『共感革命: 社交する人類の進化と未来』(河出新書・2023/10/24・山極壽一著)からの転載です。
遊ぶ人間、ホモ・ルーデンス
オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは一九三八年に『ホモ・ルーデンス』を発表し人間社会における遊びの重要性を説いた。
遊びは経済的な利益を求めないし、目的も定めない自由な活動だ。また楽しさを追求するもので、遊び自体が目的になる。しかも、日常を離れた「虚構」でもあり、遊びの中けで通じる独自のルールがつくられる。遊びという行為は、人間のどの文化や文明にも存在しており、一見、無為に見える遊びこそが、社会を発達させた源ともいえるのではないか。
人間の遊びに関して、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワの優れた考察がある。一九五八年に出版された『遊びと人間』という著書においてカイヨワは、文化が遊びを通じてつくられることを指摘している。
遊びは、競争(アゴン)、偶然(アレア)、模擬(ミミクリ)、眩暈・ままい(イリンクス)という四つのカテゴリーに分けられ、そのどれもが時空問的な虚構の中で制定されたルールに基づき実施される。この遊びは、常に予測できない要素を含んでいなければならない。競争的な要素の強い遊びとしてスポーツがある。また偶然的な遊びは賭け事などで、模擬的な遊びはモノマネ、眩暈的遊びとしてはジェットコースターのような一歩間違えれば生命にかかわるような冒険的行為である。
これらの遊びは他の動物にもあるのだが、偶然的な遊びは人間にしか見られない。人間以外の動物は、自分の意志でコントロールできない偶然性では遊ばないのだ。
ゴリラの遊びを観察してみると、アゴンは追いかけっこやレスリング、ミミクリは木の枝などを赤ちゃんに見立てる遊び、イリンクスは木の枝にぶら下がりぐるぐる回るような遊びが当てはまる。しかし、憫然が伴うアレアは存在しないことがわかる。アレアという偶然を伴う遊びには、未来を想像しながら、あえて偶然に賭ける人間独特の意識と認知が必要なのだ。
人間の場合、たとえ自分に不利な状況でも、いつか幸運が転がり込むかもしれないと信じる心がある。そう考えると、宗教もアレアの一種なのかもしれない。宗教には天国や地獄があると教えるものも多いが、実際に天国や地獄を見た人はいない。それなのに、天国や来世など、次の世界で報われると信じて、この世の苦しみを引き受けようとする人が大勢いる。これは人間ならではの現象だ。
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