仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

都市開教

2024年01月25日 | 都市開教

本願寺出版刊月刊誌『DAIJO』に2022年4月号から毎月、執筆者無記名のコラムに執筆しています。出版社から三か月は掲載しないでとのことで、期限切れから掲載しています。

 

2023.10月号 都市開教

 

 

父は二度、脳梗塞を患ったことがある。二度目は重症で、子である私のこともわからなくなった。退院した父と父の部屋で対面した。子である私を認識できない関係性の不在から、私は、その場への居ずらさを感じた。そのときをすることを思いついた。「爪を切ってあげる」といった具合だ。それで私は安心してその場にいることができた。ボランティアで、何かをお手伝いすることは、私にその人の側に安心して居ることができるためであり、私のための行為だと学んだ。

都市開教の話だ。首都圏開教の難題は、浄土真宗と縁なの人と、どう関係性を結ぶかということにある。全国の寺院数は約77.000ヶ寺、うち東西真宗寺院は約20.000ヶ寺。浄土真宗の占有率は38%だ。ところがたとえば千葉県。全宗派の寺院数3011ヶ寺。うち真言宗1200ヶ寺、日蓮宗930ヶ寺など、大派29・本派46(布教所含)で東西真宗75ヶ寺、その占有率は0.025%だ。これが富山県だと全寺院数1570ヶ寺。東西真宗1047ヶ寺で浄土真宗の占有率が67%となる。だから首都圏では、み教えを正しく伝える以前に、浄土真宗とご縁の無い方とどうご縁を結ぶかということが重要になる。キリスト教団は、その方法として学校や病院を経営し開教を進めてきた歴史がある。新宗教は、病・貧・争といった思い通りにならない現実を、思い通りにするといった対応で教線を拡張していった。ではわが教団はどうだろう。

私はその最も有効的かつ具体的に可能な取り組みは「苦しみへの対応」だと思う。新宗教は、思い通りにならない現実なのかで、思い通りになるための方策を説いた。浄土真宗の苦悩への対応は、「思い通りになる」ことではなく「思い通りになったことにしか安心できない」という私という構造的欠陥への対応だ。苦悩のない人はいないので、全人類が浄土真宗とご縁を結ぶ対象となる。

苦しみには、職を失う、財産を失う、健康を失うといった皮相的なものから、私そのものが苦しみとなるという二面がある。これは別物ではない。皮相的な苦しみから、構造的な問題へと意識が深まっていくこともある。そして重要なのは、この人間という構造的なもの起因とする苦しみこそ、不完全さの疼(うず)きであり、真実からの働きかけによって生じる痛みであると理解だろう。この苦しみの解決が、 思い通りにならない苦しみのなかで、思い通りにならない現実を拒否してやまない自分への執着から解放へと向かわせるからだ。そしてその苦しみを通して、苦悩の底に流れている「すべての衆生は、はかり知れない昔から今目この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりヘつらうばかりでまことの心がない。」(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一九六頁)という人としての真実に触れていく。その構造的な問題への苦しみが「清らかな心がない」の体験に突き抜けるとき、苦悩の身の受容が起こる。
 もっと簡単に言えば、自らの凡夫性、愚かさ、不完全な私が明らかになるとき、ものの見方・価値観に転換が起こる。苦しみのなかで、自らの凡夫性が開示される。それと同時に大悲や自然の働き、社会の恵みなどが明らかになり、自分を超えたより大きな世界に委ねるときでもある。

こうした苦しみは、失恋や失敗や病気でも体験するが、死に直面して起こる苦しみこそ、最も大きな自我の危機の到来であり、この自我の危機こそ回心(えしん)の機縁となる。

浄土真宗的に言えば、苦しみを通して苦しみの原因である自我の愚かさが明らかになり、どうにもならないままに、どうにかする必要もない阿弥陀如来の大悲に開かれることだ。

お慈悲の現場は、苦悩に喘ぐ私にある。であるならば寺院活動も苦悩する人々に、まずは寄り添うことだ。

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