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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

札幌レゲエ紀行:G-BAOA・G(ジー・バオア・グー)

2023年08月27日 17時30分00秒 | ロケーション

今年の6月に入ったある日、女房が「今年の夏休みは北海道に行きたい」と言い出しました。女房はかねてより「(自分にとって)未踏の地である北海道にいつか行きたい」と言い続けており、いずれは叶えてやらねばなあと思いながらも、ワタシに積極的な動機が見つからず踏み切れないまま現在に至っていたのですが、今回は違いました。

と言うのも、ワタシは今年の3月、札幌に「G-BAOA・G(ジー・バオア・グー)」というゲーセンを偶然見つけていたのでした。同店の公式サイトは「本場アメリカ直輸入! 現役バリバリのピンボールがたくさん!」と謳って少なくない数のEMのピンボール機も見え、また「主に80年代~90年代、ビデオゲーム全盛を彩った懐かしくも安定のラインナップ!」と謳うページもあり、レゲエファンとしては大いに食指が動くロケです。女房の提案はワタシの思惑にもグッドタイミングで合致するので、旅程に札幌のゲーセンを組み込むことを条件に賛成しました。

念願の北海道旅行と言うことで女房は張り切って旅程を考え、8月上旬から札幌、小樽、余市、千歳を巡る5泊6日のスケジュールを計画しました。北海道全体から見れば極めて一部に過ぎない範囲ですが、そもそも広い北海道を一度の旅行で全部巡るのは無理な話ですので、妥当な内容だったと思います。

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そろそろ「いや、前置きはいいからさっさとG-BAOA・Gの話を進めろよ」との声が聞こえてきそうです。拙ブログに期待される点があるとすればそこだけであろうことは承知しています。

ただその、今回は拙ブログへの一般的な期待にお応えできる内容にはならない予感がしており、懊悩しています。とは言えいずれは明らかにしていかねばならないことなので、そろそろ本題に移ります。

初日、我々は新千歳空港からJRの「快速エアポート」で札幌駅に移動し、「ANAクラウンプラザ札幌」にチェックインして荷物を置いた後、徒歩で市営地下鉄南北線のさっぽろ駅まで行きました。漢字表記の札幌駅と、かな表記のさっぽろ駅が異なる駅であることを知らなかったワタシは多少混乱させられました。

「G-BAOA・G」の最寄り駅は「北24条」駅で、さっぽろ駅からは僅か3駅です。北24条駅に到着し、4番出入口を出て左に1ブロック進むと、「樽川通り」を挟んだ向かいに「G-BAOA・G」はありました。

G-BAOA・Gの外観。側面は車が10台以上停められる駐車場になっており、結構大きい。

店の入り口。上の方に「ピンボール 60's/70's」と大書してある。

樽川通りを横断していよいよ店舗の前に立ち、入り口の写真を撮りつつ中に入ろうとしたら、店内から少し年配の店員さんが出てきて、「あの、店内は写真撮影できないんですが・・・」と大変恐縮した様子で言われてしまいました。

それがこの店のルールだというのであれば仕方ない、従うよりほかありません。そんなわけで、今回のレポートには店内の画像は一切ありません。これが、皆さんのご期待にお応えできそうにないと案じる理由です。

ヲタ属性な人を排除したがる気持ちを全く理解できないとは言いません。しかし、このようなゲーセンに興味を示しお金を落とす気が満々なのは今は殆どヲタ気質の人であろうに、そのヲタへの発信が極めて弱いのはどうなんでしょうか。「G-BAOA・G」の開店は2006年だそうですが、今までワタシの耳目に触れなかった理由の一つがここにあるように思います。Googleで検索してもヒット数が少ないです。

まあ、これ以上他人の店の経営方針に口出しするようなことは控えておきましょう。入って左手には、結構な数(数えたら全部で9台)のピンボール機があり、しかもすべてEM機です。機械に近づいてさらに驚くことに、1ゲームの料金が50円でした。これは1978年以前の料金設定です。そしてさらにさらに驚くべきことに、1台だけですが、ゲーム料金が30円の台もありました。こうなると1973年以前の料金です。

EM機が並ぶ壮観な風景を、本来なら皆さんにもぜひ見ていただきたいところですが、写真はありませんので、とりあえず設置機種リストを挙げておこうと思います。画像を見たい方は、機種の名前にIPDB(Internet Pinball Database)のハイパーリンクを貼っておきますので、そちらから参照してください。

Big Hit (Gottlie 1977)
Knockout (Bally 1975)
Jacks Open (Gottlieb 1977)
High Hand (Gottlieb 1973)
Buccaneer (Gottlieb 1976)
Centigrade 37 (Gottlieb 1977)
Volley (Gottlieb 1976)
Big Brave (Gottlieb 1974)
Camelot (Bally 1970) 1ゲーム¥30

ワタシはこれらのすべてを遊ぶことができました。ただ、問題が少なからずありました

問題の一つ目は、店内に50円硬貨の両替機が無いことです。仕方なくカウンターで両替してもらいましたが、50円硬貨の用意は殆どなく、8枚400円分しか替えることができませんでした。

問題の二つ目は、こちらの方がもっと深刻なのですが、まともに動く台が殆どありません。正常に動くことが確認できたのは「Knockout」のみでした。

もしかしたら「High Hand」は正常に動作していたのかもしれませんが、プレイフィールドが大きく右に傾いており、4つのドロップターゲットバンクすべての動作を確認する前に50円硬貨が尽きました。また、「Big Hit」も、二つのドロップターゲットバンクのうち一つしか動作確認ができていません。

その他の機種の不具合は以下の通りです。

・Big Hit: ボールが勝手に発射される(Big Hitはプランジャーが無く、右のフリッパーボタンを押すと、最下段中央、両フリッパーの間にある「Center Ball Shooter」からボールが発射される)。
・Jacks Open: ドロップターゲットが正常に作動しない。
・Baccaneer: 反応しないロールオーバーがある。
・Centigrade 37: 反応しないドロップターゲットがある。
・Volley: 中段正面のドロップターゲットのバンクが全く動作しない。
・Big Brave: 反応しないドロップターゲットがある。 1ゲーム5ボールの設定のようだがスタートは2ボール目からとなる。
・Camelot: ゲーム自体は正常に進行するが、リプレイスコアに達した時点で勝手に機械がリセットされ、リプレイが始まる。

何しろ古い機械ですから、多少の不具合には目を瞑らざるを得ないとは思います。しかし、ゲームとして成立しないレベルの不具合がある機械は、いかに安い料金設定とは言え、プレイしたいとは思えません。店の入り口にあれだけピンボールをアピールしているのに、この状態はとても残念です。しかし、それでもワタシは「G-BAOA・G」を応援したいと思います。願わくば、いつかピンボール機の不具合が修理されますように。

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G-BAOA・Gの2階には、夥しい古いビデオゲームとメダルゲーム機があります。すべてを試したわけではありませんが、概ね正常に動作しているように見えました。女房が気を利かせて気になったビデオゲームをメモしておいてくれたので、そのリストも挙げておこうと思います。

【G-BAOA・Gに設置されていたビデオゲームの一部(順不同)】
アイドル麻雀放送局(システムサービス 1988)
ARMED F(日物 1988)
アルカノイド(タイトー 1986)
namco クラシックコレクション(ナムコ 1995)
スパルタンX(アイレム 1984)
ワールドスタジアム93(ナムコ 1993)
スーパーワールドスタジアム1999(ナムコ 1999)
ミスタードリラーグレート(ナムコ 2001)
BOMBERMAN(アイレム 1991)
テトリス(セガ 1988)
ロジックプロ(デニアムコーポレーション 1996)
コラムス(セガ 1990)
ストリートファイター zero3(カプコン 1998)
ゼロガンナー(彩京 1997)
ぷよぷよ SUN(コンパイル 1996)
ぷよぷよ通(コンパイル/セガ 1994)
スーパーリアル麻雀 (セタ 1987)
Giant Gram2000(セガ 2000)
ばくばくアニマル(セガ 1995)
パズルボブル3(タイトー 1996)
パカパカパッション2(ナムコ 1998)
上海III(サンソフト 1993)
上海万里の長城 (テクモ 1995)
PENTA(ペンゴの海賊版・1982?)

ビデオゲームはこれら以外にもたくさんあります。札幌のゲームファンが羨ましいです。

最後に一つ、気になるメダルゲームも記録しておこうと思います。G-BAOA・Gには、大変珍しい「Tinker Bell (ティンカーベル)」がありました。

画像:Tinker Bell(セガ、1991)のフライヤーの表裏。

ティンカーベルは、セガが1991年に発売したビデオポーカーです。役ができると、役のランクに応じた人数のダンサーが画面上に現れ、ダンサーが一定数に達したらボーナスゲームに突入するというものでした。アイディア自体は良いと思うのですが、何しろ日本のゲーセンでビデオポーカーと言えばsigmaの独擅場で、他社から出たビデオポーカーで多少なりともヒットしたと言えるのは、Gマシン分野を除き一つもなく、ティンカーベルも敢え無く埋もれて行ったビデオポーカー群の一つとなってしまいました。

G-BAOA・G、ピンボール機は大変に残念でしたが、どうか今後も頑張っていただきたいものです。


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その5(最終回)

2023年05月07日 19時40分46秒 | ロケーション

エレメカ研究所探訪記録の最終回のテーマは「リプロダクト」です。「リプロダクト」とは、通常は「複製品」の意味で使われることが多いですが、「再生」の意味でも使えるようです。エレメカ研究所には、オリジナルのままでは到底稼働が叶わないオールドゲーム機に手を加えて動作できるようにしてある機械が結構たくさんあります。例えば前々回の記事で採り上げた「コインパンチ」も、プレイフィールド部分はオリジナルのままですが、キャビネットは独自に作成されたものです。他にもおそらく、外見からはわからないけれども筐体内部でリプロダクト行われている機械もあるものと思われます。

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エレメカ研究所の最も奥には、水族館の水槽を思わせる大きな赤い箱があります。ウィンドウの上部には、「Helicopter」との銘板が取り付けてあります。

「Helicopter」の銘板が付いたゲーム機。


プレイフィールドの拡大図。中央のインストラクションには、「コインを入れますと、飛行可能ランプ(緑)が点きます。およそ50秒 / 緑ランプが点いている着地点に着地してください / 着地しますと確認ランプ(赤)が点き、しばらく / して、確認ランプ(青)が点きますと / 認定ランプが点きます / 3つ認定ランプが点きますとコインが出てきます」と書かれている。

この「Helicopter」の銘板は、セガが1968年にリリースした「Helicopter」のマーキーから持ってきたものと思われます。

Helicopter (Sega, 1968)のフライヤー。

エレメカ研究所のHelicopterは、操作するヘリコプター、ジオラマ、操作系部品までかなり手が加えられており、その違いはフライヤーの絵でもいくらかは察せられますが、Youtubeのこちらの動画を見る方がよりわかることと思います。

この動画と見比べると、エレメカ研究所の機械は殆ど原形を留めていないとさえ言えるかもしれません。しかし、なんとか動く状態で展示したいという強い思いを感じます。オリジナルのまま動けばそれが理想ではありましょうが、動かない機械をどこまで弄って構わないかは人により様々な考えがあり、最終的にはオーナーの意向に沿うものであるべきかと思います。

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コインを投入する娯楽機が黄金時代を迎えるのは1920年代の終わり頃からのことです。「ディガ―マシン(Digger machine)」と呼ばれるクレーンゲームは、その中でも早くから登場していました。エレメカ研究所には、おそらく1930年代のものと思われるアメリカ製の古いディガーマシンがあります。

エレメカ研究所のディガ―マシン。「今の『UFOキャッチャー』の元祖」との説明がある。

ただしこの機械は、オリジナルから機構部分のみを取り出し、その動作を見ることができるようにしてあるもので、実際に菓子類を掴み取るところまではできません。それでも、100年近く前に作られた機械が動くところを見ることができるのは大変に興味深いものです。

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もう一つ、リプロダクトを記録しておこうと思います。こちらは上記二つと違い、もはや「魔改造」の域に達していると言っても良いのではないかと思います。

エレメカ研究所の「魔改造」ゲーム機。バックグラスには「国盗りレース」とある。

バックグラスには「国盗りレース」と書いてあるので、たぶん国盗りレースと言うゲームなのだと思いますが、実はこのバックグラスは、1980年レジャックから発売された「国盗り合戦」という10円ゲーム機に使用されていた表示パネルに手を加えたものです。

「国盗り合戦(レジャック、1980)」の筐体。wikipediaより。

そして筐体は手作りで、プレイフィールドは関西精機の「ミニドライブ」を流用したものであるように見えます。

「ミニドライブ(関西精機、1958)」の筐体。ただしミニドライブは何度かリメイクされており、「国盗りレース」のベースとなっているのは別のバージョンかもしれない。

「国盗りレース」の筐体には、「最右・左からの切り返しはは一旦車を真っすぐにしてください」とイラスト入りの説明書きが張り付けてありました。しかし、ワタシが訪問した時は調整中とのことで遊ぶことはできませんでした。この、どこから流用したのか見当が付かないハンドルでの操作感を試してみたかったのですが、残念です。それにしても、ここまで自力でやってしまうエレメカ研究所のオーナーの努力には本当に頭が下がります。

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実はエレメカ研究所は、かつて大阪駅ビルでレトロゲームを多く設置しているとして斯界では有名だったゲームセンター「ZERO」のオーナーが、ZEROを閉めた後に始めたロケだったのだそうです。

ワタシがZEROを訪れたのは2019年の春(関連記事:大阪レゲエ紀行(7・最終回)) DAY 2・その2:大阪駅前第2ビルB1「ZERO」
のことで、ZEROが無くなってしまったら「ウルトラガン」、「ホームランゲーム」、「バッティングゲーム」、「アレンジボール」などの貴重なオールドゲームはどうなってしまうのかと心配していましたが、こちらに移設され、今も健在で稼働していました。公的な機関がこれらの文化遺産を保存する気が無いとなれば、民間の篤志家の頑張りに頼るしかありません。どうぞ皆様も機会を作ってエレメカ研究所にお参りに行き、いくらかなりともお布施をいただけますようお願い申し上げて、このシリーズを終えたいと思います。

大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所シリーズ・おわり


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その4

2023年04月30日 21時56分34秒 | ロケーション

エレメカ研究所にはたくさんの見どころがありますが、白眉と言えば2台の「一銭パチンコ」だと思います。

エレメカ研究所の2台の「一銭パチンコ」。上は大学野球をテーマとしており、下は当時の女性の映画スターがハッタリ(入賞口の飾り)にフィーチャーされている。台枠は同じものを使っているように見える。

「一銭パチンコ」は昭和の初期に流行した遊技機で、1銭硬貨を投入して出てきた玉を弾き、ゲームの結果によっていくらかの1銭硬貨が払い出されるゲームでした。「パチンコ誕生博物館」の杉山一夫館長の著書「ものと人間の文化史186 パチンコ」(法政大学出版局刊)(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)の87ページでは、「パチンコは一銭パチンコから始まっている」と、現代パチンコの直接の先祖としています。とは言え、やはり現代のパチンコとは相違点も多く、人類の進化の歴史に例えるなら、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人くらい違うように思います。

エレメカ研究所の二つの一銭パチンコを良く見比べると、どちらも同じ台枠が使われているようです。拙ブログにしばしばコメントをくださるtomさんによれば、どちらも同じ寸法だそうで、確かに台枠の上部には同じメーカーの銘板が取り付けられています。

「YOSHIMITSU SAFE WORKS」と書かれている銘板。上が大学野球、下が映画スターのもの。

これら2機種はゲーム性が異なります。大学野球の方は、欧米で既に存在していた「ウォールマシン」と呼ばれるゲーム機のうち、盤面を落ちて来る球をカップを操作してキャッチする「ピック・クィック」と呼ばれるゲーム性を踏襲しており、もう一つの映画スターの方は、やはり「ウォールマシン」のうち、どこに入っても勝ちとなる「オールウィン」のゲーム性を踏襲しています。これらは、パチンコがウォールマシンの流れを汲んでいることの証拠となる貴重な資料と言えましょう。

ピック・クイック。拙ブログにしばしばコメントをくれるCaitlynのブログより

大学野球の方は、最初のアクションでキャッチできなかった玉を、もう一度別のハンマーで弾いて入賞させるチャンスを与えています。

 

大学野球のセカンドチャンス。台枠左にある小さなレバー(①)を引くと、②のハンマーが左に引っ張られ、レバーを離すとハンマーが③の玉を打つ。打たれた球はレールの穴のどこから下に落ち、セカンドチャンスとなる。

一銭パチンコは戦前からあったものですが、太平洋戦争が始まった1941年以降の日本では民間から金属を供出させる「金属供出」が行われたため、軍需物資に姿を変えたパチンコ機や玉も多かったことでしょう。また娯楽産業自体が不要不急の産業として禁止されたこともあり、パチンコの歴史は一旦途絶えることとなりました。

しかし、それでもいくらかのパチンコ台は残ったようで、戦後間もなくから隠匿されていたパチンコ台が闇市や復興イベントなどで稼働していたようです。Caitlynのブログでは、終戦直後の日本を舞台とする黒澤明監督の映画「野良犬」に登場するパチンコ屋の画像を掲載しています。エレメカ研究所の2台もどうにかして戦禍を免れて残った貴重なものです。

Caitlynのブログより、映画「野良犬」の一場面女の背後に戦時中を生き残ったパチンコ機が見える。

エレメカ研究所の2台の盤面には、右上に「兵庫県 公安委員会」との名が入った「検査済証」が貼られています。日本に「公安委員会」が設置されたのは戦後のことで、つまりこの2台は戦後に改めて営業の許可を得たものであるようです。

盤面に貼付されている、兵庫県公安委員会の検査済証。

パチンコ誕生博物館の杉山一夫館長はこれについて、「戦前の台にこれが貼られているのは、私の知る限り、この2台だけである。この2台は公安委員会誕生を示す超貴重な資料である」とSNSで述べています。

本来ならば博物館に展示されていてもおかしくない日本の娯楽産業の歴史遺産が実際に遊べる状態で展示されていることは、奇跡的と言っても過言ではないと思います。「いつまでもあると思うな親とカネ」という格言がありますが、このような歴史遺産についても同じことが言えます。遊べる、見られるうちに、その幸運を存分に味わっておくことをお勧めします。


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その3

2023年04月23日 20時18分21秒 | ロケーション

エレメカ研究所探訪記録の3回目は、ワタシが特に気になった2機種を採り上げておこうと思います。

コインパンチの筐体。

数年前に、ある方より大量のフライヤーの画像データを頂いた中に「サニック」(またはサニー東京)の名が入ったものがいくつかありました。そこには、ワタシが小中学生の頃に行楽地の食堂や旅館のゲームコーナーなどで見た覚えのあるゲーム機がいくつかあり、そのうちの一つがこの「コインパンチ」でした。ワタシはそれまで「サニック」の名を聞いたことが無く、以来ワタシにとって究明したい謎のメーカーとなりました。

しかし、「サニック」はおそらくは1973年頃に消滅したと思しき節があり、ワタシが持つ資料は殆どが1974年以降のもので、それらの中に「サニック」の名前は見当たりません。ネットを検索してもまるで関係のないノイズしかヒットせず、「サニック」の調査は難航しました。

それでも、オールドゲーム関連のコミュニティでシェアしていただける資料の中に、時々「サニック」や「サニー東京」の名が見つかることもあり、そんな時はまるで砂金を掘り当てたかのように嬉しかったものです。

「コインパンチ」は、過去記事「『三共』についての備忘録(4) 三共精機のAM機」の中で若干触れ、「いずれ機会を改めて述べたい」としていました。いい機会ですので、ついでに現時点でのワタシの「サニック」に関する認識を記録としておこうと思います。

【サニックに関する現時点での認識】
・創業時期は不明だが、遅くとも1960年代には存在している。
・もとは「サニー東京」と名乗っていたが、1970年に「サニック」に社名変更した。
・代表者は「多崎太々生」という人。
・新宿区西落合にあった。
・「'69遊戯機械名鑑」の巻末資料には「サニー東京」の記載あり。
・「'72コインマシン名鑑」と「'73コインマシン名鑑」の巻末資料には「サニック」の記載あり。
・「'74-'75遊戯機械名鑑」の巻末資料には記載なし。以降の名鑑も同じ。

「'74-'75遊戯機械名鑑」の発行日は1974年6月15日となっています。これらから類推するに、サニックは1974年か、早ければ1973年に消滅したものと思われます。

さて、その「コインパンチ」ですが、1973年かその前後1年に、ワタシは渋谷で現在も営業が続いているボウリング場が入るビルの1階にあったゲーセンで1度だけ遊んだことがあります。プレイフィールドでは裸婦が描かれた円盤が反時計回りに回転しており、インストラクションには「コインを美女の足に挟んでください。これが第一のチャンスです」と書いてあるのですが、その意味がまるで分かりませんでした。

「コインパンチ」のプレイフィールド。裸婦が描かれている円盤は反時計回りに回転している。

どうすると何が起きるのかが知りたくて、試しに右上のコイン投入口から入れた10円硬貨はたまたま回転盤の長い切れ込みに入り、回転に従って回転盤の3時半くらいの方向にあるポケットに運ばれました。次に筐体のボタンを押すと10円硬貨はポケットからはじき出されてプレイフィールド下方のパチンコ部分に落ちていき、「THIS LINE HIT!」と書かれたルートに入りました。出てきた景品はタバコの「ショートピース」で、その頃のワタシはタバコを吸う年齢ではなかったのでカウンターに持って行ったところ、ガムと交換してもらえました。これでこのゲームのことはすべて理解しましたが、なにもわからずデタラメに入れたコインで最善の結果を得られたのは大変ラッキーでした。

インストラクションが言う「第一のチャンス」の、成功時のコインの経路を示す図。しかしそもそもこれは「チャンス」なのか。

オリジナルのインストラクションには、「どうしても景品が取れない場合は白いボタンを押すとささやかなプレゼント」という趣旨のことが書いてあったと思うのですが、ワタシが遊んだ機械ではその部分が黒マジックで塗りつぶしてありました。

【アングラ―ゲーム(サニック、製造年不明)】

アングラーゲームの筐体とプレイフィールドの拡大図。

エレメカ研究所にはもう一つサニックの製品がありました。それがこのアングラーゲームです。ワタシはなぜか不覚にも、このゲームを遊ばずに帰ってしまったのですが、インストラクションを読むと、「コインパンチ」の回転盤に相当する部分がパチンコパネルに置き換わったものと言えそうです。

アングラーゲームのリリース年はわかりません。アンディ・ウォーホルのポップアートを想起させられるプレイフィールドのアートワークから、1960年代のものではないかと推察します。

プレイフィールドの右下には、展覧会で飾られている絵画で見られるようなサインがあります。そしてそのようなサインは「コインパンチ」にもあります。

プレイフィールドの右下に書かれているサイン。上が「アングラーゲーム」、下が「コインパンチ」のもの。

これら二つのサインの字体は若干異なっていますが、どちらも末尾の「i」と「y」は一体化させていて、「Design by T. tazakiy」と書かれているように見えます。そう言えばサニックの代表者の名前は「多崎太々生」でした。これらから、サニックの多崎さんは絵描きになりたかったか、少なくとも美術愛好家だったのではないかと推察されます。

アートワークとしては他に、プレイフィールドの左上付近に検印のようなものが見えます。

アングラーゲームのプレイフィールドに見える検印のようなもの。

「INSPECTED」とは「検査済み」の意味ですが、ラスベガスのギャンブルビジネスを管理するのは「ネバダ州」ですので、本物であれば「LAS VEGAS」ではなく「NEVADA」とあるはずです。その「LAS VEGAS」も、「LASVEGASS」と、ワンワードで記述されている上に、最後のSが1個余計です。さらに言えば、公的な機関であれば、「GAMBLING」とは言わず、「GAMING」と言うことでしょう。おそらくは、ポップアートとともに「豊かな国アメリカ」の雰囲気を出すための演出だったのだと思いますが、ともすると官名詐称を疑われかねません。それでも問題となったとの話は聞いたことが無いのは、誰もこんなところを気にしない、おおらかな時代だったということなのかもしれません。

(つづく)


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その2

2023年04月16日 16時43分56秒 | ロケーション

前回の記事で、「メーカー不明、1980年頃」としていた「ロボット」(駄菓子屋ゲームその1の③)のメーカーと発売年は、「KアンドU商会 1979年」であることが判明したので、修正しておきました。この「KアンドU商会」の名は、かつては業界紙誌の広告でよく見かけていたし、AMショウへの出展実績もあるのに、業界団体名簿には名前が見当たらず(ワタシの目が節穴なだけかも)、良くわからない企業です。

************************** これより本文

エレメカ研究所探訪記録の2回目は、大型の機械を記録しておこうと思います。大型と言っても「駄菓子屋ゲーム機と比較すれば」程度の意味であって、今の感覚では必ずしも大型には見えないかもしれません。

【ジャンボ (セガ、1969以前)】

セガの「ジャンボ」。

空気で吹き上げられているボールを、象の鼻を上下左右に操作してとらえ、所定の位置に運ぶゲームです。上下と左右の2系統を別々に操作して目標の1点を目指すのは案外難しい作業で、ワタシは満足に得点できた記憶がありません。

セガはその後、「ジャンボ」の筐体を流用した「ダンボ(Dan-Bo)」をリリースしています。こちらは空気で吹き上げられているボールを、空中を旋回する象の高低を操作してとらえて所定の位置に運びます。ワタシはほんの数年前まで、「ジャンボ」と「ダンボ」の区別が極めて曖昧で混乱していました。

「ダンボ」の全体像。'74-'75遊戯機械年鑑より。操作系はジャンボと異なるが、筐体とアートワークが同じで、ワタシは長年混乱していた。

「ダンボ」がリリースされた時期はよくわかりません。72年5月にセガが発行した「プライスリスト」には記載されておらず、74年6月発行の「'74-'75遊戯機械年鑑」には記載されているところから、1973~1974年と推定されます。(2023/4/20追記 Caitlynより、「ダンボのリリース年は1973年と確認されている」とのコメントをいただきました。Thank you Caitlyn!)

 

【クレイジー15 (こまや、1965)】

こまやの「クレイジー15」。

おそらく国産初のフリッパー付きピンボール機である「クレイジー15」のゲーム内容については、過去記事「初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」で述べていますので、ご参照いただければと思います。こまやの看板タイトルとも言える機種で、その後も何度かリメイクされていますが、エレメカ研究所の個体は最も古いバージョンのものです。

1ゲームは6ボールですが、ビンゴカードの縦横斜めいずれかで一直線に並んだ時点で直ちにゲームがリセットされ再ゲームとなることと、ゲームオーバー後もフリッパーの操作だけはできることが、今回改めて確認できた点でした。

オリジナルではプレイヤーへの褒賞はリプレイのみですが、エレメカ研究所は中央横の3-5-7が揃うと100円ゲーム用のメダルが払い出される改造が施されています。今回のワタシはリプレイは何度か獲得できましたが、メダルを獲得することはできませんでした。

【BASEBALL・2(こまや、1977)】

こまやの「BASEBALL・2」。

コントロールパネル左手の「ピッチ」ボタンを押すとプレイフィールドに描かれたダイヤモンドの中央が持ち上がってボールが出てくるので、右手の「バット」ボタンでこれを打ち、ボールが入った穴に書かれている結果で野球に準じたプレーを行います。米国では第二次大戦以前から同コンセプトのコインマシンが作られており、IPDB (Internet Pinball Data Base)は「バットゲーム(Bat Game)」と言うジャンルに分類しています。

ゲームマシン77年10月15日号は、こまやが同年10月に開催された「第15回アミューズメントマシンショウ」に「ベースボールII」を出展したと報じていますが、この記事には画像がありません。しかし、1978年3月発行の「'78遊戯機械総合年鑑」には「ベースボール2(BASEBALL 2」として写真付きで記載されているので、同一のものと判断して発売年を1977年としました。

実は同じショウでは「三共」(関連記事:三共についての備忘録(1) 三共以前の三共 他同シリーズ)がやはりバットゲームの「ホームランキングII」を出展しています。「II」が付かない「ホームランキング」はパチンコタイプの小型機で、なぜコンセプトの異なるゲーム機に名を継がせたのかは謎です。とまあ、以上はどうでもいいトリビア。

エレメカ研究所の「ベースボール2」は、老朽化によるものか、メカの動作が多少おぼつかない様子がありましたが、何とか遊ぶことはできました。

【ATTACK II (セガ、1971以前)】

セガの「ATTACK II」。

タイトルで「II」と名乗る通り、この機械には「ATTACK」と言う前作があります。さらに「II」の後には「Lunar Rescue」が作られていて、前二作では戦車を操作していたものが、三作目では「月面の救援車」を操作するようになっています(関連記事:(予定変更)70年代のセガのエレメカゲーム「ATTACK」とそのシリーズ)。

初代の「ATTACK」は一定の得点で記念メダルを払い出しましたが、「ATTACK II」では記念メダルの払い出しかまたはリプレイのどちらかに設定する仕様になっており、「Lunar Rescue」ではメダルの払出はなくリプレイのみとなっていました。ゲーセンが購入する景品の記念メダルは「1000枚15000円」で、当時の感覚としては結構高いものだったことと思います。

プレイフィールドの下にはX-Yプロッターのような機構が隠されており、プレイフィールド上の戦車はその交点にある磁石に引きつけられて移動します。これだけなら比較的単純そうなメカですが、戦車の向きを進行方向に向けるメカは少し難しそうに思えます(メカの専門家ならすぐに思いつくのかもしれませんが)。

ゲーム内容はどれも同じで、プレイフィールド上の戦車、または救援車をジョイスティックで操作して、三方の壁に埋め込まれているボタンのうち点灯しているものを砲身もしくは救援車の先端で突いて押し込めば得点を獲得します。しかし砲身はグニャグニャと曲がるようにできていて、ボタンを正しく押し込むためには真正面から垂直に突かなければなりません。時間制のゲームなので、焦って最短距離を取ろうとしたりすると適正に突くことができず、いたずらに時間を浪費するところがミソなゲームでした。この機械も動作に若干不安定なところはありましたが、曲がりなりにも遊べるだけで感涙ものです。

【ニンジャガン (関西精機、1978)】

関西精機の「ニンジャガン」。

関西精機と言えば、1955年の創業以来エレメカひとすじで日本のAM業界を牽引してきた功労の多い老舗です。1968年に発売したドライブゲーム「インディ500」は海外にも輸出されましたが、これは輸入やコピーなど海外製品に依存していた当時の日本の業界にとっては画期的とも言える出来事でした。

「ニンジャガン」は1978年10月に開催された「第16回アミューズメントマシンショウ」に出展されています。この頃はビデオゲームの人気が急激に上昇し、またテーブル筐体も増えてきていましたが、まだギリギリ、ゲーセンの主流はピンボール機を含むエレメカ機と言えました。しかし、すぐに「インベーダーブーム」が起き、あっという間に主流が入れ替わって行く時期でした。

「ニンジャガン」は移動するターゲットに多くのバリエーションがあるので、あちこち狙って忙しいプレイ感は、ビデオのガンゲームに近かったように思います。当たり判定が甘く、ずいぶんいい加減に狙ったつもりでも的中と判断されるので、楽しいです。

(つづく)