日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

魅惑の2枚組 ~ 黄昏のレンガ路

2007-09-30 | 洋楽
今日は9月30日、私の誕生日であります。
ちなみに、私とマーク・ボラン以外の同じ9月30日生まれは、石原慎太郎、五木寛之、少年隊東山などなど。
歳をとるとあまりめでたくもないので、「誕生日」という話題は特にございませんが、いろいろ今日は盛りだくさんになりそうです。


まず最初の話題。
昨日は私が8歳の頃から応援しております日本ハムファイターズが、見事パシフィックリーグ2連覇の偉業を成し遂げました。この勢いで、2年連続日本一を期待したいものです。できれば、巨人とやりたい。
昭和56年後楽園決戦を2勝4敗で敗れたあの雪辱をなんとか果たして欲しい!
「今年のダルビッシュを打てるものなら打ってみろ、小笠原!」って感じです。

日ハムネタは、いろいろ今年の優勝からも学ぶべき点が多いので、また後日改めて。


さて、せっかく誕生日なので、私の大好きなアルバムの話をいたします。

実は、レコード時代から2枚組モノが大好きでして、ビートルズのホワイト、ストーンズのメインストリート、ツェッペリンのフィジカル・グラフィティ、ディランのブロンド・オン・ブロンド、エルトン・ジョンのグッバイ・イエロー・・・、ダン・フォーゲルバーグのイノセント・エイジ、スプリングスティーンのザ・リバー、などなど、み~んな大好きです。

2枚組ってそのアーティストの才能の引き出しの奥の方が見えたり、1枚では表現しきれない隠れた趣味の部分が知りえたり・・・。それはきっと、1枚組ならカットされてしまったであろう曲たちが、いろいろな角度からアーティストのまだ見ぬ世界を教えてくれるからではないでしょうか。
要は、1枚のアルバムにまとめるときには、ある程度カッコをつけて化粧した顔しか見せないのに、2枚組となるとどこかでチラッと素顔が垣間見れるとでも言うんでしょうかね。その辺の感じが大好きなんです。

大体においては、1枚に収まりきらなくて2枚組になるってケースがほどんとですから、言ってみれば創作意欲、あるいはアーティスティクなポテンシャルが最高潮に近い状態でないと、作りえないものなんではないでしょうか。
ビートルズも、ストーンズも、ディランも、エルトンも、皆そんな感じで納得のアルバムばかりです。

で、どのアルバムの話にしましょうかね・・・。

う~んどれも甲乙つけ難いのですが、忘れもしない中学生の頃、人生初買い2枚組LPで収録曲の圧倒的な水準の高さにノック・アウトされた「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」でいきましょう。
それまで、お小遣いをせっせとためては、厳選して買っていたLPレコードですが、いつも買ってから思うことは、「なんか10曲とか入っていると、2~3曲はどうでもいいのが必ず入ってんだよなぁ。まあ、シングル(2曲で500円)に比べて割安だから仕方ないか・・・」ということ。
LPというのはシングルレベルのいい曲ばかりが入っているわけではなくて、「埋め草」的曲も含めて種々雑多、要は“まとめて買えばお買い得”的ものなんだよなぁ~と思わされはじめていたのです。

そんな訳で、「今後はアルバムはやめてシングル買いに絞ろうかな」と思ってみたり、「そうは言ってもアルバムを買うことこそファンの証だ」と思ってみたり、洋楽初心者としてけっこう苦悩の日々を送っていたわけです。

そんなある日、新曲「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」を聞きました。その瞬間に「こりぁすごいや!必ず後世に残る名曲になるぞ!」と確信しました。そして深夜放送でこの曲をはじめて聴いた翌日には、学校で音楽仲間の友達どもに「おー、エルトン・ジョンとかいうヤツの新曲さ、ビートルズのレット・イット・ビーに匹敵するスゲー曲だぜ!」と言いまくっておりました。

この翌日の言いまくりには、実は理由があって、当時高価なLPレコードはなるべく友達とダブらないように買って、貸し借りするのが暗黙のルールだったんですね。で、「この曲気に入ってるぞ」といち早く皆に言うことは、イコール「俺がLP買うから、お前らは買うなよ。唾つけたぞ」って意味合いでもあったんですね。

事実、その決心は十分できるほどその曲を気に入っていましたから、当然OKだったのですが、暫くして困ったことが起きました。
ラジオで、エルトン・ジョンのニューアルバムの話が伝えられると、どうやら2枚組だという話・・・。「えーっ2枚組かよぉ。高いし20曲近くも入っていたら満足できる曲が半分もないかもしれないじゃん。やべーなー」って感じで、結構青くなってしまいました。

でも、宣言した以上はしかたない、イザという時用にためていたお年玉の出番です。緊張の面持ちで、せかす友人どもと学校帰りに、次回レコード購入時の割引チケットがもらえるという秋葉原石丸電気2号店へ。当時としては破格の出費3000円也。でも、お店で手にしたジャケットのイラストの美しさと三つ折ジャケの豪華さに惚れ惚れとして、中身はともかくその満足度でとりあえず1000円分ぐらいは回収できたような気がしたのをよーく覚えています。

家に帰ってレコードに針を落として、とにかく唖然。駄曲なし。こんなに良い曲ばかりのLPってありうるんだ、という感動でもう毎日毎日擦り切れるほど聞き続けました。私の洋楽史の中で、レコードのかけすぎで音が悪くなり、新しいものに買い換えたアルバムって、後にも先にもこれぐらいじゃないかと思います。それほどまでのお気に入りアルバムであります。

タイトル曲はもとより、有名曲では「土曜の夜は僕の生きがい」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」「ベニーとジェッツ」。他にも様々なタイプの曲が全部で17曲。今でも彼のライブでの定番曲がたくさん詰まっています。
年月を経れば経たで、またその時その時で様々な味わいを感じさせてくれる、そんな懐の深いアルバムでもあります。

もちろん私はそれから、大のエルトンファンになりまして、ありとあらゆるアルバムを聞きつくしました。彼の70年代のものに関しては、ホントはずれなしです。

でも、彼のアルバムでは間違いなくこの「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」がナンバーワンです。私にとってはいまだに愛聴版でして、ビジネスのスランプ時などに欠かすことのできないエネルギー源でもあります。
いわゆる私の“無人島アルバム”最重要の1枚です。

でも彼、残念ながら“オカマちゃん”イメージの先行からでしょうか?日本ではなぜか人気がいまいちですね。
久々に11月日本にやってまいりますので、彼については、また改めていろいろ書かせていただきます。

今日は久々に、「グッバイ・イエロー・ブリックロード」を全曲とおして聴いてから寝ることにします。


さて、秋のGⅠ開幕です。今日は第一弾、スプリンターズ・ステークス。

スプリンターズ・ステークスは、生憎の道悪です。道悪データは少ないですが、穴は「逃げ先行」+「牡馬」で、4オレハマッテルゼと13メイショウポーラーの複勝。「経験則」から相手は人気の差し馬で、武豊15スズカフェニックス。4-15、13-15のワイドを少々。

先週の「経験則」、いきなり神戸新聞杯で炸裂でしてましたね。前走古馬重賞GⅠ宝塚記念の5番人気アサクサキングスが2着で中穴馬券でした。秋はこの「経験則」お忘れなく。


過渡期の魅力 ~ AORの功労者マイケル・マクドナルドの仕事

2007-09-29 | 洋楽
今日はリクエストにお応えして、ドゥービー・ブラザース。

このバンドは良く言われるように、前期と後期では全く趣の違う2つのバンドと捉えられます。前期は、トム・ジョンストンを核とした正統派アメリカン・ロックバンド、後期は途中加入のマイケル・マクドナルドを中心としたブルーアイド・ソウルAORバンドと言えるでしょう。

私は、どちらもそれなりに好きではあります。一般的には、前期は名曲「ロング・トレイン・ランニング」「チャイナ・グローブ」を含む「キャプテン&ミー」、後期はグラミー賞受賞マクドナルド・パワー全開で「ホワット・ア・フール・ビリーブス」を含む「ミニット・バイ・ミニット」あたりが定番アルバムでしょう。

私のフェイバリットは、例によって少々ヒネクレです。前期・後期の過渡期で、双方の要素が程よくミックスされたアルバム「ドゥービー・ストリート(Takin It TO The Street)」がイチオシ。このアルバムから元スティーリー・ダンのマイケル・マクドナルドが加わり、大人のロックバンドへの脱皮が始まります。ただまだ彼の存在は、気持ち控え目。その控え目な新しいカラーと、従来のドゥービーカラーが絶妙に混じり合って、得も言われぬいい感じに仕上がっています。

中でもオススメな1曲は、「運命の轍」。彼らの代表曲「ロング・トレイン・ランニング」に“こだわりの塩”で塩味を利かせて、引き締めたとでも言うのでしょうか。中間部でパット・シモンズからトム・ジョンストンにバトンされるボーカルワークも粋ですし、フュージョンぽく展開する間奏もメチャメチャかっこいいです。

曲はパット・シモンズ中心の作ですが、フュージョン系アレンジメントやアダルト・コンテンポラリー・フィーリングのコーラスワークは、明らかにマイケルの仕事でしょう。

このアルバムでのマイケルの活躍を見て、彼を“お役御免”にした“元雇用主”スティーリー・ダンの二人が奮起し、意地であのアダルト・コンテンポラリーな名作「aja」を作ったと言われています。
このアルバムなくして「aja」なし。その意味からも、個人的には意義深い1枚です。

自分に翻って言えること…。
誰しも元仕事仲間その後の活躍を目の当たりにすると、ビジネス・パワーは嫌が上にも高まりますよねぇ。つまりまずは、よきライバルになりうるレベルの人たちとの仕事こそが、将来的に自分を高めることにもつながるわけですな。よき仕事仲間は、一緒にやっている時だけでなく、その後も刺激を与え続けてくれる訳です。自分もまた仕事仲間を刺激し続けていかにゃいかんですね。
気持ちを引き締めてまいりましょう!

シーンが目に浮かぶ音楽♪ ~ 落葉のコンチェルト

2007-09-28 | 洋楽
堅い話が何日間も続いたので、週末に向けて音楽の話題です。

音楽と付き合う楽しさのひとつは、曲そのものの味わいだけでなく、その曲にまつわる思い出の場面や連想される風景が知らず知らずにセットされて、記憶されていたりすることです。

今風には、画像付きiPod状態でハード上に保存されているとでも言うのでしょうか…(iPod自体をよく知らないので、ほとんど想像で言ってます)。
イメージや思い出がセットされやすい曲、そうでない曲、その差はけっこうあるかもしれません。
比較的画像の“添付”がされ易いのは、季節感のある曲でしょうか。
そんな季節感も含めて、私の画像鮮明度No.1ソングは、アルバート・ハモンドの「落葉のコンチェルト」です。

この人代表曲は、70年代POPを語るときにははずせない大ヒット曲「カリフォルニアの青い空」。
「落葉のコンチェルト」は、当時はよくあった日本独自のシングルカット曲でした。日本では、「カリフォルニア…」に次ぐかなりのヒットだったと思います。いい曲なのに、なぜかアメリカではシングル発売されず…。
ちなみにこの曲が日本で流行っている頃、全米トップ40での彼のチャート・アクション曲は、「ダウン・バイ・ザ・リバー」とか「フリー・エレクトリックバンド」とかでした。

「落葉のコンチェルト」って、とにかく日本タイトルが最高にハマってますよね。いかにも「秋」って感じの曲調とアレンジ。でも原題は、「フォー・ザ・ピース・オブ・オールマンカインド」。???
直訳すれば、「人類の平和のために」。なんじゃそれ?「コンチェルト」はおろか、「落葉」も「秋」も全く関係なし。さすがにタイトルが人類の平和だからと言って反戦歌ではないようですが、「君がいると穏やかでいられないから、世界平和のためにいなくなってくれ!」っていう、少々大仰なラブソングであるようです。

いずれにしても、邦題は当時のCBSソニーのディレクターあたりが命名したのでしょうが、最高のコピーライティングですね。おかげで私もすっかりだまされて、この曲を聞くと学生街の喫茶店の窓越しに落ち葉が舞う鋪道の画像をイメージしたり、街路樹の通りを肩寄せ歩く恋人たちをイメージしたりして、毎年秋の“センチメンタルごっこ”には欠かせないBGMになっています。

これもし邦題が、「人類の平和のために」だったら、売れなかったんじゃないかと思いますね。アメリカ本国で、シングルカットされなかった理由はそこにあるんじゃないか、って思ったりもします。

やっぱり商品のネーミングって大事です。いかに良い商品でも、ネーミングが悪くちゃ売れませんからね。

でも、「落葉のコンチェルト」。中身に「落葉」も「コンチェルト」もないし、ただのお湯を「温泉」と偽って表示していたどこかの温泉街と一緒?
今の時代じゃコンプライアンス違反ですかね。

経営のトリセツ6~「2代目がダメにし、3代目がつぶす」は本当か?

2007-09-27 | 経営
「組織経営者に求められる“ふたつの顔”」に関する応用編の話をひとつ。
「2代目が会社をダメにする」という通説について考えてみます。

自身は「カリスマリーダー」として、「社員の代表」たる“ナンバー2”との見事な分業で会社を育てた創業者ですが、跡を継ぐ2代目は、創業者が偉大であればあるほど、またカリスマ性が強ければ強いほど、「先代にはかなわないから別の手段で会社をまとめよう」と考えるようになります。すなわち「カリスマリーダー役」は先代に任せ、社長就任前の専務、常務の時代から皆に気を遣い「社員の代表」として社内の支持を集めようし、そのまま社長就任となるケースが多いのです。

そうなると、どういうことが起きるか?まさに「絶対的リーダー不在」、さらには先代が作ったナンバー2との役割の“カブリ”が生じます。最悪のケースは、ナンバー2が役割の“カブリ”を察知し、「私の役目は終わりました」と辞任してしまうケースです。残されたのは、旧ナンバー2よりも未熟な「社員の代表」で、かつ「カリスマ性」や「牽引力」のないトップのみ・・・。経営者が持つべき「ふたつの顔」のうちのひとつが失われ、もうひとつも弱くなる。組織運営には大きく暗い影を落とすとことになります。

何となく、「ぶち壊し屋創業」の小泉内閣の後の安倍内閣にも通ずる話ですね。言ってみれば、内閣は中小企業みたいなものですからね。

先代が会長職等で残っていれば、まだ2代目との“分業”での体制は当面保てますが、それも長くは続きませんから(異様に長い場合もありますが・・・)、早々に役割の入れ替えを検討しなくてはいけなくなるでしょう。2代目に譲ると決めた段階で、先代が2代目に教えるべきことは、いかにして「牽引力ある経営者になるか」というとこにつきます。そればかりは、ナンバー2に任せるわけにはいかず、社長自らがしなくてはいけないことですから。昔からよく言われる「帝王学」とは、まさにこのことなのです。

「院政」をひいて社長を譲った後も、「カリスマ」として君臨する創業者をよく見かけますが、これは結果的に「牽引力ある」2代目が育たず、将来にわたり徐々に企業体質を弱めていく原因になるということを認識しなくてはいけないと思います。

少し余談。
「うちは代々サラリーマン社長で、誰がトップに立っても全然牽引力も感じない代わりに、会社が弱っているという心配もないよ」ということを話す人がいます。
これは大企業やそれに近い企業などのケースでしょう。既に確固たる組織ができあがっている企業では、「経営者の牽引力」の有無が大きな問題にはならないのです。逆に、サラリーマン社長の大企業では、カリスマ的牽引力はない「社員の代表」的トップが代々続くのは普通のこと。むしろ、そんな企業に「カリスマ」的社長が現れると、それが転機になって会社の体質を一層強くすることがあります。稀に起きる大企業経営における「経営者のふたつの顔の実現」です。SONYの出井前CEOなどは、SONYの企業風土にも後押しされたそんな稀な例ではなかったでしょうか。企業のサイズに関係なく、「ふたつの顔を持つ経営」はやはり企業経営には大きく貢献する要素なのです。
たいていの場合大企業では、「カリスマ」が現れるケースは少数で、通常はより強い「社員の代表」権争いが生じ、いわゆる“派閥抗争”が起きやすくなるのです。“派閥抗争”が激しくなりすぎると、「社員の代表」権が分裂し実際にはトップが“社員を代表していない存在”に成り下がり、確固たる組織が出来上がっているにもかかわらず、企業が迷走し存亡の危機を迎えるようなケースもあるのです。

話を戻します。
大企業と異なり中小企業では、カリスマ創業者から「社員の代表」であるが「牽引力のない2代目」へのバトンタッチは、命取りになりかねません。運よく「牽引力のない2代目」が持ちこたえても、それを見て育った次の代では、さらに弱い経営者になる可能性が高くなります。2代目が「社員の代表」役のみを務めていたとすれば、3代目は「ふたつの顔」をひとつも持てない可能性も出てくるからです。
こうして考えると、「創業社長が大きくした会社は、2代目が会社をダメにし、3代目が会社をつぶす」とよく言われる話は、けっこう真実味があることであるとお分かりいただけると思います。

会社は人が作るもの、組織は人が動かすものですが、生き物であり本当に難しいですね。
経営における「人」と「組織」のバランスの問題は、会社の生死にかかわる企業経営の永遠のテーマであります。

経営のトリセツ5 ~ “番頭さん”はなぜ必要か

2007-09-26 | 経営
引き続き「組織経営者に求められる“ふたつの顔”」についてです。

「カリスマ」と「社員の代表」、明らかに矛盾していそうな、ふたつの経営者の顔。昨日は至って簡単なことのようにお伝えしましたが、「軽くに言ってくれるけど、そんなにやすやすとできる訳ないだろう!」と思われるムキもあろうかと思います。

もちろん私も、社長ひとりでこれが完璧にできる人は、世の中決して多くはないと分かっています。では、一般的にどうしたらよいでしょうか?

答えは簡単。自分でできない、あるいはできる自信がない場合は、「社員の代表」としてマネジメントを考え実践する人を別に作ればいいのです。そのかわり、その人物には「社員の代表」部分の経営者として、自分と対等の発言力を与えかつ彼に対する“聞く耳”を持たなくてはいけません。
これこそが、“社長分業制”の第一歩かつ最重要ポイントなのです。

その人物の人選が、また大切です。単なる社長の腰巾着や提灯持ちの“イエス・マン”にやらせたのでは、「社員の代表」になり得ません。しっかり社内を見渡せ、状況を踏まえて社長の顔色をうかがうことなく、意見が言える人物でなくてはいけません。

「そんな奴はどこにでもいるもんじゃないだろう」、そんな声もまた聞こえてきそうですが、そういった人物を育て作り上げるのは、社長の任務であり社員に対する責任の遂行でもあるのです。それはまた、「俺と社員の会社」を作るための最低条件であるとも言えます。

コンサルタントや上場支援のファンドや監査法人などからよく聞くお話に、「有能な参謀がいる会社は大成する」とか、「会社が大きくなれるかどうかはナンバー2次第」という類のことがあります。昔からよく耳にする、「あの会社は、“番頭さん”がしっかりしているから安泰だよな」と言う話と同じでしょう。

まさに、求められる「社員の代表」こそは、ここで言う「参謀」であり、「ナンバー2」であり、「番頭さん」なのです。
いずれの場合も言えることは、単に参謀が、ナンバー2が、番頭さんが、優秀だったのではなく、社長が彼らを育て、「社員の代表」としての確固たる立場を認め、自分との経営分業を確立できる“優秀さ”を持ち合わせていることこそが大切なのです。

また、長くなりそうなので今日はここまで。
明日はさらにこの考え方の「応用編」を少し。

経営のトリセツ4 ~ 経営に求められる“ふたつの顔”

2007-09-25 | 経営
前回の続きです。今回は「俺と社員の会社」以降の社長のリーダーシップのあり方について。

「俺と社員の会社」以降、すなわち組織化以降の社長はどうあるべきなのでしょうか。この課題に関する私の自論は、「理想的な経営者はふたつの顔を持て」です。

「ふたつの顔」についてご説明いたしましょう。

ひとつ目はそこまで会社を大きく成長させてきた「牽引者としての顔」。場合によっては「カリスマとしての顔」であったり「独裁者としての顔」であるかもしれません。いづれにしても、「強い個性に裏打ちされた指導者としての顔」は、「組織化」の後の経営にも不可欠な要素と言えるでしょう。

「俺の会社」時代に会社を引っ張ってきた、ある意味“ワンマン”な社長の顔は引き続き必要なのです。
「あれっ?会社の一層の成長のためには、ワンマンから意識を入れ替えろって言ってなかったか?」って?

意識を入れ替えろと言ったのは、すなわち「ワンマンをやめろ」ではなくて、「違う形のワンマンへ脱皮せよ」と言うことなのです。「違う形」が何かと言えば、それがすなわち「ふたつの顔を持つ」ことであり、このふたつ目の顔こそが最重要ポイントなのです。

では、核心「ふたつ目の顔」についてです。
ひとことで言えば、「組織の代表者としての顔」です。もっと噛み砕けば「社員の代表者としての顔」と言ってもいいでしょう。これこそが「組織」を形づくり、さらに成長を続けさせていくために不可欠な要素と言っても良いと思っています。

なぜ「社員の代表者としての顔」が大切なのでしょう。それは「社員の代表者」であるためには、「社員」の立場でモノを考え、場面場面で「社員の意見を取り入れたり」「社員に任せたり」する事が不可欠になるからです。
すなわち、「ふたつ目の顔」こそ、社員の立場を踏まえた上で、「責任と権限の委譲」を可能にする大切なポイントでもあるのです。

この項まだまだ長くなりそうなので、続きは明日。

70年代ベスト100?

2007-09-24 | 洋楽
「レコード・コレクターズ」という音楽雑誌があって、特集記事にもよりますが、けっこうよく買って読んでいます。

その名のとおり、けっこうコレクターズ志向の雑誌で、毎月昔活躍したアーティストを特集して深堀したり、各種テーマでいろいろな企画をやってみたり、個人的にはかなり楽しませていただいております。特に70年代に活躍したアーティストの特集も多く、私の好奇心を満足させてくれるに足りる雑誌として「お気に」であります。

執筆陣の中では大鷹俊一氏や和久井光司氏の文章が秀逸です。音楽的な趣味では、かなり違うのですが、彼らの評論には「さすがプロ!」とうならせられるものをいつも感じ楽しく読んでおります。

そんな愛読誌で、今年の5月、6月、7月号の3回にわたり、創刊25周年を記念して「60年代、70年代、80年代ロックアルバムベスト100」なる企画が取り上げられました。
私の専門の70年代は6月号。心待ちにして読んだものの、どうもしっくりこないものを感じ、その原因を自分なりに解明すべく同誌に投書をしてみました。投書を書きながら分かった「しっくりこない原因」はこうでした(私はだいたいが、モノを書いたり、人に考えを話したりしながら自分の考えを整理するタイプなんです。このブログの目的の半分はそれですね)。
選者25人のうちたった1人が1位に挙げたというだけで、かなりマニアックな作品がベスト100にはいってしまっている、そのために70年代をより代表するであろう作品が漏れてしまった、という集計方法の問題であると思ったわけです。

編集部でも「なるほど」と思ったのか、同様の意見が多かったのか、なぜか私の投書は採用されまして、翌7月号の「レターズ」コーナーに紹介されました(原稿料なしですけどね。詳細知りたい方はバックナンバーをご注文ください。アマゾンでも入手できるようです。㈱ミュージックマガジン発行です。)。
本題には関係ありませんが、驚いたことに、この投書をみてどこで調べたのか、私の家に「同感です!」と鹿児島の読者から電話がかかってきました。70年代ファンは力強いですなぁ。ある意味、うれしいっ!

そうこうして2ヶ月ほどたち忘れた頃になぜか、私の意見に反論するような投書が9月号の「レターズ」に出ておりました。まあ、一部飛躍の感じられる勝手な論理展開や思い違いでモノを言っている感じはしたのですが、それにまた反論しても子供じみているのでそれはやめました。

でも今回自分の意見を雑誌で取り上げられたことで、それがまた議論のタネになったということは、70年代に半端じゃない思い入れのある私からすれば、それなりに言ってみて意味のあることだったのではないかと思っております。
聞くところによれば、私の投書、それに対する反論をきっかけに「2ちゃんねる」でもかなり熱い議論がなされていたとか。「おい、言いだしっぺを置いてきぼりにして、勝手に盛り上がんなよ~!金とるぞ~」って感じですが、これまた嬉しくもあります。

またまたそうこうしてたら、その3ヶ月の特集記事を再編集した別冊が出ていました。同誌の寺田編集長は私の投書が掲載された号で、「別冊検討時には読者の皆さんの意見も取り入れて、違った集計方法も検討したい」ようなことを言っていましたが、結局は集計方法に変更はありませんでした(寺田クン、君が新人編集長の頃、神奈川新聞記者として君に取材した大関だヨ)。したがって、私も別冊の購入は見送りました。は、は、は・・・。
おまけ話として、立ち読みしたら「この企画には過去に例がないほどの投書が来た」とあったので、その中で選ばれた私の投書“作品”はなかなかなものであったと、再びほくそ笑んでしまったりでありました。でも、買いませんよ別冊。

雑誌のランキングがどうであろうと、私は私なりの価値観で、70年代を愛し続けていきたいと思っております。これからも、週末を中心に、70年代ポップ&ロックのお話を私の勝手な価値観をベースに、当ブログで展開してまいりますので、よろしかったら皆さまお付き合いのほどよろしくお願いいたします。ご意見、ご要望、いつでも承ります。


さようなら個性派モデル ~ 山口小夜子さんを偲ぶ

2007-09-23 | その他あれこれ
国際派の日本人モデル山口小夜子さんの死が報じられたのは、8月の暑い最中。ちょうど彼女がその美しいジャケットを飾った「aja」の主スティーリー・ダンが、来日公演をしてるそんな折も折でした。

山口小夜子さんは、「東洋の神秘」と謳われ、まさに国際派日本人モデルの第一人者でありました。特徴的なおかっぱの黒髪がトレードマークで、日本人女性の美しさを臆することなく表現するそのスタイルは、モデルの域を超え芸術的であるとさえ思えました(当時国際的に有名な日本人女性といえば、“ビートルズを解散させた”オノ・ヨーコさんが筆頭の時代で、日本人女性に対する印象がお世辞にもいいとは言えない時代だったように思います)。

私が彼女を知ったのは、まさにスティーリーダンの「aja」のアルバムカバー。77年当時、日本人で第一線の洋楽の世界に参加をしていたのは、フェイセズの山内テツ、「GO」のツトム・ヤマシタ、そして彼女山口小夜子ぐらいのもの(なぜか皆“ヤマ”がつきます)。しかも、当時今をときめく人気クロスオーバー・ロックバンド(まだフュージョンという言葉はない時代でした)の話題の新作のカバーを飾ったのですから、驚きとともに日本人の誇りみたいなものが沸々と湧き上がるのを感じたりもしました。

後に「aja(彩)」が実は韓国人女性のことをイメージしたものであるという話を聞き、実に当時らしい「日本も中国も韓国も、アジアに大差なし」という欧米人の感覚に少しガッカリさせられたこともありました。でも、そのことが彼女が飾ったその美しく芸術的なジャケットの価値を、少しでも下げるものではない、むしろ本来韓国人を起用すべきところを、日本人の彼女が選ばれた光栄を喜ぶべきであるとさえ思ったものです。

彼女の死亡が確認されたのは、ご自宅のマンションで亡くなられてから数日以上の日数がたっていたとのこと。スティーリー・ダンの来日公演が始まる前か少なくとも始まった頃には、既に人知れず亡くなられていたようです。
亡くなられていたとは知らず来日に絡んで、彼女の話題を話していた人も多いことでしょう。私もそのひとり。今となってはまるで、ひっそりとひとり息絶えていた彼女が、「早く私を見つけてください」とメッセージを送り続けていたのではないかとさえ思えるほどです。
いずれにしても、スティーリー・ダンの来日中に亡くなるとは、なにか不思議なものを感じずにはいられません。
訃報直後の2ちゃんねるでは、ドナルド・フェイゲン氏が葬儀に出るというような情報も流れていました。

私が見た8月24日のステージで彼らは、アンコール時に彼女への追悼のメッセージを一言述べ、「aja」からの曲「ホーム・アット・ラスト」を彼女に捧げるとして演奏しました。「自分の帰るべき家をやっと見つけた」という内容のこの歌。何か示唆的なものを感じさせる選曲であったと思います。

山口小夜子さんの「お別れ会」が、今月19日に築地本願寺で開かれるという新聞の記事を見ました。
残念ながら、仕事で熊谷を離れることができない日だったので、参列はできませんでした。会場ではアルバム「aja」の音は流されたのでしょうか?
「ホーム・アット・ラスト」―、彼女の帰るべきホームは日本に違いなかったと思います。この週末は、「ホーム・アット・ラスト」を聞きながら個人的に故人を偲んでいます。


さて、本日の競馬ですが、出番を感じないのでお休みです。

先週の競馬で忘れていたこの時期特有の「蓄積経験則」がありました。まだ暫く役に立つのでお伝えします。それは、「3歳限定戦出走の前走古馬重賞挑戦馬は着順にかかわらず要注意」ということ。先週14番人気でセントライト記念3着のスクリーンヒーローはまさにそれでした。うっかり忘れており失礼しました。
という訳で、本日産経オールカマー出走のサンツェッペリンは、次走菊花賞に出るようであれば、今日の着順に関係なく要注意ということになります。
ご参考まで。

子供にゃ分かるまい ~ ロッドのホントの魅力

2007-09-22 | 洋楽
土曜日は音楽ネタで。

長年70年代ポップ&ロック・フリークをやっていると、昔はたいして好きでなかったものが、最近になってけっこう好きになったりなんてこともあります。

私にとってそんなものの代表格が、マーキュリー盤のロッド・ステュワート。中学、高校時代の私もロッドはけっこう好きなアーティストでしたが、「アトランティック・クロッシング」以降のワーナー盤ばかりに熱くなっていました。

当時からヒネクレで、「アイム・セクシー」とか「セイリング」とかの人気曲はイマイチ好きになれなかったのですが、「スリータイム・ルーザー」とか「ただのジョークさ」とか、フェイバリットもたくさんあって、79年の「ブロンズ・ハブ・モアファン・ツアー」で来日したときなんかは、抽選だったプラチナチケットを主催TV局にコネありの友だちに頼み込んで、ウラルートで武道館の特等席なんかを手に入れて大喜びしたりしてました。

当然それなりのファンでしたから、時代をさかのぼってマーキュリー時代のアルバムも聞いてはみたものの、なんかどれもイマイチ…(当時同時進行のロッドのバンド、フェイセズはロン・ウッドのヘタウマギターが妙に好みで、けっこう聞いてましたけど)。
印象からすると、モコモコしたこもり気味の音がやけに古臭く思えて、歯切れの良いワーナー移籍後のサウンドに比べると“なんだこれ?だっせ~ぇなぁ”って感じたように記憶しています。

ロッド・ステュワートも「ブロンズ・ハブ・モアファン(邦題「スーパースターはブロンドがお好き」とか言うタイトルが最悪でしたね)」以降急激な人気下降で、個人的にその音を耳にする機会も少なくなります。

個人的な復活のきっかけは、今から10年ほど前のアンプラグド・ライブ。そこでワーナー時代の代表曲に混じって演奏されたマーキュリー時代の曲が、どうも気になったんですね。
その後、マーキュリー盤の紙ジャケ化を聞きつけて、思わず買い揃えてビックリ!
改めて聞いてみるとスゴい名盤揃いでした。

特に、「ガソリン・アレイ」「エブリピクチャー・テルズ・ア・ストーリー(=写真)」の2作は甲乙つけがたい大傑作です。
要はブリティッシュ・トラッドの流れを組むメロディーとサウンドが、なんともオシャレでイカしているじゃないですか。ディランのカバーなんかもトラッド風にやっていて、オシャレ、オシャレの脱帽です。
ロッドのしゃがれ声も、その後のワーナー時代の産業ロック的バンドアンサンブルより断然こっちの方がフィットしている訳です。

あ~、若かりし頃の私はなんという浅はかなガキの判断だったことよ、とガクゼンとしました。
まさに「子供にゃ分かるまい」のロックここに極まれりだったわけです。

その後のロッドはと言えば、アメリカンスタンダード・シリーズで当てて見事復活。最近では、60~70年代ロックのカバー集とか出してガンバってます。
これはこれで悪くはないんだろうけど、個人的にはなんか“歌のオジサン”になっちゃったみたいで、ちょっとちがうかなぁ~って思ってます。

やっぱマーキュリー盤再現のあの音、あの雰囲気で、トラッドなムード一杯のライブを、ビルボード・ライブクラスの小さなハコで見たいですね。

ビジネスにも言えることですが、安っぽく作られた“擬似大人の世界”には、ガキがけっこう群がるのですが、ベースがしっかりした本物の“大人ノリ”にはガキはついてこれないものです。わが社もめざすはその路線。ターゲットは大人ですから、本物の大人にのみ感じ入ってもらえるサービス提供を心がけたいものです。




経営のトリセツ3 ~ 計数目標共有の重要性

2007-09-21 | 経営
昨日の続きで、「俺と社員の会社」=「組織」という考え方についてです。

会社を成長させる大きなポイントである「俺の会社」から「俺と社員の会社」への脱皮というお話をしました。これはすなわち「組織をつくる」ということでもあるのです。
社長とそれ以外からなる「俺の会社」の時代は、社員ひとりひとりが1日に行う仕事の課題やそれを遂行するための標準条件が呈示される訳ではなく、毎日目の前にあるものを単に処理し、社長が都度指示する課題に取り組むだけの状態が続きます。

20世紀初頭、アメリカの経営学者テイラーは、このような状態を「成り行き管理」と名付け、労働者のその日の気分や社長の監視の有無によって生産性が上がるか下がるか大きく異なる状態であるとしました。
おや?今勤めている自社が、「テイラーの成り行き管理状態」であると感じられる方も、意外にいるんじゃないですか?

社員がすべて社長の手足であるうちは「成り行き管理」でも仕方がないとも言えます。しかしながら、規模が拡大して社長一人の管理では手に追えなくなったとしたら、「成り行き管理」では思うように前に進まず困ったことになるに違いないのです。

テイラーは「成り行き管理」を脱する方法として「科学的管理」を提唱しました。すなわち、課題を与えその遂行標準条件を設定するとこで、「成功」「失敗」の判断基準として報酬に反映させるやり方を考えたのです。誰が上に立っても同じやり方ができる訳で、これはすなわち、組織管理の始まりでもあると言えます。

つまり、「俺の会社」から「俺と社員の会社」に移行することは、社長ひとりの管理から社長自身の管理と他の人による管理に分割管理することであり、他の人による管理を社長からも見えやすくするためには他の人が「組織」として任された部分を管理をする必要があるのです。そして社長は、「お山の大将」もしくは「猿山のボス」的存在から「組織の長として」&「部下を管理する」という立場に変わっていかなくてはなりません。

私が知るかぎり、会社が大きくなってきて社員が増えてくると、「部」や「課」を作ってみたり「部長」や「課長」を任命してみたりはするのですが、結局はすべて社長が決めないと先に進まないという会社がよくあります。形だけの部門創設や肩書だけの役職発令ですね。
「お前がんばってるから部長にしてやるぞ」「ヘマしやがって課長に降格だ!」とか、言ったりしていますが、権限も責任も委譲してなければ単なる「褒美」や「処罰」の一部に過ぎず、まさに「お山の大将」「猿山のボス」の行動と変わらないのです。

形の上で「部」を作り「部長」任命しても、末端まで自分が目を光らせ、直接指示しようとする姿勢が変わらなければ、そこで企業の成長は止まらざるを得なくなるのです。

私はよくそんな会社に出会うと、「社長が社員に権限を委譲して組織をしっかり作らなければ、会社は社長のサイズを超えられないんですよ」と言ってあげます。
でも大抵の場合社長は、「やつらに任せられる訳がないだろう。ここまで会社を伸ばしたのは俺の力だよ。すべては管理しきれないとしても、俺がやったほうがマシだよ。そんな目に見えて業績の足を引っ張ることをやるのはマイナスでしかない!」なんて言い放つんですね。

そんな時は一言!
「「損して得とれ」ですよ。目先は足を引っ張るかもしれませんが、長い目で見れば絶対にプラスになる話です。会社を大きくしたければ、このままじゃダメだって分かりますよね。業績好調の今決心しなければ、不調に転じたときにはとてもそんな余裕はないですよ」
この段階で気持ちが固められないのは、少しでも目先の損を嫌がるかなりケチな経営者です。これが決心できないぐらいだと、早晩ケチるあまりにコンプラ違反でも犯して、“退場”とならなければいいのですけどね…。

決心ができたら次に問題になるのは、いかにいちいち口出しをしない自分になれるか。そのための仕組みづくり=「目標の設定」が不可欠です。目標を定め、途中経過でチェックは入れても、やり方をまかせ結果をみて評価する。管理者には、いかに目標達成に向けて努力させるかです。
そして管理者は、自分に課された目標を部下に割り振って管理する。目標のないところに管理なしですから。

この段階でよく出るのは、「いきあたりばったりで予算も計画もないわが社に、目標数字なんかつくれないですよ」という声です。

たしかに、中小企業では「予算」とか「年度計画」とかがしっかりできている会社はまず稀です。でも過去の「実績数字」はありますし、いかにワンマン社長でも一国一城の主であるなら、社員を食わせるためにいくら稼がなければいけないかなど、社長の頭の中には何らかの「目標数字」なり「計画数字」なりがあるはずなのです。だから、まずはそれらを使って、「組織」が共有できる「目標」をつくればいいのだけの話です。
そんな簡易版の「目標」ができれば、その数字を管理者に分け与えて、さらに管理者はそれを部下に分け与える、ごくごく簡単なことからのスタートでかまわないのです。

社長がうまくできないなら、その部分の入口だけ私のような“安い(?)コンサルタント”に頼んだっていいんです。それと並行して、社長との「分業」相手になる管理者の意識づけを外部研修でおこなうとか(管理者教育は社内では難しいです)、部下を育てられる管理者養成をしっかりやっていけば、2~3年できっと組織然とした企業ができあがることと思います。


思いがけず長々と、具体的な話にまで展開してしまいました。
この項、さらに次回「トリセツ」に続きます。