-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢 四つ目の楯跡を図面化しました。

2020-05-19 12:30:25 | 歴史

 これまで畑沢地区では、背中炙り峠、おしぇど山、山楯に併せて3つの楯跡が確認できています。しかし、「延沢軍記」の記述内容と戦国時代の集落の位置などから考えて、必ず上畑沢に楯が存在するはずと考えていましたが、何とも手掛かりがありませんでした。
 ところが令和元年の5月、幸いにも上畑沢の楯跡を発見することができました。全く思いもかけない場所でした。畑沢の西側を南から北に向かって五十沢地区との境に尾根が通っています。その大きな尾根から畑沢の集落側に向かって沢山の小さな尾根と沢が伸びています。その小さな尾根の一つに四つ目の楯跡がありました。周りが杉林になっていて、さらに楯跡とその周辺一帯がブナ林になっていて外部から全く見えない状態です。尾根の存在も分からないし、まして楯跡などは想像もできない状態でした。下の断面図を御覧ください。急勾配で下っている尾根の途中で二カ所が水平になっているように見えます。そのうちの下方に楯が築かれました。楯跡から下方の尾根は、はるか昔に千鳥川で削られて、ここから二手に分かれて下へ落ち込みます。

 下の集落との標高差は50mあります。いざ村人が襲われそうになって逃げると、楯まで約10分ぐらいはかかりそうです。畑沢の山楯やおしぇど山の楯と比べると、村人の楯としては高い場所と言えそうです。

 

 昨年は忙しくて調査できなかったのですが、今年は感染症の心配で子や孫が県外から帰省しなかったので、時間に余裕ができました。今年5月、この土地を所有者の御了解を頂戴して調査し、ようやく楯跡の平面図を次のとおり作成しました。今回は初めて平板測量をやってみました。ど素人には苦難そのものでしたが、私には珍しいくらいに、ある程度、信頼できる調査をすることができました。でもGPS機能を有する機器があれば、城跡や楯跡の調査は迅速にかつ正確に行われることでしょう。

 地滑りなどによる影響があったようで、輪郭が不明瞭な所が見られますが、かなり急峻な地形に造られた険しい楯の雰囲気が残されています。

 図面を番号と記号ごとに説明します。

 上から落ちてくる尾根を巾5mに断ち切っている堀切です。小さな楯にしては、物々しい迫力があります。上からの侵攻を防ぐためでしょうが、「上(うえ)」は単なる山です。山の上からではなく周囲を回りこんで侵攻してくる敵を防ぐ必ためだったのでしょう。上の方からの侵攻を防ぐ堀切は、おしぇど山の楯と同じです。

 曲輪の北東側は切り立った崖のために樹木も生えにくいほどで、冬季は絶えず雪崩が起きます。崖は20m以上ありますので、絶対、ここを登ることはできないでしょう。この私でさえも調査の時には登れませんでした。

 二手に分かれた尾根の片方を断ち切って、堀切と言うのか切岸と言うべきか分かりませんが、容易に登れない崖を作っています。堀切と言うには溝の部分が短すぎます。溝が主体の工作物ではなく、崖を造るのが目的の工作物です。

 曲輪の南東は自然な地形のままの急斜面です。急斜面は集落の位置まで落ち込んでいますので、約50mもあります。

 曲輪の南西側は、その他の斜面と比べると緩やかなので、帯曲輪の上下を削って急斜面にしてあります。この急斜面を切岸と言うのでしょうか。

 曲輪の中央部分です。曲輪には周囲に向かって段差が付いていますが、特に敵の侵攻を防ぐためと言うよりも、ただ平坦地を造った結果にできた段差の様です。

⦿

 一見、小さな帯曲輪の残骸にも見えますが、単なる地滑りの残骸かとも思います。何しろ急斜面ですので、地滑りしやすい地形です。

 

 この楯が上畑沢に造られた時期は、下畑沢のおしぇど山の楯跡と同じように戦国時代の早い時期に造られたものと思われます。下畑沢では、古い楯の後で新しい楯が造られたようですが、上畑沢では新しい楯は造られなかったようです。それは既に存在している古い楯で十分だったのか、それとも慶長出羽合戦を前にして作られたと思われる背中炙り峠の楯との関係で造る時間がなかったのかのどちらかだっのでしょう。又は両方の理由かもしれません。

 この上畑沢の楯跡については、地元に伝説が残されていません。古いと思われるおしぇど山の楯跡は伝説が残されていませんが、新しいと思われる山楯は伝説が残されています。伝説が残るかどうかと言うのは、新旧の別によるものでしょうか。

 ところで畑沢の三つの「村人のための楯」にはある共通点があります。それは楯が畑沢村を縦貫する街道にピタッと隣接していて、街道を上から覗き込める状態にあることです。敵が街道を通って侵攻してくるならば、街道から離れた場所へ村人が逃げ込めるようにした方がいいと思えます。どんな意図があったのかをこれから考えていきます。


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