『我々はどのような生き物なのか 言語と政治をめぐる二講演』(岩波書店・2023/5/16・ノーム・チェムスキー著)からの転載です。
言語について成立するように見えることは、言語は「思考の道具」として設計されているということです。もちろん、文字通り(誰かに)「設計」されているという意味ではありませんよ。言語は創発し、そして「思考の道具」として発達したのです。実際、言語を内観的に捉えて、何のために言語を使っているか考えてみてください。ほとんど常に、内的対話と呼ばれるもののために言語を使っていることがわかるはずです。つまり、自分自身に向けて話すという行為から我々が逃れることはほとんど不可能だということです。自己に向けての内的対話は昼間でも夜でも一日中ずっと行なわれていて止めることが出来ませんし、止めるためには相当の努力と意思が必要です。内的対話をもう少し注意深く観察してみると、心の中で浮かんできているのは、実際の文ではないことがわかります。それはもし望めば文にすることが出来るようなちょっとした断片です。それらの断片を、今度は思考のための文にー発話可能な速度よりもずっと速く、ほとんど自動的に-変えていくのです。ですから、心の中で起こっていることは意識のレベルを超えていて、意識にのぼる内的対話の断片であり、それはほとんど全面的に意識のレベルを超えたものなのです。(中略)
ところで言語の進化について一言付け加えさせてください。みなさんの多くは、言語の進化と呼ばれるものに関する最近の膨大な文献をご存じだと思います。これは実に奇妙な現象です。その理由の一つは、そんなトピックがそもそも存在しないからです。言語は進化しません(会場笑い)。言語は変化しますが、進化はしません。言語というのは有機体ではありませんし、DNAも持っていません(会場笑い)。従って、言語は進化などしないのです。進化するのは言語のための能力、つまり普遍文法です。そして言語能力の進化については、二つの事実があって、一つは充分に立証されており、もう一つは信憑性が高いと思われるものです。充分に立証された事実というのは、五万年から八万年前に人類がその発祥の地であるアフリカを出て以来、何の進化も起こってはいないということです。つまり、人類は認知的に同一であるということです。個体問の相違があることは誰もがわかっていますが、集団問の相違はどうやら存在しません。例えば、二万年の間、部族外との人的接触を持っていないアマゾンの部族から幼児を東京に連れてくれば、その子はあなた方と全く同じように話し、量子物理学についてだって話すようになるでしょう。言語的な相違点も、それ以外の認知的相違点も一切知られていません。このことは、言語の創発から間もない時期以来、言語、すなわち言語能力は全く進化していないということを意味しています。
そしてもう一つの信憑性が高いと思われる事実というのは、決定的な形で立証することがより困難なものなのですが、タタソールが言及したことです。つまり、いま述べた時期よりも五万年ほど遡ってみると、おそらく言語は存在していなかったという事実です。こういったことが、言語の起源を研究する上での経験的基礎となるのです。これら二つの事実を除けば本当に全く何も経験的基盤がないところから、あれだけ膨大な文献が出てくるとは驚くばかりです。そして、これらの事実は、ああいった文献で論じられているものとは別の方向に考察を導くことになると私は思います。(以上)