水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

解説員として(20)

2007-09-30 14:24:01 | 水車解説関連
 

 一昨日の30℃を越える猛暑がうそのような肌寒さだ。しかも、朝から土砂降りだ。20℃を切っているのではないか。
今日の午前、解説当番だった。日程割り振り表によると、解説員が三人配置だったので、団体の見学を予想した。

 案の定、15人ほどの団体見学があった。同僚H氏のお仲間であるようで、氏もおみえになった。みなさん、じっくりごらんになっていかれた。

 植物に精通しているかたがたの会らしく、施設見学後、庭のナギ(木へんに那)の木に話題が集中した。熊野神社の神木。男女間の縁を切れないようにするための縁起物として有名だそうだ。葉は、厚手で細かな平行脈があり、つややかだ。

 帰り、同僚M氏の車に市役所前まで乗せていただいた。助かった。
同乗中、我が家の車の車種を忘れて言えなかった。いよいよ認知症が始まったかと、ショックは大きい。

写真は5月撮影のもの。


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以下は、一年前に書いた記事のコピー

2006年9月30日
タイトル:水車市民解説員

今日は水車ボランティア養成講座の最終回(現地での模範解説)であった。おそらく、この水車の保存に努力なさっておられるのであろう、みたか水車クラブの宮川氏・他の方々熱意に感銘をうけた。
 
 受講者(10名ぐらいか)に講座修了証が授与され、はれて、水車市民解説員に認定していただいた。

 主催者から、実際の出動は1月以降で、それまで、独自に見学や研鑚を積んでほしい、との話があった。

 今回も地元ケーブルテレビの取材インタビューを受けた。

解説員連絡会(4)

2007-09-28 09:35:16 | 水車解説関連
 去る9月15日に解説員連絡会が開かれた。やむない事情で欠席した。
昨日議事録その他が送付された。特にメモしておきたいことは、次の三つ。

1 日程表によると、年末までに5回の当番を割り振られている。穴を開けぬよう気をつけよう。なかのひとつは、特にお願いして、出身小学校の生徒さんの見学に割り振っていただいた。ありがたく、楽しみだ。

2 同僚解説員から、次のような趣旨の資料が提供された。納得、納得。
 ・認知症のリハビリ法のひとつに回想法がある。
 ・歴史民俗資料館は回想法を実践する場所としてうってつけである。
 ・身体ばかりでなく精神の予防介護も大切だ。

3 市役所の主催で、講演会、企画展、講習会、講座など、興味深い、さまざまな催しが実施されているようだ。もっとしっかり、市報を読まねばならぬ。


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2006年9月28日の記事
タイトル:昔の生活レベル

 9月14日の記述で、江戸時代後期の大沢地区は苦しい生活を強いられていたのではないかと想像した。人口500人(戸数95戸からの仮定)で、米に換算すると、期待収量はわずか約640俵だったからだ。売る余裕などあったとは思えない。

 以上を、「国民総生産」的に考えてみたい。
 大沢地区の、江戸時代後期における、一人当たり総生産を、今日の価値であらわすと、
15000円(最近の生産者米価)*640(俵)/500(人)=約20000円

現在の日本の国民総生産は400万円、韓国:200万円、インドネシア:150000円、ネパール:30000円、ぐらいか。

 こんなくだらん比較ができるのもブログだからだ。が、言いたいことは、今の日本における我々の生活は、歴史的にも世界的にも、頂点にちがいない、ということ。

武蔵野夫人

2007-09-27 09:23:48 | 三鷹・文学
 解説者としての苦労というか楽しみのひとつに、見学者個々の得意分野推察(勝って読み)、がある。それは、気持ちよく見学していただく一番の方法が、個々の見学者の専門性や興味の対象に話題の中心をおくことにある、と思っているからである。

 そんなことで、話題に取り上げても、ついていけるよう、大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んでみた。男女の複雑な情愛を縦糸に、野川流域を中心とした武蔵野台地の情景を横糸にした小説だ。戦後すぐの発表だったから、さぞやセンセーションを起こしたことだろう。

 風景・景観の描写はすべて事実だ、と思う。野川流域については、何回も歩いて歩いて、歩き尽くし、調べ尽くし、書き込んである。さすがだ。

 共有できる情景ばかりで、なつかしい。しんぐるま 周辺の描写で特に気に入った部分を下に二つ。

「 一台の木炭自動車が止って、運転手が新聞を読んでいた。ここにも門標はなかった。運転手に聞くと、「知らないのか」というような侮蔑の表情をして、戦争中有名だった或る航空会社の社長の名前を告げた。」

 「野川の向こうの楯状の台地を越えて、府中の方まで足を延した。彼の選んだ古い街道は新しい自動車道路とどこまでもからみあって続いた。かつての立川飛行場の付属施設には、今は白いチャペルが十字架を輝かしていた。」

 
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2006年9月27日の記事
タイトル:製粉と湿気

水車が稼動すると、水煙が立ち、周辺の湿気はとても高くなる。新車(水車の固有名詞)は、湿気を嫌う製粉工程を有するにもかかわらず、屋内で稼動していた。なぜなのだろうか?
 普通に考えると、水車を屋外に分離し、臼や杵の工程を屋内に設置するほうが、使い勝手がよいはずである。メンテナンスが不便になることも厭わず、水車を木製の壁で覆い、屋内に設置していた。
製粉工程に影響する湿気の対策はどのようなものであったのであろうか。
 水車の屋内設置には、なにか特別の理由があったのであろうか。

 また、水車小屋前後の水路は暗渠になっていた。このことも気になっている。他人に「見せたくない」、特別の、からくりがあったのかもしれない。

立川断層

2007-09-26 09:03:52 | 三鷹・歴史/地史
 中央線に乗って、国分寺から国立に向かうと、切り通しを過ぎて急に開ける場所がある。武蔵野段丘と立川段丘の境界の崖だ。この崖を南にたどると、しんぐるま の対岸の崖につながる。

 この、国分寺と国立の間に存在する崖を立川断層と思っていた。見た目、北西から南東にきれいな直線であるためだ。しかし、これは断層崖ではなく段丘崖だそうだ。

 立川断層はもう少し、西北にある。その断層崖は、プロでないと見分けがつかないそうだが、玉川上水路の屈曲もこの断層崖をかわすために造られたのだそうだし、一度、ゆっくり捜し歩きたい、と思っている。

 いまのところ、この断層が動いて地震が発生する可能性は、極めて低い(99%ない)と考えられているらしい。信じよう。


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2006年9月26日の記事
タイトル:水車を回す水の水面形

馬場教授(9/23)の講座で配布された資料のなかに、「野川改修前の峰岸家と水車」とタイトルされた図面があった。その図面を見て、水の制御技術についても高度のレベルにあったことがうかがえ、驚嘆した。
 このことについては、今後じっくり調べたいと考えている。以下に、図面からの読み取り事実を示す。
1 水が水車にあたる前の約12m(6間か?)の水路床を「ゆるやかな上がり勾配」にしている
2 水が水車にあたる前の約4m(2間か?)の水路幅を1.5mから1mに漸減している
3 水が水車にあたる直前、水路幅を元の1.5mにもどしている

以上から、水車の当たる際水流は射流になっていた、と想像するが、水路の条件をこれほど細かく定めなければならなかった理由はどこにあったのだろうか。

緊急地震情報

2007-09-25 09:03:06 | 雑感(1)日常
 しんぐるま の、「住居が、関東大震災、安政江戸地震、安政東海地震といった大地震に耐えた」という話に、見学者は一様に驚く。そして、なんとなく明るい顔になる人が多い。「これが大丈夫だったのだから、我が家も大丈夫」と感じるのだろう。

 我々、首都圏の住人は、近い将来必ず来るはずの大震災に対して、なんともいえない不安を絶えず抱えている。この不安感が、今の世の暗いイメージを構成する大きな要素になっているのかもしれない。
 
 最近テレビで盛んに宣伝している話に、10月からはじまる「緊急地震情報」がある。初期微動継続時間を利用して、「地震が来るぞ!」と知らせてくれるのだ。
 ただし、三鷹の場合、震源が、東海沖や房総沖であっても10秒~20秒、相模湾だと10秒前後、荒川断層や立川断層が動く直下型だと5秒未満、の余裕しかない。

 この時間内になにができるか、だ。いや、心の平静さを維持するためにのみ使う、としておくべきか。


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2006年9月24日の記事
タイトル:製粉加工の価格

小阪氏の論文(多摩のあゆみ 102号)に、小金井市誌からの、水車営業に関しての引用の表がふたつある。それから、次のようなことが理解できる。

1 明治14年の、33営業種目(92軒)のうち、1軒当り売上高の最大は麺粉製造で、2260.5円(一昨日の倍率をかけると、現在の価値で、約一千万円)である。(ただし、これは何軒かの平均ではなく、ただ1軒の数値)
2 同じ水車経営といっても2種類(・近隣農家対象の杵貸水車:年間売上は20~150円(現在の価値で、10万~80万円)、・仲買・加工水車:2000~3000円(現在の価値で、年間売上1000万~1500万円))存在した。

 さて、一昨日も引用した高松市HPの、明治27年価格表には、小麦:4円95銭/1石、小麦粉:20銭/1貫、と出ていた。これから、おおざっぱに言って、小麦1石当りの製粉加工賃を3円と推定することは許されるだろう。
ここからさらに、年間3000円の収入を水車製粉で得るためには、およそ、毎日10俵の小麦を挽かなければならない、と想像してもよいだろうか。

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2006年9月23日の記事
タイトル:文化財

今日は第三回目の講座があった。武蔵野(野川流域)の水車経営農家、および文化財としての水車経営農家(峰岸家)、というタイトルで それぞれ、武蔵野美術大学の神野教授、および法政大学の馬場憲一教授の講義であった。前者は民具保存の立場から、残されている道具や部品の整理作業経過、後者は新車の文化財指定根拠、についての話であった。
 いずれの話も、自らの経験をもとにしているので、聞く者をあきさせなかった。時間が短すぎたきらいがあるのと質疑応答の時間がとれないことが残念であった。
 最近の数十年で人々が使う道具が急激に変化したので、民俗文化財の保護は、地味な仕事ではあるけれど、非常に意義深いことがよく理解できた。
 
 講義の後、地元ケーブルテレビの取材インタビューを受けた。テレビクルーがシルバー人材センターの人々で編成されていた。

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2006年9月22日の記事
タイトル:水車精米の収入

昨日、大正期における、新車(固有名詞)稼動による1日の最大可能収入を、現在の価値で、6400円と推定したが、どうも低すぎる。その原因は、貨幣価値の違いを1000倍とした仮定(日銀HPの企業物価戦前基準指数を根拠として使用)に問題がある、と考える。

 たまたま、香川県高松市のHPに明治27年の物価一覧を見つけた。そこに、うるち米の価格が7円70銭/1石と記載されていた。これを使うと、当時と現在の米価格を比較することによって、貨幣価値の比較が可能である。1石=150kg、現在の米価を300円/kgとすると、7円70銭(約8円にまるめる、当時の米価)が約5600倍が45000円(300*150、現在の米価)になる。
 以上から、昨日使用した1000倍より、この5600倍のほうが、実態をよくあらわす、と考えたい。ということで、当面、当時の水車精米の1日当りの可能最大収入や可能収入(現実的)の、現在の価値による推定値を、それぞれ35840円(6400*5.6)、1~2万円、とすることとした。

この次は製粉の収入を推定してみよう。

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2006年9月21日の記事
タイトル:水車家業の収入

水車を稼動させて、精米・製粉をすると、今の価値でどれほどの収入があったのだろうか。以下は精米についての推計を試みる。

新車(しんぐるま)の所有者の語り(水車屋ぐらし、p40)によると、大正14年ごろ、1俵の精米代は16銭であった。また、1俵の精米に5~6時間要した、という。

推計のための仮定を以下のようにする。

1 杵1本で1日4俵の精米をする(24/(5~6時間))
2 杵10本を稼動させる
3 当時の物価は今のそれの1000倍(八十二文化財団HPによると、昭和2年で、626倍)

1日の最大可能収入は、現在の価値で6400円(16*1000*4*10)となる。

ちょっと低すぎる気がするが、いかがなものだろうか。検討課題がまた出てきてしまった。
 ちなみに、我が家では、街中のコイン精米機を使っているが、確か200円/10kgだったと思う。5分もかからない。40俵(2400kg)の精米で48000円だ。

解説員として(19)

2007-09-20 18:17:14 | 水車解説関連
 今日は解説当番であった。猛烈な残暑にもかかわらず、6組、7人(たぶん)の見学者があった。半数は、「しんぐるま」の見学のみを目的としていらっしゃた、と見受けられた。ありがたいことです。

 縁側にいると、吹き抜けるそよ風が気持ちよく、外界の暑さがうそのようだった。

 近くからの、ひとりの見学者は、最初からツンツンしていて、こちらから解説を提案しても「必要なし」、とおっしゃるし、取り付く島もなく、ちょっと対応に窮した。しかし突然、なにかがふっきれたらしく、「家内と一日顔をつきあわせていると、クサクサしてさあ~」と打ち解けてくれた。結局、小一時間おつきあいしたのだが、ご自身の昔手がけた仕事の話など、おしゃべりして、お帰りになった。

たまには、こんな日もあっていいかな、が今日の感想。

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2006年9月20日の記事
タイトル:相似の法則

ダムのような巨大な施設を建設する際、通常、模型を作って設計データを求める。その際、力学的相似法則が、模型と実物をつなぐための基礎理論として使われる。この理論はもっと一般に普及してもよい。たとえば、模型戦艦の航走撮影をそのまま映写しても極めて陳腐な映像にしかならないが、力学的相似法則に従った時間変換をして映写すると迫力のある実態に近い映像を得ることができる、のである。

 新車(しんぐるま、ここでは固有名詞)の近くに、その1/2模型の水車が展示稼動されている。力学的相似法則(フルード相似則)を使って両者を比較すると、とりあえず、次のようなことを推定できた。

1 新車を回す流量は、1/2模型をまわしている流量の約6倍(昨日、新車の流量を推定したが、1/2模型をまわしている流量を測定すれば、その信憑性を確認できる)
2 新車の出力は、1/2模型の約10倍(新車が杵10本稼動させていたとすれば、1/2模型の水車は同じ杵1本働かす程度)

機会があったら、稼動している水車の水の条件を計測し、新車の稼動条件を明らかにしてみたい。


天気予報

2007-09-19 08:49:28 | 雑感(1)日常
 東北地方が大雨にやられた。収穫を目前に控えた稲やりんごが水浸しになる様子を見るのは、たとえテレビ画面でも、つらいものだ。一年間の苦労が、まさに水泡にきしているわけで、気の毒で、気の毒で。自然相手の仕事は本当に厳しい。

そういえば、二百十日とか、二百二十日とか、の言葉を最近聴かなくなった。このあいだの関東での台風も今回(台風の遠隔影響だが)も、この言葉の時期に当たる。季節を表現する、古くからの言葉は、その意味するところが奥深い。

 このごろの天気予報、数値に少々頼りすぎではないか。いまいち信頼できない。
そもそも、国が天気予報を管理していることが、時代遅れ、と思う。国は観測データを公表するだけ、にしたらいかがか。
規制緩和の象徴として、天気予報の自由化を!世の中、活性化しますぜ。

週末は彼岸。暑さ、もやっと終わりか。

 
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2006年9月19日の記事
タイトル:流量の推定

しんぐるま は直径約4.8mあり、その稼動中は1分間に10~12回転していた。

このような水車を稼動させるために、どれほどの水量が必要なのだろうか。
水量想像値を、次の水力発電出力式を使って計算した。

出力(Kw)=9.8*落差(m)*流量(m3/s)*水車効率

出力:6~10馬力は出た、との記述がある(近代になって4馬力の軽油エンジンを緊急時のために準備していたらしい)ので、それに0.735を乗じ、キロワット単位の出力とする。
落差:計測図面からの読み取りの結果、1m。
水車効率:根拠のない仮定、0.5。

以上により、流量は0.9~1.5m3/sと算出される。
進化した推定値が出るまで、この数値を「新車を回していた流量」と仮定することにする。


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2006年9月18日の記事
タイトル:搗く、挽く

対象にしている水車は、米を搗いたり、小麦を挽くための動力源として使われていた。

 なぜ、「搗」や「挽」の漢字がつかわれるのかわからず、気持ち悪いので、手元の大字典をひもといたが、よくわからなかった。「挽」のほかに「碾」も「ひく」と読み、使われていたようだが、これは、なんとなく意味が理解できる。「石をころがす」の意であろう。
とにかく、「つく」や「ひく」と島や「ベン」がつながらないのだ。
 時代物の小説に「春米屋」と書いて「つきごめや」と読ませるものを見たことがあるが、調べると、なんと、「はる」の中が日ではなく、臼であった。「つく」、「ショウ」と読ませる漢字らしい。これだと意味が通ずるような気がする。

 64歳の手習いだ。

水車大工

2007-09-16 10:06:02 | 水車解説関連
 大正時代ごろまで、水車大工と呼ばれる特殊技術者がかなりの数いたようだ。しかし、その技術の需要がなくなった今では、もうそのように呼ばれる大工は存在しない。
したがって、伝承されるべきノウハウの多くは、忘れ去られようとしていて、技術の伝承が途絶えることが惜しまれている。

しんぐるま(新車)のすごいところは、「水車動力製粉装置」の現物そのものを残そうとしている、ことだ。将来、途絶えた技術を復活させる必要が生じたとき、かならず脚光を浴びるはず、と信じて。

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2006年9月16日の記事
タイトル:水車を稼動させる技術

今日は第二回目の講座があった。講師は小阪氏。小学校の先生、とのことであったが、ご自分の足で地道にまとめている研究の成果を主体に講義なさり、大変聞きごたえがあるよい講義であった。話の内容は水車の構造および水車利用の歴史を概観するものであった。
 わが国における水車の動力使用は、300年前に始まり、たかだか約250年続いたにすぎない。しかし、水車をスムーズに稼動させるには、木工技術に関する日本人特有の職人技が必須であったはずである。それはなにか。その技術に地域特性があったのだろうか。また、水の制御技術の観点から、例えば、下がけ水車では射流もしくは跳水を利用したのではないか、などと想像をふくらまさせてもらえた。
 とにかく、勉強課題がいろいろ出てきそうで、今後が楽しみである。

行行子

2007-09-15 06:40:16 | 三鷹・文学
 井之頭池水源近くに、野口雨情の歌碑がある。

ないてさわいで 日の暮れころは よしに行行子(よしきり) はなりやせぬ

 井之頭音頭の何番かの一節である。

「行行子」をなぜ「よしきり」と読ませるのか、ずーっと知らなかった。ごく最近辞書を引いて、やっと納得した。

俳句の季語(夏)として使われる漢字よみ、らしい。もともとは、ギャーギャーと鳴く「よしきり」の声音に漢字をあてた。「ぎょうぎょうし」と読んでよい。句全体の深みを増すために、その漢字をわざわざ「よしきり」とあてよみした、ということだ。

 そういえば、あのころ、井之頭池流出口から先に、うっそうとした葦原があった。
しんぐるまあたりの野川周辺も、井之頭と同じような環境だから、同じ情景があったはずだが、記憶にない。
 
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2006年9月15日の記事
タイトル:50年前

 9/9、対象としている水車周辺を講義の一環として見学した。景観をしみじみながめるのは、なんと約50年振りであった。
 龍源寺の住職(菊地全明先生)が中学校の社会科の先生であったこともあって、この周辺は1年に数回ほど遠征する遊び場であった。確か、校内マラソンの折り返し地点でもあった。もちろんそのころはまだ東八道路はなかった。旧中島飛行機敷地周辺の防空壕跡が散在する原っぱで、今にして思えば、危険な遊び方をしていたものだ。あるときなどは、あやしい人(我々が、勝手に、考古学者と思い込んだ)に依頼され、一日中トレンチを掘り続けたこともあったっけ。19時ごろ帰宅し、親にこっぴどくしかられた記憶がある。信用するに足る種を把握した後手伝え、と。
 今は、あのころの景観はない。生活もない。小学生が見学に来るそうだが、有形民俗文化財の伝承を意義あるものにするために、水車解説ボランティアはどのような準備をしているのだろうか。

江戸時代後期の生活レベル(2)

2007-09-14 09:59:40 | 三鷹・歴史/地史
 一年前に書いた、下の内容の重大な間違いは、「農民は米を食べていた」と思っていたことだ。
現実は、「かれらにとっての米とは年貢のためのものであった。決して、食用のためのものではなかったといえる(江戸の米屋、p19)」、のだそうだ。

 しんぐるま(新車)周辺では水田もすくなかったはずだから、今日の我々の生活からは想像もできないほど、苦しい毎日を強いられていたにちがいない。

たぶん、映画「七人の侍」が描く世界だったのではないか。

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2006年9月14日の記事
タイトル:江戸時代後期の生活レベル


 9/9の相澤氏による講義をもとに、水車が設置された地区(大沢地区)の江戸時代後期の生活レベルを推定してみた。
 相澤氏によると、そのころの田畑の総計は270.48反(上、中、下、下下の総計)、戸数は95戸であった。美濃検地の田畑等級規格を使って、期待収量を計算すると、2544石(636俵)で、反当り収量は2.4俵となる。現代の反当り収量は平均8俵ぐらいか。2.4俵はそのころの全国平均レベルのような気がする。
 また、人口500人(95戸だから)、税金を5公5民と考えると、住民の食い扶持総量は約320俵であり、これから自給自足ぎりぎりの地区であったと推定される。もっとも、1石(米180リットル、または150kg)は人間一人が一年間に食べる量、と聞いたことがある、というあやふやな根拠に立脚。
 それにしても、ひるがえって、今の飽食には、われながら呆れるばかりだ。世界を見よ。

二年目に入った!

2007-09-13 08:42:23 | 雑感(1)日常
 某国首相が昨日、在任一年を目前にして辞任表明した。さぞや無念であろう。
比較するのは本当に恐れ多いのだが、このブログは、幸いなことに、今日から二年目に入いることができた。子供時代の夏休み日記でさえ満足に継続できなかった人間としては、信じられな~い。
これも読者(アクセスIP数によると、常時30~60)のおかげです。この場から、心より御礼申し上げます。

これからも、今までどおり続けようと思いますので、よろしくお願いします。

それから、これからは、当日の記事に、前年同月同日の記事を、コピーでつけたそうと思う。理由は、何をいつ書いたか、ほとんど忘れそうなので。
もちろん、その本元は削除する。

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2006年9月13日の記事
タイトル:始めの記

ブログ挑戦! その種は、水車解説ボランティア。

 三鷹市は、市内における文化遺産保存の一環として、市内河川で稼動していた、あるひとつの水車の保存に力を入れている。内外からの見学者は年間7000人を超えるそうである。最近の市報に、この水車についての講座を修了すると解説員として登録する、との案内があったので、応募することにした。応募の動機はいろいろ(定年後のボケ防止、居住地域に多少とも役立つことがしたい、外出の口実にできる、などなど)。
 去る9/9に第1回の講座が開かれ、とりあえず出席した。気に入った。面白そう。もっとも、果たして講座を修了しても採用していただけるか。幸いにして、採用していただけた場合、どんなことが待っているか。ブログに挑戦しながら、しばらく記録してみたい。これもボケ恐怖からかもしれない。
 ちなみに、グーグルで「水車」を検索すると、三鷹市のものがトップに出てくる。


みたか水車博物館

2007-09-12 10:15:36 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家(新車、しんぐるま)、の概要について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.)

 今日の三鷹市HPに、HP改善にためのアンケートへの協力依頼、が載った。
三鷹市は、2005年にインテリジェント・コミュニティ世界一に選ばれたそうだが、それにしては、そのHPは平凡だ。もっとも、無責任にも、インテリジェント・コミュニティのなんたるかを知らない。字面を素直に理解し、HP作成に関しても世界一としての格が認められたのではないか、と想像したのだが。
いずれにしても、世界一としての、どんなHPに改善されるか楽しみ。ワクワクする。

 このブログとしては、三鷹市HPからアクセス可能のサイト、「みたか水車博物館」を、心底尊敬している。インターネット上に構築された博物館で、編集者・作成者の優れたセンスを覗わせる、ユニークなサイトだ。
唯一、非常に残念なことは、2003年のアップ以来ほとんど更新されないことだ。しかしこれも、上のHP改善の動きに連動して、まもなく活性化するに違いない。期待している。

 そもそも、ブログを始めたきっかけは、「みたか水車博物館」の中の「水車屋日記」に触発されたからだ。解説員や管理人の、最新かつナマの感想を随時載せるコーナーで、蓄積されると面白いはず、と思った。

 ところで、明日で、このブログは二年目に入る。一年間に蓄積された記事全体は、果たして面白いか?まあ、このあたりは、しょせん自己満足の世界とし、深く考えない。
充実するはずの「みたか水車博物館・水車屋日記」に蹴散らされぬよう、新たな気持ちで、次の一年もコツコツ、蓄積に励むつもりだ。
 
 
 

神田川上流懇談会(2)

2007-09-11 13:21:52 | 雑感(2)ボランティア活動
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家(新車、しんぐるま)、の概要について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.)

 標記会合の事務局から送付された資料の中に、神田川再生構想検討会報告(平成16年12月)が入っていた。目標期間を50年とし、神田川再生を、基本理念、「首都東京の顔にふさわしい、人・生き物が集い、親しめる、地域に活きた川に再生し、東京に魅力と活力を与える」の基に、構想したものだ。

 神田川再生を、四分野、すなわち、治水水準のステップアップ、河畔まちづくり、水量・水質の確保、生物の保全・再生、に分けてまとめている。

 目を引くのは、治水水準に関してで、15年に1回発生するような降雨に対処すべき、としていることだ。現在の治水水準(確か、3年に1回)の基でさえ、治水水準の確保と他の三分野とを、現実の施策の上で、効果的の整合させることは非常に難しい、はずなのに。
どのように整合させるのであろうか。
まさか、今まで以上の巨大な土木工事を想定しているのではあるまい。

 折角の機会であるので、この報告を基に都がどのような構想を持ってこれら四分野の整合を図ろうとするか、じっくりと見守るつもりだ。

 

神田川上流懇談会

2007-09-10 10:24:04 | 雑感(2)ボランティア活動
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家(新車、しんぐるま)、の概要について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.)

 都が主催する標記会合の委員公募に応募(短文提出)し、当たってしまったことは三月ごろ書いた。第一回の会合が四月にあったが、幸か不幸か、ぎっくり腰で動けず、欠席した。一昨日、第一回会合の議事録等資料が送付されてきた。「懇談会」という名称からは想像もつかないほどの、まじめさというか、深さというか、レベルの高さだ。考えが甘かったかもしれぬ。

 第二回(10月のようだ)以後、安易な欠席はつつしまねばならない。なにより、そこでの皆さんの議論を聞きたいし、できれば、議論に遅れることなく、ついていきたいものだ。まずは、いただいた資料をじっくりと読み込もう。

 神田川流域のなかで三鷹市域が占める面積は、神田川全流域面積のわずか数%に過ぎない。一般に、このことが背景になって、懇談会ではとかく三鷹市民は傍観者になりがちだ。しかし、源流である井之頭池を三鷹市域が包含しているのだから、固有かつ全体に影響する問題を提起できるかもしれない。
振り返ってみれば、60年も前から、池の変化を自分の目で見てきた。「昔は、かくかくしかじかだった」ではなく、「将来、かくあるべし」との視点から、この会合を通じ、神田川についての見解を確立しようと思う。
なにせ、2年間も継続する、らしいから。 

 

帰化人の入植

2007-09-05 10:40:37 | 三鷹・歴史/地史
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家(新車、しんぐるま)、の概要について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.)

 三鷹市内に「牟礼」という地名がある。この語源は、古朝鮮語で人家の集団、を意味する言葉らしい(原田重久:武蔵野の民話と伝説)。

 ということは、牟礼が、狛江などと同様、7世紀に半島から逃れてきた人々が入植した土地であることは間違いない。

 ということは~~~、大沢も。
 そう、大沢も、狛江や牟礼と同様、7世紀に帰化人が入植して開発した土地なのではないかと思うのだ。

 根拠:新車(しんぐるま)の対岸に、都指定史跡:出山横穴墓群第8号墓があり、その墓の築造年代は、墓前から出土した須恵器から、7世紀後半と考えられている。
しかも、その、出土した須恵器も立派。ロクロや焼きの技は素人のものではない。

 今日、大沢地区に、帰化人の痕跡がある、とは聞かない。それは、入植者たちによる開発がうまくいかず、彼らは早くに撤退し、定着しなかったからだ、と想像している。