オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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歴史の語り部を追った話(5):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その3 二つの「バーリー」

2018年07月08日 22時03分06秒 | 歴史
今回は前回の続きで、「角野氏はいかにしてバーリーの部品を流用するに至ったのか」なのですが、実はこの謎の前には、「二つのBally」という、一筋縄ではいかない混乱が横たわっています。

角野氏は、「ジェミニ」を開発する前に、「マックス(MAX)」という会社(マックス、マックス商事、マックス製作所、マックスブラザーズ、マックスアライド等々、「マックス」を名乗る会社名がいくつもありますが、その実態はおそらく同一と思われ、ソース情報でも混乱が見られるので、ここでは区別しません)を作って、Bally Manufacturing社製のスロットマシンやそのパーツを日本で輸入販売していました。


業界誌「アミューズメント産業」75年3月号に掲載された「MAX」の広告。「バリー社製品およびガラスなどの部品のお問合せ、ご注文は当社へどうぞ」 「Bally SPEAR PARTS SHOP」の文言が見える。

というわけで、角野氏が、「ジェミニ」以前からBally Manufacturingと何かしらの縁があったことは確かなようです。しかし、記事には以下のようなくだりがあり、理解に混乱をきたす曖昧な点となっています。

―特許とかライセンスの契約とかは?

角野 そんなものは全然なかった。最初、日本のマーケットは将来こういう風になっていきますからと、今現在みたいなパチスロ業界の形を説明して、こういう機械を作ってくれとバリーにプレゼンテーションしたわけです。バリーの社長がちょうど代わった時で、バリーの経営方針もオペレーションを主として製造メーカーとしてはあまり力を入れなくなった(1)。「我々の計画では、そんなものは世の中でありえない」と言われました。取り敢えず一応は「やってもいい」ということになって、デザインからメカまで同一の等しい機械を作ったわけです。足りない部品に関しては当時バリーから供給してもらいました。
 (原文ママ、下線と()の数字は筆者による。引用は以下同様)

さらに、角野氏のインタビューを一通り紹介した後に、このように述べています。

当時のバリーの日本担当者が後に独立してIGTを設立するウィリアム・S・サイレッド氏だった(2)。角野氏は「ジェミニ」を作るときに、「ここがうまいこといかない」と相談すると、上司のサイレッド氏から「ここがこうだ」と親切にアドバイスしてもらったと語っている。IGTが日本のパチスロ市場参入に成功した裏には、バリー時代からの人脈が役立ったはずである。

まず気になるのは、下線(1)の部分です。当時のBally Manufacturing社の社長は「ビル・オダネル」(William T. O'donnell、以下「ビル」とする)という人でした。彼は1963年にCEOとなり、1970年代後半にはカジノが解禁となったニュージャージー州でのカジノライセンスの取得に動き出します。角野氏が言う「経営方針もオペレーションを主として」とは、おそらくそのことを指しているのだと思います。

ところが、ニュージャージー州のゲーミングコミッションは、ビルは反社会的組織と関係がある(ビル本人は否定している)ので彼を解雇しなければライセンスを付与しないという条件を付けてきたため、Bally Manufacturingはこれに従ってビルの持ち株を強制的に買い上げて、1979年にライセンスを取得しています。「バーリーの社長がちょうど代わった時」とは、これに関する話なのかもしれません。

しかし、ビルがBally Manufacturingを追われたのは1970年代の後半のことで、角野氏が「ジェミニ」の開発のために交渉していたと思われる70年代中ごろは、まだBally Manufacturingの社長を交代させるという話は浮上していなかったはずです。考え方によっては微妙に重なると言えるのかもしれませんが、やはりいくらかの違和感は感じます。

次に下線(2)ですが、角野氏がやりとりしていた「ウィリアム・S・サイレッド」氏(これは「ウィリアム・S・レッド」の誤り。AM業界紙「ゲームマシン」も、1983年2月15日号に掲載した記事でこれと全く同じ間違いを犯しているので、ひょっとすると渡邊氏は独自の調査の過程でそれを見ていたのかもしれない)は、拙ブログの過去記事「ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3) 米国内の動き」で触れた「ウィリアム・サイ・レッド (William "Si" Redd)」氏のことです(長いので以下「サイ」とする)。サイはBally Distributing社の社長ではありましたが、Bally Manufacturing社の者ではありません。ここに、二つ目の「Bally」が出てきてしまいます。

サイのBally Distributingは、ビルのBally manufacturingの製品を販売するディストリビューターでしたが、子会社というわけではありませんでした(この辺、もう少し調査の必要がありそうですが)。それを、1975年、ビルがサイから買収して、Bally Manufacturingの傘下に収めています。あるいはこれが「社長が変わった時」の意味なのかもしれません。しかしサイは、ビルにBally Distributingを売却した後も、契約によってしばらく(3年間と思われる)はBally Distributingの仕事を続けていたし、またサイは、電子ゲーム機の開発には強い意欲を持っていました(逆にBally Manufacturingは消極的だった)が、カジノオペレーターを志向していたという話は全くありません。というわけで、この記事で言っている「バリー」が、Bally ManufacturingとBally Distributingのどちらを指しているのかが曖昧で、角野氏が初めに「ジェミニ」の話をしに行ったのがそのどちらであるかはわかりません。

この記事からわかることは、はじめに角野氏がバーリー(これがManufacturingを指すのか、Distributingを指すのかは不明)にこんなスロットマシンを作ってくれとパチスロの開発を依頼し、バーリー(同)はこれを断るが、自分でやるなら部品の供給はしてやるのでやれるものならやってみろという話になり、開発中はBally Distributingのサイにアドバイスを受けていた、ということです。

サイのBally Distributingは、基本的にはディストリビューターですが、サイ自身も「A1-Suplly」というゲームメーカーを別に立ち上げていくつかの電子ゲーム機を開発し、さらに社名を「SIRCOMA」に変えた後に開発した製品を古巣であるBally Distributingから発売するということもしており、メーカーとしての野望も持っていました。以上から、現時点でのワタシの結論は、角野氏が一連の交渉をしていたのは、ビルのBally Manufacturingではなく、MAXで取引をしていた時代を含んであくまでもサイのBally Distributingであり、サイを通じてBally Manufacturingの製品を融通してもらっていたというストーリーです。

サイは、ビデオポーカーという新しいスロットマシンの分野を確立して、現代のリールマシンの始祖とされるチャールズ・フェイと並び称される人物としてゲーミング業界の歴史に名を残していますが、同時に「パチスロ」の誕生に大きな影響を与えた人物として、日本でももっと知られてよいのではないかなどと考えたりもします。

(もう一回だけつづく)