日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「51」の縁(えにし)

2010-09-30 | その他あれこれ
私事ですが、今日9月30日は誕生日でした。なんと51回目。もういい加減めでたい歳でもないのですが、「51」という数字はやけに気になるのです。その理由は70年代回顧ネタでもあるのですが、よろしかったら少々お付き合いください。

私の少年時代、サッカーはまだまだマイナースポーツであり当時の小学生はほとんどが野球ファンでした。皆大抵は巨人ファンだったり、阪神ファンだったり。今と違ってパリーグはテレビ中継もほとんどなく全く人気がなかったので、パリーグに詳しい小学生はほとんどいませんでした。そんな中、私が応援していたのはパリーグの東映フライヤーズ。その点では変わった子供でした。東映は今の日本ハムファイターズです。今でこそ、本拠地の札幌移転とダルビッシュ人気もあって結構な人気チームになっていますが、当時は後楽園球場を本拠地にしながら、毎試合ガラガラの閑古鳥。同じ後楽園球場を本拠地にする巨人が毎試合ほとんど満員の40,000人を動員していたのに対して、東映はせいぜい2,000~3,000人。私なんぞは、いただきものの内野ボックスシート・エリアを走り回って野球観戦ができると喜んでいたものです(その当時、ちょっとした企業はたいていボックス席を持っていて接待や福利厚生に使っていたのですが、巨人戦と東映戦はセット販売だったので、不人気の東映戦は頼めば比較的簡単にもらえたのです)。

さあここからが本題。そんな当時の東映に、小学生の私が野球選手として初めて本当にファンになって応援した選手がいました。大杉勝男選手。初めて見た時は5番を打っていました。当時は期待の若手スラッガーでしたが、とにかく豪快なスイングから叩きだされるホームランが彼の一番の魅力でした。なぜ彼のファンになったのかと言えば、私が後楽園の東映戦に足を運び始めた最初のシーズン、確か5試合を見に行ってそのすべての試合で彼はホームランを打ってくれました。かっこよかったです。テレビとは違うカクテル光線に照らされたナイトゲームを生で見ているその前で、豪華な一発を毎回見せてくれるのですから、ファンになって当然です。当時の彼の背番号が「51」でした。「51」はかなり重たい背番号です。今でこそ、松井選手のような大物でも50番台の背番号を好んで付ける時代になりましたが、あの頃の一流選手は野手はひとケタ、投手は10番台、20番台が一般的でした。

プロ入り前の彼は全く無名で、所属の社会人野球チームが解散の憂き目に会うも、野球で生きていく道を捨てきれずにプロテストを受け苦労の末入団。ですから彼に与えられた重たい「51」という背番号は当然のものなのでした。恩師である飯島コーチから「月に向かって打て」と指導され、その教えを守り努力に努力を重ねてレギュラーの座を射止め、クリーンアップを任され、遂にはホームラン王のタイトルまで獲得したのでした。強打、そして前向きな努力姿勢とともに私を引きつけた彼の魅力はその人柄にもありました。常に明るくチームのムードメーカーであるとともに、監督の抗議中にファンサービス・パフォーマンスをするといった本当にファンを大切にするプロとしての姿勢も素晴らしかったのです。しかしながら、引退後癌に冒され92年に47歳の若さで突然この世を去ってしまいました。この日以降彼は私の中でまさしく「伝説の野球選手」となり、「51」は決して忘れることのない数字として私の密かなラッキーナンバーとなったのです。

「51」という数字に特別な思い入れがある人はそういないかもしれませんが(ちなみにイチロー選手は同じ「51」です)、私にとっては少年時代を勇気づけてくれたとても大切な数字なのです。そしてまた大杉選手とは不思議な縁(えにし)を感じてもいるのです。私の身の回りでは、不思議なことに大きな出来事はたいてい5日か30日に起きています。一例をあげれば、店舗1号店の開店日、義母の命日、挙式日は5日、私の誕生日、会社の設立日、父の命日は30日…。まだまだこれは一例ですが、ひとつも意識してその日を選んだものはありません。そして大杉選手の誕生日は3月5日、命日は4月30日でした。なにか、大杉選手の忘れじのナンバー「51」を大切にしろと言われているサインであるかのように思えてならないのです。そんなこともあって、本日51歳を迎えとても重要な1年のスタートに立ったように感じました。例年にはないことです。人生における縁(えにし)というものは、必ず存在するものです。私は「51」の縁(えにし)を大切に、この1年一層前向きにがんばってみようと思います。

経営のトリセツ93 ~ 「戦略オプション」検討による危機管理とは

2010-09-29 | 経営
依然として解決策を見だせぬ尖閣諸島問題ですが、これまでの経緯を見るに日本政府は明らかな選択ミスを犯しているとマスコミおよび世論は大騒ぎをしています。確かにそうなのでしょうがそれは結果論でもあり、この泥沼に至った最大の原因は、選択の誤り以前の問題としての後先を考えぬ選択行動、すなわち一般論で言うところの選択段階で検討すべき「戦略オプション」が欠如していたことにあると思っています。

日本政府にとって、今回の一件に関してキーとなる選択ポイントは3回あったと思います。1回目は事件発生時の中国漁船船長の拘束時点。この時に日本政府の選択余地は、①「船長を拘束し日本の法の下に起訴に追い込む」②「国内法での処罰を問わず、本国へ強制送還する」の2つがあり、日本政府は①を選択しました。2回目は、船長が起訴事実を認めず拘留期間の延長を決めた時点。この時点での日本政府の選択余地は、①「あくまで日本の法の下での処罰を前提に、拘留期間を延長し起訴をめざす」②「領海の特性を鑑みて、拘留期間の延長をせずに本国へ強制送還する」の2つの中からやはり①を選択しました。そして3回目は、中国の報復措置がエスカレートし大騒ぎになった時点。この時点での日本政府の選択余地は、①「中国の態度には耳を貸さず、あくまで船長の起訴をめざす」②「中国の強硬な姿勢に鑑みて、要求通り船長を釈放する」の2つの中から、②を選択したのでした。

結果はマスメディアの報道にあるとおり、上記のどの3時点においても行動選択の後の中国の態度を想定した対応策が練られておらず、都度選択した行動に対する想定外の中国側のアクションを受け惑いや焦りを感じつつ途方に暮れているといった寂しい結果になっているように思えるのです。言い換えるなら、今回の件での日本政府の無策ぶりを見るにつけ、ポイントとなる重要な各時点において日本政府の選択に対する相手方の想定アクションは完全な決め打ちであり、想定通りにならなかった場合の対応策は全くねられていなかったのです。一番目の時点では「外交問題には発展しない」→「起訴に向けて突き進む」としか想定していなかった、2番目の段階でも同様に「中国は特に何も言わない」→「起訴に向けて突き進む」という想定のみ、3番目に置いても「中国は即座に態度を軟化」→「何事もなかった化の如く事は終息する」という想定のみしか存在しなかった訳です。これでは、現時点で未だに何の終息の手がかりもつかめないのは当たり前と言わざるを得ないでしょう。

ここで重要なことは、戦争においても企業活動においても、“必勝”に向けた戦略構築のセオリーとして「戦略オプション」検討という考え方が存在するということなのです(「戦略」は元々軍事用語なので、あえて「戦争においても…」と書きましたが、この表現が戦争そのものを肯定するものではありません)。すなわち、重要局面において戦略的選択を迫られる場合、相手方の出方や市場の動向を完璧には読み切れない訳ですから、相手や市場の動きが想定通りにいかなかった場合の戦略的腹案、すなわち「戦略オプション」を用意して前に進む必要があるのです。ところが今回の場合、日本政府は独断的判断の下に「戦略オプション」の検討すらせずに前に進み、ことごとくその予想に反する相手方の出方に直面して、最終的に現在途方に暮れているという状況なのです。企業で言えば、重要戦略の実行でライバルや市場が想定外の動きをし失敗に傾いた際、その方向修正としての「戦略オプション」の事前検討がないがために、あわてて対処療法的戦術で立て直しをはかっていると言う状況であり、普通そうなれば経営的には大ダメージを受け最悪倒産にも追い込まれかねない流れに陥ると言っていいと思います。

“決め打ち”で戦略を打つことはある意味ギャンブルであり、その戦略が重要なものであればある程ギャンブルは絶対に避けなくてはいけないのです。「戦略オプション」は戦略検討時の想定により選択された主戦略からは漏れたサブ戦略ではあるのですが、そのサブ戦略を事前に検討しておくことで、想定と著しく異なった場合の危機管理策として機能させることが出来るのです。今回の日本政府のたび重なる“戦略的無策”ぶりを見るに、文化や思想の異なる諸外国を相手にするという意味では最も慎重に対処すべき外交において、危機管理能力が著しく劣っていると言わざるを得ないと思います。日本政府首脳は、外部コンサルティングの力を借りてでも、早急に基本的な戦略構築の考え方を身につけるべきでしょう。初歩的な戦略ミスでこの国を滅ぼすことのないよう、今はただ祈るばかりです。

「B級グルメ」で町おこし~うちもひと肌脱ぎますか!

2010-09-27 | ビジネス
今や全国で大流行りのB級グルメ。先日厚木市で行われた全国B級グルメ選手権は大変な盛況だったそうで、今年優勝した山梨の「鳥モツ煮」はその後連日他県からのグルメ客で大変なにぎわいだそうです。今や、B級グルメは最強の「町おこし」ツールになった感すらあります。

そしてそしていよいよ11月には我が熊谷市でもB級グルメ選手権が開催されます。お隣の行田市では、どちらも超B級の食べ物「フライ(お好み焼きの薄いようなヤツ)」や「ゼリーフライ(おから揚げみたいなヤツ)」が有名ですが、私が思うに言ってみればBというよりはC級で、別にまずくはないですが誰もが「うまい!」と口を揃えるようなものでもない訳です。全国的にこれで知名度を上げるにはちょっと無理があるかなという感じはします。でも地元を代表する食べ物があるだけましでして、熊谷なんぞは地元のB級グルメと言われても何も思いあたらないのが現状なのです。

となれば、無理にでも“名物”を作って「町おこし」にしてしまうのが今時の常套手段な訳で、例えば宇都宮の餃子なんて元々は縁もゆかりもなかったのが、聞くところによれば「横浜がシューマイだから、ウチは一丁餃子でいってみるか」のノリではじめて、今やその知名度は堂々の全国区です。宇都宮に遅ればせながら、近年焼きそばで多少有名になったお隣の群馬県太田市にしても、別に焼きそばに地元特産物が入っている訳でもないし、焼きそばにまつわる有名なエピソードがあるなんて話は別段聞いたことがありません。なんとなく、イメージがその街っぽく感じられるB級なら何でもアリなのが、“B級「町おこし」”なようです。

そんな中開催される熊谷のB級グルメ選手権は今年が初開催で、かつ“熊谷らしいB級モノ大募集”ということのようでして、まさに「暑い」で一躍有名になった熊谷を、この勢いが失せないうちになにか特徴的な食べ物で有名にしちまおうという趣向のようであります。となれば、我が株式会社スタジオ02が最も得意とする“こじつけ”「町おこし」歓迎の匂いがプンプン漂っておりまして、こりゃ出番だなと感じている次第なのです。出し物は何かって?今の段階ではちょっとまだ内緒なのですが、最高気温40.9度の記録を持つ熊谷っぽいB級品を現在仕込中です。当社をよく知る勘の良い皆さまは、「ああ、もしかしてアレか」と思い付かれるフシもあろうかと思いますが、おそらくそれ“当たり”です。エントリーを終えましたら堂々この場をお借りして公表させていただきます。

この品で「町おこし」って、全国眺めてみてもまず聞きませんが、けっこう熊谷にあっているモノだと思いますよ。しかも、何と言っても「うまい!」。これは太鼓判。これ、好きな人けっこう沢山いますしね。フライより絶対いけると思うのですが・・・。「優勝→熊谷新町おこしに一役」をめざしてがんばりま~す。詳細はまたあらためて。ぜひお楽しみに。

経営のトリセツ92 ~ 尖閣諸島沖事件で問われる“民主国家”日本の「対話能力」

2010-09-25 | 経営
尖閣諸島沖で起きた中国船と海上保安庁巡視艇との衝突事件での日中の緊張関係は、両国“空中舌戦”の結果、船長の処分保留での解放・引き渡しと言う不透明な結末となりました。この一件で私の職業なりに問題点を指摘するなら、日中どちらの立場の良い悪いではなく、直接コミュニケーションの不足がすべて悪い方向に出た典型例であると思います。中国は社会主義国であるという大前提に立つなら、先方から我々が期待するようなコミュニケーションが得られるはずもなく、ここは日本政府が相手の主義主張がどうであってまず「対話」をもって近くに歩み出る姿勢が必要があったと思うのです(日本が下手に出るべきとか、折れるべきと言ったことを申しあげている訳ではありません)。

企業でもよくある悪いコミュニケーション例として、社長が自身の考えを直接伝えるべき部下に伝えずに誰かに伝言として託してしまうケース。マイナス情報であればある程、伝えられる立場の者との考え方に食い違いがあればある程、「間接対話」では事は一層こじれてしまい、相手を納得させ組織運営をしていくことは困難です。相手の感情はより悪化することはあっても改善することはあり得えず、伝えた人間までもが悪者になって組織内の決定的な亀裂への発展さえありうるのです。直接コミュニケーションの大切さは、組織でも国際問題でも同様であると思います。今回のケースでの最悪の間接コミュニケーションは、双方の主張が常にマスコミを通じたモノ言いになってしまったことです。

先ほども申しあげたように、中国がこの手をつかうのは社会主義国家のやり方なのです(北朝鮮を見ればよくお分かりと思います)。それに対して、日本が同じ事で返していたのでは、社会主義国並みのコミュニケーション技量しか持ち合わせていないと言っているようなものであり、こういう場面こそ相手が表向き接触を拒もうとしていても民主主義の「対話」の精神を前面に出して語りかけていくべきだったと思うのです。マスコミを通じて「法に照らした対処だ」「領海内でぶつかってきたから拘束した」などと主張しても、それは相手を刺激する以外の何物でもなく、社会主義的やり方にまんまと乗せられているだけなのです(さらに最悪だったのは、石原都知事のような“極右”のアホ政治家による過激発言のマスコミへのまき散らしです。こういう政治家が過去に日本を戦争に導いてきたのです)。

そして、間接コミュニケーションの上塗りとなったのが、国連総会での日米首脳会談後のオバマ米大統領による中国へのけん制発言でした。これは誰が見ても、姿勢を軟化させない中国に対して手を焼いた管首相がオバマ大統領に、日米同盟に基づいた支援をお願いした結果であると思える訳です。こんな間接コミュニケーションを繰り出されては、うまくいく国際関係も全て台無しになってしまうと思います。管首相は小沢氏の問題でもマスコミ経由の間接コミュニケーションで「おとなしくしているべき」と発言し、「関係悪化→党内分裂」を招いているのに、まったく学習効果なく今度は同じことを国際舞台でやらかしました。外にも内にも肝心なことを直接伝えられないダメな社長と一緒です。

中国政府はこの間接コミュニケーションになかりカチンときたのでしょう。船長の釈放後も、執拗に謝罪・賠償と中国側の主張を認めるよう求める声明を出しています。私は今こそ日本政府は直接コミュニケーションをとる最後のチャンスであると思います。結果はどうあれ「対話」を重視する外交姿勢を貫ぬくことで、少なくとも日本の姿勢に国際世論の支持は得られるはずだからです。組織の話に戻るなら、社長が直接部下を諭してなお修復がきかない場合も社内は社長の「対話姿勢」を評価し、求心力が失われることはないはずです。今回の尖閣諸島沖事件をこのまま日中間の政治的“シコリ”として残してしまうか否か、民主国家日本のコミュニケーション能力が今問われていると思います。

音楽夜話~「レディース・アンド・ジェントルマン」In武道館

2010-09-23 | 洋楽
本日は久々に完全休養日を決め込んで、日本武道館での1日限りの映画上映会「レディース・アンド・ジェントルマン」を見に行って参りました。

「レディース・アンド・ジェントルマン」はご存じローリング・ストーンズの72年のツアー映像を映画化したもので、当時完成し試写会まで行われていながら(東京ではヤマハホールで行われた記録があるそうです)なぜか今までおクラ入りしていたという作品です。72年のツアーと言えば、あの名作「メインストリートのならず者」を新作にひっさげて精力的なツアーを行っていた時期で、このツアーは何と言っても明けて73年には日本中の音楽ファンが待ちに待ったストーンズ初来日公演が武道館で予定されたという“いわく付き”のものでもあるのです。しかしながら、ご存じのようにその日本公演はリーダー、ミック・ジャガーの麻薬不法所持前科に対する日本政府の入国ビザ不許可という措置によりあえなく中止となり、その後日本の音楽ファンは“生”ストーンズのライブ体験を90年まで延々待たされることになるのです。

で、今回のその“怨念ツアー”の映像を映画化した作品上映会は、件の(九段の?)日本武道館で行われるという念の入れようでして、これはもう「あの時の恨みを今こそ晴らそう!」と言わんばかりの企画であり、私なんぞは土砂降りの祝日を何の迷いもなく吸い寄せられるように武道館へと向かった訳です。10月にはDVDリリースがされるという作品でかつ2500円という映画にしてはちと高めの値段設定ではありましたが(一応ポスター付)、そこはストーンズの底力とでも言うのでしょうか、武道館満杯とまではいかないもののまずまずの客の入り。さすがに本物のライブではないだけに、開演前の会場内の緊張感はほとんどゼロでしたが、それでも客電が落ちると歓声と拍手が。

この武道館上映会の最大のウリは、600インチの大スクリーンと生のライブ並みの音響を体感できると言う「フライング・システム」の使用で、とにかく音は確かに大迫力でした(振動がすごくて、体のあちこちがかゆくなりました)。ただ当時の録音技術というよりPA技術では仕方ないのでしょうが、楽器の分離が悪くて音ははかなり“団子状態”。まぁあの頃の武道館はこんな感じだったかなと、逆にこれがやけにリアルだったりもしたのでした。それよりなにより72年のストーンズは確かにカッコいい。若いミックの動きは軽やかだし、キースも風貌は全く別人ですから。それと当時のもう一人のギタリスト、ミック・テイラーってなかなかの渋ウマ。これがまた今のキースとロニーの“ヘタウマ”コンビとは全然違った味わいがある訳です(彼単独で昨年ビルボード・ライブに来ていました)。

曲目はアルバム「ベガーズ・バンケット」「レット・イット・ブリード」「スティッキー・フィンガーズ」そして「メインストリートのならず者」までの、スワンプ4部作からが中心で個人的にはベスト。「ブラウン・シュガー」に始まって「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ストリート・ファイティング・マン」で終わるセットリストは、確実に今のツアー・セットの原型であり、60年代と別れを告げ脈々と今に連なるストーンズのライブスタイルの基本はこの時期に作られたとも言えるのです。同じメンバーでのライブ映像に69年のミック・テイラー加入直後の「ハイドパーク・コンサート」や、その4カ月後のあの“オルタモントの悲劇”を映した「ギミー・シェルター」がありますが、今回のはそれらとは明らかに違う印象で、確実に“70年代型ストーンズ”に変貌を遂げつつも75年のロン・ウッド加入後の現在につながるビジネスライクな洗練さはまだ身につけていない、ある意味一番おもしろかった時期のストーンズかな、と改めて思ったりもしました。

90年の初来日実現時は確かに日本中が大変な盛り上がりではあったものの、それはすでに株式会社ローリング・ストーンズ的なライブに変貌を遂げた後の彼らであり(もちろん株式会社ローリング・ストーンズであればこそ毎度毎度満足度は大変高いのですが)、このような70年代的でかつ今につながる“原液”のような姿を見せられてしまうと、「あーやっぱり見ておきたかった・・・」と、70年代ストーンズを迎えるはずだった同じ武道館であるが故になおさら思えてもしまうのです。最後に毎度毎度思う事ですが、武道館にはビートルズの日本公演以降ロックの神様が宿ってるようで、今日のような単なる映画の上映会であってもやはり「武道館でストーンズ」となれば、特別な感覚を味あわせてくれる場所なのだなとつくづく感じさせられたのでした。

※ミックとキースが一本のマイクをはさんで歌う「ハッピー」、最高にカッコよかったです。

「70年代洋楽ロードの歩き方22」~パワーポップ5

2010-09-20 | 洋楽
前回はパワーポップの「ポップ」の部分に注目して、ポール・マッカートニーをルーツとするポップ感覚に秀でたアーティストを追いかけてみましたが、今回は最終回として「パワー」の方に力点をおいて見た70年代パワー・ポップ的アプローチ・アーティストとその後の影響等の変遷を取り上げてみます。

一般的によく言われている、パワーポップとグラムロックの関係。グラムロックもパワーポップもブリティッシュ・ビートの流れを汲むビートルズ解散後の動きという共通項があり、グラムの音楽の明快さを少しメロディアスな方向にいじってみると、パワーポップと同じようなベクトルを描くことになると思います。ですから、グラムヒーローたちの楽曲には捉え方ひとつで、確実にパワーポップへの分類が可能なものが多数あるのです。その代表は、グラムの裏仕掛け人であったチン&チャップマンの作品群にまず見出すことができるでしょう。例えばスウィートの初期のヒット曲「リトル・ウイリー」あたりは、何も知らない人が聞けば十分パワーポップで通用するナンバーでしょうし、スージー・クアトロの「悪魔とドライブ」あたりにも同じことが言えると思います(スウィートはチン&チャップマンの下を離れてからもその影響で、「フォックス・オン・ザ・ラン」などパワーポップ指向の楽曲をリリースしています)。

チン&チャップマンのチーム解散後、グラム全盛以降のマイク・チャップマン単独でのプロデュース・アーティストで忘れてならないのがブロンディ(写真)です。彼らはご存じ“妖女”デボラ・ハリーを中心としたニューヨーク出身のバンドですが、デビッド・ボウイに認められたこともあって実のところ最初に売れたのはイギリスだったのです。70年代後半にはマイクのプロデュースで、「サンディ・ガール」「ハート・オブ・グラス」「ドリーミング」などのヒットを連発。このブレイク後にジョルジョ・モローダーによる「コール・ミー」の大ヒットが生まれて、世界的にディスコヒーローとして注目されることになるのですが、彼らの最初の発火点は確実にパワーポップであったのです。以前にも触れていますが、マイク・チャップマンは同時期にパワーポップの代表格と言える「マイ・シャローナ」のナックの仕掛け人も務めており、この時代にグラムとパワーポップを結び付ける最大のキーマンであったと言っていいでしょう。

他にも英国でグラムに分類されるベイ・シティ・ローラーズやルベッツ(最近また「シュガー・ベイビー・ラブ」がCMに使われています)も、音楽的に言えば十分パワーポップであると思います。彼らはグラムでは最も辺境に近い存在ではありましたが、メインストリームに目を向けてみても、グラム末期はかなりパワーポップとの相関性が強いことに気付かされます。グラムの代表格Tレックスのシングル「ライト・オブ・ラブ」などは、グラムというには恥ずかしいほどポップなナンバーでしたし、スレイドもラウド系からの脱皮を試みたシングル「マイ・フレンド・スタン」や「エブリディ」などには明らかなパワーポップ的アプローチがみてとれます。短命に終わったグラムムーブメントの生き残り策として、同時期に生まれ仕掛け人の存在も含め近しい関係にあったパワーポップへの転化が試みられたという見方はあながち誤りではないと思います。アメリカでもアメリカングラムのアリス・クーパーには「ミスター・ナイスガイ」などにパワーポップ的アプローチが指摘できますし、その流れをくむKISSにはさらに強くその傾向が表れているともいえるでしょう。

最後にその後のパワーポップの変遷なのですが、70年代後半にはパワーポップは明るく陽気なアメリカ人に受け入れられアメリカン・ミュージックに新たな息吹を与えます。あくまで個人的見解ですが、チープ・トリック以降のパワーポップは80年代に大ブレイクするいわゆる「産業ロック」の流れに大きな影響を及ぼしていったと捉えています。その代表格は、REOスピードワゴンであり、ボストン、フォリナー、ジャーニー、スティックさらにはヴァンヘイレンなどにもその影響をハッキリと見て取ることができます。彼らの共通点は、70年代デビュー組でかつ80年代との橋渡し役として活躍したことです。REOの「キープ・オン・ラビング・ユー」ボストン「宇宙の彼方へ」フォリナー「冷たいお前」ジャーニー「ライツ」スティックス「ベイブ」などは、その流れを少なからず感じることができる楽曲であると言えるでしょう。彼らの共通項である「パワー」に加えて「ポップ」な香りが少なからずすることが、80年代の「産業ロック」成立の重要な条件であったわけで、その原型たるパワーポップは70年代と80年代をつなぐ大きな役割を果たしたと言えるのです。

もひとつ最後に余談ですが、パワーポップとパワーポップ“的”な楽曲が一番受け入れられている国はどこかですが、実は日本であると思っています。パイロットの人気は本国以上ですし、ラズベリーズのシングルが一番多くチャートインしたのも日本です。さらにはベイ・シティ・ローラーズの盛り上がりは異常でしたし、チープトリックがいち早く人気になったのも、海外では全く売れなかったTレックスの「ライト・オブ・ラブ」が唯一ヒットしたのも日本でした。そうです、思えば日本人はパワーポップの元祖であるポール・マッカートニーが大好きだったのです。ジョン・レノンが突然の死を迎えるまで、日本では「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」「オブラディ・オブラダ」などビートルズ・ナンバーでもポールの楽曲の方が圧倒的に人気が高かったのです。誕生から半世紀を越え、ポピュラー・ミュージックそのものが学問的に研究され始めるなら、日本人特有の音楽嗜好を知る意味ではパワーポップは大きなカギを握る音楽であると思います。そんな目でぜひパワーポップを今一度見直す機運が生まれたらおもしろいだろうと思っているのですが…。

ブックレビュー~野口吉昭×2 その2

2010-09-17 | ブックレビュー
野口吉昭氏の新作2つ目です。

★「コンサルタントの軸思考術/野口吉昭(PHP研究所1000円)」

9月10日付発刊の最新作。こちらは、一貫してそのコンサルティングスタンスの軸がぶれない野口氏の「軸」の作り方に関する著作です。サイズ・装丁・表紙イラストまで昨年刊の「考え・書き・話す「3つ」の魔法」とそっくりなので、てっきり同じ幻冬舎からの新作かと思ったのですが、タイトルに「コンサルタントの・・・」の前フリ付きということでこちらがPHPでした。新書並みのサイズ・装丁でありながら新書よりも若干高めの価格設定というあたりは(新書よりも約200円割高)、著者の野口氏には関係ありませんが、ある程度売れると分かっている作家の書籍で少しでも多く儲けようという、PHPの商魂が垣間見れるようであまりいい気はしないものです。少し印象悪いです。

そのせいでもないのですが、やや内容は平坦です。「フレームワークは「枠」より「軸」が大事」とか、例によって「自分軸」とともに「相手軸」も大切さも強調しており、まさに軸のぶれない野口氏らしい著作ではありました。しなしながら、新書の三部作「コンサルタントの現場力」ベストセラーの「・・・質問力」「・・・解答力」に比べるといささか薄味。マガジンハウスの方は「観察力」と銘打ち、確かに「現場力」「質問力」「解答力」にさらに磨きをかける“第4の力”といった印象もあったのに対して、こちらは元祖「○○力」シリーズのPHPでありながら、タイトル通り“力不足”な感じです。野口氏の書籍ですから当然読む価値はあるのですが先の値段のこともあって、「○○力」シリーズより200円割高でこの内容?って感じはやや辛いところです。こちらは、10点満点で6点か7点かと悩んで6.5点。

野口氏の新作2作をどちらから読もうかと悩まれた方には、まず「観察力」の方をおススメいたします。

ブックレビュー~野口吉昭×2 その1

2010-09-16 | ブックレビュー
コンサルタント野口吉昭氏が最近新刊本を2冊発刊していますので、その紹介を。

★「プロの観察力/野口吉昭(マガジンハウス1400円)」

これは出てからちょっとたってしまいました。私も読んでから時間があいたので内容をやや忘れ気味で、中身を見直しつつ書いています。これまでの「コンサルタントの現場力」「・・・質問力」「・・・解答力」ときて、本人が講演会で「次は“何力”にしましょうか?」と問いかけていたりしたこともありましたが、ようやくシリーズ第4段の登場です。出版元の関係でしょうか「コンサルタントの…」の前フリ部分が「プロの」に変更になっていますが、コンサルタントが物事をどうとらえどう分析するかというスタンスで書かれていることになんら変わりはありません。今回の出版がマガジンハウスからというのが、表紙のポーズをとる著者の写真とともにやや俗っぽい感じでちょっと気にはなったのですが…。

読んでみれば中身は安心でした。野口氏の場合基本的思想にブレがなくオリジナルの問題解決手法が確立されているわけで、出される本は都度その切り口をどの部分にもっていくかだけのことですから。話のポイントやキーワードは毎度氏の著作で登場しているものですが、今回の「観察力」の基本も“相手軸”“鳥の目と虫の目”“ロジックツリーの分解と整理”といった、お得意の手法を活用する流れで説明がされています。一方、今回初登場で個人的に気になった新キーワードは、“ナラティブ”。本書内では「印象に残る話し方」と定義され、「観察力」の優れた一流の司会者やインタビューアーは皆「ナラティブ」であると語られています。最後のまとめ的部分に「気付いたことをスタート地点として、魅力的なストーリーを作り上げナラティブに人に伝えていく、それが観察の醍醐味」とありますが、これまでの「質問力」や「解答力」をより魅力的に磨き上げる方法を事細かに説明しているのが本書であると言えるでしょう。野口氏としては標準的レベルクリア、10点満点で8点か7点か迷うところなので7.5点とします。

もう一冊は後ほど。

管氏圧勝は「民意」の勝利~今こそ「民意を読む=MY政治」を

2010-09-14 | ニュース雑感
実質、日本国の総理大臣を決める民主党の代表選が本日おこなわれ、管直人現総理が大差で小沢一郎前幹事長を破って再選されました。

14日間の選挙戦中マスメディアでは、「管氏やや有利」が伝えられながらも連日「接線」と騒いでいましたが、終わってみれば得票ポイントで「6:4」の明確な差がつく結果に。内容を見てみると国会議員票は管氏が上回っているものの僅差。地方議員票は「6:4」で管氏。しかしながら職業政治家ではない党員・サポーター票ではなんと「8:2」の管氏圧勝で、これが雌雄を決した形になりました。選挙期間前から盛んにおこなわれていた各メディアによる世論調査では、この党員・サポーター票に近い結果がたびたび報じられていただけに、まさに「民意」が反映された「民意の勝利」であったと思われますし、間接民主制の我が国の首班選びとして好ましい結果であったと思います。

しかしながら気になる点がひとつ。政治家が「民意を読めているのか」と言った観点で考えると、民主党国会議員の「両者互角」の票の入り方は「管:小沢=8:2」という「民意」から著しくかい離があるではないかという問題です。派閥の論理はさておき、無記名投票である今回の国会議員投票では誰がどちらに投票したのかは分からない訳であり、ふたを開けてみれば「民意」に近い投票結果になるのではないかと多少期待して見守っていたのですが、やはり「管:小沢=5:5」が精一杯。せめて地方議員票と同レベルの「6:4」ぐらいはと思いましたが…。「民意を読めない」政治家センセのあまり多さに今さらながらに落胆を覚えました。この点は政権運営をしていく上で、埋めなくてはいけない“政治家と一般常識とのズレ”として党としても是非ご認識いただきたい部分であります。

さて、勝った管首相。まずは「管VS小沢」の二者択一の選挙戦で「管に○」ではなく「小沢に×」という、相手の「×」に助けられた消極的な当選であるという「民意」も十分に理解しなくてはいけないと思います。すなわち言い換えれば、発足から3カ月にして既に、国民の強い支持が得られていないのはなぜであるのか、今一度よく考えてみる必要があるということです。「民意」に助けられ小沢氏に圧勝した管政権ですから、「民意を読む」=「“KY”ならぬ“MY”な政権運営」=「“MY(マイ)政治”の実現」、なんていうキャッチフレーズはいかがでしょう。「民意」を読んで今国民が望んでいることへの回答を決断力を持って遂行していく、そんな政権運営をとりあえず期待したいところではあります。

“クレイジー”がまたひとり…

2010-09-13 | ニュース雑感
この週末のニュースにクレイジー・キャッツの谷啓さんの訃報がありました。

谷啓さんと言えば、今は亡き植木等さん、ハナ肇さんに次ぐクレイジー“第三の男”として人気を博した方でした。私の子供の頃は何と言っても「シャボン玉ホリデー」で一世を風靡したクレイジー・キャッツ(小学生の頃毎日20時55分から5分間やっていた、確か「クレイジーの出番ですよ」とかいうショートコント番組も大好きでした)。映画も見ました、レコードも買いました。グループでは確か最年少の谷さんは、どこか子供っぽい役柄をあてがわれるケースが多くそれもまた人柄の良さを表しているようでとても温かい印象の方であったと記憶してます。レコードでは、大半が植木ボーカルの曲ばかりの中にあって、谷さんのリードボーカルで「愛してタムレ」なんていう彼らしいトボけた歌があったのもよく覚えています(「ホンダラ行進曲」も一部リードをとっていましたね)。

高校ぐらいの頃だったでしょうか、トロンボーン担当の谷啓さんがジャズピアニストの秋吉敏子さんと共演しているのをテレビで見て、日本を代表するトロンボーンの奏者だと知りとても驚かされました。クレイジーキャッツはもともとがジャズバンドの出で、後輩のドリフターズやドンキーカルテットなどとは演奏のレベルが全然違うというのは有名なお話ですが、そのバンドの音楽水準の高さを特に引っ張っていたのは谷さんのトロンボーンであったことに相違ないでしょう。谷さんがその芸名をアメリカの音楽家でコメディアンだったダニー・ケイからとったというのは実にらしいお話であり、音楽家としてもコメディアンや俳優としても一流を目指してその道を歩まれ、音楽の楽しさそのままに演奏に芝居にと芸能界を明るく彩って来られた方であっと思います。

個人的なお話ですが、若い頃私がバンドを組みたいと思ったのは、子供の頃からバンドは楽しいものという印象を、クレイジーキャッツから授けられていたからという理由が大きかったのです。植木さん、ハナさん、谷さん、センリさん…、クレイジーはホント個性豊かな楽しい仲間が集まった素晴らしいバンドでした。私はバンドを組んだときに、目標とするバンドとしてクレイジーキャッツの名を上げていました。もちろんコミックバンドを結成した訳ではありません。音楽はエンターテイメントであり、「楽しくなければ音楽じゃない」ということを、子供のころに教えてくれたのがクレイジーだったからです。洋楽を知った当時も、なんとなく暗いイメージのストーンズよりも、映画の世界で明るく楽しげに4人の個性を見せてくれたビートルズの方にまず好感をもったのは、そんな子供の頃の「楽しくなければ音楽じゃない」の印象に根ざしたものであったのでしょう(私は一貫してマイナー調の曲よりも、明るく楽しいメジャー調の曲が圧倒的に好きです)。いつも朗らかに冗談を言ったりしながらトロンボーンを吹く谷さんの印象は、明るく楽しいクレイジーキャッツには欠かせないキャラクターでした。谷さんの訃報には私の子供時代の生活の中に入り込んでいたテレビや映画の思い出があれこれよみがえってきて、なんともさびしい気分です。

クレイジーのメンバーも谷さんの訃報ですでに5人が鬼籍入りしたことになります。あんなに楽しくあこがれたバンドがもはや風前の灯。当然クレイジーの音は今ではもう二度と聞けないのです。クレイジーは一度たりとも解散や喧嘩別れはなかったからなおさら寂しいですね。バンドは本当に楽しいものであるのですが、その裏ではメンバーが欠けてしまうと続けることができなくなるという、そんな切ない一面も持ち合わせています。人の寿命で活動が停止せざおえないケースはまだしも、世の中にはケンカ別れで解散した有名なバンドや、意見が合わずにバンドを抜けた著名ミュージシャンもたくさんいます。そんな人たちは、やれるうちにもう一度一緒にやってまた皆を楽しませて欲しいものです。バンドは絶対に楽しいものなのだから。楽しいバンドマンだった谷啓さんの訃報に接し、ふとそんなことを思いました。

心からご冥福をお祈り申しあげます。