Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

さあ!陽気にゆこう!高石ともやフォークコンサート☆ 2009年10月19日

2009-10-19 22:32:40 | 日記・エッセイ・コラム

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今晩7時より加古川市民会館小ホールにて高石ともやフォークコンサートの夕べがあったので、今日のLSDを24km(30873歩)と短めにして17時20分に帰ってきた、それにしても水管橋を渡りきったところで目に飛び込んできた夕日が美しかった☆薄雲に囲まれるように浮かび上がったピンク色に近い茜(あかね)色の夕日には軽くグラデーションがかかって神秘的だった!☆いつものようにポカリを飲んで落ち着いた後、入浴と夕食を済ませて自転車で急いだ・・・

7時少し前に着いた、受付を済ませ会場に入ると思ったより多くの観客の入りで膨らんでいた、もうすでに加古川労音ギターサークルの面々とコラボしてSingalongが始まっていた、ともやさんが歌詞を前触れしながら聴きなれた昔懐かしいフォークソング・スタンダードの数々を会場にいる皆と合唱に加わった、まるで歌声喫茶を彷彿(ほうふつ)させるようだった、やがてギターサークルがはけて客席のライトが落とされステージにスポットライトが入りともやんのワンマンショーが始まった、1960年代多くの世界の若者達が学生運動と反戦運動に走り自由と平和の心のよりどころを求めた、日本の若者達もそんな時代を反映する叙事詩を作りその詩の言葉を一語一語大切にするフォークソングを謳歌した、ともやんは歌詞を噛み砕くように人の心に訴える、今回は30半ばに成長した彼の息子が応援に駆けつけ美しいハーモニーをかもし出していた・・・

ともやんは小生と同じ1941年生まれである、加古川労音はともやんのフォークコンサートを小生の知っている限り過去3回開催している、一度合唱隊の一員としてステージを共にしたことがある、小生がともやんのコンサートに参加するのは今夜が4回目となる、しかし小生と同じマラソンランナーでもあった彼との出遭いは遠く過去にさかのぼる、それは彼がまだザ・ナターシヤセブンの時代に六甲山クロスカントリーで走ったあと野外コンサートで歌った時だった、まだ幼かった2人の息子とカメラに収まって貰った、後日加古川に来た折その写真にサインを貰った・・・

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その後もあちこちのマラソン会場でランナー・ともやんに良く会っている、その都度コンサートをやっていた、その頃小生も若くフルを3時間10分前後で走っていたが彼の方が少し速かったように記憶している、一度篠山マラソンで中盤に彼が小生を追い抜いて行ったことがあった、後半小生が追い抜いたかは定かでないが、彼ならきっとサブスリーをやったのではないだろうか・・・

彼のマラソン人生は凄いの一言に尽きる、1988年オーストラリア1011km8日間マラソンも1993年の4700km64ステージに及ぶトランス・アメリカ・フットレースも完走している!☆ホノルルマラソンにも32回連続完走している、この12月には33回目を走ることになっている、数々のフル・トライアスロンレースにも出場している、間寛平も凄いが、ともやんはその上を行くかもしれない!!

今回ともやんは4月和歌山の第一番札所・青岸渡寺を皮切りに出発してマラソンで西国三十三箇所札所めぐりに出発してその途中に加古川に寄っている、各お寺の本堂でライブしながら大阪→奈良→滋賀→京都→兵庫まで900km以上を走破して来たとのこと、ラストサムライのロケ現場書写山・円教示を経て10月4日には加西にある第26番札所・法華山一乗寺の巡礼歌奉納の形でライブを終えて加古川入りしている、11月中に網羅する岐阜大垣の三十三番札所・谷汲山華厳寺まであと2箇所の札所が残っているだけらしい、図(はか)らずも今夜加古川でのコンサートはともやんも親交のあったザ・フォーク・クルセダーズを立ち上げた天才音楽家・加藤和彦氏(享年62歳)が『もう自分を音楽で表現出来なくなった』と遺書を残し覚悟の死を迎えた翌日と会いまった・・・

小生と加藤和彦氏との出遭いが小生のカナダ移民時代に一度あった、1969年か1970年頃バンクーバーの西端、English Bay に突き出たSpanish Banks の広大なキャンパス内にあるUBC(Unversity of British Columbia)の大ホールに日本からフォークシンガーたちの大集団がやって来て盛大なフォークコンサートの夕べをぶちかました!☆大勢の日本人や日系人の聴衆が会場いっぱいに溢れあがってフォークソングに酔いしれた、その中にザ・フォーククルセダーズ率いる若き日の加藤和彦氏もいた、コンサート後友人とキャンパスを出たところにあるカフェで食事しているところにジローズやバンドメンバー達と一緒に加藤和彦氏が入ってきてテーブルに着いた、来れなかった友人に頼まれたテープレコーダーに全員のインタービュー録音したことがあった・・・

1973年ウッドストックやフィルモア・イーストの向こうを張って永六輔や加藤和彦氏率いるザ・フォーク・クルセダーズ等とともにともやんは、1975年吉田拓郎とかぐや姫等が始めた静岡つま恋に先駆けて、円山野外音楽堂での京都祇園祭宵々山(さきやま)野外コンサートの先駆者となった、ともやん曰く『彼は多くのミュージック・ステージをプロジュースしてきたが、寂しいかな彼をプロジュースしてくれる者が現れなかった』、今夜のともやんは心なしか沈んでいたようだった、アップテンポの曲もどこか抑えて歌うように心がけていた、最後の曲として北山修作詞/加藤和彦作曲“感謝”を選んで加藤和彦氏の死に哀悼の気持ち込めて歌い上げた・・・

コンサート後高石ともやの著書CD付き自叙伝“さあ、陽気にゆこう”(4000円)を買った、小生はアメリカ・メキシコ・カナダへの冒険旅行のあとカナダ移民として日本を脱出して行ったが、1970年前後多くの若者が日本を脱出して行った、ともやんも1970年に放浪の旅に出ている、サイン会の時、小生、彼の日本脱出に及んだ動機を尋ねて観た、『フォークソングに疲れていたのだろうか?否きっと自分捜しに行ったのだろう、未だに自分捜しを続けてかも・・・これ以上いたら帰れなくなると思い6ヶ月で帰って来た』と答えてくれた、1964年に日本脱出した小生の場合はどうだったのだろう??『きっと戦後復興途上の貧しく狭くて息苦しい日本の生活から逃げて映画・テレビを通して入ってくる西欧文化の豊かさに直接自分の目で観て、生で触れて見たかったのだろう』・・・

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