水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

解説員として(130)

2012-11-29 18:17:41 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

がしかし、見学者数ゼロ。

昨日と異なって、風もなく、日差しもあって、散歩日和としては最適だったが・・・・。

テレビの最近の天気予報、ちょっとおかしい。寒い・寒い、を連発しすぎる。本格的な冬はまだまだ先だというのに。

電気を使わせようとする一派の策謀ではないか、なんて、つい勘ぐってしまう。


見学者ゼロであったために、模型制作のための部材計測に時間をたっぷりかけることができた。

作ることを前提にして眺めると、今までとまったく異なったことなどに気づき、新鮮であった。

がその一方、1/15模型でどこまで再現できるか、材料を何にするか、などなど、山積の難問を抱えて帰宅。

しばらく、呻吟が続きそうだ。


論語(261)

2012-11-28 09:09:17 | 論語
弟子孰為好学(先進第十一の7)

弟子、孰(いずれ)が学を好むと為す

孔子に対して季康子が質問した言葉。

お弟子さんの中で、学問を好むという意味においてどなたが一番でしょうか?

孔子の答えは、

顔回という人がいたのですが、若死にしてしまい、もういません。


同じ質問が過去にあった。雍也第六の3(2011.10.6)。

もちろんその時も、孔子は顔回と答え、短命を惜しんだ。

さらに、顔回の優れた点として、「不遷怒、不弐過」(怒りを遷(ウツ)さず、過ちを弐(フタ)たびせず)を挙げた。


やつあたりをせず、また同じ過ちを二度としない人。しかも若い。

顔回は、とても並みの人間ではなかったのでしょう。

論語(260)

2012-11-26 11:21:27 | 論語
南容三復白圭(先進第十一の6)

南容、白圭を三復す

南容=孔子の弟子
白圭=磨き上げた玉、詩経に出てくる名言(白圭之玷、尚可磨也、斯言之玷、不可為也)
玷(テン)=傷

白圭之玷、尚可磨也、斯言之玷、不可為也=白圭の玷、なお磨くべし、斯言(シゲン)の玷、為すべからざるなり
意味=玉に傷ができても、磨き上げればもとにもどる。しかし、言葉に傷がある場合はもとにもどりようがない


南容という人は、詩経に出てくる白圭の詩を座右の銘として生きていこうとしていた。

孔子はそのような南容を信頼し、孔子の姪(兄の娘)と結婚させた。


孔子も閨閥を重視する人だったのでしょうか?



水車模型製作(1)

2012-11-24 11:05:32 | 模型制作
前々から、考えていたのだが、「しんぐるま」の模型を製作することを決心した。
途中で挫折しないよう、このブログに、適宜進捗状況をアップすることを、今日宣言する。

論語を読み始めてから、もうすぐ2年を経過するが、今全体の半分ぐらいまで読み終わった。
このペースだと、全部読み終わるのは2年後ということになる。
その2年後に、模型製作はどうなっているであろうか?たぶん、まだ完成していない。
そんな予測を聞いて、家人は、「途中で投げ出すに決まっている。そのほうに賭ける」といっている。
さてどうなるか? 長丁場になります。のんびりご覧ください。


模型のサイズを1/15とすることに決めたのだが、今日はそのことについて一言述べておく。

市のパンフレットによれば、「しんぐるま」の水輪直径は約4.6m、と記されている。
これの「尺」単位での値は、島村論文(前に紹介した)によれば、15.1尺または15.2尺である。
模型サイズを1/15とした場合の、水輪の直径をcm単位で示すと次のようになる。

15.1尺=30.5cm
15.2尺=30.7cm

言いたいことはふたつ、

・ 模型の、水輪直径は、30.5~30.7cmになる、ということ
・ 1/15にしておくと、実機の「尺」表示を2.02倍したものが、模型の「cm」表示長さになるので、なにかと、換算が便利だということ。


さてさて、こんな大言を吐いてどうなることでしょう?
みずから、みずからにプレッシャーをかけた手前、引くに引けません。頑張ります。




論語(259)

2012-11-22 11:56:38 | 論語
人不於其父母昆弟之言(先進第十一の4)

人、其の父母昆弟(フボコンテイ)の言を(カン)せず


孔子が、閔子騫(ビンシケン)の孝行振りを誉めている一節。

閔子騫の父母兄弟が言うことを、不審に思う人は一人もいません。
(父母兄弟だれもが閔子騫のことを悪くいいません)


素直に読むと上のようになるのだが、ウィキペディアには、閔子騫について次のように書いてある。

「継母と二人の腹違いの弟にひどい扱いを受けたがそれを父に知られないように耐え抜き、さらに継母たちを弁護までした。」

このような人々に、閔子騫が、よく言われるとは思えない。


読み方に間違いがあるに違いないのですが、よくわかりません。


論語(258)

2012-11-20 09:01:32 | 論語
回也非助我者也、於我言無所不説(先進第十一の4)

回や我を助くる者に非ざるなり、我の言に於いて説(ヨロコバ)ざる所なし

説=(ヨロコブと読む場合)心の内に大慶し満足してうれしく思うこと。(喜んで従うこと)


弟子、顔回についての、孔子の感想。

回は、(優れた人材なのだが、私(孔子)としては不満で、それは)私の言うことを、いつもハイハイと肯定的に聞くばかりで、私が成長したい、ということに関しちっとも助けになってくれない。
(少しは反論してくれよ!)。


師弟の間柄というのは微妙で、師が、弟の成長を無条件に容認する場合はいいのだが、その逆の場合があることもある。

孔子のような先生に出会えた弟子は幸せだ。

論語(257)

2012-11-19 10:44:33 | 論語
徳行、言語、政事、文学(先進第十の3)

前の節に続いていて、主要な弟子を、示した四つの分野に分けて、名前を挙げている。

徳行(=人としての生き方の追及。宗教哲学か):顔淵、閔子騫(ビンシケン)、冉伯牛(ゼンハクギュウ)、仲弓
言語(=言論。論理学か):宰我、子貢
政事(=統治の方法。政治学):冉有、季路
文学(=学芸か狭義の文学か?):子游、子夏

これらの弟子たちと歩き回った旅は、労苦は多かったろうが、人材育成という意味において、実りも多かったのであろう。


昔、聞いた話がある。
中国歴史における権力争いは、食わせることのできる人数の多さによって勝ち負けが決まる、と。

儒教の発展もその範疇にいれてよいのだろうか? 
つまり、弟子にするということは、師匠がその人を食わせることができるとき許された、と。

そしてまた、最近終了した中国共産党の権力移譲も、食わせることのできる人数の多さの比較が、その本質だ、と理解していいのだろうか?


論語(256)

2012-11-16 09:41:58 | 論語
従我於陳蔡者、皆不及門者也(先進第十一の2)

陳、蔡に於いて我に従う者、皆門に及ばざるなり


孔子一門は生涯の多くを求職の旅に費やしたそうだが、陳や蔡の国あたりを巡っているころは、苦労の連続であったらしい。

その当時を思い起こした孔子の感想だ。


「皆不及門者也」を、直感的には、孔子に見切りをつけて弟子たちが離れていった、と解釈しがちだ。

が本当は、苦労を共にした門下生が皆、独り立ちしよい就職先におさまってくれてうれしい、といっているのだそうだ。


今日、某国の衆議院が解散する。

政権党が泥船に変じることを見越して、恥も外聞もなく、そこから逃げ出すヤカラがあとを絶たない。

一度甘い汁を吸った人間の醜さや、人を束ねることの難しさが、赤裸々に表れ、興味深い。

12/16の投票は、我々の精神のまともさが問われることになるのだろう。

広告付きブログ

2012-11-14 09:57:55 | 雑感(1)日常
いつからか、書き手の意思に反し、このブログにも数個の広告が付けられはじめました。

コメント・トラックバック同様に、このブログは広告の付帯を原則拒否しています。また、アクセス解析など金のかかることもしていません。つまり、ポータルサイト側にとっては、単なる無料利用者にすぎないわけで、少々目障りになってきたのかもしれません。

今日は、「有料老人ホームの評価レポート」、「24時間介護/有料老人ホーム」が張り付けられています。

読者のかたがたが、これらをクリックすれば、宣伝効果があるわけですから、ポータルサイト側は粘り強く続けることでしょう。

例えば、今日のような広告に対する反応(クリック数)が多ければ、その種の広告の掲載が続くことになるでしょうし、また反応がかんばしくなければ、他の種類の広告に変更されることになるでしょう。

残念ながら、今のところ、これらを消す方策が見つけられず、なおかつ、目くじら立てて拒否するような広告とも思えませんので放置しています。
ご不快に感じる方がおいでになるかもしれませんが、お許しください。

逆手にとって、あらわれる広告の種類から読者層の傾向を想像してみる、というような楽しみもあるかもしれません。例えば、今日の広告から、読者層の年齢の高さが想像できます。


論語(255)

2012-11-12 10:19:03 | 論語
吾従先進(先進第十一の1)

吾れは先進(センシン)に従う

先進=先輩(反対語:後進=後輩)と辞書に書いてあるが、ここでの意味合いは、次のように解釈したい。

先進=伝統的・保守的・本質的、後進=現代的・革新的


儀礼や雅楽に携わる場合、

素朴な伝統的やりかたと洗練された革新的やりかたがある場合、どちらをとるか、といえば、

私(孔子)は伝統的やりかたに従います。


賛成です。
なにをするにしても、物事の本質を見極めなければなりません。そのためには、その原始を注視する必要があります。
いまほどマスコミ報道のウラを見る努力が必要な時はなかったように思います。

論語(254)

2012-11-09 09:20:21 | 論語
山梁雌雉、時哉、時哉(郷党第十の23)

山梁(サンリョウ)の雌雉(シチ)、時なるかな、時なるかな


孔子がこのように言ったのだそうだが、ここはいろいろな解釈があって、定説はないらしい。

というのは、この前段の文章(孔子が見たであろう状景)、すなわち、「色斯挙牟、翔而後集」の特に「色斯」がよくわからないらしいのだ。

そして、この後段の文章、すなわち、「子路供之、三嗅而作」が、もっとわからない。


素人の強み、エイヤーと解釈すると次、

人の気配を察し、雉がバーっと飛び上がった。そしてぐるーっと飛んだ後、降り立って集まった。
それを見ていた孔子が、次のように感想を述べた。
「山の雉は、ちょうどいい季節だね~」
弟子の子路がそれを聞いて、雉料理を孔子に提供した。孔子は、それを三度臭いを嗅いで席を立った。

チンプンカンプンの解釈ですな。

「時哉、時哉」を孔子が、なんの時と考えたか、がわかればいいのでしょう。
個々の場の空気を、雉のように敏感に察知せよ、ということなのでしょうか。

たぶん私も、子路と同様に、雉料理を出すでしょう。


解説員として(129)

2012-11-08 16:24:42 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

小春日和。静かで、うららかで、何ともいい気持ち。

見学者、3組、計6人。

・ 熟女3人組。調布から国分寺までの野川散歩で途中立ち寄りとか。

・ 中年男性一人。近代史研究者か郷土史愛好家か?多摩一帯の幕末・明治初期の知識豊富。
  土地利用図を前にして、話がはずんだ。このあと、天文台とキリ大と回る予定だそうだ。

・ 熟年ご夫婦。小金井から深大寺まで散歩。途中立ち寄り。
  

みなさん、楽しく見ていただけた、と思う。


見学者ゼロを想定し、本(清水義範:日本語必笑講座:講談社文庫:2003:図書館で借りた)を持っていったのだが、十分に読めずに終わってしまったが、なかなか楽しい本だ。

「変な語みっけ!」のなかから一つ紹介しておく。


小学校の算数の問題
「水が8リットルありました。さらに2リットル入れました。水はどれだけになったでしょう」
ある子供さんが、6リットルと答えて×をもらい、納得できない。なぜでしょう。




論語(253)

2012-11-03 09:37:43 | 論語
升車、車中(郷党第十の22)

車に升(ノボ)りて、車の中にて

孔子の、馬車を利用する際の態度について書いてある。

・ 車に乗る時

必正立執綏(必らず正しく立ちて綏(スイ)を執る)
姿勢を正しくして、取り綱(綏)を取って上った。

・ 車の中

不内顧、不疾言、不親指(内顧(ナイコ)せず、疾言(シツゲン)せず、親指(シンシ)せず)
キョロキョロしない、ペラペラしゃべらない、指さししない


威厳を保とうとしているように見えますが、そうは解釈したくありません。

あのころの馬車は、油断すると怪我をする乗り物だったのではないでしょうか。
綏(スイ)につかまらねば馬車の上に上がれなかったでしょうし、スプリングが効いているわけではありませんから、車中でモタモタしていたら舌を噛まざるをえないようなユレが珍しくなかった、と思うのです。


解説員として(128)

2012-11-01 18:24:21 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

強風で、けやきのざわつきが大きかったが、下はわりに静かであった。好天。

一人の解説員がお友達をつれていらっしゃった。おまかせ。

総勢8名だったろうか、途切れなく来訪者あり。

三鷹、府中、調布、小金井等々にお住まいの方々で、お散歩途中の寄り道。

・ 三鷹二小/二中卒という男性とは、昭和20年代後半の大沢周辺での遊びの話で盛り上がった。

・ 4歳の女の子は、卓上模型水車が大変お気に召した。

・ みなさん、特別公開をご存じなく、残念がっておられた。来年に向け、宣伝方法の緻密な計画が必要かも。

・ なんということか、今日のテレ朝の番組を見て、来た方がおられた。テレビのすごさを身に染みて知った。


管理の方によれば、特別公開も成功裏に終わったようだし、これから見学者が多くなりそうだし、メデタシメデタシ。