-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

延沢城と銀山温泉の勉強をしてきました。

2019-06-16 21:46:25 | 近況報告

 5月中旬から6月中旬にかけて、「尾花沢市観光ボランティアガイド養成講座」が開催され、私も参加しました。畑沢の四つの楯跡と畑沢の歴史を考えるうえで、野辺沢家と銀山は欠くことができないものです。さらに観光客に対してガイドできるならば、畑沢に対する認識を深めることができることをも目指しました。

 令和元年6月15日(土)が最終の講座でした。現地で説明を受けました。尾花沢市サルナートを出発点にして、尾花沢の知教寺の山門を車内から見学して、延沢の龍護寺へ向かいました。私は元々、歴史に全く興味がありませんでしたので、これまで龍護寺の前を何百回も通ったことがあるにもかかわらず、常に山門のはるか彼方から眺めていました。今回、ようやく山門を見学しました。この山門は野辺沢城(延沢城)の大手門だったそうです。少なくとも最上家改易の元和八年(西暦1622年)から約四百年の歳月が流れています。屋根は金属板に葺き替えられていますが、柱などの骨組みは当時のままだそうです。木材は欅と見られます。

 

 延沢城への登りは、本来の城の正門方向からです。小学校時代に「お城山に登る」ときは、校舎の最北端にあったトイレ(便所)棟の側からで、当時の良い子たちはそれが正しい登り口と思っていたのですが、本当は全く異なる場所にありました。当時は小学校の旧校舎が邪魔をしていて、城の正門からの登り口に近づけなかっただけだったようです。今の校舎は大部、規模が縮小されましたので、この正門からの道を登ることができるようになりました。下の写真の左に校舎の一部が写り込んでいます。

 

 途中、三の丸などの大きな曲輪が幾つも杉林の中に見えました。講師によると、これらの曲輪はまだ城跡として図面化されていません。これらも図式化されると延沢城の規模の大きさをイメージすることができそうです。図式化したものは「縄張図」と言うそうで、城の平面図のことです。それなら「城の平面図」と言ったほうが分かりやすいと思うのですが、城跡研究者界での伝統なのでしょう。これまで延沢城の平面図は、主要部分しか書かれていませんでした。ところが、今回、案内していただいたことにより、その周囲にも途轍もなく多くの工作物があることを知りました。

 さて、さらに七曲(ななまがり)と言うつづら折りの道を登り詰めると、敵方には恐ろしい桝形門(ますがたもん)に到着です。何故、恐ろしいかと言うと、四方から矢玉で撃たれるからです。下の写真がそれです。世が世なら真っ先に私は撃たれていたでしょう。写真中央上部に本丸へ向かう登り道が見えます。勇敢な武者がコウモリ傘を槍にして、攻め上っていきます。皆の者続けー。わしは殿(しんがり)でよいぞー。


 本丸の大杉を仰いでいます。樹齢は四百年以上です。保存会のメンバーの手で、可愛い二代目が育てられていました。


 延沢城の後は、銀山温泉の説明です。土曜日なので観光客が大勢でした。車は県外ナンバーが圧倒的に多く、山形県のナンバーが珍しいくらいです。この一部が背炙り峠に迷い込んで、「交通止め」の看板を見ることになります。可哀そうです。早く背炙り峠を通行できるとよいのですが、……。


 銀山の坑道跡です。冷たい風が吹き出していて、夏なら最高です。この日は涼しかったので、寒いこと限りなし。

 講座では、「延沢城とその関連史跡」及び「延沢銀山とその関連史跡」を説明していただきました。そさて、それで肝心のガイドとしての力は付いたのでしょうか。正直のところ、私は全く自信がありません。テーマが大きくて、私の小さな頭には入り切れません。まだまだ勉強が必要なようです。それにしても延沢城と背中炙り峠の楯、野辺沢銀山と背中炙り峠越えの古道の関連がさらに強く印象付けられました。うむ!面白い。

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