水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

論語(498)

2014-08-29 08:12:12 | 論語
仲尼如日月也、人無得而踰焉(子張第十九の24)

仲尼(チュウジ)は日月のごとくなり。人、(これを)得て踰(コ)えることなし。

仲尼(孔子のアザナ)は太陽や月のような存在です。私たちが、これを越えることはできません。


叔孫武叔が孔子をけなすことに対し、子貢が「そんなことはおやめなさい」と忠告した。
その理由は、おおよそ次のとおり。


そこらに居る普通の賢者は、丘のようなもので、目標にして、越えようと思えば越えることはできます。
しかし、孔子先生は、はるかに高い存在で、私たちがなにをジタバタしようが、ビクともしません。
ジタバタすればするほど、みっともない自分の小ささを示すことにほかなりません。


叔孫武叔が、なぜ孔子の悪口を言い続けたのか? きっかけはなんだったのか?

子貢は、孔子の悪口なんて「天に唾をはく」ようなもの、と言いたかったのでしょう。

解説員として(177)

2014-08-28 14:30:40 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

この時期には珍しく、肌寒く雨模様。
これでは見学者はあるまい、と思っていたところ、都内在住女性4人のグループがおいでになった。

竜源寺に行ったのち、こちらによった、とのこと。

ゆっくり時間をかけて見学してくださった。
たぶん満足していただけた、と思う。


このあとはどちらに?

滄浪公園に。

シブイ!

三鷹駅までバスでもどって、電車にしようと思うのですが。

む~ん、それはない、と思いますよ。確かに雨が心配ですが、大降りになることはないでしょうし、川沿いにブラブラ1時間、お歩きになったらどうですか。

じゃあ、そうしてみますか。


歩くことを勧めてはみたものの、よくなかったか。心配。





論語(497)

2014-08-26 09:13:40 | 論語
夫子之牆也数仭、不得其門而入者、不見宗廟之美百官之富(子張第十九の23)

牆(ショウ)=垣根
仭(ジン)=ひろ

夫子の牆や数仭なり。その門を得て入らざれば、宗廟の美・百官の富を見ず。

先生(孔子のこと)(のすごさを隠している)垣根の高さは数ヒロです(ですから外から中をうかがい見ることはできません)。赦しを得てその門から中に入らなければ、なかのミタマヤの壮麗さやそこに集う人々のすごさを知ることはできません。


孔子の弟子、子貢が、「子貢は仲尼(チュウジ、孔子のアザナ)より優れている」と人(叔孫武叔)が言っていると聞き、コメントした言。

私の牆は肩ほどの高さですから、外から中を見ることが可能です。中を見ることができない人と比較した場合、「見た」ことを前提に、「孔子先生より優れている」と言ってしまう気持ちは、わからないではありません。(不亦宣也、亦た宣(ウベ)ならずや)


子貢の、孔子に対する敬慕の念がよく現れている文、と思う。

論語(496)

2014-08-25 05:31:15 | 論語
夫子焉不学、而亦何常師之有(子張第十九の22)

夫子(フウシ)焉(イズク)にか学ばざらん。而してまた、何の常師(ジョウシ)かこれあるらん。

先生(孔子のこと)は、誰かからは学ばない、ということはありません(誰でもから教えを乞うた)。ですから、ぴったりはりついて学ぶような先生をもつことはありませんでした。

子貢が、衛の公孫朝という人の質問、「孔子さんはどなたの指導をうけたのですか」に対して答えた言。

「(孔子が尊敬していた周王朝における)文王・武王の治世が今失われたわけではなく、人づてに伝わっていると考えます。まともな人はまともなことを、そうでない人でも小さなことを受け継いでいるのです。ですから、あの時代のいいことは、今も、どこにでもあるのです」(と孔子先生から教えられました。)
ですから~~~~、と上に続く。


孔子先生であるから、こういうことができるのでしょう。凡人は、なにがよくてなにが悪いのか、判断がつかないのですから、マネするわけにはいかないでしょう。


このあいだ、バスのなかで中学生が、ヨーロッパにおけるサッカーをワイワイしゃべっているのを聞いて、隔世を感じた。
テレビなどをつうじ日常的に、「世界一」を見ることができる今の時代に、生を受けた彼らがうらやましい。
考えれば、世界一どころか日本一す、見ることがマレな時代だったのだから、目標はどうしても低くなりがちであった。

昨夜も寝苦しく、早起きしてしまった。

解説員として(176)

2014-08-21 20:47:40 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

「猛暑」との天気予報。
予想通り、見学者ゼロ。

歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として

今日読んだ本の巻頭に書いてあった言葉である。
カール マルクスが言った言葉だそうだ。

原発ホワイトアウト 若杉冽 講談社 2013.9.11発行

ストーリー
・ 近未来の話
・ 福島後の社会における嫌原発状況を、原子力村が手練手管を使ってひっくりかえす
・ 再稼働開始
・ 送電線破壊テロ(豪雪の最中に実施。ここからホワイトアウト)により、某原発において福島と同じ状況が発生
・ これにこりず、さらに次の再稼働を暗示させる描写

甘い汁にありついたヤカラの手練手管は、いかにももっともらしい。
現実も、この小説に描くようは経過を、オオスジたどるのではないかと想像され、ゾッとする。


しかしそれにしても、広島での土砂災害はひどい。

テレビで見る限り、土石流の発生源は沢筋だ。
マサの山際の、しかも沢筋に住宅地を建設するなんて、狂気の沙汰以外のなにものでもない。
同じような土砂災害は過去に数えきれないほどありましたよね~。

開発事業を認可した国/県、実際に事業を実施した事業者は責任をとらねばならぬと思うが、雨の異常さを強調することによって、そのへんはウヤムヤにされることでしょう。

この国は今、やっぱりちょっとおかしい。

論語(495)

2014-08-19 10:13:48 | 論語
君子之過也、如日月之蝕焉(子張第十九の21)

君子の過ちや日月(ニチゲツ)の蝕(ムシバ)むごとし

犯した過ちは、日食や月食のよう(に、すべての人に見られていると思ったほうがよい)。


子貢の言。

人に見られている、という解釈は、後段に続く言葉(過也人皆見之、更也人皆仰之)に基づく。

間違いをしでかさないように人生をおくることが最も大切であるが、その間違いをしでかしてしまったら、かくすことなく、すぐに改める態度が必要である。

そのとおり、と思います。
近年の政治の世界では、透明性/情報公開/説明責任などの言葉が声高に叫ばれているようにみえますが、これ、その陰で逆の動きだしが活発、ということではないでしょうか。

インターネット社会時代に突入した今、どんな些細な過ちであっても隠しとおせることはできない、と思わねばならぬ。

論語(494)

2014-08-18 11:31:21 | 論語
紂之不善也、不如是之甚也

紂(チュウ)の不善、是(カク)のごとくには甚しからざるなり

紂=殷最後の、悪名高い皇帝。紀元前1100年ごろ。

紂王が良くないというが、それほどでもなかったのではないか


子貢の言。


確かに、紂王は常識はずれではあったのだが、他人の不行跡を背負いこまされていたようだ。


今日の我々の生活に関していえば、マスコミの言うところを鵜呑みにしてはならぬ、ということ。

論より証拠
百聞は一見にしかず


論語(493)

2014-08-15 09:20:39 | 論語
如得其情、哀矜而勿喜(子張第十九の19)

もしその情を知れば、哀矜(アイキョウ)し喜ぶなかれ

(罪に問われている人の状況について)知る機会に接する場合には、悲しみ憐れむ心で臨み、(決して)喜んではならぬ。


曾子の言。
陽膚という人が、孟氏のもとで司法官(士師)に任ぜられ、曾子に、(心構えを)聞いた時の答え。

曾子はこの前段で次のように言っている。
「上失其道、民散久矣」(上はその道を失い、民散じて久しい)

つまり、民衆が政治の腐敗を絶望している世の中である場合、罪を犯す人にもそれなりに理由があるかもしれので、喜び勇んで罪人に接してはならぬ、と言っている。

では、政治がしっかりしていて、民衆から支持されている政治社会であれば、情け容赦なく罪人に接するべきなのだろうか?


こういう、屁理屈をこねる生徒は、先生に嫌われますよね~。
ごねるのをやめます。


こちらの言葉で言えば、「罪を憎んで人を憎まず」ということ、と解釈しました。

論語(492)

2014-08-14 10:48:13 | 論語
不改父之臣與父之政(子張第十九の18)

父の臣と父の政とを改めざる

(父の服喪期間中)、子である喪主は、父の教えを守り踏襲すること


曾子が、孔子から聞いた、とする語。
その話とは、
「孟荘子という方はとても親孝行であった。服喪期間中父の教えを守り踏襲したのだが、これは我々がまねをしようとしてもなかなかできないことだ」


儒教では、正式の服喪期間が三年、ということは、今まで何回かでてきた。
その期間中、守らねばならぬことを守り通すことは、まみたいていのことではない。
孟荘子という人は、数少ない、守り通した人であったのだろう。

なぜ三年か?
確か、陽貨第十七の21、に書いてあった。
生まれてのち三年を経て親の懐を離れる。だから、親が死んだら三年は服喪しなければならぬ。

余裕のある人であればそれもよいが、通常はそんな悠長なことをやってられないでしょうな~。

論語(491)

2014-08-13 08:48:29 | 論語
人未有自致也者、必也親喪乎(子張第十九の17)

人未だ自致(ジチ)なるものあらず。必ずや親の喪か。

自致=誠意を十分尽くすこと

一般に、誠意を十分に尽くす、ということは、(できそうで)できにくいものだ。あるとすれば、親の喪に服するときだろう。


曾子が、孔子から聞いた、として紹介している語。


確かに、一切の打算を抜きにして、事に当たれるのは親の喪かもしれぬ。
しかし儒教は、あまりにも葬式を重要視したために、その形式化が進むとともに、見栄の張りあい、がエスカレートしていったそうだ。
今も儒教の影響が強く残っている隣国のみならず、仏教式の多いこの国においても、葬式は形を大事にしすぎている、と思う。


それはさておき、「自致」。常に忘れず、大事にしようと思う。

論語(490)

2014-08-12 06:00:04 | 論語
堂々乎張也、難與竝為仁矣(子張第十九の16)

堂々たるかな張なり。共に並びて仁をなしがたし

張(子張のこと)さんは堂々としている。(その堂々たる(姿勢)ゆえに)いっしょに人間修養をしようとは思わない。


曾子の言。
ここでも子張は敬遠されている。

ひとりの弟子が多くの同士から批判されるのには、それなりの理由があるのでしょう。
が、さて、孔子先生はそれをどのように見ていたのでしょうか。
たぶん、「人様の批判をする時間も惜しんで、自分を見つめよう」とおっしゃったのではないでしょうか?

ワタクシをして、このように言わしめるところに、論語のふところの深さがあるのでしょうか?

論語(489)

2014-08-11 10:43:10 | 論語
吾友張也、為難能也、然而未仁(子張第十九の15)

吾友の張や、能く難きを為す。然れども未だ仁ならず

私の友人に張(子張のこと)がいる。難しい問題によく立ち向かっているけれども、仁の人というにはまだ早い。


子游の言。
子張は、孔子の弟子仲間のあいだであまり評判がよくなかったらしい。


さて、この論語読みも、今日を含め残すところ16節となった。
9月中旬の、ブログ開始8周年日には、「読了」の可能性がでてきた。
日程的にはやや詰まり気味だが、なんとかやりとげたい。つまらぬ内容が続くかもしれぬが、お許しください。よろしく!

論語(488)

2014-08-08 08:48:04 | 論語
喪致乎哀而止(子張第十九の14)

喪は哀を致して止む

葬式は悲しむことのみを目的とする。


孔子の弟子、子游の言葉。

孔子の家は、葬儀屋であったそうだが、儒教の葬儀は、体面を整えることに心血をそそぐため、一般に大げさだそうだ。

が、この子游のように、孔子の弟子のなかにも、一般的儒教葬に批判的な人もいたようだ。

悲しみの演出、なんて必要最小限でいい。

論語(487)

2014-08-07 10:40:06 | 論語
仕而優則学、学而優則仕(子張第十九の13)

仕えて優なれば学び、学びて優なれば仕える

学=無智を開き、さとること。修行

仕事に余裕ができたら人間修養すべきだし、人間修養をある程度やったら仕事をする(べきである)。


人間常に自分自身を磨くという修行を避けてはならない、ということでしょうか。

これも、孔子ではなく子夏の言。


論語(486)

2014-08-05 05:48:33 | 論語
譬諸草木区以別矣(子張第十九の12)

諸(コ)れを草木の区して別(ベツ)あるに譬(タト)う

このこと(=個別教育)は草木がさまざまな種類で成り立っていることと同じである。


ここは、孔子の弟子、子夏と子游の論争。


子游が、子夏の弟子に関し、「日常生活のしつけはいきとどいているようだが、君子になるための教育としては、枝葉末節、無意味ではないの」と言った。

これに対し子夏は、「子游さん、それは違う。草木と同様に人間も一人一人異なる。受け取る力が備わっていないときに無理強いに教えても無駄。個々に合わせ、一歩一歩教えていくことが大切です。初めから受け取る力が備わっているような人はもうその時点で君子というべきで、教えることはなにもないでしょう」と答えた。


愚問賢答、というべきでしょうか? 子夏びいきが過ぎる、との感想を持ちました。


昨夜は風があったので、多少眠ることができました。
今日の予報は「とんでもない暑さ」とか、ご健康の維持に御留意願います。