Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

龍馬伝・第2弾 2010年4月25日

2010-04-26 00:36:32 | 日記・エッセイ・コラム

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選手層が圧倒的に厚いジャイアンツには谷間などない!今日も赤ヘル軍団カープは投打に迫力満点のオビスポに撃沈し2-8とこのカード3連敗した!・・・

ここまで17幕観てきたが、1月10日に投稿した龍馬伝・第1弾に秘伝の垂れのように継ぎ足して溜め込んでいた記事を蔵出ししていくことにした、今回は武市半平太が御門(みかど)の攘夷勅令を携えて太政官・三条実美を護衛して江戸城へ乗り込んでいく、また時を同じゅうして龍馬も京から“運命を変える人物”に出会うため江戸に登り千葉道場を訪ねていくところまでにした・・・では

幕末の動乱を順を追ってもう少し詳しく見てみよう、1853年と1854年に2度に渡るペルー黒船が浦賀から土佐藩下屋敷があった浜川(今の品川区東大井のあたり))にやって来た際、何を血迷うたか儒学者・佐久間象山とその弟子・吉田松陰は黒船に乗り込み厳しく御法度となっていた密航を企てたが見つかり乗船を拒絶され奉行所に送り返され投獄される、がこの時は老中・阿部正広備後福山藩主の計らいで命拾いしている・・・

1856年3月日米和親条約が調印されアメリカ総領事ハリスが下田に着任する、やがて横浜も開港していく、その後長崎にも堺にもロシア使節団が来航し、そしてイギリスが神戸に来航して次々と日本の港は開港していった・・・

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のちに吉田松陰は長州に帰り、1855年叔父の玉木文之進が萩に開いていた私塾・松下村(しょうかそん)塾を尊皇攘夷派を掲げて吉田松陰が主宰として継いでいた、そこでは久坂玄瑞(くさか げんずい)、高杉晋作、桂小五郎(本名:木戸孝允〈たかよし又はこういん〉)、伊藤博文、井上馨、大村益次郎ら長州藩士が学んでいた・・・

再び江戸に上がっていた佐久間象山と吉田松陰は1858年の日米修好通商条約調印に激怒し強く幕府に対して抗議した、しかし吉田松陰を始めとする長州藩士ら尊皇攘夷派に対して老中・井伊直弼による投獄処刑などの厳しい弾圧“安政の大獄”が1858年から1859年まで続いた、この裏には紀州派・井伊直弼による攘夷派・孝明天皇と倒閣派・水戸藩一橋家への絞めつけが及んでいた・・・

1859年吉田松陰は老中暗殺計画を自白して投獄処刑され30年の生涯を閉じた、勅許(朝廷から許可)も取らずに次々“安政の五カ国条約調印”して開国していく幕府の動きに反対して攘夷派が立ち上がった矢先、1860年3月3日(安政7年)あの“桜田門外の変”の惨劇が起きた・・・

1858年8月第13代将軍・徳川家定の没後、次期将軍候補として水戸徳川家の一橋慶喜を父でもある水戸藩主・徳川斉昭と薩摩藩主・島津斉彬は強く推挙していた、それを無視して紀州徳川家から家定の元へ養子に出された若干12歳の徳川家茂を推そうとした大老・井伊直弼とその行列一行が江戸城・桜田門外で一橋慶喜を次期将軍に推す水戸藩浪士と水戸徳川家の守護職にあたる薩摩藩士に襲われ暗殺されたのである・・・

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徳川家茂は父・斉順(なりゆき)を生前に亡くし9歳のとき養子となっていた紀州藩主・徳川斉彊(なりかつ)のもとを6月12歳にして離れ第13代将軍・徳川家定と篤姫のもとにお世継ぎとして養子となった、1858年8月には病弱の家定が亡くなって10月25日12歳の家茂は第14代将軍に祭上げられ一橋慶喜がその後見職に就いた・・・

老中が企てた公武合体策のひとつとして1862年和宮親子内親王と政略結婚させられる、しかし1863年朝廷の攘夷目的で人質のように京の御所に単身上洛させられたのち家茂は21歳の若さで1866年に死去している・・・

土佐藩主・山内豊信容堂は開国論を唱え徳川幕府を養護していた、土佐藩参政(執政官)・吉田東洋(実に渋い味を出す田中泯が演じる)は幕府を養護するも、富国強兵論を唱え軍艦を手に入れ軍事力を増強して土佐藩を発展させようとする改革的路線を歩んでいた・・・

岩崎弥太郎は参政派に留まり龍馬とは道を異にしている、世渡り上手の弥太郎は幸運にも東洋に召抱えられ長崎にある土佐藩の独立行政法人?“土佐商会”の主任として赴任するも、賭博に溺れ公金100両すってしまい土佐に呼び戻される、のちに公共事業に携わる普請(ふせい)奉行・後藤象二郎の手先として土佐勤皇党の動きを探る郷廻(ごうまわ)り役に着任させられる・・・

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1861年尊皇攘夷に反対する東洋に対立して土佐藩士白礼(はくれい、上士と下士の中間層)武市半平太瑞山(ずいざん、新国劇“月形半平太”のモデル)、北川郷大庄屋の長男・中岡慎太郎や半平太と同じ白礼の身分・望月亀弥太、加尾の兄・平井収二郎、龍馬の甥っ子・高松太郎、半平太に仕える刺客“人斬り以蔵”こと岡田以蔵(のちに龍馬の紹介で勝海舟のガードマンとなる)らによって土佐勤皇党が結成された・・・

あまり攘夷を好まない龍馬もその動きに巻き込まれて行ったが、過激化する土佐勤皇党の在り方に疑問を持ち龍馬は勤皇党とは一線をおいていた、東洋は龍馬の才能を見抜き採用通知伺いと登城願いを差し出し自分の右腕として部下に置きたがっていた・・・

同じ頃、鎖国から目覚めて1860年勝海舟(1864年神戸海軍操練所頭取となる)、福沢諭吉やジョン万次郎らが帆船・咸臨丸(かんりんまる)に乗り西洋文明を学ぶためサンフランシスコにおもむく、また1863年にはイギリス船“ペガサス号”に乗り込み政治家を志す伊藤博文や井上馨(かおる)ら長州藩士がイギリス、ヨーロッパへ渡る・・・

この頃土佐でも尊皇攘夷派への弾圧が厳しくなり、土佐の下士達が藩内に居ても、うだつが上がらないと悟り脱藩するものが出てきた、まず庄屋の倅(せがれ)の吉村虎太郎が京へ脱藩して行った、1862年(文久2年)3月龍馬はのちに勝海舟・神戸海軍塾の門下生になる沢村惣之丞(そうのじょう)から脱藩計画を奨めら同調し土佐藩を脱藩していった・・・

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伊予との藩境の山村・梼原(きりかぶはら)出身の那須俊平とその息子・慎吾のガイドで韮ヶ峠(にらがとうげ)を越え、伊予・長浜から山口の三田尻(今の防府)へ渡ることとなる、姉の乙女と兄家族は旅の身支度をしてやり龍馬を励まし送り出してやった、いつも姉・乙女は龍馬の心の支えとなった、のちに1863年9月5日中岡慎太郎も土佐を諦め龍馬らと同ロートを辿って9月19日三田尻に到着している・・・

三田尻から龍馬はひとり長年西洋との窓口となり栄え長崎海軍伝習所があった長崎と、反射炉を持ち鉄の船等を造る製鉄術に長(た)けた薩摩に向い見聞をひろげていった、沢村惣之丞は吉村虎太郎を追って大坂・京都方面を目指したようである、しかし中岡慎太郎は長府に留まり長州藩士の久坂玄瑞や山県半蔵と懇意になり日本の未来を語り尊皇攘夷運動に走った・・・

ずっとのちの1866年1月21日の“薩長同盟”に続き、龍馬とともに脱藩の罪も許され慎太郎は岩倉具視に掛け合い板垣退助と西郷隆盛を引き合わせ1867年5月21日の“薩土盟約”締結に漕ぎ付け、1867年7月27日には京都白川の土佐藩邸に“陸援隊”の本部を置き討幕運動に走っていった・・・

1862年5月6日故郷土佐では大変なことが起こっていた!雨の夜だった、東洋が何者か暴徒3人によって暗殺される、一時舵取りを失った参政派が沈み、土佐勤皇派の小さなブームが起き武市半平太が土佐藩の実権を握ったかのように見えたが・・・

その頃、誰が吹聴したか?何故か龍馬ら脱藩者が犯人に仕立てられお尋ねものとなっていた、土佐藩を動かし武市半平太は落城の身とし土佐藩主・山内豊範(とよのり)を連れて2000名の兵と共に京に上がり、母方が第10代土佐藩主・山内豊策(1773~1825年)の血を引く公卿(くぎょう)・三条実美(さねとみ)を通して御門・孝明天皇に尊皇攘夷を直訴し皇居警衛職に就こうと目論んだ・・・

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半平太らの動向を聞き龍馬はあとを追って大阪住吉にある土佐藩陣屋に滞在する半平太に思い止まるよう忠告した、そこから龍馬は京に入り三条家に仕える愛しい許婚(いいなずけ)の加尾を訪ねた、日ごろから懇意にしている近くの仕立て屋さんが宛がってくれた離れの一間で二人っきりになった、そして二人はひしと抱きあい心身とも結ばれた☆それから龍馬と加尾は暫らくそこで幸せなときを過ごした・・・

龍馬は高瀬川沿いにある土佐藩邸近くの木屋町でバッタリ以蔵にも逢った、間借りしていた着物の仕立て屋さんの離れに連れて行き加尾が用意してくれた食事を食べながら暫し親睦の時を持った、その時以蔵が武市に人殺しとして利用されていることを察し、人の道に外れたことをしてはいかん!強くなれ!強いものはむやみに刀を抜かぬ!と忠告した・・・

まもなくして孝明天皇から幕府に対する攘夷勅令が下り、それを携えて1862年(文久2年)10月12日三条実美と護衛に付く半平太ら土佐藩士の一行は江戸に下っていった、龍馬も加尾から江戸筑地にある軍艦操練所の頭取・勝海舟のことを聞き江戸に向かった、そして加尾は三条邸でのお役目を終えてお供と共に土佐へ帰っていった・・・

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