いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

安倍首相の戦争観。 a view of war of premier abe

2014-01-07 20:00:20 | 日記
 (1)安倍首相はじめ民主党代表もこぞって新年にあたって恒例の伊勢神宮を参拝した。詳しい経緯(いきさつ)や由来はわからないけれども、日本人の多くが新年の初詣をはじめ神社仏閣にお参りをすることは宗教的な意味合いもなく生活習慣のひとつとなっているもので、政治家としても代々に受け継がれてきた習慣儀式みたいなものなのだろう。政治も神頼みなのだ(野党の一部には政教分離に反するとの意見もある)。

 そうでなければ政教分離が建前、前提の日本社会の中で、政治と宗教が結び付いていては偏向思想が政治理念となって、不公平、不平等な政治がまかり通ることになる。
 さすがに中国、韓国からも首相の伊勢神宮参拝にまで抗議の声は聞かれない。

 (2)安倍首相の新年の友人との会食の席で靖国参拝が話題になり、「別の施設を作ったとしても赤紙1枚で戦争にかり出されて亡くなった方の家族は行かないだろう。『靖国(神社)で会おう』という一言でみんな死んでいった。その魂が靖国にある」(報道)と述べたことが報じられている。
 安倍首相の「戦争観」(a view of war of premier abe)がこういうものかとよくわかった。

 戦争で亡くなった人々が「みんな」靖国神社で会おうと思ってなくなっていったとは思わないし、いわれるようにすべてが進んで天皇のために戦って亡くなっていったとも思われない。
 「靖国で会おう」とは、戦争を主導した指導者層が敗戦を前にして心に決めて覚悟し、今となっては懺悔(ざんげ)した姿ではなかったのか。日本人の良心のかけらでも信じたい。

 (3)多くの戦争に駆り立てられた国民は、訳もわからないうちに戦争に送られて、訳もわからないままに亡くなったのではないのか。

 言論、思想統制、情報統制が厳しく敷かれていた極度の秘密主義の戦前軍国主義国家では、国民には国家の創作した楽観的な一方的情報しか伝えられなくて思想的にも、主義的にも、教育的にも極度に偏向して強制されていたことは容易に想像できる。

 (4)安倍首相の「戦争観」には、そういうものへの尊崇の念がかい間見える。特定秘密保護法の強行成立にもそんな影がただよう。
 美化(beautification)された戦争観、「靖国で会おう」には、訳もわからずに先導され、洗脳され、駆り立てられた戦争犠牲者の国民のむなしさ、無念さ、無情だけが感じられて、いまだにその国民の無念、無情を美化しようという意図、錯誤を感じるだけだ。

 安倍首相の政治手法を「政治ごっこ」と表現してきたが、美化された安倍首相の戦争観の「靖国で会おう」には戦争で亡くなった人への尊崇の念などではなく、その魂を晴らしたい危険な意図まで感じてしまうものだ。国家の首相として持ちうる理念などではあってはならない。

 (5)これでは、本来靖国参拝は国内問題でありながら、いらぬ中国、韓国からの批判、干渉を受けるのも仕方のないところだ。
 首相の靖国参拝問題は努めて国内問題として、日本国民が誠意をもって問題解決をしなければならない課題だ。
 そうしないことが、国外からのいらぬ批判、干渉を招いている。

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