日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

サムスンの敗訴と竹島問題~韓国の“盗人文化”について

2012-08-31 | その他あれこれ
本日は少しばかり過激な提案をしてみようかと思います。テーマは韓国の国民性や国民文化についてです。何かと話題の竹島問題、これまでは詳細な事実関係を自分なりにも調べる時間がなく、聞きかじりの過去経緯だけから余計な事を言うのはいかがなものかとの考えの下、この問題には一切触れずにきました。しかしここに来て、韓国を代表する一大国家的企業であるサムスンが米カルフォルニア北部連邦地裁で、アップルの特許を侵害したとして約826億円の賠償を命じられたとの話を受け、本件の裏にある本質的な問題を考え、竹島を占拠する韓国という国の文化実態を国際世論に広く知らしめるべきなのではないかと思いPCに向かいました。

サムスン敗訴の内容詳細は各所で報道済みではありますが、主な特許侵害指摘内容は①ピンチによるズーム②タップによるズーム③iPhoneに関するデザイン特許④iPhoneのホーム画面デザイン特許、であります。今回のこの内容がより重要性が高いと思うのは、これら特許侵害とし指摘されているものすべてが、専門的な知識なくしては分からない内部構造の技術的特許にかかるものではなく、一般的な利用者なら誰でも見た目で分かるデザインや操作性の部分についてであるということです。言ってみればサムスンのスマホは、先行のヒット商品の良いとこ取りした“盗人”モノマネ品であると言われたという意味であるのです。

専門的な技術特許にからむ特許侵害の場合には、特許の存在を知らなかったとか意図せぬ特許侵害であったとかいったケースも多いわけですが、今回の上記①~④のようなデザインや操作性に関するものは、iPhoneを見て使ってそれを模倣したのは明らかなわけですから、言ってみれば完全に“確信犯”であるのです。何年か前のこと、iPhoneの後追いで初めて出されたNTTドコモのサムスン製ギャラクシーを見た私は、確実に「ここまでマネしていいの」と感じたことを思い出します。しかし、その後何機種も同様のiPhone模倣版が次々出されていくうちにその意識は薄れました。iPhoneのデザインや操作性がまるでスマホの一般に認められたディフェクト・スタンダードになってしまったかのような錯覚に陥ってしまっていたのでしょう。今回の北部連邦地裁の判断は、そんな忘させられていた重要なことを思い出させてくれたのです。

繰り返しますが今回の賠償命令で、モノマネ製品製造“確信犯”サムスンは明らかな“盗人文化”であると明言されたのです。サムスンは韓国という国を代表する国家レベルの大変な大企業であります。日本でその存在を例えるならトヨタあたりがそれにあたるのでしょうか。我々日本人が、もしトヨタが誰が見てもこれはベンツだろうというデザインの車を、ベンツマークと見間違うマークを付しレクサスとして販売し、ベンツからモノマネを告訴され賠償命令を受けたとしたらどう思うでしょうか。恐らくは、国内世論の大半は「トヨタの“盗人精神”は日本の恥!」「マネではないオリジナリティで正々堂々世界に挑め!」と、反省を促し出直しを鼓舞する、それが日本文化であるように思うのです。

しかしながら韓国メディアの多くは、今回の件でサムスンを擁護し、「負けたのは訴訟の場が敵地アメリカであったから」「次は間違いなく違う結果が出る」としていると聞きます。先に述べたように、今回の訴訟が専門性の強い技術特許領域ではなく、デザインや操作性という見た目や使い勝手に係る明らかなモノマネ訴訟であるのにもかかわらずです。これはもう、韓国という国自体が持つ“盗人文化”を雄弁に語るもの以外のなにものでもないと言えると思うのです。

であるのなら、日本ははからずもサムスンの敗訴により露呈した韓国の悪しき文化の存在を、この機会にもっともっと様々な形で国際世論に訴えるべきなのではないのかと。例えば、これまでも液晶テレビや携帯電話の世界でも、日本の複数の家電メーカーは韓国勢から受け続けてきた明らかな模倣に対して、無益な争いは好まないといういたって日本的な“お人よし”対応で、見過ごしてきたと聞きます。今こそ「いいわ、いいわ」でやり過ごしてきたものを呼び起こして「“盗人”許すまじ」の精神で糾弾し、韓国に脈々と流れる“盗人文化”を世界に広く知らせるべき時なのではないのかと思うのです。

竹島問題は、そんな韓国の“盗人文化”を日本の官民が一体となり広く世界に知らしめることで国際世論の盛り上がりを醸成し、両国国民性に対する正しい国際的理解の下、あるべき解決に向かわせるべき問題なのではないかと思うところです。

企業M&Aが教える政界M&Aの要注意点

2012-08-29 | 経営
橋下維新の会を中心とした“政局秋の陣”を企業M&Aになぞった拙原稿がJ-CSATさんでアップされているのですが
(「大阪維新の会と政界M&A」http://www.j-cast.com/kaisha/2012/08/28144210.html)、ここではそれに関連して最近目にしたエセビジョンM&Aの顛末事例をひいてより具体的に政界M&Aの要注意点をみてみたいと思います。

先週末近くに公表されたオリンパスの子会社ITXの日本産業パートナーズへの売却のニュース。もともとITXは日商岩井の情報通信部門を前身として投資業務に軸足を移したところを、2000年にオリンパスが出資し04年にM&Aによって子会社化したものです。

00年代はオリンパスがITバブルの後押しもあって拡大路線をはかっていた時期であり、ITXとの一体化でデジタルイメージングや医療機器開発分野への投資効果による収益かさ上げを狙っていたのです。M&A当時のコメントでも、「ITXの投資先からの収益を期待できる」としています。しかしながらここで重要になるのが、このビジョンが嘘偽りのないものであったのかという点です。日経新聞の報道では、ITXはその後発覚するオリンパス損失隠しの飛ばし目的に使われようとしたとの記述もあり、なんともM&Aビジョンの曇りを感じさせる話であります。

その後ITXは07年に子会社のITテレコムを吸収。気がつけばITXのメイン業務は全国に500店舗を抱える携帯電話販売に移行していているのです。07年と言えばまだリーマンショック前のこと。やはりオリンパスのM&Aビジョンは、「損失隠し」という目先の利益であったのかと思いたくもなることろです。ITXは現在も企業体としては営業利益ベースで50億円超を計上する安定企業を形成しているのですが、今回不祥事発覚による原点回帰の中で非中核分野と判断され売却されることになりました。8年ほど前に輝かしき表向きビジョンの元実施されたM&Aは綺麗に白紙に戻されたことになるわけです。

では冒頭に記したように、政界の動きを別原稿で企業M&Aでなぞってみた手前、このM&Aを無理無理政界M&Aに結び付けて考えてみます。

00年代前半のオリンパスの拡大路線とITXのM&Aは、民主党が小沢自由党とのM&Aによって拡大路線に大きく流れを変えた政界M&Aとの符合を感じさせます。しかし当時のビジョンの共有はお題目に過ぎないエセビジョン。真の狙いは議席数増大による政権奪取と言う現実的かつ党利優先の短期目標だったかと。果たして、政権は取ったもののその先がつながらず、本来の政党ビジョン実現に向けた具体策であるはずのマニフェストは軒並み断念。結果的には小沢一派は袂を別ち、M&Aは綺麗に解消です。

理想論的に申し上げるなら、しっかりしたビジョンが明確に存在しM&A時にしっかり共有されていたなら、今さら「マニフェスト路線破棄か堅持か」で分裂の憂き目に会うようなことにはならなかったハズです。ただ今回の民主党が特殊なわけではなくて、政界M&Aはエセビジョンの下、短期的利益追求で目的で行われるケースが非常に多く、国民がまんまとだまされてしまう歴史でもありそうです。企業M&Aが教えるところの、「真のビジョン共有なき、短期利益追求型のM&Aはうまくいかない」という教訓は、目先の利益に目がくらみがちな政治の世界では活かされにくいのかもしれません。

となると橋下維新の会を中心とした、新たな政界M&Aも疑念の目を持って迎える必要があるのかもしれません。明らかに政党の存在感向上や自己の議員資格確保目的で維新の会に秋波を送り続ける、維新の会周辺の「政治屋」の皆さん。他方維新の会サイドとて、現状国会議員ゼロというどうみても脆弱な状況の打開に向け、イメージダウンにならない現職国会議員の取り込みをはかりたいという思惑が見え隠れしており、こんな状況下で安易なM&Aをすることは国民にとってプラスに働くとは言い難い気もするからです。

政界M&Aによる勢力拡大が、実は単なる彼らの利己的利益追求に過ぎないかったという失敗の繰り返しは、国民誰もが望まないところです。問題はその見極め。まず国民一人ひとりはメディアが作り出す、ある種のブーム的イケイケムードに流されてはいけないということ。そして今後起きるであろう政界M&Aに際して、企業M&Aよろしく当該政党や議員については、しっかりとした判断力を持ってビジョンの資産査定をした上で政界M&Aの評価についての最終判断をくだすべきかなと思うところです。

法的責任、道義的責任、社会的責任(アイセック問題に関連して)

2012-08-24 | 経営
私のところに直接いただいているご質問を含めて、どうも「責任」の種類と違いについて混同されているケースが見受けられますので、アイセックに関連してその点をケーススタディ的に学ばせていただく機会としたく、もう一本だけこの問題に関連したエントリとします。

BLOGOSのコメント欄でもとある方が類似したことを申し述べてくれていましたが、今回の問題には大きく3つの「責任」問題がからんでいて、それがために事の正誤が分かりにくくなっているように思われます。3つの責任とは、「法的責任」「道義的責任」「社会的責任」です。

「法的責任」とは、まさしく法律に照らして責任があるのか否かという問題です。一部の方々の「被害者の自己責任である」とか「現地での責任は負わないと契約書上も記載があるから、アイセックには責任はない」といった発言で問題にされている「責任」は主に「法的責任」の部分であると考えられます。その意味では確かに今回の件で「法的責任」はアイセックには存在せず、法的観点からは基本的に被害者の「自己責任」であるという考え方はそれなりに正論であろうかと思われます。

そこで問題となるのはアイセックに「法的責任」以外の責任は存在しないのか、という点です。ひとつは「道義的責任」という概念。これの辞書的意味を考えるに、「人としての常識に照らして、正しい道を守るべき責任」あたりが妥当でしょう。今回の点に照らして申し上げるなら、「海外インターンシップをアレンジしたアイセックにも責任がある」と発言をしている多くの方々が言っている「責任」とはまさしくこれでしょう。「たとえ法的に責任がなくとも、人としてどうなのよ」ということですね。

ただこの点は、「常識」というものが万人共通でない以上、「あんたはそう言うけれど、俺はそうは思わない」というケースも間々あるわけで、意見の食い違いが出ることもしばしば。今回ネット上でもアイセックの「責任」問題に関して賛否が戦わされているのは、主にこの点が焦点になっていると思います。一般的に組織が「道義的責任」を追求されるか否かは、世論の成り行きがどうかということにも関わります。世論の過半が「道義的に問題あり」とするならやはり「同義的責任」の観点からの対応は当然求められるわけですが、この場合も世論に押されてようやく対応するというようなケースは、袋叩きに会うと言うこともしばしば。「同義的責任」は世論の反応を待ったのでは遅すぎることでもあるのです。

「責任」のもうひとつは「社会的責任」。これの辞書的意味は、「社会一般的に考えて重大な問題にかかわった時に負う責任」あたりになるでしょう。となるとこれも「社会的責任」が発生するか否かの線引きが問題になります。今回の件ですが、社会問題化しているか否かという点で考えると、複数のメディアが大きくこの事件を取り上げていることや一国の大臣がこの事件に対してコメントをしてると言う事実をもって、「十分社会一般的に考えて重大な問題にかかわった」と言えるのではないかと思われます。私がこれまで本件に関して、企業経営を考える立場から主に申し上げてきたことは、まさしくこの「社会的責任」についてであるのです。

今回のケースの現段階でどのように「社会的責任」を果たすべきなのかですが、まずは「社会的責任」を具体策に分解して登場する「説明責任」の全うであろうと思われます。「遺族のご意向により一切の説明を差し控える」と言っているだろうとの声もあるようですが、守るべき「故人や遺族のプライバシー」というものは当然「道義的責任」の元にあるわけで、それを守りつつ「社会的責任」の元、一般論を含めたことの事実関係を詳らかにする「説明責任」を果たすというのが現時点でのあるべきと考えます。

本件において企業経営的に学ぶべきは、企業があらゆる場面で自社の「責任」を考えるとき、「法的責任」だけでなく「道義的責任」や「社会的責任」と言う観点からも自社を振り返る必要があるということ。これは企業コンプライアンスの基本でもあります。

アイセックの件についてと公表されたコメント

2012-08-22 | その他あれこれ
一昨日の拙エントリー「ルーマニアで女子大生が殺害された件とアイセックという団体について」は、2ちゃんねるに複数のスレッドが立つなど大きな反響をいただき、転送先のBLOGOSサイトを含め賛否多数のコメントを頂戴しました。特にアイセックに関して、一部拙エントリーの主張に対する誤解もあるように思われますので、今一度整理しておきたく思います。

小職の主張を分かりやすくまとめると以下の2点に集約されます(ただしアイセックからの文書コメント公表前時点で申し上げています)。「大人」「こども」という表現は、組織の「あるべき」を示す目的で使用しましたが、議論が感情論に流されやすいので今回は一切使用しません。

①今回の事件に関して再発防止の観点から、被害者自身の落ち度検証とは別に、学生運営による非営利集団アイセックの海外インターン・シップ派遣運営について、その問題点の有無と改善策について今後十分な検証がなされる必要がある(必要に応じて政府関係機関の監視強化も検討課題)。
②被害者のインターンシップ派遣アレンジの当事者であるアイセックが、今回の件に関して会見の開催はおろか一部隠ぺいと言われても仕方のない行為の疑義も含め積極的な情報開示をしていないことは、事件に関する直接責任云々だけでなく道義的責任上からも許されることではなく、組織運営の常識を逸脱している。

①は平時のリスク管理の問題、②は有事の危機管理の問題です。念のために申し上げておきますが、私の主張は特定の思想的背景を持って申し上げておるものではなく、またアイセックつぶしでもアイセックに個人的な恨みや嫌悪を持って語っているものでもありません。あくまで小職の職業的な見地から、組織運営と言う観点で再発防止に向け「あるべき」を申し上げているに過ぎません。

一部の方からのコメントには、「アイセックは確固たる国際組織であり、国際人材育成において素晴らしい実績を残すなどの実績からみても、責めをおうような組織ではない」「アイセックのこともよく知らないで、勝手な憶測で批判をするな」というものがありました。小職の見解はあくまでアイセックの実績がいかなるものであるかにかかわらず、一般論として人命に関わるようなリスクを負う組織活動が、今現実に尊い人命を失うような事件にかかわっている以上、再発防止の観点から上記の2点は最低限勘案すべきということであります。

さらに一般論で申し上げれば、組織運営上の問題点を洗い出す場合に、組織の過去の実績と言うモノに惑わされることが最も正確性を欠くことにもつながります。また、有事の対応こそが本当の意味での組織の実力を社会に示す場でもあり、過去の素晴らしい実績の数々や名誉も、有事の誤った対応一つで一瞬にして失われてしまうものなのです。その意味で、上記2点のポイントの2点目については、早急かつ明快な対応が求められているとの意図をもって前エントリーを執筆したものでもあります。


なお20日の夜になって、ようやくアイセック・ジャパンから以下のような短いコメントが発表された模様です。

<アイセックジャパン コメント>
ルーマニアに渡航した邦人女性が同国内で亡くなられたとの報道がなされておりますが、当団体ではご遺族のご意向を踏まえ、本件に関して一切の説明を差し控えさせて頂きます。
2012年8月20日
特定非営利活動法人アイセック・ジャパン


このコメントについては、組織の対応としてどうなのか以前の問題として、自己の組織が直接かかわった事件で被害者の尊い命が失われているにもかかわらず、故人に対するお悔やみの言葉ひとつもないという事実に愕然とさせられました。私はこのコメントから、アイセックの組織として大きく欠落している何かを感じずにはいられません。これが3つめの問題点ではないでしょうか。

皆さんは、どうお考えになりますでしょうか。

ルーマニアで女子大生が殺害された件とアイセックという団体について

2012-08-20 | ニュース雑感
海外インターンシップで訪問した東欧のルーマニアで、聖心女子大学に在学中の女子大生が殺害されるという悲劇が起きています。彼女はアイセックという100%学生が運営するNPO法人のあっせんで今回の渡航をアレンジしたといいます。この手の事件では、本人の油断と言う問題も指摘されるところではありますが、今回の件では仲立ち役のアイセックのアレンジに甘さはなかったのかという点も焦点になりそうです。

と言いますのも、彼女がルーマニアのブカレストに飛行機で到着したのは深夜で、かつそこから目的地までは、夜行の電車で約3時間、距離にして240キロほどあったと。彼女はなぜか電車に乗らずに犯人の誘いに乗って車での移動を選択して今回の事件に巻き込まれた模様です。女性の一人旅は国内でもそれなりの注意が必要ですが、ましてや海外、治安面で不安の大きい東欧諸国へのインターンシップ・アレンジをしたアイセックに落ち度はなかったのでしょうか。

本人の希望がどうであれ、ルーマニアという国への女子大生単身でのインターンシップアレンジが果たして適当であったのか否か。さらには現地での深夜移動というあまりにも危険極まりないスケジュールはなぜ組まれてしまったのか。これらの点を焦点として、学生が運営する海外インターンシップ事業における運営上の問題点やその是非については、今後十分な検証がなされる必要があると思います。

大きなリスクが伴う恐れがある事業を、学生と言うビジネス素人が手掛けることが本当にいいのか。ネットの書き込みを見る限りにおいては、これまでにもアイセックのアレンジによる海外インターンシップ先で「行ってはみたものの、ろくな仕事が得られなかった」「大学を休学手続きをした後で、突然キャンセルになり困った」などのクレームも聞かれ、その運営に不安を感じさせるものが見受けられもするのです。

そしてなにより今回の対応。事件発生と共にいきなりのホームページ閉鎖(ネットユーザーの発言では「落ちている」と表現されています)。これが意図的なものなのか、アクシデントによるものなのか現時点では分かりかねますが、事件当事者として全くのノーコメント状態が続いており、少なくとも「インターンシップのアレンジ組織として、現在事実関係を鋭意調査中です。分かり次第公表します」ぐらいのコメントは発する義務があろうかと思われるのです。

まずいことが起きてしまい、「ヤバイ、隠せるものはすべて隠せ!」「黙って嵐が過ぎるのを待とう」ととれる今回の対応では、最悪のリスク管理体制であると言わざるを得ません。やはり子供の“ビジネスごっこ”に過ぎなかったか、と言われても仕方のない状況ではないでしょうか。大人のマネをしてビジネスまがいのことをしてはみたものの、リスク管理が甘く事件が発生。挙句にこれはまずいとダンマリでは、全く子供の仕業です。

大人と子供の一番の違いは、「リスク管理」ができるか否か。「リスク管理」とは自己の事業におけるリスクの最小化を図りつつ、万が一最悪の事態に陥った際の対処を想定することです。それができていないと思える今回のアイセックの一連の活動は、まさしく子供の遊び半分状態です。尊い若い命が、子供の遊び半分に犠牲になったのかと思うに、ご家族の思いを察するにいたたまれない気持ちにさせられます。

収益目的であるか否かにかかわらず、学生のビジネス活動については、利用者等第三者に大きなリスクが及ぶ危険性のあるものについては、リスク管理ができないのならばやるべきではないでしょう。これらの活動には政府関係機関をはじめ“大人”が、改めて監視の目を光らせる必要があると感じた次第です。

皇太子は戦没者慰霊祭に出席すべきではないか

2012-08-16 | その他あれこれ
昨日は終戦記念日、今年も日本武道館で戦没者慰霊祭が、天皇皇后両陛下、野田首相出席の下開催されました。

愛する人の尊い命を戦争という愚行の犠牲として失った多くの戦没者の遺族の方々が出席されていました。しかし、すでに戦後70年近くを経て戦争を肌身で知る出席者は年々減少し、出席者の7割以上が70代以上の高齢者であったと。次世代への橋渡しが無言のうちになされている時代の移り変わりが、テレビの映像を通じても感じさせられる式典でもありました。それでも、この戦没者慰霊祭はこれからも続けていかなくてはいけないのです。世界に「戦争」と言う概念が存在しなくなる日まで、いや「戦争」という概念が存在しなくなった日が訪れたとしてもいつまた愚かな人間が同じ過ちを繰り返えさぬよう、永久不滅の式典として未来永劫続けていくべき催しなのだと思っています。それが第二次大戦と言う人類史上まれにみる愚かな戦争の当事者国日本の責務でもあると思うからです。

戦争体験を幼少期にされたという方々でさえ既に70代。戦争のない平和な世界の実現を訴え続け明るい未来をつくっていくためには、我々戦後生まれ特に昭和30年代生まれの世代がどれだけ、先代からバトンを受けて戦争の愚かさを語り継ぎ「平和」を訴え続けていけるかにかかっているのではないでしょうか。今ビジネス界をはじめ世一般は我々世代が時代を担い社会をリードしている訳で、平和活動に関しても同じく我々世代がリードオフマン的自覚をもって率先して動かなくてはいけないのです。終戦後十余年を経て生まれ、昭和30~40年代の高度成長期に少年少女時代を過ごし、「平和」であることが当たり前の時代に育った“戦後っ子”として、我々を育んでくれた「平和」のありがたみを、「戦争の愚かさ」を語り継ぐ人が絶え始めた今こそ意識を持ってしっかりと受けつ継ぐべき時に来ていると思うのです。

その意味において、個人的に毎年言い続けている戦没者慰霊祭への皇太子夫妻の列席が今年も実現しなかったことは本当に残念です。皇太子殿下は私と同学年の52歳であります。論語にも「五十にして天命を知る」との言葉もあります。戦前戦中の天皇制を断罪するという意味ではなく、次期天皇即位者である皇太子殿下が、天皇制の下突き進んだ第二次世界大戦と「天皇陛下万歳」と戦地に散った多くの尊い命を思うなら、我々世代の代表として「平和」を願う先導役を積極的に務めて欲しいと思うのです。すでに終戦記念日8月15日が持つ意味合いさえも大きく変わりつつあると思います。過去の犠牲者へ向けられた悲しみや追悼を乗り越え次世代に引き継ぐべき恒久平和を誓う祭典たるべきであり、それを今担うのは我々戦後世代の役割であるはずのなのですから。

「五十にして天命を知る」。我々世代に課された次世代に過去の過ちを語り継ぐという役割を知るならば、同世代の天皇家の人間には先んじて「平和」の尊さを主張する行動をとって欲しいと思いますし、その使命が課されてもいると思うのです。政府宮内庁も、戦没者慰霊祭はシキタリや前例にとらわれず、未来永継続される平和祈念の式典としての位置づけを明確に認識をしていただき、我々世代のリーダーとして皇太子殿下による次世代へ力強いメッセージを伝える場として欲しい。来年には我々世代の恒久平和実現に向けた役割を改めて確認する場とするためにも、皇太子殿下の戦没者慰霊祭出席およびご発言の実現を切に望んで止みません。

ロンドン五輪“残念組”の敗因に学んでみる

2012-08-15 | 経営
ロンドン五輪が終わり、メディアではメダリストたちの凱旋帰国インタビュー等が連日取り上げられています。いつも思うことですが、なんともさみしいのは、開会前には期待感を持って複数のメディアに取り上げられながらメダルを逃した“有力選手”たち。敗れた時点ではともかく、大会終了後は全く触れられることもなく、当然敗因分析されることもなく、何事もなかったかのように黙殺されてしまうのです。あえて、そのメダルを逃した“残念組”の敗因を勝手分析し、他山の石的に役立てさせていただきましょう。


★潮田玲子(バドミントン混合ダブルス)
試合前日に「大切な君へ」と題した恋人宛のメッセージを、公式ブログに載せたと言うことが話題をさらいました。結果は予選敗退。そりゃダメでしょ。本人同士で電話なりメールなりで励まし合うことは結構なことですが、公式ブログでオノロケなのか交際宣言なのか知りませんが、少なくとも本番に向けたテンションが違う方向に向かってしまっているわけですから。思わず、競馬の世界で牝馬によくある、本命と目された馬がレース直前に“フケ(発情)”の症状が出てレースに集中できずに惨敗するっていうアレを思い出しました。

馬の話を引き合いに出して本人には申し訳ありませんが、人間とて動物。緊張感が高まる中で、通常は集中力を高めることでそれを乗り越えて行くものなのですが、動物の雌の本性として繁殖期(適齢期?)を迎えた女性が緊張を乗り越える手段として雄に対する依存心によって安心感を得て、緊張を別の形で消し去ってしまうのでしょうか。集中力高揚と言う点においては全くの逆効果です。この時点で彼女のオリンピックは終わっていたということなのでしょう。女性ばかりでなく、例えばビジネスにおいて重要プレゼン等を前に気合が乗るどころか、どこかに救いや逃げ道を求めたくなっているスタッフがいたなら、そのプロジェクトからは外すべきということなのです。


★浜口京子(女子レスリング)
ご存じアニマル浜口氏の娘として、3回目のオリンピック出場。アテネ銅、北京銅で今回こそ悲願の金を、と期待されましたが、結果は1回戦負け。同じ父娘コンビで、アテネ10位、北京6位から今回銀メダルを獲得した女子ウエイトリフティングの三宅義行、宏実親子とは全く正反対の結果となりました。同じ競技でオリンピック銅メダルという確固たる実績がある父の指導の下、“三度目の正直”を決めた三宅父娘に対して、浜口父娘は多くの人が指摘をするとおり、別競技である元プロレスラーの親父の干渉しすぎが最悪の結果となったように写ります。

父アニマル浜口氏は、ボディビルダー出身の元プロレスラーであり、氏が運営する浜口道場はプロレスラー養成所であります。アマレスとプロレスは似て非なるモノ。もちろん銅メダルを獲得するところまで育てただけでも大したものではないか、とも言えますが、銅⇒銅ときて今回金を目指すのなら、やはりここは門外漢の父はキレイに手を引いて完全に別のコーチの下で出直しを図るべきだったのではないかと。過去には門外漢のリードでうまく事が運んでいたとしても、門外漢としての自覚は忘れてはならないものであり、打開策を見出すには門外漢が引き際をしっかりと自らけじめる必要があるのです。マネジメントにおいても又同様也です。


★サッカー男子チーム
準決勝を優勝したメキシコと戦い敗戦。44年ぶりの銅メダルを賭けた韓国戦で、いいところなしの完敗に終わった日本U23チーム。中2日続きの過密スケジュールで各選手の疲労がピークにあったことは間違いありません。さりとて、相手の韓国も同じ状況下にあったはず。しかし、3位決定戦での両チームの動きには雲泥の差があったのです。要因は何か。メダルへの執念が劣っていたということに尽きると思います。「勝負の世界は思いが強い方が勝つ」とは真剣勝負の鉄則ですが、ビジネスにおいても同様のことは言い得ることではないでしょうか。

今回、韓国選手を勝利への「思い」に掻き立てたモノは、「銅メダル以上で徴兵免除」という国が用意したインセンティブでした。JOCが特定の競技だけに特別インセンティブを儲けることは難しいでしょうから、この場面ではサッカー協会が3位決定戦を前に「メダル獲得したら○○」という、選手にとって魅力的な特別インセンティブを用意する必要があったのではないかと思います。「思い」を左右する組織のモラール向上において、強力なインセンティブをぶら下げすぎることは好ましくないケースも間々あるのですが、同業のライバルが公然と知られた強いインセンティブに突き動かされていることが明らかであるのなら、それ相応のインセンティブ対応をすることも必要なことであるのです。