<関脇・玉椿>
・奉納相撲
名古屋場所が終わって緊張感が切れたせいか気が高ぶってなかなか寝付けません。缶ビールをのんでも眠れず、しかたないのでアニメをみたり、まらずもうの残務整理をしたりしているうちに、気がつくと午前3時。さすがに眠らないと翌日の仕事にさわるので、ベッドで入って目をつぶります。「仕事にそなえて体力の温存」しか考えられないあたり、自分の力士としての器の小ささを感じます。眠れないまま3時間ほど横になり「頭が重い、だるい」などとぼやきながら起床。当然まらは萎んだままで、惨敗でした。せっかくの毛呂乃関の引退相撲なのに、隆々と勃起したまらを披露できなかったは残念です。
・メッセージ
毛呂乃関の姿をはじめて見たのは15年ほど前でしょうか。新宿かどこかの居酒屋だったと思います。事前に四尺まらという噂は聞いていたのですが、毛呂乃関本人はひょろっとした痩せ型で、股間の陰茎だけがやたら長く太く、想像以上にアンバランスな印象でした。テーブルの間からずっしりと重そうな勃起状態のまらをのぞかせながらビールを飲む姿を見ると「こんな細身の身体にやたら大きなものをぶら下げていては日常生活では邪魔だろうな」と心配になったものです。
徳川家康の遺訓に「人の一生は重荷を背負って遠い道をゆくようなものである」という言葉があります。家康は狸親父というニックネームで呼ばれていたことからもわかるとおり、巨大な陰嚢を持っていました。合戦のときなどは甲冑を着るだけでも難儀したでしょうし、その巨大すぎる玉袋は弓矢や鉄砲の格好の標的になったとか。もちろん悪いことばかりではなく、家康の生涯で最大のピンチともいえる伊賀越えのときには、山中で落ち武者狩りの野武士たちの襲撃を受けたものの、野武士たちはその巨大な陰嚢を見てこれは狐狸妖怪の類であると恐れおののき、それで危機を脱することができたそうです。
毛呂乃関も棒と袋との違いはあるものの、家康同様に股間に重荷を抱えています。陰茎のあまりの重さに腰痛に苦しむことあるようです。しかし、毛呂乃関のまらは、本体の腰痛などは気にしていないかのように、自由奔放にふるまいます。人間離れした非合理な行動で負けてしまうことも多々あります。あまりに行動が予測不可能すぎて、毛呂乃関自身はまらの勝手な行動をコントロールできないのではないか、脳ではなく海綿体で思考しているのではないか、と思ってしまうくらいです。毛呂乃関のキャリアのうちの100敗くらい、勝率でいえば1割近くはまらの暴発で負けているかもしれません。
しかしそんなことは些細な問題なのです。家康の遺訓にも「勝つことばかり知り、負けることを知らなければ害がその身にいたる」とあります。毛呂乃関のまらは本能的にそのことを知っていたのでしょう。時折負けることで、本体と陰茎の不均衡さからくる歪みのようなものを解消していたようにも思えます。そして負けるときの負け方にこそ、毛呂乃関のまらが持つ自由な創造性が最大限に発揮されていました。負けっぷりの美しさ、と口で言うのは簡単ですが、本当に美しい負け方ができたのは、まらずもうの長い歴史のなかでも毛呂乃関だけだったように思います。同時代に生きた力士として、毛呂乃関の勝利数や優勝回数や勝率などはさほど気にならないのですが、負けっぷりについては本当にうらやましいし、本当の天才だったと思っています。
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