-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の「山楯」を調査しています。

2016-12-10 18:11:06 | 歴史

 畑沢のお祭りがあった4月15日、熊野神社での会話から4月下旬に新たな石仏調査を開始し、その際に「山楯」という楯の遺構に関して驚きの新事実を発見してしまいました。このことは4月30日のブログにも少しだけ報告しております。背中炙り峠楯の調査がほぼ終了したと思っていましたので、そろそろ畑沢の事を調べた諸々(もろもろ)をまとめようとしていたのですが、新たに見つかった「山楯」をそのままにしておくことができません。これを調査しなければと思っていたのですが、如何せん、樹々の葉が茂っていると地形が分かりませんので、来春の雪融け直後を待つことにしていました。

 ところが、来春まで待てない状況が生じました。来る1月14日(土)に常盤地区役員方の新春を祝う会で、「畑沢の話をしてくれ」との要請がありました。同じ常盤地区出身と言っても、私たちは互いの集落について知らないことだらけです。特に畑沢は最も小さい集落ですから、常盤地区民でも御存じない方が大部分でしょう。せっかくの機会をいただいたので、「畑沢の宣伝」をさせてもらうことにしました。そのために、楯について話をする際には、背中炙楯の外に山楯も紹介しなければならないと考えた次第です。とても来春まで調査を待っていられない状況になったのです。勿論、まだ地面の草木が地面に押し付けられていないこの季節は、調査に適した時期ではありません。それでも概略程度は掴めまなければなりません。

 そこで、畑沢の区長さんにお話をして了解を得てから、現場に出かけてきました。次の写真は、楯の一番上の曲輪があった場所だと思います。今は畑として使っているのですが、ほぼ元々の地形を残しているという話を聞いています。最長部で100mぐらいはあります。背中炙り峠の楯の主曲輪でも80mですから、かなり大規模な楯のようです。

 楯からの眺望は、すこぶる快適です。畑沢の全域が見渡せます。この楯は背中炙り峠越え街道(古道)にぴったりと寄り添って作られていて、道を守る楯のようです。野辺沢銀山から山形へ金銀を運ぶ街道は、重要な産業道路です。野辺沢氏は、楯を作って街道を守りました。背中炙り峠の楯も「山楯」から見えますので、互いの楯は連絡を取ることができます。ただし、野辺沢城は見えません。

 さて、この様に「楯を調査しましたよ」という証拠写真をお見せしましたが、肝心かなめの楯の図面をお見せすることができません。そこで、言い訳をします。県道から見える範囲内に楯があるものと高をくくっていたのですが、とんでもない大規模でした。県道から見えるのは、曲輪を縁取(ふちど)る斜面だけですが、実際に登ってみると、それぞれの曲輪には奥行きがありました。さらに、尾根上の曲輪だけでなく、曲輪の脇にも帯曲輪(おびくるわ)が長く伸びています。「えっ、そんな話きいてないよ」と言いたくなります。私の安易な憶測は、見事に裏切られてしまったのです。そして、ホールドアップ。とてもその日だけでは調査を終えることができませんでした。それでも、拙い調査結果を基にして、図面に表わそうとしたのですが、その書き方の下手なこと。とても自分のものとは言いたくない出来です。そんなことで、もう少し図面はお待ちください。ん?、「少し」だけかな、本当は「かなり」お待ちいただくことになりそうです。


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