Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

モニプラ「明日への遺言」企画~戦争とわたし 2008年2月9日

2008-02-10 03:49:53 | 日記・エッセイ・コラム

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先ほど藤田まこと扮する岡田資(たすく)中将が太平洋戦争末期1945(昭和20年)年3月12日名古屋無差別空襲に参戦し、撃墜され捕虜となった米軍パイロットを処刑した部下を守り抜き上官としての責任をかけてB級戦犯の法廷で戦い、戦争犯罪者として死刑の判決を受け彼の妻と家族に見守られ華々しく己の命を散らして行った3月1日公開感動の予告編を観た(・_・)

彼のように多くの帝国軍人達がA級(平和を脅かした被告)B級(戦争犯罪を先導命令した被告)C級(非人道的犯罪を犯した被告)戦争犯罪者として裁かれ刑に服した、1945年8月30日ダグラス・マッカーサ連合軍総司令官が厚木飛行場に降り立って以来戦勝国によってリストアップされた東条英機陸軍大将をはじめとする最終的には11万人にも及ぶ戦犯達が逮捕されて行った、米国・英国・ソ連・中華民国・フランス・オランダ・オーストラリア・ニュージランド・カナダ・インド・フィリピンの11カ国による“極東国際東京裁判”の軍事法廷が開かれた・・・

1946年5月3日より審議が始まり、各戦勝国から派遣された裁判官経験判事の多数決によって1948年5月3日より各戦犯対して判決が言い渡されていった、しかしその判決に至る過程に大きな不公平さの問題があった、日本側から提出された弁護資料は全て却下され、戦勝国から提出された検察の資料は伝聞だけの証拠不十分なものでも全て採用されていた、中華民国の判事は裁判官未経験判事であった、またソ連とフランス両判事はこの法廷での公用語“日本語と英語”に疎くほとんど理解皆無であったという人選不適格のお粗末なものであったといわれている・・・

日本無罪論を発表していたインド人法哲学の権威パール判事は1952年に来日して『日本を裁くならば連合軍も同等に裁かれるべである、連合軍を裁かないならば日本も裁かれるべきでない』とこの東京裁判の不公平性を世界に訴えた、1945年9月2日東京湾停泊の戦艦ミズーリ甲板上で日本全権大使として戦争犯罪人処罰を織り込んだポツダム宣言日本軍無条件降伏に調印した重光葵(しげみつまもる)外務大臣もA級戦犯として禁固7年の判決を受けてこの一連の動乱時代を日本の外交政治家としてその身を捧げた・・・

重光氏はのちに「私がモスクワで見た政治犯・軍事裁判と何ら違いのない民主刑であった」とこの東京裁判の公平性に欠ける実態を皮肉った・・・終戦眞近かに参戦して戦勝国に名乗り出て北方4島を我がもののように奪い取ったあのソ連を皮肉った・・・

1944年末から米軍に先導された連合軍は戦略爆撃機“B-29”の大編成を組んで北部九州を皮切りに東京→名古屋→大阪→神戸の主要都市から33もの地方都市の何十万もの及ぶ非交戦一般市民の命を奪った執拗な非人道無差別『日本本土大空襲』を1945年8月15日の終戦の日を迎えるまで毎日繰り返し繰り返し続けた!!

1945年3月26日から6月23に日にも及ぶ間米軍と日本軍の間で交わされた初めての地上戦と空爆によって当時内地人も含めて45万人の沖縄在民の1/4にあたる20万人もの御霊が露に消えた、その中には日本軍人による沖縄住民虐殺1000人と集団自決強要による犠牲者800人を含む許されぬ惨劇が起こっていたことを忘れてはならない・・・(T_T)アラス

原子爆弾核実験をするかのように29万人もの虫けらのように一般市民を被曝させ苦しめ今でも命を奪っていく1945年8月6日の広島原爆投下は・・・そして更に3日後8月9日の24万人もの非戦闘市民被爆を招いた長崎原爆投下の非人道的無差別爆撃の責任は誰が裁くのだろうか・・・ただパールハーバー攻撃のリベンジでは済まされないのではないのか・・・

排日運動激しきなりし時朝鮮慶州北道からほとんど無一文で命からがら引き揚げてきた小生の家族と伯父の家族が釜山⇔確か下関間に就航していた引き揚げ船“興安丸(7103トン、8000人収容可)で1945年6月頃ではなかっただろうか日本にたどり着いた、釜山港では甲板で従姉妹達と沈みかけた大型船を見詰めていた、間もなく当時4歳の小生は雑魚寝(ざこね)の船倉に降りて寝てしまったらしい・・・目覚めたのは神戸港からおやじの背中におんぶされ瓦礫(がれき)と化した神戸の街をJR神戸駅に向かっていた時だった・・・

郷里加古川の田舎に帰郷後も毎日のように『ゴォ~~~』とあのB-29の編成が頭上高く轟音を響かせ飛んでいく光景・・・八幡小学校の校庭に墜落した日本の小型戦闘機、村の中に放置された戦車・・・よく遊び場にしていた母里(もり)飛行場の滑走路と木造の管制塔・・・よく村のガキどもが潜り込んで遊んでいた真っ暗な村はずれ林の中にある防空壕・・・今でもハッキリ思い出される・・・

この「明日への遺言」に合わせて小生から今の若者に観てもらいたい映画がある、あの敗戦国日本が味わった屈辱を・・・日本のために耐えて耐えて戦った一人の日本人理髪店主が復員後、戦時中アメリカ兵捕虜を実際は怪我をさせただけだったにもかかわらず、殺害しようとしていたという冤罪でBC戦犯として死刑を言い渡され無念の死を遂げた悲劇を描いた・・・加藤哲太郎、手記原題「狂える戦犯死刑因の遺言」を映画化された1958年東宝製作フランキー堺主演『私は貝になりたい』を・・・2009年にはリメイク版が同じ東宝から公開される・・・

もう一度東京裁判の真実と戦争の愚かさと戦争犠牲者の悲痛な叫びに直面するために・・・

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