仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

私の声となったお念仏

2024年01月04日 | 浄土真宗とは?

本願寺新報2024.1.1日号掲載の法話原稿です。

  • 仏の救いのはたらきが 私の声となったお念仏

 

仏さまの美しいお姿と言えば、お立ち姿の立像を思い描く方が多いことだろう。立っているというお姿は、如来の能動性を表現している。しかしその能動性の極まりが南無阿弥陀仏の声のお姿だ。

 「うつしい」という言葉は、上代の『日本書記』や『神功記』などには、「徳」[慈悲]「恩恵」といった漢字を当てて「うつくしび」と読ませている。「慈悲」(うつくしび)というのは「いつくしみ」のことであり、親しいものへの愛情や小さいもの、可憐なものへの思いやりを意味する「愛しみ」(うつくしみ)でもあった。「うつくしい」という言葉は、自然にしたがい、自分より小さいもの、弱いものを護るという「道」に適った行いから生まれた言葉だと『美しい日本の身体』(矢田部英正著)にある。

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀の呼び声。その呼び声である南無阿弥陀仏のお姿は、これ以上ない美しい如来のお姿だといえる。
 「この世が本当。浄土はフィクション」これが私たちの常識かも知れない。しかし、死に際し、わたしを支えていた常識が無意味になるとき、「この世のものは何ひとつ当てにはならない」という教えが真実味をもち、本当と思っていたこの世の生業が、私の認識から生まれたフィクションであったことが明らかになる。何一つ依り所となるものを持ち得ない私を、阿弥陀さまが、“仏になるいのちである”と、わたしを意味づけてくださる。その阿弥陀さまにゆだねて安心して過ごして行きましょう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする