九州統一を狙う薩摩の島津は豊後のキリスタン大名・大友宗麟を圧迫していた!耐え切れなくなった宗麟は大坂城に関白秀吉を訪ね、一日も早い出陣を要請して援助を求めた、今までに無い遠い地での戦には時がかかる!此度も、関白殿下の名代となって闘い、島津侵攻を食い止め宗麟援護の先鋒を担ったのは黒田軍であった!「官兵衛殿、何卒お助けぐされ!」、『必ずや!』、官兵衛は懐から十字架を取り出し同じキリスタンの宗麟に見せ安心させた!・・・
官兵衛は中国の毛利勢と合流し豊前へ九州入りすることとなった、黒田軍に呼応し蜂須賀軍も四国の長宗我部勢を率いて九州へ向かう、黒田軍は3000の兵を率いて7月の出立となった、官兵衛におともするのは善助、太兵衛、九郎右衛門となった、長政と又兵衛と大坂・黒田屋敷の留守を預かることとなった、長政は又兵衛と協力して殿下の傍に張り付き、大阪の様子を逐一官兵衛に報告する役目を担った、早速仕度に係ろうとした時、小六が倒れた!?と云う知らせが入った!光も、父を案じて長政の嫁・お糸も同伴して全員で小六を見舞った、小六は力なく寝床に横たわり傷心しきっていた!・・・
小六は娘・お糸の事を心配していた、光が言った『ご安心ください、糸は黒田の立派な嫁で御座います』、「父上、しっかりご養生してくださいませ!」とお糸は父の背に手をかけて励ました、官兵衛は「小六殿が元気にならねば豊臣の天下統一もおぼつきませぬ!」と激励した、小六は官兵衛を生涯の友として慕っていた、しかし天正14(1586)年5月22日、殿下の天下統一を目前にして、蜂須賀小六はこの世を去った!そこへ秀吉も駆けつけ小六の死を看取って、小六の亡骸にすがり号泣していた!・・・
小六が逝って兄じゃを支える古株は官兵衛とわし秀長だけになってしもうた、秀吉は九州攻めの折には小六に四国勢を取り仕切ってもらうことにしていたが、一から考え直すこととなった、『焦りは緊密で御座います、殿下のご出陣は東の徳川が上洛してからが宜しいかと!それまでは、それがしにお任せを!』と官兵衛が一案を提じた、「家康はこのわしを攻めるところではない!のう三成?」と秀吉が訊いた、長久手の戦い後、家老の石川数正が家康のもとを去って、徳川の家中は揺らいでいるに相違ない!と三成が答えた、『どうか、考えて下され、裏切りによって家中が乱れるか、かえって結束が強まるか、それは主君の器次第!』と官兵衛は三成に反論した!・・・
「官兵衛、お主は家康の器量をどう見る?」秀吉は官兵衛の前に座り訊いた、官兵衛が答えた『殿下を長久手の戦にて破った男で御座います!徳川家の結束は寧(むし)ろ強まったと観るべきでしょう!』、三成が反論した「ならば如何して?徳川と戦うなと仰せになったのは黒田様で御座います!」、『戦わずして上洛させるしかあるまい!それには殿下の度量の大きさを示し、この男には逆らえぬと得心させるしかありませぬ!』と秀吉に言った、「官兵衛、家康には正室が居なかったのう?」と秀吉は悟った、そここそが官兵衛の考えていた家康の盲点だった!・・・
そこで秀吉は浜松の家康に文を送って、妹の朝日を家康に嫁がせたいと言ってきた、秀吉の妹なら相当歳を喰っているだろう!?と真に御座いましょうか?小生は疑問に思った??「関白の実の妹とあっては断れまい!」、えっ!本気でしょうか??と小生は家康を疑った?幾つで御座いましょうか?四十四とのことじゃった!?世継ぎの子は出来ぬのでは?よく考えれば家康とはお年頃の相手でもあった!その相手とお見合いのため上洛なされますか?何か裏がある!危のう御座います!何か罠に相違ないのでは?「くれると言うなら貰っておく!それだけのことじゃ!」家康は本気だった!思い切った手を使った秀吉の方もだが、それに乗った家康もどうかしている!?・・・
官兵衛はこの経緯の流れをこう見ていた、『殿下の妹君を受け入れたということは、徳川には殿下に事を構える気はないと言うことじゃ!』、家康との一件は一応収まったようで、黒田軍はいよいよ九州攻め仕度に懸った、出陣の日程が7月の25日に決まった!官兵衛に従う毛利勢の仕度は、ご当主、毛利輝元様を御大将に、吉川様、小早川様の両勢も各々出陣の構えにあったのか!?此度は毛利は全軍での出陣になったのか!?しかし、これは殿下の命であった!『此度は長陣になる!よって暫くは戻らぬ!糧穀の手配を頼むぞ!』と光に頼んだ、『殿を御見送りしたあと、播磨へ戻る所存に御座います、お任せ下さい!』・・・
光は十字架をそっと官兵衛の首にかけた、「光、相談もせずキリスタンになって済まなかった!キリスタンの教えがわしを救ってくれると思ったのだ!」と官兵衛が詫びた、『いいえ、私にも教えてください!』と光はおねだりした、「人に教えるほど、まだ詳しくはない!」と照れた、『ゆっくりで良いのです、殿の御心を知りたいだけで御座います!』と光は別れを惜しんだ、一同が打ち揃い出陣の用意が出来た、「長政、油断なく殿下にお仕えせよ!」、はっ!「行って参る!」光に別れを告げた、『御武運を!』と光は見送った!・・・
安芸・新荘(しんそう)城の吉川元春の屋敷に、小早川隆景が訪れ関白殿下が毛利勢全軍に九州出陣を命じたことを伝えてきた、勿論、兄上である元春軍にも出陣の要請があったことも、「殿下?お前は何処の家の者じゃ?」と元春は乗り気でなかった、「兄上は豊臣から疑われております!高松城の時、秀吉に追手を差し向けろと言い張ったこと!賤ヶ岳の折、柴田勝家と手を結ぼうとしたこと!豊臣に逆心無きことを見せねばなりませぬ!」・・・
「気に入らねば、わしにも元治の様に切腹を命じればよい!毛利が秀吉の家臣となって働くのは、生き残るには止むを得ずかもしれぬ!しかし、このわしまでもが秀吉に膝を屈し、奴の下で働いては、死んでいった者等に申し訳が立たん!わしはこの隠居所で好きな物語などを読んでここで死ぬ!隆景はこれ以上兄じゃを責めることは出来なかった!秀吉を憎む春元はどうしても秀吉の九州攻めには参戦する気はなかったようだ!毛利の行方はどうなってしまうのか!?・・・