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森羅万象 ~ 歩く印象派

言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文(1)竹中直人

2009年05月10日 06時51分27秒 | Rock 音故知新
>以下は朝日COMより

 9日に営まれた忌野清志郎さんの葬儀には、生前から親交の深かったミュージシャンや俳優らが多数参列した。葬儀では俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさん、ロックミュージシャンの甲本ヒロトさんの3人が弔辞で在りし日の清志郎さんをしのび、別れを惜しんだ。弔辞の全文は次の通り。

◆俳優・竹中直人さんの弔辞<全文>

 清志郎さんへ。清志郎さん、清志郎さん。僕はきょう、清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」。ただ、それだけを言うつもりで来たのに、「弔辞をお願いします」って、ものすごいプレッシャーです。めちゃくちゃプレッシャーです。だから、清志郎さんにもらった指輪をしてきました。きのうの朝はものすごい雨と雷でした。急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。ボス、キング、ゴッド……、いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとっては、やっぱり清志郎さんです。何だかまだぼーっとしています。体も心もまだ震えています。

 お通夜の日、清志郎さんの寝顔を見たけど、別人じゃないかって思ってしまいました。でも、とてもきれいな顔でした。とってもきれいな手でした。僕ね、清志郎さん、僕たちはまだ、信じられない思いでいっぱいです。忌野清志郎が死んじまった。何度も言葉でつぶやいても、心の中で思っても、受け入れることができません。絶対に受け入れることなんかできるわけがない。でも、本当は、清志郎さん、大好きな清志郎さん、みんなみんな、清志郎さんのことが大好きです。清志郎さんのこと嫌いな人なんて、誰一人だっていない。

 清志郎さんががんを克服したとき、(三浦)友和さんと3人でお祝いをしましたね。そのとき清志郎さんは「竹中、オレ、ガンじゃなかったかもしれないんだが、いまさらそんなこと言えないんだよな」って言ってましたね。

 僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。「なんて独特な声の持ち主なんだ」。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。僕はみんなに自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。世界中の人に自慢したいです。ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。

 清志郎さんの髪が抗がん剤で抜け落ちて、また生えて来た時、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。「竹中、竹中には絶対勧められないんだけどさ。抗がん剤ってさ、髪が全部抜けちゃうんだけど、その後に生えてくる髪が剛毛なんだぜ」って。でも僕は清志郎さんに「頑張ってください」なんて、ありきたりな言葉しか言えなかった。

 清志郎さん。清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごくさびしいけど、僕たちはそう確信しています。

 清志郎さん。僕の母は、僕が高校3年生の時に亡くなりました。母の死はそのころの僕にとっては深い悲しみでした。3年前、母の33回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんが、こんな言葉を僕に伝えてくれました。「直人君のお母さんが33年間、ずっと直人君のそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たってお母さんがやっと直人君から離れて月に帰っていったんだ」。だから清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。そして、月に帰っていくんですよね。だから清志郎さん、これからも33年間、僕たちのことを見守っていてくださいね。見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。

 清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。ずっとずっとずっと! 清志郎さーん、またね!(大きく手を振って、一礼)


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