宅は、立地・家賃から考えれば大企業以上?)に国民生活を見渡したところで、本当に平均的な国民生活の実感した上での使命遂行などできないのではないでしょうか。この点が理解できないのなら、初めから国家公務員など志すべきではないのです。

公務員住宅の問題ひとつを取り上げても、このように問題は意識改革をも含めた日本の国家公務員制度の根深い部分に入っていかざるを得ないのです。これを各論レベルの議論で済ませていたのでは、本当の公務員改革も復興に向けた財政問題の議論も正しい結論を導くことは到底できないのでないかと思います。「公務員住宅問題」は、誰にでも分かりやすく公務員改革や財政問題への理解や関心をもってもらえる格好の題材であります。「朝霞」の一件を機として、個別議論に終始しない根本的な問題を議論する風潮づくりにメディアも動いて欲しいと思います。根本議論のない増税と言う“モグラ叩き”では、真の復興に基づく明日の日本は見えてこないのです。

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カップヌードルが教える、昭和日本の「夢」と「未来」

2011-09-19 | ビジネス
横浜みなとみらい地区に「カップヌードル・ミュージアム」なる施設がオープンしたそうです。日清食品がカップヌードルを発売したのが1971年。昭和46年のことでした。ちょうど今年で40年を迎える、その記念も兼ねているようです。

46年と言えば、前年45年が大阪万博の年。同じ46年にはマクドナルドが銀座三越1階に日本1号店をオープンさせています。さらに言えば、吉野家が牛丼のフランチャイズ店舗をスタートさせたのが48年、セブンイレブンが1号店をオープンさせたのが49年です。昭和40年代のこのあたりの動きは、まるでおもちゃ箱の中で暮らしているようで本当に楽しかった。消費経済に「夢」のある時代であったと今も懐かしく思い出されます。

中でもこのカップヌードルの登場は画期的でした。鍋を使わずにインスタント・ラーメンが食べられる。しかも具まで入って待ち時間はたったの3分。「カップでラーメンを食べる」と言う発想や「お湯を注いで3分」という現実は、ある種“夢のような”驚きの出来事だったのです。3分と言えば、相前後して登場した“3分間待つのだぞ”のレトルトカレー(大塚のボンカレーが44年全国発売、ハウスのククレカレーがやはり46年の登場)も画期的でした。親の世話にならなければ家で食べることが出来なかったカレーライスが、お湯で温めるだけで食べられる、感動的でした。カップヌードルやレトルトカレーの登場は、日本人の食文化に「夢」のある変化を巻き起こしたと言って良いと思います。

大阪万博前後の発明品が今の日本の生活の基本形を作ったとは、よく言われていることであります。携帯電話も電気自動車も45年の万博で初お目見えした当時の「夢」であり「未来」でありました。今思えば、あの時代の政治、経済、産業…あらゆる部分で日本を動かす人たちには、「夢」や「未来」に対する展望がしっかりとあったように思えます。どんな「夢」を実現させたいのか、どんな「未来」をつくりたいのか、明確なイメージがあったからこそ、私たちの生活を豊かにしていく新しいモノが次々と生み出され、今の恵まれた生活に至っているのではないでしょうか。

日本はいつから「夢」や「未来」を描きにくくなってしまったのでしょう。ここに至った根本原因は政治かはたまた経済か、一言では言えない複雑さもはらんではいます。ただハッキリ言えることは、進歩が「価格改善」に収れんされてしまう今の時代のモノづくり流れの中からは、「夢」のある新商品、新サービスは生まれてこないということ。今の時代の“正義”である「良いモノを安く」は確かに消費者にとってありがたいことではありますが、半面「質を落とさず価格を下げること」も「質を上げて価格を据え置くこと」も同じ価格競争以外の何物でもありません。これは新商品、新サービスでしのぎを削る「夢」や「未来」に向かう競争ではなく、互いを疲弊させるだけの空虚な競争のスパイラルに陥っているだけなのかもしれないのです。

カップヌードルを開発した日清食品の創業者安藤百福氏。当時一袋20~30円だったインスタント・ラーメンの時代に、カップ麺の価格を1個100円でスタートさせることへの周囲の猛反対に対して、こう言い放ったといいます。
「価格は関係ない。衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ。その商品には消費者が支払った対価以上の価値があるか。売れるかどうかはそこで決まる」。「独創性のない商品は競争に巻き込まれ、労多くして益は少ない」とも。まさしく、新商品、新サービスでしのぎを削る競争を肯定し、企業を疲弊させるだけの価格競争を否定した言葉とも受け取れます。

「カップヌードル・ミュージアム」のオープンに際して、失われた日本人の「夢」や「未来」をもう一度思い出せと、我々消費経済の一端を担うビジネスパーソンに、安藤百福氏は大先輩として語りかけているように思えます。一人ひとりのビジネスパーソンが「夢」や「未来」を意識して自己のビジネスに立ち向かう時、この国の震災からの真の復興にも資することができるのかもしれません。

渋谷センター街の新ネーミング「バスケ通り」に、第二の「E電」の懸念?

2011-09-17 | ビジネス
渋谷のセンター街のメインストリート(駅前交差点から150メートルの範囲)が、「バスケットボール・ストリート(バスケ通り)」と名付けられることになるとの記事を目にしました。チーマー発祥の地として、不良の巣窟として、オヤジ狩りの名所として…、いずれからもイメージされる「悪い」「怖い」というマイナスイメージを払拭しようと、渋谷センター商店街振興組合が決定したとのこと。でもなぜバスケなのでしょう?サッカー・ストリートでも、ベースボール・ストリートでも良さそうなものですし、むしろそちらの方がよりポピュラーな分だけ「悪い」「怖い」の払拭になるような気もしますが…。

一見単純に思えるネーミングでのイメージ転換も実は深くて難しい。イメージ戦略、ブランド戦略等ではかなり重要な位置づけを占めるネーミング。企業のCI(コーポレート・アイデンティティ)戦略においても、シンボルマークとともに社名の変更などは大きな役割を果たす部分でもあるのです。しなしながらその失敗例も実に多い。ネーミングや社名を変えてはみたものの、浸透しない、イメージが伝わらないという例は、随分とあるものです。その失敗のほとんどは、初めに“ネーミング変更ありき”であったり“マーク変更ありき”であったりする場合です。一言で言うなら“魂のないCI戦略”であるのです。

「魂」とは何か?これぞまさに「アイデンティティ」です。例えばネーミングでイメージを変えたいのであるなら、なぜそのネーミングなのか、ネーミングの目的は何なのか、がネーミングを見ただけ聞いただけでおぼろにでも浮かんでくる、そう言ったネーミングに直結する「魂」の仕掛けが必要なのです。要するにネーミングと同時に、サービスの内容が変わったとか、接客の対応が改善したとか、立体的な形でそのネーミング変更の「魂」がイメージできるような変化が実感できる、すなわち「魂」の入った改革であるということが成功するネーミングであり、成功するCIであるのです。まずは「魂」を明確にして、内部から浸透・徹底をはかる。その上でネーミングを一気に変更する。これが成功するCIの条件でもあります。

ネーミングの代表的失敗例をひとつ上げておくなら、昭和62年、国鉄が民営化した際に山手線をはじめとする従来「国電」と呼ばれていた近距離電車を名付けた「E電」があります(ご記憶でしょうか?)。スタート当時「EにはEast、Electric、Enjoy、Energyなどの意味が込められている」と説明されていました。当時はどこの駅にも「E電」の表示がされ、「E電」のヘッドマークを付けた電車も各路線で走っていたのです。しかし「E電」は全く浸透しませんでした。旧「国電」は誰からも「E電」とは呼ばれず、結局そのまま何の変哲もない「JR線」と呼ばれたまま今に至っています。その最大の原因は、国鉄は民営化後も「国営時代と何ら変わらないサービス姿勢と顧客対応」であると利用者に感じられてしまったことにあると言われています。まさしく「魂」のないネーミング変更だったのです。

さて渋谷センター街のネーミング変更、大丈夫でしょうか?サッカーでなく野球でもなく、なぜ「バスケット」なのか。その根底にある「考え方=魂」をいかにして、目に見える形でその通りを訪れる人たちに伝えていくのかが、このネーミングの成功に向けてネーミングそのものの決定以上に重要なポイントになっていくのです。現段階での情報を聞く限りでは、「バスケットボール・ストリート」を支える「魂」部分が見えにくいだけに、ネーミングの実行に向けて「E電」の二の舞にならないよう十分ご注意いただきたい、とだけ老婆心ながら申し上げさせてただきます。日本を代表する東京の有名商店街ですから、ぜひとも全国の衰退に苦しむ商店街のヒントとなるような「魂」のこもった改革を期待します。

国会の「ヤジ」、会見の「罵声」は“恥”を知れ!

2011-09-15 | その他あれこれ
会期4日の国会は昨日衆院の代表質問に移りました。毎度のことではあるものの、気になったのは汚い「ヤジ」の多さ。いつもこととは言いながら、「国を運営する選ばし者」のするべき行為であるのかいささか違和感を覚えるシーンである訳です。

似たような類の“事件が”、鉢呂前経済産業大臣の辞任会見でありました。辞任を表明する大臣に、「何が原因で不信の念を抱かせたのか、言ってみって言ってんだよ!」という罵声が浴びせられたという件。もちろん声の主は新聞記者です。社名、名前も名乗らず、とのことでですから、これも「ヤジ」の部類です。挙句には首からかけた身分証まで隠したと。社会正義の追及を旨とする報道の人間としてあるまじき行為であります。一体この国の報道モラルってものはどうなってしまっているのでしょう。驚きを通り越して呆れるしかない状況であるとしか言いようがありません。

場面とその声の主によっては「ヤジ」という行為そのものを否定するつもりはありませんが、国会の代表質問における議員、記者会見における記者の立場として「ヤジ」はいかがなものなのでしょう。「ヤジ」は匿名の無責任発言であり、個々には力を持たない小市民が口々に「ヤジ」を飛ばすとこで権力に対して世論を知らしめる手段などとしては有効かつ正当な「ヤジ」であろうとは思いますが、立場あるモノが公式の場で自ら行うのはある種の「コミュニケーション放棄」であり、私は恥ずべき行為であると考えます。

形を変えた「ヤジ」としては、ネット上の2ちゃんねるやツイッターなどでの匿名発言もその類であり、先の「世論を知らしめるケース」ではありませんが、いい方向に作用することもあるものの、匿名故の無責任発言があらぬ“炎上”を生みだしたり、いろいろな問題を引き起こしてもいます。ネット・コミュニケーションの広がりによって、「ヤジ」の功罪はこれまで以上に明確になった感があるようにも思えます。

私が先の国会における「ヤジ」や記者会見における「罵声」を不快に感じるのは、ネット上の暴力的匿名無責任発言と同じ“卑怯な弱虫”の匂いを感じるからに他なりません。「どうせ面と向かっては言えないんだろ」「相手が強面なら言わないんだろ」と思える点も、「どうせネット上の匿名でなければ言えないくせに」と思わされる行為と全く同様です。このような観点で考えれば、賢い政治家や記者なら自分がしている「ヤジ」行為がネット上の暴力的匿名無責任発言と同じであるという愚かさに気がつくはずではないのでしょうか。日本の政治家やメディアの質の低下には目を覆いたくなるばかりです。

国会議員や新聞記者というとるべき行為のある立場の人間のあるまじき行動を監視できるのは、唯一メディアでしかないと思います。国会中継やそれを報じるテレビ・ニュースでも、「ヤジ」をテロップで流すなどというくだらないことをするのではなく、誰の発した「ヤジ」なのか明確に報道しあるいは発した者の顔を大写しにするなどして選んだ国民の前に晒し、「恥」を「恥」としてしっかり自覚させる必要があるのです。新聞記者も同様です。不要な「罵声」を浴びせた記者に対しては、幹事社の責任において「社名、氏名」を正し悪質なモノは退場を命じる等の対応も必要でしょう。記者クラブが“情報談合団体”で終わらないためにも必要な行為であると思います。

立場ある人間の「ヤジ」や「罵声」は、コミュニケーションの破壊行為に他なりません。コミュニケーションの悪さがあらゆる物事を停滞させ、また誤った方向にすすませることにもなるのです。メディアはそのような観点からも立場ある人間の無責任発言を監視し、自覚を促して欲しいと思います。

判然としない、大臣を辞任に追い込んだ報道の是非

2011-09-13 | その他あれこれ
鉢呂経済産業大臣が、「死の街」発言で引責辞任した件ではどうもスッキリない部分が沢山あります。

その1
そもそもは大臣が福島県を視察して強制退去地域を訪問し、人っ子一人いない状況を指して「まさしく死の街でした」と言ったことが問題視され報道されます。それを受けて、前日の記者との“囲み”で「放射能がつくぞ」と自身の服を記者にこすりつけたことが後追いで報じられ辞任に追い込まれました。分からないのは後者の“囲み”取材の一件。もちろん大臣の言動としていかがなものかという内容ではありますが、なぜこの報道が後追いでほじくり返されたのか。“囲み”の懇親コミュニケーションのひとつとして、その場はやり過ごされたハズのモノがです。スッキリしません。“死の街発言”批判を正当化するためのメディアの恣意的誘導?ある意味ネット上で炎上騒ぎを起こす輩となんら変わらない体質を感じたりもして、大臣発言の善し悪しとは別にメディアの報道の在り方としてどうなのか疑問です。

その2
そもそものきっかけ発言である「死の街」ですが、大臣の肩を持つもりはありませんが、いわゆる英語で言うところの「ゴースト・タウン」を日本語的に言おうと思って誤訳したのではないかとも思えています。もちろん、被災者の皆さんの立場を考えれば例え英語の訳一つにおいても細やかな神経を使わなくてはいけないのが当然ではありますし、大臣と言う立場であるならなおさらのことです。ただ「ゴースト・タウン」と言われ「“幽霊の街”?けしからん!」と思う人はいないでしょうし、大臣発言の「死の街」にしても文脈から考えれば「街としての機能が停止した街」という意味に十分受け取れるのではないかと、個人的には思えます。報道の怖さというのは「単語」のみを取り出された時、発言意図とは全く違う意味合いに受け取られかねないという点にあります。その「単語」を耳にした人たちの拒絶反応が大きく取り上げられれば、世論をも動かしうると言う恣意的な誘導リスクも感じさせられ、なんともスッキリしないのです。

その3
さらにもう1点。メディアが今の情勢の中で、あえてこのようなある意味恣意的とも受け取られかねない報道をおこなうことが、結果「政局」をつくるようなことになるという流れをメディア自身分かった上での行動であったのか、という部分です。前政権のリーダーシップ欠如による復興策の遅れは国民的損失を招いているわけであり、その点を社会の公器たるメディアの立場で考えれば、誰が見ても今の時点ではできれば「政局」は避けるべきです。従い、上記のような受け取り方ひとつで評価が変わるようなあいまいな状況を敢えて率先して「政局」を作り出すような報道に至らしめたやり方には、どうも首をかしげたくなる気分であります。この点もまた実にスッキリしないのです。

この問題に関しては、大臣の発言の善し悪しとは別の問題として、上記のような観点に立って果たして細心の注意をもって報道がなされていたのか、メディア自身が自己の対応をしっかりと検証する必要があるのではないかと思っています。何のための報道であるのか、何が本当の報道正義であるのか、メディアがこの点で自問自答を忘れた時、社会の公器はネットの炎上騒ぎをおこす輩と何ら変わらず社会破壊に加担することになりかねないということを心して報道に臨んで欲しい、切にそう思わせられた一件でありました。


★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」またまた更新しました。
◆自社が思う「強み」 本当は「弱み」かもしれない◆
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/09/12106871.html
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