Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

軍師官兵衛、第49話“如水最後の勝負!~前編” 2014年12月7日

2014-12-07 20:11:39 | 日記・エッセイ・コラム

今日、2015北京世界陸上(8月22~30日)選考会を兼ねる第68回福岡国際マラソンが、マラソン日和の中、開催された、30kmから抜け出したバトウチル(モンゴル、NTN)、マカウ(ケニア)、アセファ(エチオピア)、3人の先頭争いとなった、歴代4位となるベストタイム2°03′38″を有するパトリック・マカウが平和台にトップ2°08′21″で戻り優勝した☆アセファが2°08′48″で2位に、バトウチルが2°08′50″で3位に入った、日本人トップで代表を確実にしたのは、34kmから第2集団から飛び出し、4位2°09′06″でゴールした藤原正和(33歳、西脇工、中央大、Honda)だった☆!5位2°09′59″で足立知弥(28歳、旭化成)がつづいた!ロンドン五輪6位、モスクワ世界陸上5位の中本健太郎(32歳、安川電機)は期待に沿えず12位2°12′01″に終わった!・・・

慶長5(1600)年9月、日本を二分する大戦さが始まろうとしていた、東軍の家康に対して、西軍の三成は如水の動きを封じるため、宗麟の嫡男・大友吉統(よしむね)を九州・豊後に送り込んだ!島津を叩いた秀吉の九州平定の折、府内城を居城とする大友家は秀吉の傘下に下っていた、豊前・中津城では、黒田軍が虎視眈々と天下を狙って気勢を上げていた!運命の時が刻一刻と迫っていた!・・・

戦さに備えるため大わらわの中津の如水軍に、長政軍に着く又兵衛が、家康が江戸城を出て、西に向かって出陣したと書状で知らしてきた、 如水は思った以上に徳川の進軍が早いと悟った、九郎右衛門「三成は如何に出ましょう?」、如水『三成には奥の手がある!』、善助「秀頼君の御出陣?」・・・案の定、大坂城では三成が幼い秀頼をこの大戦さに巻き込むことを企んで居った、しかし淀君が大反対に出た「成りませぬ!秀頼はまだ八つ、出陣などもってのほかじゃ!戦場で万が一のことがあったら如何する?豊臣が滅びてしまうではないか!それこそ家康の思う壺じゃ!」・・・

三成『その様な事にはなりませぬ!秀頼君が徳川討伐のために出陣となれば、味方の志気は格段に上がりまする!徳川に組した豊臣恩顧の大名達も、我が方に馳せ参じるは必定!』、淀「成らぬと言ったら成らぬ!そなたが大坂に戻ったからには、何も心配要らぬのではないか?それとも、幼い秀頼に頼らねばならぬほど窮して居るのか?」、三成『いいえ、我等の勝ちに間違いはありませぬ!』、淀「ならば、わざわざ秀頼を担ぎ出さなくても良かろう!?」、三成『はい、それがしの短慮で御座いました、お許し下さい!』、淀「分かればそれで良い!三成、勝利を信じて居るぞ!」、はっ!・・・

その頃、美濃赤坂に陣を構える長政のもとに、小早川秀秋の家老・平岡頼勝が密かに訪れていた、橋渡しをしたのは、おねであった、長政『政所様のご書状は読んだ、小早川様は徳川にお味方するのは間違い無いのだな!?』、平岡「はい、黒田と小早川は、先代・如水様と隆景様の頃より、所縁(ゆかり)深き間柄、更に万事、黒田様を頼れとの、北政所様のお言葉とあれば、他に道は御座いません!」、又兵衛「ならば、何故、徳川様がお守りしていた伏見城攻めに加われた?」、平岡「あれは偶々(たまたま)京に居合わせ、行きがかり上、致し方なかったので御座います!」、長政『分かった、徳川様には既に、中納言様に御心は伝えてある、小早川様には、京の近くに二か国の所領をお約束するとの事で御座る!』、平岡「二か国!かたじけのう御座います!」・・・

長政が長浜の母と慕うおねが、京の東山にある出家先の鷲峰山・高台寺で、釈迦如来に手を合わせてぽつっと漏らした『他に手が無かったのです、如何か、首尾よく行きますよう!お前様、しかと見守ってくだされ!お前様、お前様!』・・・しかし、小早川の凋落(ちょうらく、自分のものに抱き込む)に動いていたのは 長政だけではなかった、近江・高宮の小早川の陣に秀秋を訪れたのは石田三成本人であった『小早川様、お喜びくだされ、家康を討った暁には、秀頼君が15になるまで、貴方様に関白とお成り頂ます!』と家老・平岡頼勝の前で言った、「このわしが関白!?」、『はい!、関白ともなれば、朝廷と公家衆とのお付き合いで、何かと物入りでしょう、その為、今の筑前に代わる播磨一国をも、小早川様のご所領と定めます!』、播磨?それは!?、『御家老、平岡殿にも近江において10万石、加えて黄金300枚を遣わしましょう!』、秀秋も頼勝もいささか迷惑気味で困り果てた・・・

この頃、三成は、美濃の守護大名・土岐(とき)一族が1535年に創建した大垣城を本拠地にしていた、近江・高宮から戻った三成に家臣らが訊ねた「小早川様は如何であった?」、『思った通り、敵の凋落にはまって居った!』、やはりそうか!、『所詮は利で動く輩(やから)、飛び切りの利で釣ったら、目の色を変えて居ったわ!これで繋ぎ止められたであろう!』、そうか、吉報じゃ、早速に軍備を!小西行長と宇喜多秀家がはけたあと西軍の首脳の一人、大谷吉継が三成に忠告した「信用してはならんぞ、お主はいつも己の知略に頼み過ぎじゃ!」、三成『分かって居る!』・・・

その頃、豊前・中津城では軍議が開かれていた、一通の書状に目を通していた如水がそれを善助に手をしながら言った『よし、これで全てか?』、「はっ!、九州すべての大・小名ことごとくに送り付け、黒田に着かねば亡びるのみと揺さぶります!」、『黒田の強さを見せつけてやれば、脅しではないことが分かろう!』、善助「今は、従わぬ者は、いずれは我が軍門に降り、さすれば、更に仲間が増え、益々勢いを増す!」、九郎右衛門「たちまち2万3万と膨れ上がりましょう!正に、兵が兵を呼ぶと云う軍略!」、若き5人の伝令達に書状を渡しながら 如水が言った『やることは分かって居ろう!』、はっ!、『良いなあ!暴れて来い!』、は~~~っ!!、『さあ、我等も行くとしょう!』、大殿のお出ましじゃ~~~!!おおお~~~!!・・・

如水は、鍛えし大軍を前にして、出陣式に臨んだ『これより始めるは九州全土を平らげる戦さじゃ!まずは豊後!豊後は元々、大友の領国であった、だが宗麟の嫡男・大友義統(よしむね)はかつて朝鮮にて、敵を見る前に逃げ出し、豊後を召し上げられた臆病ものじゃ!』、ははははは~~~!大きな笑い声が起こった、『その臆病者が、わしの首を獲りに来ると云う!敵が例え何万騎で来ようと、百に一つも負けることはない!』、おおおおおお~~~!!『我が行く手を邪魔する大友を退治し、豊後を討ち捨てろ!その勢いに乗じて九州全土を、この我が手に収める!』、おっおおおおお~~~!!行くぞ~~~~!!おおおおお~~~!!・・・

慶長5(1600)年9月9日、御神輿舞台に担がれて如水は遂に出陣し、九州制覇に乗り出した!如水はまず、西軍に着いた豊後・高田城を囲んだ、太兵衛が陣頭指揮を執った「扉を破れ~~~!」、簡単に扉は壊され如水軍は城内へなだれ込んだ!敵軍は慌てふためき立った、善助と九郎右衛門は無駄な戦さを避けるよう降伏を促した、やがて如水の本陣へ、太兵衛がやって来て 「高田城より豊後・府内2代藩主・竹中重義殿及び、その重臣・不破三太夫がお目通りを願って居ります!」と伝えた、如水『やっと来よったか、通せ!』、はっ!・・・

竹中重義「城主、竹中重利の嫡男、重義に御座います!」、不破「家老、不破三太夫に御座います!」、如水『三成に着くとは、竹中殿もしくじったのう!亡き半兵衛殿の従兄とは思えぬ浅はかさじゃ!だが、今からでも遅くはない、このわしに着けば、本領は安堵して進ぜ様!』、重義「有難きお言葉、黒田様にお味方仕(つかまつ)る!」、善助「我等はこれより、石田方の国東・富来(とみく)城を攻めまする、直ちに兵を挙げまするよう!」、不破「否、直ぐにと申されましても、しばしの御猶予を!まだ支度が出来て居りませぬ!」、如水は怒って卓上を叩いた『直ぐに兵を出せぬと云うか?その様な、敵か味方か分からぬような者を、わしは討ち捨てにはしておかぬ!今からお主たちの城を攻める!』と言って善助に促した、善助「馬を曳け~~~!」、はあっ~~~!、不破は恐れおののき叫んだ「出しまする!今直ぐに兵を出しまする!お待ちくださいませ!」重義と不破は兵を出すため急いだ、如水『さあ、先へ進むぞ!』・・・ 

同じ頃、豊後・浜脇浦、大友の陣では、豊後への帰還を果たした豊後22代当主・大友義統(よしむね)の元へ、かつての家臣たちが続々と集まっていた、老兵、宗像鎮続(むなかた しげつぐ)もその中の一人だった「お懐かしゅう御座います!豊後の地を取り上げられてから6年、この日を夢見て参りました!黒田など、一揉みに揉みつぶしてご覧に居れまする!」、義続「うん、頼むぞお!はははははっ~~~!統幸、なんじゃ、嬉しゅうないのか?」、吉弘統幸(よしひろ むねゆき)は1587年の九州平定の折、秀吉の傘下になり黒田24騎士とは同じ釜の飯を食った武将であった、統幸「それがし、黒田との戦いは避けるよう、幾度となく殿をお諫め申し上げた!如水殿からも、石田に味方するのを止めよと、懇切丁寧な書状を頂いて居ります!殿、今からでも遅くはありません、何卒、御考え直し下さいませ!」・・・

宗像「吉弘殿ともあろう者が、大友家再興の好機に、命を惜しまれるか!はあ!?」、義統「お主は以前、黒田の食客となって居ったそうだな?情が移ったか、統幸!」、統幸「大友家は400年、この地を治めてきた名門!されど、このままでは、行く末が心配でなりませぬ!」、義統「如水など、恐れるに足らぬわ!見よ、まだまだ兵は増える!負ける気がせぬは!はっははは~~~!」、殿!殿!殿!お久しゅう御座います!大友軍は東軍に着いた立石城から、来付城を包囲して如水への反撃に出た!木付城攻撃の知らせは、その日の夜に豊後本陣の如水にもたらされた!・・・

善助「して、大友の数は?」、3千から4千まで膨れ上がって居ります!名立たるものも、続々馳せ参じて居ります!田原紹忍(たわら じょうにん)、宗像鎮続(しげつぐ)、吉弘統幸!、如水『吉弘が着いておるか!?』、九郎右衛門「厄介なことに成りましたな!」、太兵衛「以前、黒田の食客であった吉弘で御座りますねえ!」、善助「あの豪傑が加わったか!」、如水『あの吉弘が着いているとなると、一刻の猶予もならぬ!九郎右衛門、3千で良いな?』、はっ!、『わしは背後を突かれぬよう、国東の富来と安岐の二城を抑えておく!九郎右衛門、大友を止めて来い!』、心得まして御座いまする!・・・

一方その頃、東軍の総大将・家康は、尾張国・春日井の清須城まで陣を進めていた、井伊直政が、如水が9月9日に、九州で兵を挙げたことを家康に伝えた、九州にて石田方を次々と滅ぼす積りと長政の書状に認(したた)められていた、「如水さまも我等の味方とあれば、三成もさぞや肝をつぶすでしょう!」、家康『如水め、誰のために働いておるのやら、分かったものではないぞ!』、はぁっ?、『油断の成らぬ男じゃ!この騒ぎに乗じて、何をしでかすやら?』、直政「まさか、天下を狙っていると!?」、『長政がこちらに居る限り、当面、敵に回る恐れはあるまいな!』・・・

美濃・赤坂の長政の陣には、家康の使者として、直政が長政を訪ねていた、「数日中には、我が殿も、到着されます、凋落は如何に!」、長政『心配無用で御座る!吉川広家には毛利の本領安堵を約束して居りますゆえ!毛利が我等に敵対することは御座いませぬ!』、直政「小早川秀秋は如何じゃ?」、長政『あのお方は、どうも煮え切らない、しかし、小早川の陣中に我が家臣・大久保猪之助を送り込ませ、常に見張りをさせて居りますゆえ、まずはご安堵くだされ!』、直政「さすがは黒田様、抜かりは在りませぬなあ!我が殿も喜ばれるでしょう!頼みましたぞ!」、と言い残して、直政らは帰って行った・・・

一成「殿の凋落で、石田方はバラバラ!既に勝負はついているのでは?」、長政『油断するな!凋落の手を伸ばしておるのは、敵も同じだ!』、又兵衛「殿!」、『何だ?』、「九州で大殿が兵を挙げられましたが、これを如何、見とられますか?」、一成「九州の石田方を攻め、我等をお助け下さる御積りでは?」、又兵衛「わしはそうは思わぬ!」、一成「では、何故?」、又兵衛「大殿は天下を狙っておいでなのでは?」、天下を!?、長政『それ以上申すな、又兵衛!その様な事、外に漏れれば、あらぬ疑いを招く!黒田の当主はわしじゃ!父上が如何動こうが、黒田は徳川に賭けたのだ!』、はっ!、はっ!・・・つづく

 

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