水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

三鷹の明治時代(9)

2007-05-30 11:24:23 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 5/28の記事で種にした明治初期の地形図、の左隣の図(図の名前:神奈川県武蔵国北多摩郡上布田駅、明治10年測図、1/2万)が今日の主役。

 図の上辺を人見街道が、中央やや下を甲州街道が、東西に走る。中央やや左よりに深大寺がある。深大寺は野川に流入する谷戸の奥に立地している。面白いことに、図中のどの谷戸もその奥に寺か神社(深大寺、長久寺、青ヰ(サンズイに胃)祠、諏訪祠、勝渕祠)が立地している。

 人見街道のすぐ北を東西に、実線で道が描かれている。凡例によると、実線の道は「駄獣を通せしむべき小径」と説明されている。たぶん、馬車や牛車が通れる道だったのであろう。今この道は、幅がせまい(4mないところもあるような気がする)ものの、図書館の裏あたりから富士重工の前まで続き、自転車に乗る人にとって比較的安全で便利な道として利用頻度が高い。
ちなみに凡例によると、点線の道は「徒歩に非れば通し難き小径」だそうである。

 野崎の交差点を南北に走る道路(武蔵境通り)は、図上では「田無道」との名が付され、里道(国道、県道に次ぐ道路)として描かれている。この道を北にたどり、上隣の図(だいぶ前に言及した)に入ると、塚の交差点で、北からの一方通行の道路となる。今、この道路沿いでは、道路拡幅事業が進められており、将来、高架で走る中央線の下を、昔のように、田無方面に抜ける主要道路として利用されるようになるのだろう。
 
 道路(にかぎることではないが)が時代時代の生活に適合させるように変わっていることが理解でき、面白い。

三鷹の明治時代(8)

2007-05-28 10:36:04 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 5/17の記事で種にした明治初期の地形図、の下隣の図(図の名前:東京府管下武蔵国東多摩郡上高井戸近傍、明治13年測図、1/2万)が今日の主役。

 この図の左上・一部が三鷹市にかかる。北野だ。台地の上、一面畑、人家点在、といったところ。めぼしいものはなにもない。
図の欄外に二つの写生図が描かれており、ひとつの名は「上高井戸薬師堂」、もうひとつは「上高井戸村至井之頭道」。両者とも図上に位置は示されていない。手元の市街図と比較すると、「井之頭道」は京王線芦花公園駅の新宿寄りから北に走る道のようだ。井之頭まで5k、ぐらいか。

 現在、この井之頭道を北に1.5kほど歩き(道は北西に曲がっている)、左に入ると、近頃有名になった、烏山寺町、界隈がある。もちろん、上の明治の地図では畑と楢林ばかりで、寺町はない。1923年の関東大震災で被災した26寺が集まったものだからだ。

 この寺町に関して検索をかけると、例によって、いろいろな情報が豊富に得られるが、情報の得にくい寺がひとつあった。どこにでもいる、いわゆる「へそまがり」なのであろうか。気になる。

 ついでに、宗派の分布をみると、下のようになった(括り方に自信はない)。
浄土真宗(西本願寺)7寺、真宗(東本願寺)5寺、浄土宗4寺、法華宗4寺、日蓮宗4寺、臨済宗1寺、真言宗1寺。

おりをみて、散歩にでかけよう。話の内容が三鷹からずれてしまった。
 

解説員として(10)

2007-05-27 17:36:12 | 水車解説関連
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 今日(5月27日)の午後は解説当番であった。二人の解説員が席を暖める暇もないほど連続して説明した、つもり。しかし、最後に、記帳記録を見ると、総計80名(午前10名:午後70名)ほどの来客数で、晴天の日曜日の来客数としては少ないか。
 30名ほどの団体がひとつあった。普段外出し難い人々がボランティアの方々の支えで散歩に出た、との印象であった。三鷹市内のグループであるようだった。

 道具や装置の主要なものに、いつのまにか、説明板が添えられていることに気がついた。大変便利になり、感謝。今後、この説明板の状況を頭に入れた解説を心がけたい。
 

解説員として(9)

2007-05-24 14:10:49 | 水車解説関連
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 PCがダウンし、しばらく遠のいていたのだが、インターネットへの依存度はかなりであることを実感した。不便だった。携帯電話不携帯を、いばって実行しているが、しょせんこんなものである。

5月20日(日)の午前、予定の解説員の都合が悪くなり、急遽ピンチヒッターとして解説に出た。快晴、暑くなく寒くなく、空気は乾き、風もなく、最高の外気浴日であった。午前の客の総数は50名ぐらいか。

10時開場と同時のお客さんは、調布・飛田給からの団体さんで、20名ぐらいだったであろうか。
「近藤勇は、調布ではなく三鷹の出だ」と強調した。ちょっといやみがきつすぎたかな。20名相手に大声を出し、頭に血が上ったせいだ。

 それにしても、見学解説はひと組10名が上限だ。今後気をつけよう。

三鷹の明治時代(7)

2007-05-18 10:14:58 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 きのうの続き。

 「江戸末期の識字率は世界一で、70%(90%だったかもしれない)以上」と書いてある本を読んだことがある、と記憶している。これ、本当だろうか。たしかに、都市の町人社会では文字の読み書きは必須であった。しかし、農村まで含めると、そんなにいくわけがない、と思っていた。

 何回か引用した三鷹の歴史(宍戸幸七著)の、下に示す記述を見て、上の、江戸末期の識字率に関しての、自分の感覚が間違っていないことを確信した。
「明治6年の小学校就学率は全国平均27%であり、」(p90)、明治33年の西三鷹小学校ですら、「就学率54%(男57%、女34%)」(p93)にすぎなかった。

 確認のため、インターネット検索を試みたところ、下のような記述を、大阪府立図書館HP・明治の読書文化、で見つけた。
「滋賀県年報:管内人民教育有無一覧表:自己の名が書けない者の割合:全体30%(男9%、女50%)」(明治10年?)

これは、「自分の名が書ける」人の割合を識字率とみなすと、上の70%の根拠となる。しかし、それはちょっと無理ではないか。「識字率」イコール「読み書きができる人の割合」と思う。

三鷹の明治時代(6)

2007-05-17 10:49:01 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 5/7の記事で紹介した、明治初期の地形図の右隣の図(図の名前:東京府武蔵国東多摩郡上下井草村近傍村落、明治13年測図)をながめていたらーーーー。

 図の左下の角、ほんの一部が、三鷹市だ。井の頭池、神田上水、玉川上水が含まれ、旧牟礼村の北西部、と言えばよいか。そこに「真福寺」の名を見つけた。

 真福寺(もちろん、今もある、と思う)というと、三鷹一小の前身・時習学舎、初代校長・高橋亭之助、とくる。

高橋亭之助は、1842年(天保14年)牟礼村名主の係累に生まれ、江戸等で、漢学、書道、和学、和算等を修めた。慶応4年(明治元年、1868年)、27歳のときに、牟礼の自宅に手習塾・芝昌堂を設けた(多摩のあゆみ、125号、多田氏論文)。
明治5年の学制太政官布告に従って、国全体に義務教育が始まったことが機会となって、彼は上記の時習学舎に招かれた。

 明治初期においては、おそらく初等義務教育の4年間でさえ、まともに受け入れることはできないような、貧しい社会経済状況であったであろうから、国家を背負った近代初等教育者としての、彼の苦労は並ではなかったにちがいない。
 
 ところで、江戸時代後期、江戸のような大都市では、手習い塾や寺子屋が盛んだったようだが、字の読み書きができる人の割合はどの程度だったのであろうか。三鷹のような農村ではどうだったのだろうか。


三鷹の区域編成

2007-05-16 11:32:42 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 5/9の記事で、むかしの三鷹市における長い政争の歴史は、明治時代に編成された三鷹市の区域範囲の不自然さが遠因、と想像した。地縁の無視に基づく自治体区域編成の強行、が原因と思っているのだ。

 その根拠として(などと大仰に言うほど勉強しているのではなく、勝手読みなのだが)、江戸時代の三鷹市は、三つの領(野方、府中、世田谷)の境界であったところだ(多摩のあゆみ113号(牛米氏論文)に示されている図を見るとよくわかる)。水が少なく、街道からも遠く、領の中心地からはずれた区域を「えいやー」とばかりくくってしまった、のが三鷹市、といえよう。

 見方を変えると、現在の市の中心地は、江戸時代、市内で最も古い三つの集落、すなわち、大沢(当初、多沢と書いた。湧水が多い、の意)、牟礼(語源不明)、仙川(千釜、湧水の意)の背後にある利用価値としては秣場(まぐさば)程度にすぎない土地だった、ということだ。

 いずれにしても、互いに親近感のない三者が、ある日突然「ひとつのグループですよ」といっしょくたにされた結果、あの長い政争が生じた、とみたい。
 
 

三鷹の明治時代(5)

2007-05-12 09:59:50 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 明治元年は慶応4年。天皇の改元詔書がでたのが10月23日で、1月25日に遡って明治となる。江戸城明渡しが4月。日本中が大混乱の年だった。

 この年は三鷹でもいろんな事件があったようだ。三鷹市主催の歴史・文化財連続講座(07年2月24日、第三回、国学院大根岸教授)で、ある古文書(慶応4年6月12日付け(旧暦かな?)で、差出元野川村(上仙川村と合併して新川村となる)他14ヶ村の名主連名、差出先関東御取締御役所、内容野川村盗賊四人殺害届)が紹介され、興味が尽きなかった。

 ここでは、この事件に関しての宍戸幸七(三鷹の歴史、P82)の書き振りを紹介する。

 「・・・この浪人組の態度に不安を感じていた村人たちは、釣鐘や半鐘を乱打して村々に急を告げた。・・・竹槍その他銘々武器を持って作右衛門(野川村名主、不審者に入り込まれる)宅を取り囲み、その数無慮千人に達すといわれた。・・・そのうち大沢の近藤勇の生家の宮川一家の音五郎、粂次郎がかけつけた。浪人共は畳を起こしてこれを楯に闘い、ついて(に)天然理心流の宮川一家により斬り伏せられた。・・・今日なお四人の戒名を書いた馬頭観音の碑となって市役所前通りに立っている」

 この馬頭観音を是非見つけよう。

三鷹の明治時代(4)

2007-05-11 15:48:59 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 三鷹に電気が送電されたのは、大正時代である。明治時代の村民は、江戸時代と大差の無い、真っ暗な夜のなかで生活していた。前回紹介した宍戸幸七は大沢に送電された状況を下のように書いている(三鷹の歴史、P140)。
 
「大沢坂下に電灯のついたのは更に数年おくれ関東大震災の前年の大正11年(1922年)5月15日で、その夜村人は酒肴を持ち寄って竜源寺に集まり、電灯がひけたお祝いの宴を開いて喜んだ。・・・・・・ しかし各家でつけた電灯は居間と台所に一灯ずつ位で、しかも五燭灯(5ワットか?)か10燭灯の最低の暗い電灯をつけ、それでも明るすぎてもったいないと珍重されたものである」()内は筆者注。

 涙がでそうになるではないか。ほんの100年で、これと正反対の、電気ジャブジャブ使い放題の世界を日本全国に出現させてしまったのだ。罰が当たるのではないか?

 ちなみに、三鷹村中央に電気が来たのは大正6年(1917年)、吉祥寺は大正5年(19176年)、調布・府中が大正2年(1913年)、青梅が明治44年(1912年)、八王子が明治27年(1894年)だそうである。

三鷹の明治時代(3)

2007-05-09 20:05:40 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 明治に入って何回かの町村区画改正が行われたが、明治22年(1889年)の町村合併によって現在の三鷹市の行政区画が決まった。大沢村と野崎村は、明治6年改正時では、府中に近いグループ(車返村など)に入っていて、明治12年改正時では、調布に近いグループ(神代村)に入っていた。そして、明治22年では、連雀グループ(甲州街道でいえば高井戸に近いエリア)に入ることになった。
 大沢村と野崎村が、最終的に、なぜ連雀グループに入るようになったのか定かではないが、この合併は、その後の村内の激しい政争(例えばM23年の選挙、M28年の分村運動、T14年選挙騒動など)の原因になったような気がする。種々の本を読むに付け、随分と激しい争いであったようだ。この辺の話は、三鷹の歴史(宍戸幸七著)が一番解りやすい。よく調べた力作と思う。

 先月の4月に行われた市議会議員選挙の結果を見ると、もう上のような問題を引きずっている議員はいなくなったようだ。若い新人議員がぐっと増えたので、建設的で活気のある市議会にしてくれるに違いない。

峰岸家文書

2007-05-08 20:44:20 | 水車解説関連
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 4/30の記事で紹介した「多摩のあゆみ」124号に、下の寄稿があったので紹介する。この話は、昨年9月の解説員講習会で、著者自らによる講義を受けた記憶がある。

 古文書は語る、その17、野川流域における水車経営農家の始まり、峰岸家文書「養子証文」より、馬場憲一

 証文(1817年作成)の概要はこうである。すなわち、峰岸家(当時この姓が使われていたかどうかは不明だと思う)を代表した二名の親族から、乙治郎にあてた文書で、水車の経営権利を持参した乙治郎を峰岸弥兵衛の所有する全財産を相続する養子として認める、というもの。
 
 当時の養子相続のありかたの一端や峰岸家の水車経営開始動機を示す史料の貴重性を紹介している。

 これを書いていて急に気づいたのだが、峰岸という姓はいつから使うようになったのであろうか。近藤勇の生家宮川の姓はいつから使われていたのだろうか。苗字帯刀を幕府から許されていた家なのだろうか。
 
 
  
 
 

三鷹の明治時代(2)

2007-05-07 10:00:13 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 5/3の記事で紹介した、明治初期の地形図の続き。

あの地図の右隣の地図の上(右上)の地図(明治13年(1880年)測量、図の名:神奈川県武蔵国北多摩郡田無街及西窪村)が今日の主役。図の中央やや下に、現在三鷹駅がある。
 駅の北側で「堀合通り」、駅の南側で「さくら通り」と呼ばれている道路に沿って、昔品川用水と呼ばれる水路があった。子供のころ、すでに用水と呼べるような状態ではなくなっていて、どぶがわと化していた。玉川上水からの取り入れ口は現在の上連雀一丁目付近にあった。鈴木市長のころ水路にふたがされたはずだから、今は下水道幹線として利用されているのか?
 上の地図には、当然のことながら、この水路が示されている。水車記号もひとつ発見した。昨年9/9の講習会で紹介された「下連雀の渡辺水車」に違いない。

 この一連の地図には、欄外に主要地点の風景写生が描かれていて、これもとても楽しい。今日の図には二つの風景が描かれており、タイトルは、関前村五路集合点(A)、自田無町至秩父青梅岐路(B)とある。地図上にも、A、Bの記号が示されている。アルファベット記号が、もうこのころから使われ始めたことを、初めて知った。

 講習会では、市内に11の水車が存在した、と紹介されたが、あとの8箇所に当たる場所には、水車記号を発見できなかった。地図に載せるほどの大きさではなかったのかもしれない。いやいや、再度じっくり探してみよう。

万歩計

2007-05-05 23:23:25 | 雑感(1)日常
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 「普段の散歩で一万歩は確実に歩いている」と豪語していたのだが、家人に万歩計をつけさせられ、歩いてみたら、とんでもなかった。普段歩く数は6000歩前後にすぎなかった。
 ぎっくり腰もよくなったので、今日、なにがなんでも一万歩、と思い定めて歩いたのだが、2時間近く歩き詰だった。まいった。
 今日の収穫は、井の頭弁天参道を久しぶりに歩いたことぐらいか。我々は吉祥寺駅の方から井の頭公園に入ることを当然、としているが、江戸時代は甲州街道から入ってきたはずなのだ。さすがに三鷹市だ。こちらが表ですよ、とばかり昔の道しるべや黒門が大切に保存されていた。しかし、昔通った平山昆虫館はなかった。
 万歩計は正確ですな。勘定と表示がぴたりと合いました。それから400mを、およそ500歩で歩くことをおさえることもできました。

解説員として(8)

2007-05-04 15:22:01 | 水車解説関連
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 今日の午前中、解説員としての当番日であった。好天であったため、50名は下らぬほどの来客であった。ただし、二人の解説員で対応できた人の数は40名弱か。
帰りがけに見た人の動きが、特に、上流方向へはぞろぞろ、といった感じであった。午後の解説員はてんてこまいになるに違いない。
 今日の来客の中で、印象に残った方は、「地元ですよ地元、32年ぶりですよ。ここに来たのは。」と、なつかしげに入ってこられたお二人であった。竜源寺の和尚がニ中時代の教頭であったそうだから、一回り半ぐらいこちらが年上か。その和尚に違いない、菊池全明先生には、一中で社会科を習った。

「この工場は、おやじさんが恐くて近寄れなかったんですよ」

「おそらく、それは、企業秘密が詰まっていたからですよ。今は全部見ることができますよ。是非中を見てください」

結果、むーんと感心しきり、納得していただけた、と思う。
それから、小屋外の水路も、中の装置も、子供にとっては、興味引かれるものであったと思う。しかしそれらは、同時に子供に対しては大変危険なものでもあるので、周辺の宅地化が進み、人口が増えてくる時代、峰岸さんは、人身事故を起こさぬよう、さぞや神経をすり減らしたことであろう、とも思うのだ。

三鷹の明治時代

2007-05-03 10:41:02 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
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 前々からほしいと思っていた地図(明治前期測量2万分1 フランス式彩色地図)を13枚買ってしまった。ほぼ三鷹市をカバーする範囲を含めてだ。フランスの指導を見事に消化し、これだけの地図を作ってしまった、当時の基礎学力の高さには心底驚嘆する。伊能忠敬が出てくるわけだ。

 大沢地区をカバーする図の名は「神奈川県武蔵国北多摩郡石原駅南多摩郡長沼村」で、明治13年(1880年)測量だ。新車とその上流にあった大車であろう、たしかに、地図上に水車記号が記載されている。
 今の地図や現場の状況からは人見街道だけが目につくが、この地図を見ると、大沢がかなりのレベルでの交通の要衝であったことがわかる。人見街道のほかに、西の方向には青梅に抜ける道(これは多摩墓地設置で分断されてしまった)、南方向には甲州街道に抜ける2本の道(これらは飛行場建設によって消滅した)、そして、北方向には多分田無に抜ける道が存在していた。
 それにしても、竜源寺が記載されていない。なぜだ。隣の図には長久寺がちゃんと載っているというのに。天然理心流・近藤勇に対する明治政府の警戒、と見るのはうがちすぎか。