(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)
5/28の記事で種にした明治初期の地形図、の左隣の図(図の名前:神奈川県武蔵国北多摩郡上布田駅、明治10年測図、1/2万)が今日の主役。
図の上辺を人見街道が、中央やや下を甲州街道が、東西に走る。中央やや左よりに深大寺がある。深大寺は野川に流入する谷戸の奥に立地している。面白いことに、図中のどの谷戸もその奥に寺か神社(深大寺、長久寺、青ヰ(サンズイに胃)祠、諏訪祠、勝渕祠)が立地している。
人見街道のすぐ北を東西に、実線で道が描かれている。凡例によると、実線の道は「駄獣を通せしむべき小径」と説明されている。たぶん、馬車や牛車が通れる道だったのであろう。今この道は、幅がせまい(4mないところもあるような気がする)ものの、図書館の裏あたりから富士重工の前まで続き、自転車に乗る人にとって比較的安全で便利な道として利用頻度が高い。
ちなみに凡例によると、点線の道は「徒歩に非れば通し難き小径」だそうである。
野崎の交差点を南北に走る道路(武蔵境通り)は、図上では「田無道」との名が付され、里道(国道、県道に次ぐ道路)として描かれている。この道を北にたどり、上隣の図(だいぶ前に言及した)に入ると、塚の交差点で、北からの一方通行の道路となる。今、この道路沿いでは、道路拡幅事業が進められており、将来、高架で走る中央線の下を、昔のように、田無方面に抜ける主要道路として利用されるようになるのだろう。
道路(にかぎることではないが)が時代時代の生活に適合させるように変わっていることが理解でき、面白い。
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)
5/28の記事で種にした明治初期の地形図、の左隣の図(図の名前:神奈川県武蔵国北多摩郡上布田駅、明治10年測図、1/2万)が今日の主役。
図の上辺を人見街道が、中央やや下を甲州街道が、東西に走る。中央やや左よりに深大寺がある。深大寺は野川に流入する谷戸の奥に立地している。面白いことに、図中のどの谷戸もその奥に寺か神社(深大寺、長久寺、青ヰ(サンズイに胃)祠、諏訪祠、勝渕祠)が立地している。
人見街道のすぐ北を東西に、実線で道が描かれている。凡例によると、実線の道は「駄獣を通せしむべき小径」と説明されている。たぶん、馬車や牛車が通れる道だったのであろう。今この道は、幅がせまい(4mないところもあるような気がする)ものの、図書館の裏あたりから富士重工の前まで続き、自転車に乗る人にとって比較的安全で便利な道として利用頻度が高い。
ちなみに凡例によると、点線の道は「徒歩に非れば通し難き小径」だそうである。
野崎の交差点を南北に走る道路(武蔵境通り)は、図上では「田無道」との名が付され、里道(国道、県道に次ぐ道路)として描かれている。この道を北にたどり、上隣の図(だいぶ前に言及した)に入ると、塚の交差点で、北からの一方通行の道路となる。今、この道路沿いでは、道路拡幅事業が進められており、将来、高架で走る中央線の下を、昔のように、田無方面に抜ける主要道路として利用されるようになるのだろう。
道路(にかぎることではないが)が時代時代の生活に適合させるように変わっていることが理解でき、面白い。